吾妻鏡入門第卅巻

文暦二年乙未(1235)七月小

文暦二年(1235)七月小二日癸亥。所職所帶并堺相論事。爲非據者。可被召所領。無所領者。可被處罪科之旨。兩方召取請文之後。可糺明之由被定。且被仰六波羅云々。

読下し                   しょしきしょたいなら   さかいそうろん  こと  ひきょたらば  しょりょう  めされ  べ
文暦二年(1235)七月小二日癸亥。所職所帶并びに堺相論の事、非據爲者、所領を召被る可し。

しょりょうな    ば   ざいか  しょされ  べ   のむね りょうほううけぶみ  め   と   ののち  ただ  あか  べ   のよしさだ  らる
所領無くん者、罪科に處被る可き之旨、兩方請文を召し取る之後、糺し明す可き之由定め被る。

かつう  ろくはら  おお  らる    うんぬん
且は六波羅へ仰せ被ると云々。

現代語文暦二年(1235)七月小二日癸亥。持っている役職(地頭職)やそれに付随する領地、その境界裁判について、もし嘘があれば領地を没収する。領地がなければ刑法で罰せられる事を、双方から承諾書を取った上で、裁判をするようにお決めになりました。それを六波羅へも通知しましたとさ。

文暦二年(1235)七月小五日丙寅。永福寺総門上棟之間。將軍家御出〔御車〕。相州。武州供奉給。此門。去寛喜三年十月廿五日炎上。其後新造之時。被用丙日之條。頗有其難之由。雖有嫌申之輩。被遂畢。及黄昏還御。

読下し                    ようふくじ そうもんじょうとうのあいだ しょうぐんけおんいで 〔おくるま〕  そうしゅう  ぶしゅう ぐぶ   たま
文暦二年(1235)七月小五日丙寅。永福寺総門上棟之間、將軍家御出〔御車〕。相州、武州供奉し給ふ。

 こ   もん  さんぬ かんきさんねん じうがつ にじうごにち えんじょう
此の門、去る寛喜三年 十月 廿五日 炎上す。

 そ   ご しんぞうの とき  ひのえび  もち  られ  のじょう  すこぶ そ   なんあ   のよし  きら  もう  のやからあ    いへど    と  られをはんぬ
其の後新造之時、丙日を用ひ被る之條、頗る其の難有る之由、嫌い申す之輩有ると雖も、遂げ被 畢。

たそがれ およ  かんご
黄昏に及び還御す。

現代語文暦二年(1235)七月小五日丙寅。永福寺の総門の棟上げ式なので、将軍頼経様がお出ましです〔牛車〕。相州北条時房様・武州北条泰時様がお供をしました。この門は、去る寛喜3年(1231)10月25日炎上しました。その後新築儀式には、丙の日にするのは、良くないのじゃないかと嫌がる人もいるけど、押し通しました。夕方になって帰られました。

参考去る寛喜三年十月廿五日炎上すは、28巻寛喜3年(1231)10月25日に時房の家政事務所頼朝法華堂義時法華堂と共に焼けた。同日の記事で永福寺の総門は、筋替え橋あたりにあったように思える。

文暦二年(1235)七月小七日戊辰。近江入道〔佐々木信綱〕虚假所賜之承久宇治河先登賞。被付神社等之間。今日有其替沙汰。被成御下文。依爲殊勲功。被載其詞云々。
 將軍家政所下  尾張國長岡庄住人
  補任  地頭職事
   前近江守信綱法師
 右人。承久兵乱宇治河鋤鋒之勸賞。豊浦庄之替。可爲彼職之状。所仰如件。以下。
    文暦二年七月七日            安主左近將曹菅原
   令左衛門少尉藤原             知家事内舎人C原
  別當相摸守平朝臣
   武藏守平朝臣

読下し                    おうみにゅうどう こけ 〔ささきのぶつな〕  たま   ところのじょうきゅううじがわせんと  しょう  じんじゃら  ふ   られ  のあいだ
文暦二年(1235)七月小七日戊辰。近江入道虚假〔佐々木信綱〕賜はる所之承久宇治河先登の賞、神社等に付せ被る@之間、

きょう そ   かえ   さた あ      おんくだしぶみ なさる    こと    くんこうたる  よっ    そ   ことば の   らる    うんぬん
今日其の替の沙汰有りて、御下文を成被る。殊なる勲功爲に依て、其の詞を載せ被ると云々。

  しょうぐんけ まんどころ くだ    おわりのくに ながおかのしょう じゅうにん
 將軍家 政所 下す  尾張國 長岡庄 住人

     ぶにん   ぢとうしき  こと
  補任 地頭職の事

      さきのおうみのかみ のぶつなほっし
   前近江守 信綱法師

  みぎ  ひと じょうきゅうへいらん うじがわじょうほうのけんしょう  とようらのしょう のかえ   か  しきたるべ  のじょう  おお   ところくだん ごと    もっ  くだ
 右の人、承久兵乱 宇治河鋤鋒之勸賞、豊浦庄A之替に、彼の職爲可き之状、仰せる所件の如し。以て下す。

        ぶんりゃくにねんしちがつなぬか                       あんずさこんしょうそうすがわら
    文暦二年七月七日            安主左近將曹菅原

       れい さえもんのしょうじょうふじわら                         ちけいじ うどねり きよはら
   令左衛門少尉藤原B             知家事内舎人C原

    べっとう さがみのかみ たいらのあそん
  別當 相摸守 平朝臣

      むさしのかみ たいらのあそん
   武藏守 平朝臣

参考@神社等に付せ被るは、薬師寺へ寄付した。
参考A豊浦庄は、元は長瀬次郎が地頭。
参考B令左衛門少尉藤原は、二階堂氏らしいが誰か特定できない。

現代語文暦二年(1235)七月小七日戊辰。近江入道虚仮〔佐々木信綱〕が戴いた領地で承久の乱の時に先頭で宇治川を渡った褒美を、神社に寄付したので、今日その代わりとして、将軍からの命令書を作成しました。特別な手柄なので、わざわざその言葉を書き添えているそうな。
 将軍の家政機関が下賜する 尾張の国 長岡庄の在住者
  任命 地頭の職務について
   前近江守 佐々木信綱法師
 右の人は、承久の乱の時に宇治川を先頭に渡った褒美として、豊浦庄に代わって長岡庄の地頭職を将軍の命令通り書いたのはこのとおりです。
    文暦二念七月七日 政所三当官案主左近将曹菅原
   政所次官令左衛門少尉藤原 政所事務官知家事内舎人清原
 政所長官別当相模守北条時房
  同列武蔵守北条泰時

文暦二年(1235)七月小八日己巳。資俊。リ賢等就天變事相論。及訴陳。其状。今日外記大夫倫重讀申于御所。相州。武州被候云々。

読下し                    すけとし  はるかたらてんぺん  こと  つ   そうろん    そちん  およ
文暦二年(1235)七月小八日己巳。資俊、リ賢等天變の事に就き相論し、訴陳に及ぶ。

 そ  じょう  きょう げきたいふともしげ  ごしょ に よ   もう    そうしゅう  ぶしゅうこう  らる     うんぬん
其の状、今日外記大夫倫重御所于讀み申す。相州、武州候じ被ると云々。

現代語文暦二年(1235)七月小八日己巳。安陪資俊・安陪晴賢等が星の運航の異常について言い争いをして、提訴しました。その訴状を今日、外記大夫矢野倫重が御所様へ読み上げました。相州時房さん・武州泰時さんも同席しましたそうな。

文暦二年(1235)七月小十日辛未。雨降。入夜雷鳴甚雨。鎌倉中洪水。人屋之流失。山岳之頽毀。不可勝計。

読下し                    あめふ     よ   い  らいめい はなは あめ  かまくらじゅうこうずい じんおくのりゅうしつ  さんがくの たいき  あげ  かぞ  べからず
文暦二年(1235)七月小十日辛未。雨降る。夜に入り雷鳴 甚だ雨。 鎌倉中洪水。人屋之流失。 山岳之頽毀。勝て計う不可。

現代語文暦二年(1235)七月小十日辛未。雨降りです。夜になって雷が鳴り土砂降りになりました。鎌倉中で洪水が出て、人家が流され、山は崩れ、それは数えきれない程でした。

文暦二年(1235)七月小十一日壬申。將軍家出御小御所端。及世上御雜談。陸奥式部大夫。木工權頭仲能。周防前司親實。小野澤藏人。藤内判官定員。隱岐五郎左衛門尉行賢。施藥院使良基。大藏權大輔リ賢。大監物文元。掃部大夫資俊等祗候。仰曰。各心中面白又染心之事。凡可注申者。面々妄念書進之。定員讀申之。雅意之趣皆莫同。有興有感。又解頤(原文阜于頁)事多相交云々。

読下し                      しょうぐんけ こごしょ  はし  いでたま    せじょう  ごぞうだん  およ
文暦二年(1235)七月小十一日壬申。將軍家小御所の端に出御ひ、世上の御雜談に及ぶ。

 むつしきぶのたいふ   もくごんのかみなかよし  すおうのぜんじちかざね  おのさわのくらんど  とうないほうがんさだかず  おきのごろうさえもんのじょうゆきかた
陸奥式部大夫、木工權頭仲能、 周防前司親實、小野澤藏人、 藤内判官定員、 隱岐五郎左衛門尉行賢、

やくいんのかみよしもと  おおくらごんのたいふはるかた  だいけんもつふみもと  かもんたいふすけとしら しこう    おお    い
施藥院使良基、 大藏權大輔リ賢、 大監物文元、 掃部大夫資俊等祗候す。仰せて曰はく。

おのおの しんちゅう おもしろ  またこころ そ     のこと  おそ  ちう  もう  べ   てへ     めんめん もうねんこれ  か   しん   さだかずこれ  よ   もう
 各  心中に面白く又心を染める之事、凡そ注し申す可し者れば、面々に妄念之を書き進ず。定員之を讀み申す。

 がい のおもむき みなおな     な    きょうあ   かんあ    また おとがい と   ことおお  あいまじ      うんぬん
雅意@之趣 皆同じきは莫し。興有り感有り。又 頤 を解くA事多く相交はると云々。

参考@雅意は、我意。
参考A
頤を解くは、笑う。

現代語文暦二年(1235)七月小十一日壬申。将軍頼経様は小御所の端にお出ましになり、世間の出来事をお聞きになりました。
陸奥式部大夫北条政村・木工権頭伊賀仲能・周防前司中原親実・小野沢蔵人・藤内判官藤原定員・隠岐五郎左衛門尉二階堂行賢・施薬院使丹波良基・大蔵権大輔安陪晴賢・大監物安陪文元・掃部大夫安陪資俊などが集まりました。
将軍が云うには「それぞれ心の中で面白い話や又感動した話などを書いて出しなさい。」と命じたのでそれぞれに思う所を書いて提出しました。これを藤原定員が読みました。思うことはそれぞれ全て違って一つとして同じ話はありません。面白かったり感動したりしましたが、笑える話が沢山まざっていましたとさ。

文暦二年(1235)七月小十八日己夘。霽。故御臺所周闋御佛事也。未刻。於新阿弥陀堂。被行曼茶羅供。大阿闍梨助法印嚴海。相州。武州以下人々詣給。又於御旧跡〔故二位殿御亭〕同被修御佛事。其外人々。於方々多勵御追善云々。此御佛事日次事。日來有沙汰。廣被尋下陰陽道之處。忠尚朝臣以下申状區分。依無吉日也。而勘解由次官知家可爲今日之由所計申也。於陰陽道之輩者。猶以雖傾申。遂被用之訖。

読下し                     はれ  こみだいどころ しゅうけつ おんぶつじなり  ひつじのこく しんあみだどう   をい     まんだらぐ   おこなはれ
文暦二年(1235)七月小十八日己夘。霽。故御臺所の周闋の御佛事也。未刻、新阿弥陀堂@に於て、曼茶羅供を行被る。

だいあじゃりすけのほういんげんかい  そうしゅう ぶしゅう いげ  ひとびともう  たま
 大阿闍梨助法印嚴海、 相州、武州以下の人々詣で給ふ。

また  ごきゅうせき 〔 こにいどの  おんてい 〕    をい  おな    おんぶつじ  しゅうされ     そ   ほか  ひとびと  ほうぼう  をい  おお  ごついぜん  はげ   うんぬん
又、御旧跡〔故二位殿が御亭〕に於て同じく御佛事を修被る。其の外の人々、方々に於て多く御追善に勵むと云々。

こ    おんぶつじ  ひなみ  こと   ひごろ さた あ     ひろ おんみょうどう  たず  くださる のところ  ただなおあそん いげ  もう  じょうくぶん
此の御佛事の日次の事、日來沙汰有り。廣く陰陽道に尋ね下被る之處、忠尚朝臣以下の申し状區分す。

きちじつな     よっ  なり  しか     かげゆのすけとのいえ きょう たるべ   のよしはか  もう ところなり
吉日無きに依て也。而るに勘解由次官知家今日爲可き之由計り申す所也。

おんみょうどうのやから をい  は   なおもっ  かたぶ もう   いへど   つい  これ  もち  られをはんぬ
陰陽道之輩に 於て者、猶以て傾け申すと雖も、遂に之を用ひ被 訖。

参考@新阿弥陀堂は、不明だが、妙本寺東北の墓場の奥に竹御所の新釈迦堂の遺跡の伝説がある。

現代語文暦二年(1235)七月小十八日己卯。晴れました。故将軍奥さんの竹御所の一周忌の法要です。午後二時頃新阿弥陀堂で、曼荼羅経の儀式を行いました。指導僧は助法印厳海です。相州時房様・武州泰時様を始めとする人々がお参りしました。又、お住まいであった場所〔二位家政子様の家〕でも同様に法要を行いました。その他の人々はそれぞれの場所で法要を行ったそうです。
この仏事の実施日については、検討されて、大勢の陰陽師にお聞きになられましたが、安陪忠尚さんを始めとして意見がまちまちでした。それは良い日が無いからです。そしたら、勘解由次官知家が、今日なら良いと調べて言ったのです。陰陽師の連中はまだぼやいていましたが、とうとうこの日に決定したのです。

文暦二年(1235)七月小廿三日甲申。被仰六波羅條々事。先京都刄傷殺害人事。爲武士輩於相交者。可爲使廳沙汰。犯過断罪事。爲夜討強盜張本。所犯無所遁者。可被断罪。枝葉輩者。召進關東。可被遣夷嶋也。次同大番事。被定次第之處。替番衆遲々之間。前番衆勤仕。超一兩月。令遲參輩者。二ケ月可勤入也者。又都鄙之間。有急事之時。相互所立之飛脚。爲早速。取路次往返之馬。騎用之條。人之所愁也。向後可搆乘馬以下事於驛々之由。今日被定云々。

読下し                      ろくはら   おお  らる じょうじょう こと
文暦二年(1235)七月小廿三日甲申。六波羅へ仰せ被る條々の事、

ま   きょうと  にんじょう せつがいにん  こと   ぶし  やから な     あいまじ      をい  は   しちょう   さた たるべ
先ず京都の刄傷 殺害人 の事、武士の輩と爲して相交はるに於て者、使廳の沙汰@爲可き。

しょか だんざい こと   ようち ごうとう  ちょうほん  な  しょはんのが   ところな    ば   だんざい さる  べ
犯過断罪の事、夜討強盜の張本Aと爲し所犯遁れる所無くん者、断罪B被る可き。

しよう  やからは  かんとう  め   すす  えぞがしま つか  さる  べ   なり
枝葉Cの輩者、關東へ召し進め、夷嶋Dへ遣は被る可き也。

つぎ おおばん  こと  しだい  さだ  らる  のところ  かえ ばんしゅう ちちのあいだ
次に大番の事、次第に定め被る之處、替の番衆遲々之間、

まえ ばんしゅう  ごんじ いちりょうげつ こ     ちさん せし   やからは   にかつき つと  い   べ   なりてへ
前の番衆が勤仕 一兩月を超へE、遲參令むる輩者、二ケ月勤め入る可きF也者り。

また   とひのあいだ  きゅう ことあ   のとき   そうご   た     ところのひきゃく
又、都鄙之間、急の事有る之時、相互に立てる所之飛脚、

さっそく  ため   ろじ おうはん  うま  と     きようのじょう   ひとの うれ ところなり
早速の爲、路次往反の馬を取りG、騎用之條、人之愁う所也。

きょうこう    じょうば いげ   ことを うまやうまや かま  べ   のよし  きょう さだ  らる    うんぬん
向後は、乘馬已下の事於 驛々に搆う可き之由、今日定め被ると云々。

参考@使廳の沙汰は、檢非違使の庁に任せる。
参考A張本は、主犯。
参考B断罪は、死刑。
参考C
枝葉は、子分。
参考D夷嶋は、北海道。
参考E一兩月を超へは、延長が一月以上になったら。
参考F二ケ月勤め入る可きは、二倍の月勤める。
参考G路次往反の馬を取りは、道中の他人の馬を取って。

現代語文暦二年(1235)七月小二十三日甲申。六波羅探題へ通知した条文について、
まず、京都市街での傷害・殺人については、武士であっても罪人ならば京都朝廷の治安担当検非違使の庁に任せなさい。犯罪者の処分については、夜討強盗の主犯は、歴然としていて逃れようがない奴は死刑。子分どもは関東へ護送してきて、北海道へ送りなさい。
次に京都朝廷警備の大番役については、規則に定めてあるのに、交代要員が遅れて来た時に、前任者の延長が一か月を超える様な事があれば、遅れて来たやつは二か月勤務させなさい。
又、京都と鎌倉の間に、急報がある時に、そうぞれぞれ走らせる伝令が、急いでいるために、道中の他人の馬を取って乗ってしまうので、庶民が嘆いております。今後は、乗り換え馬などは宿駅ごとに用意しておくように、今日お決めになりましたとさ

文暦二年(1235)七月小廿四日乙酉。稱念佛者。著黒衣之輩。近年充滿都鄙。横行所部。 宣旨雖及度々。未被對治。重可被 宣下之由。可被申京都云々。」又石C水神輿事。有其沙汰。是八幡宮寺与興福寺確執事。可遣御使之由。去五月被仰兩方之處。不奉待其左右。同六月四日。南都衆徒押寄薪庄。燒拂在家六十餘宇訖。宮寺可仰勅裁之處。同十九日。俄奉渡神輿於宿院之間。爲被尋問子細。雖被尋遣季継宿祢。不及問答。剩神人等令浚礫史生爲末訖。然後捧解状條々預勅許云々。仍宮寺嗷訴旁不可然之由。今日有沙汰。被仰遣別當成C法印。併被寄進因幡國。奉留神輿入洛畢。就無道之濫訴。浴非分之朝恩者。諸山諸寺濫行依不可断絶。爲世爲人。始終不快事。自關東。爭不被計申哉。自今以後。若輙奉動神輿者。可被改補別當職之由。可被奏問。於余所衆徒者。背貫首之所命。動蜂起事出來歟。至當宮神人者。非別當免許者。何致無道濫行哉。兼以可存知之由云々。

読下し                     ねんぶつしゃ しょう    こくい  つ    のやから  きんねん とひ  じゅうまん   しょぶ  おうこう
文暦二年(1235)七月小廿四日乙酉。念佛者と稱し、黒衣を著ける之輩、近年都鄙に充滿し、所部を横行す。

せんじ たびたび およ   いへど   いま  たいじされ    かさ   せんげ くださる べ   のよし  きょうと  もうされ  べ     うんぬん
宣旨度々に及ぶと雖も、未だ對治被ず。重ねて宣下被る可き之由、京都へ申被る可しと云々。」

また  いわしみず  みこし  こと   そ   さた あ
又、石C水の神輿の事、其の沙汰有り。

これ  はちまんぐうじ と こうふくじ   かくしつ  こと  おんし  つか    べ   のよし  さんぬ ごがつ りょうほう  おお  らる のところ
是、八幡宮寺与興福寺の確執の事、御使を遣はす可し之由、去る五月兩方に仰せ被る之處、

そ    とこう  ま たてまつ ず   おな    ろくがつよっか  なんと  しゅうとまきのしょう  お   よ     ざいけ  ろくじうよう   や   はら をはんぬ
其の左右を待ち奉ら不、同じき六月四日、南都の衆徒 薪庄へ押し寄せ、在家六十餘宇を燒き拂い訖。

ぐうじ  ちょくさい  あお  べ  のところ  おな    じうくにち  にはか みこしを すくいん わた たてまつ のあいだ
宮寺は勅裁を仰ぐ可き之處、同じく十九日、俄に神輿於宿院に渡し奉る 之間、

しさい  じんもんされ ため  すえつぐすくね たず  つか  さる   いへど   もんどう  およばず  あまつ  じんにんら ししょうためすえ りょうりゃくせし をはんぬ
子細を尋問被ん爲、季継宿祢を尋ね遣は被ると雖も、問答に不及。剩さへ神人等 史生爲末を 浚礫令め 訖。

しか  のち  げじょう  ささ じょうじょう ちょっきょ  あずか  うんぬん
然る後、解状を捧げ條々の勅許に預ると云々。

よっ  ぐうじ   ごうそかたが しか  べからず のよし  きょう  さた あ    べっとうじょうせいほいん おお  つか  さる
仍て宮寺の嗷訴旁た然る不可之由、今日沙汰有り。別當成C法印に仰せ遣は被る。

しかしなが いなばのくに  きしんされ  みこし  じゅらく  とど たてまつ をはんぬ
 併ら 因幡國を寄進被、神輿の入洛を留め 奉り 畢。

むどう の らんそ  つ     ひぶんのちょうおん  よく  ば   しょざん しょじ らんぎょう だんぜつ べからず  よっ    よ   ためひと  ため  しじゅうふかい  こと
無道之濫訴に就き、非分之朝恩に浴さ者、諸山諸寺の濫行 断絶す不可に依て、世の爲人の爲、始終不快の事、

かんとうよ     いかで はか  もうされざるや
關東自り、爭か計り申被不哉。

いまよ    いご   も  たやす みこし  うご   たてまつ ば   べっとうしき  あらた ぶ さる  べ   のよし   そうもんさる  べ
今自り以後、若し輙く神輿を動かし奉ら者、別當職を改め補被る可き之由、奏問被る可し。

よしょ  しゅうと  をい  は   かんじゅに めい   ところ  そむ   ややもすれ  ほうき  こといできた    か
余所の衆徒に於て者、貫首之命ずる所に背き、 動 ば蜂起の事出來らん歟。

とうぐう  じんにん  いた    は   べっとうめんきょ     あらず  ば   なん  むどう  らんぎょう いた    や   かね  もっ  ぞんちすべ  のよし  うんぬん
當宮の神人に至りて者、別當免許するに非ん者、何ぞ無道の濫行を致さん哉。兼て以て存知可き之由と云々。

現代語文暦二年(1235)七月小二十四日乙酉。念仏衆だと自称して、黒い衣を着ている連中が、最近都会にも田舎にも増えてきてあちこち歩き回っている。朝廷から禁止令がたびたび出ているにも関わらず、未だに滅ぼせない。なおも命令を出すように京都へ申し入れるようにとの事です。」
又、石清水八幡宮の神輿について、その協議がありました。これは、石清水八幡宮と向福寺との対立について、使者を派遣するように、先達ての五月に命じられた處、その判断を待たずに、6月4日向福寺の僧兵が石清水領の薪の庄へ押し寄せて農家60数軒を焼き払ってしまいました。石清水は朝廷の判断を待つべきところ、同19日に突然神輿を院の宿舎へ担いできましたので、事情を尋ねるために、季継事務官に質問に行かせましたが、話しに乗って来ません。それどころか石清水に仕える下っ端の連中が雑務官の為末を滅多打ちにしてしまいました。その上で、上申書を出して数々の朝廷の許可を得ましたとさ。それで、石清水の無理やりの訴えは良い事ではないと今日決定があり、石清水筆頭の成清法印に申し送りました。それでも、因幡国を寄進して、神輿の京都入りを止めさせることが出来ました。
無茶くそな訴えをごり押しして、身分違いな朝廷からの恩を受ければ、あちこちの寺からの無法な訴えがおさまる事は無いだろうとから、世のため人のために、終始不愉快な事だと、関東の鎌倉幕府からどうして考慮して云って行かない事がありましょうか。現在以後は、もし安易に神輿を担ぎだす事があれば、筆頭者を更迭すると朝廷に申し入れましょう。他の寺の僧兵については、筆頭者の命令を聞かないで、どうかすると暴動を興す可能性があります。石清水の下働きの神人の件については、筆頭者を解任しなければ、どうして無理な行動を起こす事でしょうか。予め承知しているべきだったでしょうとの事です。

参考薪庄は、京都府京田辺市薪。参考史生は、律令制で、主典(さかん)の下で公文書の浄書・複写・装丁、四等官の署名を集めるなどの雑務に当たった下級の官。官位相当はない。ふびと。行署(こうしよ)。Goo電子辞書から

文暦二年(1235)七月小廿七日戊子。リ。竹御所姫君於相州御亭。有御除服之儀。」今日。六波羅飛脚參着。是近江入道虚假子息次郎左衛門尉高信殺害日吉神人之間。山徒日者雖及欝訴。稱聖断遲々。去廿三日。奉振日吉三社神輿。依承勅旨。差遣勇士等於近衛河原口。欲奉留之間。武士衆徒互被疵之者多之云々。被尋其濫觴。近江國高嶋郡散在駕輿丁神人六十六人云々。而爲山門之計。彼神人内改七人。以公役勤仕百姓爲其替。依之。地頭虚假止新儀。可被復旧之由。問答于奉行人親嚴律師。左右未落居以前。有急事參關東訖。而高信先爲勢多橋行事。行向催促所役之時。新神人等爲對捍之。兼語置宮仕法師。於住宅。拏獲于高信使者。及喧嘩云々。

読下し                     はれ  たけごしょひめぎみ        そうしゅう おんてい をい   おんじょふくの ぎ あ
文暦二年(1235)七月小廿七日戊子。リ。竹御所姫(の喪、)相州の御亭に於て、御除服之儀有り。」

きょう    ろくはら   ひきゃくさんちゃく   これ  おうみにゅうどう こけ   しそくじろうさえもんのじょうたかのぶ   ひえ  じんにん  せつがい   のあいだ
今日、六波羅の飛脚參着す。是、近江入道虚假が子息次郎左衛門尉高信、日吉の神人を殺害する之間、

さんと ひごろ うっそ   およ   いへど   せいだん ちち    しょう   さんぬ にじうさんにち  ひえさんしゃ  みこし  ふ  たてまつ
山徒日者欝訴に及ぶと雖も、聖断遲々すと稱し、去る廿三日、日吉三社の神輿を振り奉る。

ちょくし うけたまは  よっ     ゆうし ら を  このえかわらぐち  さ   つか      とど たてまつ     ほっ   のあいだ   ぶし  しゅうとたが    きずされ  のものこれおお    うんぬん
勅旨を承るに依て、勇士等於近衛河原口に差し遣はし、留め奉らんと欲する之間、武士と衆徒互いに疵被る之者之多しと云々。

 そ   らんしょう  たず  らる   おうみのくにたかしまぐん さんざい かよちょう じんにんろくじうろくにん  うんぬん
其の濫觴を尋ね被る。近江國高嶋郡に散在の駕輿丁@神人六十六人と云々。

しか    さんもんの はから   な     か   じんにん うちしちにん  あらた   くえき きんじ  ひゃくしょう もっ  そ   かえ  な
而るに山門之計いと爲し、彼の神人の内七人を改め、公役勤仕Aの百姓を以て其の替と爲す。

これ  よっ    ぢとう  こけ   しんぎ   と     きゅう ふくされ  べ   のよし  ぶぎょうにんしんげんりっしに もんどう
之に依て、地頭虚假は新儀を止め、旧に復被る可き之由、奉行人親嚴律師于問答すB

とこう いま  らっきょ    いぜん     きゅう  こと あ     かんとう  まい をはんぬ
左右未だ落居せず以前に、急の事有りて關東へ參り訖。

しか    たかのぶ ま  せたばし  ぎょうじ  な     ゆきむか しょえき  さいそくの とき  しんじんにんら これ たいかん な
而るに高信先ず勢多橋の行事Cと爲し、行向い所役を催促之時、新神人等之を對捍を爲し、

かね  ぐうじ ほっし   かた  お    じゅうたく をい    たかのぶ  ししゃ つか  え     けんか   およ    うんぬん
兼て宮仕法師を語り置き、住宅に於て、高信の使者于拏ま獲て、喧嘩に及ぶと云々。

参考@駕輿丁は、朝廷に駕篭かきで仕えて居たのが、比叡山の支配下に入っている。
参考A公役勤仕の百姓は、地頭支配下の公田百姓。
参考B
問答すは、訴訟する。
参考C
行事は、行司。

現代語文暦二年(1235)七月小二十七日戊子。晴れです。竹御所の喪について相州北条時房様の屋敷で、喪明けの儀式がありました。」

今日、六波羅探題の伝令が着きました。これは、近江入道虚仮佐々木信綱の二男の次郎左衛門尉高信が、日吉神社の下働きの神人を殺害したので、比叡山の僧兵が、京都朝廷に強訴していましたが、決断が遅いと言いがかりをつけて、先日の23日に日吉三社の神輿を振り回しました。朝廷からの命令を受けたので、武士たちを近衛河原口に派遣して、神輿の入洛を押しとどめようとしているうちに、武士と僧兵互いに怪我をさせられた者が沢山出たそうな。その原因をたずねました。近江の國高島郡のあちこちに住む、朝廷の駕籠かき66人がおりましたそうな。それを比叡山の都合で、その駕籠かきの内7人を解雇して、地頭支配下の公田百姓をその代わりに任命しました。これを聞いて、地頭の虚仮佐々木信綱は、新規編入を止めて、元の通りにするように、比叡山担当の親厳律師に訴訟しました。この問題が決着がつかないうちに、急用ができて鎌倉へやってきました。それなのに、佐々木高信はまず、勢多大橋の指揮担当権限者として出かけて行き、労働奉仕を命令したのですが、新規任命の元公田百姓がこれを怠け、前もって石清水の法師を隠しておいて、その権限を持って住宅で高信の派遣員を捕まえて暴力に及びましたとさ。

文暦二年(1235)七月小廿九日庚寅。去廿三日。台嶺衆徒奉動三社〔十禪師。客人。八王子〕神輿於花洛。是近江國高嶋郡田中郷地頭佐々木次郎左衛門尉高信代官与日吉社人等起鬪乱之故也。而神輿入洛之時。任例官軍相禦之間。宮人被疵。至死悶之由。就訴申之。彼刻先陣輩之中。右衛門尉遠政。兵衛尉遠信等。可被流刑之由。被定之上。可配流高信於鎭西之由。所被仰遣六波羅也。神輿入洛雖有先規。於今度次第者。殆超上古狼藉。仍被召出張本。爲被誡後昆。雖非殊重科。先於御家人等者。任山徒欝陶。被處所當之咎云々。其篇有條々沙汰。爲奏聞。今日被遣御教書於二條中納言〔忠高卿〕。田中郷地頭高信代官与住民喧嘩事。先日重時。時盛注下事由之間。被决兩方。可有御沙汰之由。言上貫首畢。更是非優恕高信之儀。高信罪科候者。爭不加炳誡哉。神人訴訟連々之處。不糺明是非者。傍輩乘勝。濫訴依不可絶。令申其趣計也〔以上〕。次於衆徒者。且仰聖断。且可相待關東左右之處。忽動神輿。奉驚天聽之條。理不盡之悪行。不可説之次第候。至張本者。早可被召出其身以下之趣。被載之云々。

読下し                     さんぬ んじうさんにち  たいれい しゅうと  さんしゃ 〔じうぜんじ きゃくじん  はちおうじ 〕    みこし を からく   うご   たてまつ
文暦二年(1235)七月小廿九日庚寅。去る廿三日。台嶺の衆徒、三社〔十禪師。客人。八王子〕の神輿於花洛へ動かし奉る。

これ  こうみのくにたかしまぐんたなかごうぢとう ささきのじろうさえもんのじょうたかのぶ  だいかんと  ひえ しゃじんら らんとう  おこ  のゆえなり
是、近江國高嶋郡田中郷地頭佐々木次郎左衛門尉高信が代官与日吉社人等鬪乱を起す之故也。

しか    みこし じゅらくの とき  れい  まか  かんぐん あいふせ のあいだ みやびと きずされ  しもん  いた  のよし  これ  うった もう    つ
而るに神輿入洛之時、例に任せ 官軍相禦ぐ之間、宮人 疵被、死悶に至る之由、之を訴へ申すに就き、

か   ときせんじん やからのうち  うえもんのじょうとおまさ  ひょうえのじょうとおのぶら  るけい  され  べ   のよし  さだ  らる  のうえ
彼の刻先陣の輩之中、右衛門尉遠政、 兵衛尉遠信等、 流刑に被る可き之由、定め被る之上、

たかのぶを ちんぜい はいる すべ  のよし   ろくはら   おお  つか  さる ところなり
高信於鎭西へ配流可き之由、六波羅へ仰せ遣は被る所也。

みこし  じゅらく  せんき あ    いへど    このたび  しだい  をい  は   ほとん じょうこ  ろうぜき  こ
神輿の入洛、先規有ると雖も、今度の次第に於て者、殆ど上古の狼藉を超える。

よっ  ちょうほん めしいだされ  こうこん  いさ  られ  ため  こと   ちょうか  あらず いへど    ま    ごけにんら   をい  は
仍て張本を召出被、後昆を誡め被ん爲、殊なる重科に非と雖も、先ず御家人等に於て者、

さんと  うっとう   まか    しょとうの とが  しょさる    うんぬん
山徒の欝陶に任せ、所當之咎に處被ると云々。

そ   へんじょうじょう  さた あ     そうもん  ため  きょう みぎょうしょを にじょうちうなごん 〔たかただきょう〕   つか  さる
其の篇條々の沙汰有り。奏聞の爲、今日御教書於二條中納言〔忠高卿〕に遣は被る。

たなかごう ぢとうたかのぶ  だいかんと じゅうみんけんか こと  せんじつしげとき ときもりこと  よし  ちう  くだ  のあいだ
田中郷@地頭高信が代官与 住民喧嘩の事先日重時、時盛事の由を注し下す之間、

りょうほう  けっ  られ   ごさた あ   べ   のよし  かんじゅ ごんじょう をはんぬ
兩方を决せ被、御沙汰有る可き之由、貫首に言上し畢。

さら  これたかのぶ ゆうじょの ぎ あらず  たかのぶざいか そうらはば いかで へいかい くは  ざら  や
更に是高信を優恕之儀に非。高信罪科に候者、 爭か炳誡を加へ不ん哉。

じんにん そしょうれんれんのところ  ぜひ きゅうめいせず  ば   ぼうはい か    じょう   らんそ た    べからず  よっ    そ おもむき もうせし  ばか  なり
神人の訴訟連々之處、是非を糺明不ん者、傍輩勝ちに乘じ、濫訴絶える不可に依て、其の趣を申令む計り也。

 〔いじょう〕
〔以上〕

つぎ  しゅうと  をい  は   かつう せいだん  あお    かつう かんとう  とこう  あいま   べ   のところ  たちま  みこし   うご      てんちょう おど  たてまつ のじょう
次に衆徒に於て者、且は聖断を仰ぎ、且は關東の左右を相待つ可き之處、忽ちに神輿を動かし、天聽を驚かし奉る之條、

 りふじんの あくぎょう   ふかせつ の しだい そうろう ちょうほん いた   は   はや  そ   み いげ   めしいださる  べ  のおもむ  これ  の   らる    うんぬん
理不盡之悪行、不可説之次第に候。張本に至りて者、早く其の身以下を召出被る可し之趣、之を載せ被ると云々。

参考@田中郷は、滋賀県高島氏安曇川町田中に田中神社あり。

現代語文暦二年(1235)七月小二十九日庚寅。先日の23日に、比叡山の僧兵が三社〔十禅師・客人・八王子〕のお神輿を京の町へ担いで出ました。これは、近江國高島郡田中郷地頭の佐々木次郎左衛門尉高信の代官と日吉神社領住民との間で戦いを起こしたからです。

それなのに神輿が京都市街へ入って来た時、何時もの様に政府軍が防いでいたので、八幡宮の連中が傷を受けたり死んだりしたと、訴えて来たのでこの時に先頭で戦っていた朝廷の武士右衛門尉遠政・兵衛尉遠信などを流罪に決めて、佐々木高信は九州へ流罪にするように六波羅探題へ命じていた所でした。神輿が京都市中へ入ることは先例がありますが、今度のやり方については、まるっきり今までにない乱暴さです。

それなので、首謀者を呼び出して後の行動を戒めるため、大した罪ではなくても、まず鎌倉御家人を僧兵の要求通りに、それなりの罪に処罰するとの事です。そのあたりの事を箇条書きにして検討しました。天皇の決裁を仰ぐため、今日命令書案分を二条中納言忠高さんに渡しました。

田中郷地頭佐々木高信の代官と日吉神社領住民との喧嘩については、六波羅探題の北条重時・北条時盛とが事の次第を書き出したので、双方を対決させて判断するように、日吉神社筆頭に申し入れました。更に、これは佐々木高信をかばっている行為ではなく、高信が罪になるのなら顕かな処分を与えるでしょう。神社側の連中の訴えが続いているが、事の是非を明らかにしないと、連中は勝訴に図に乗って、やたらと訴えてくることが無くならないので、その事を申し入れるだけなのです。以上

次に比叡山の僧兵については、一つは朝廷の判断を仰ぎ、一つは鎌倉幕府の支持を待つべきだったのに、すぐさま神輿を担ぎだし、朝廷を脅かしたことは、理不尽な悪い行いでとんでもない事であります。首謀者については早く出頭させるようにするべきです。と書き載せましたとさ。

八月へ

吾妻鏡入門第卅巻

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