吾妻鏡入門第卅巻

嘉禎元年(文暦二年)乙未(1235)九月小十九日改元

文暦二年(1235)九月小一日辛酉。霽。子刻。右大將家法華堂前湯屋失火。風頻吹。法花堂頗難免此災之處。諏方兵衛尉盛重一人最前馳向。令壞中間民屋數十宇之間。火止訖。

読下し                    うだいしょうけ ほけどう    ゆや しっか
文暦二年(1235)九月小一日辛酉。右大將家法花堂の湯屋失火す。

かぜしき    ふ     ほけどう すこぶ かく わざわい まぬか がた のところ  すわのひょうのじょうもりしげ ひとり さいぜん  は   むか
風頻りに吹き、法花堂頗る此の 災を免れ難き之處、 諏方兵衛尉盛重 一人最前に馳せ向い、

ちうかん  みんや すうじうう   こぼ  せし のあいだ  ひ と   をはんぬ
中間の民屋數十宇を壞ち令む之間、火止まり訖。

参考@壞ち令むは、破壊消火。江戸時代まで火事は火元の近隣の家を破壊し類焼を防いだ。

現代語文暦二年(1235)九月小一日辛酉。頼朝様の墓の法華堂にある施し用の風呂湯屋で失火しました。風が強いので、法華堂もこの火災を逃れる事が出来そうもありませんでしたが、諏訪兵衛尉盛重は一人で真っ先に駆け向い、湯屋と法華堂の中間の民家数十軒を破壊したので、火は止まり類焼を免れました。

文暦二年(1235)九月小二日壬戌。去夜。於法花堂無火災之條。偏在諏方高名之由。武州令感歎給。依浴御恩云々。

読下し                   さんぬ よ    ほけどう   をい  かさい な  のじょう  ひと    すわ   こうみょう あ   のよし
文暦二年(1235)九月小二日壬戌。去る夜の法花堂に於て火災無き之條、偏へに諏方の高名に在る之由、

ぶしゅうかんたんせし  たま    よっ  ごおん   よく    うんぬん
武州感嘆令め給ふ。依て御恩に浴すと云々。

現代語文暦二年(1235)九月小二日壬戌。夕べの法華堂が火災を免れたのは、ただただ諏訪の手柄であると、武州泰時さんは感心しました。それで褒美に預りましたとさ。

文暦二年(1235)九月小十日庚午。長尾三郎兵衛尉光景。雖致度々勲功。未預恩賞事。駿河前司義村。并同次郎泰村。属恩澤奉行後藤大夫判官基綱。頻執申之。仍有沙汰。可有勸賞之旨。被仰付基綱云々。而鎭西有強盜人。彼所領被召放者。可賜之旨。義村注上覽状。申云。不可望未断闕所之趣。近年雖被載式條。爲評定衆。今及此儀。人以不甘心云々。彼光景。建暦三年義盛叛逆之時。雖爲十三歳小童。向于北御門搦手。勵防戰。矢多被射立于腹巻。又承久兵乱。相具于泰村。於宇治橋之手。竭軍忠云々。

読下し                   ながおのさぶろうひょうえのじょうみつかげ たびたびくんこう いた   いへど   いま  おんしょう あずか   こと
文暦二年(1235)九月小十日庚午。 長尾三郎兵衛尉光景、 度々勲功を致すと雖も、未だ恩賞に預らぬ事、

するがのぜんじよしむらなら   おな    じろうやすむら  おんたくぶぎょう ごとうのたいふほうがんもとつな  ぞく    しき    これ  しっ  もう
駿河前司義村并びに同じき次郎泰村、恩澤奉行 後藤大夫判官基綱に 属し、頻りに之を執し申す。

よっ   さた あ       けんしょうあ  べ   のむね  もとつな  おお  つ   らる    うんぬん
仍て沙汰有りて、勸賞有る可き之旨、基綱に仰せ付け被ると云々。

しか    ちんぜい  ごうとうにんあ     か   しょりょう めしはなたれ ば   たまは べ   のむね  よしむら じょうらんじょう ちう    もう    い
而るに鎭西に強盜人有り。彼の所領を召放被れ者、賜る可き之旨、義村 上覽状に注す。申して云はく。

みだん  けっしょ  のぞ  べからずのおもむき きんねん しきじょう の   られ   いへど   ひょうじょうしゅう な   いまかく  ぎ   およ
未断の闕所を望む不可之 趣、 近年 式條に載せ被ると雖も、評定衆と爲し、今此の儀に及ぶ。

ひともっ  かんしん  ず   うんぬん
人以て甘心せ不と云々。

 か  こうけい   けんりゃくさんねん よしもり ほんぎゃくのとき  じうさんさい こわらべたり いへど   きたみかど からめてに むか    ぼうせん  はげ
彼の光景は、建暦三年 義盛 叛逆之時、十三歳の小童爲と雖も、北御門の搦手于向い、防戰に勵み、

や おお  はらまきに い た   られ
矢多く腹巻于射立て被る。

また じょうきゅう へいらん   やすむらに あいぐ     うじばし の て   をい    ぐんちう  つく    うんぬん
又、承久の兵乱に、泰村于相具し、宇治橋之手に於て、軍忠を竭すと云々。

現代語文暦二年(1235)九月小十日庚午。長尾三郎兵衛尉光景は、何度も手柄を立てているのに、未だに褒美を与えられていないと、駿河前司三浦義村や三浦次郎泰村・褒美担当奉行の後藤大夫判官基清を通して、頻りにこれを要求しています。
それなので、裁決があって褒美を与えるように後藤基綱に命じましたそうな。しかし、九州に強盗がいます。そいつが領地を取り上げられれば、これを与えるように三浦義村が上申書に書いて出しました。まだ未決定の空き地頭を希望してはいけないと、最近貞永式目に載せられているにもかかわらず、しかも政務評議員でありながら、こういう無理をする。人々は感心しませんとさ。
彼の手柄は、建暦3年(1213)の和田氏の乱の時、13歳の子供であっても、御所の北御門の裏門に居て、防戦に頑張り、多くの矢が腹巻に刺さっていました。又、承久の乱の際は、三浦泰村に属して宇治橋の手前で手柄を立てましたそうな。

嘉禎元年(1235)九月小廿四日甲申。霽。戌刻。資俊參御所。申云。今夜五更。坤星南北三尺計。頻逆行。如圓坐旋。爲希代異云々。仍將軍家出御東面渡廊。召忠尚。親職等朝臣。可窺定之由被仰下。及曉更。彼等申云。雖窺之。一切無其變。但今夜風吹之間。諸星光搖也云々。

読下し                     はれ  いぬのこく すけとし ごしょ  まい    もう    い
嘉禎元年(1235)九月小廿四日甲申。霽。戌刻、資俊御所に參り、申して云はく。

こんや ごそう  こんせいなんぼく さんじゃくばか  しき   ぎゃっこう    えんざ  ごと     めぐ    きだい  いたり  うんぬん
今夜五更@、坤星A南北に三尺計り、頻りに逆行し、圓坐の如くに旋る。希代の異爲と云々。

よっ  しょうぐんけとうめん  わたろう  いでたま    ただなお ちかもとら   あそん  め    うかが さだ  べ   のよしおお  くださる
仍て將軍家東面の渡廊に出御い、忠尚、親職等の朝臣を召し、窺い定む可き之由仰せ下被る。

ぎょうこう およ      かれら もう    い       これ  うかが  いへど   いっさい そ  へんな
曉更に及びて、彼等申して云はく。之を窺うと雖も、一切其の變無し。

ただ  こんやかぜふ  のあいだ  しょせい ひかりゆら なり  うんぬん
但し今夜風吹く之間、諸星の光搖ぐ也と云々。

参考@五更は、寅の刻で3時から5時。更は夜間の時刻を表し一更が19〜21時戌、二更が21時〜23時亥。三更が23時〜1時子、四更が1時〜3時丑。
参考A坤星は、不明で分からないが、動きからすると
填星(しんせい・土星)」の書き写し違いではないだろうか?。

現代語嘉禎元年(1235)九月小二十四日甲申。晴れました。午後8時頃陰陽師の安陪資俊が御所へ来て云うには、「今夜3時から5時に坤星が南北に90cm程逆行して丸く円座のように動きます。世にもまれなおかしなことです。そこで、将軍頼経様は東側の吹き抜けの廊下にお出になり、安陪忠尚・安陪親職を呼び出して、調べて特定するように云いつけました。明け方になって、彼らが報告するのには、「色々天体を調べましたが、一切そのような変事はありません。但し、今夜は風が吹いているので、星々の光が揺らいで見えるのです。」との事でした。

嘉禎元年(1235)九月小廿九日己丑。子刻地震。

読下し                      ねのこく ぢしん
嘉禎元年(1235)九月小廿九日己丑。子刻地震。

現代語嘉禎元年(1235)九月小二十九日己丑。午後24時頃地震です。

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