嘉禎二年丙申(1236)三月小
嘉禎二年(1236)三月小三日庚申。甚雨雷電。 |
読下し はなは あめ
らいでん
嘉禎二年(1236)三月小三日庚申。甚だ雨、雷電。
現代語嘉禎二年(1236)三月小三日庚申。大雨に雷です。
嘉禎二年(1236)三月小七日甲子。以下総前司源保茂。爲男山内守護。可停止甲乙人狼藉之旨。去年五月。雖被仰付。保茂聊有申子細。于今不罷向。宮寺頻言上之間。可任先日御意之由。今日重被仰下云々。 |
読下し しもふさぜんじ
みなもとのやすもち もっ おとこやまない しゅご な とこうのひと ろうぜき
ちょうすべ にむね
嘉禎二年(1236)三月小七日甲子。下総前司 源保茂@
を以て、男山内の守護と爲し、甲乙人Aの狼藉を停止可き之旨、
きょねんごがつ おお
つ らる
いへど やすもちいささ もう しさい あ いまに まか むか ざる
去年五月、仰せ付け被ると雖も、保茂聊か申す子細有りて、今于罷り向は不。
ぐうじ しき ごんじょう のあいだ
せんじつ
ぎょい まか べ のよし きょう かさ おお くださる うんぬん
宮寺頻りに言上する之間、先日の御意に任す可き之由、今日重ねて仰せ下被ると云々。
参考@源保茂は、頼光系・頼國・溝坑清和源氏。
参考A甲乙人は、とこうのひと、とやかく言う人。庶民。
現代語嘉禎二年(1236)三月小七日甲子。下総前司源保茂を男山石清水八幡宮の管理として、庶民の無法なふるまいを止めるように、去年の5月に云いつけましたが、保茂は多少ひっかかる事があっていまだに出向いていません。八幡宮からさかんに催促してくるので、以前の命令通りにするように、今日もう一度命令しましたとさ。
嘉禎二年(1236)三月小八日乙丑。去月晦除目聞書到着。相州任修理權大夫。被賜兼字。即自持參御所給云々。 |
読下し さんぬ つきみそか じもく ききがき とうちゃく そうしゅうしゅりごんのたいふ
にん かね じ たまはる
嘉禎二年(1236)三月小八日乙丑。去る月
晦、除目@の聞書A到着す。相州修理權大夫に任じ、兼の字を賜被B。
すなは みずか ごしょ じさん たま うんぬん
即ち自ら御所へ持參し給ふと云々。
参考@除目は、人事異動。
参考A聞書は、御所での人事異動の決定を右筆的な人が会議場の廊下で聞きながら書く。
参考B兼の字を賜被は、修理權大夫兼相模守で、内官と外官なので兼務できる。
現代語嘉禎二年(1236)三月小八日乙丑。先月末の人事異動の書付が届きました。相州時房さんは修理権大夫に任命され兼務の文字を戴きました。すぐに自分で御所へ持ってお礼に行きましたとさ。
嘉禎二年(1236)三月小十二日己巳。去四日下名。武州令敍從四位下給。聞書到來。參賀御所給。 |
読下し さんぬ よっか おうな ぶしゅう じゅしいのげ じょせし たま ききがきとうらい ごしょ さんが たま
嘉禎二年(1236)三月小十二日己巳。去る四日の下名@、武州從四位下に敍令め給ふ。聞書到來す。御所に參賀し給ふ。
参考@下名は、叙目。
現代語嘉禎二年(1236)三月小十二日己巳。先日四日の除目で、武州泰時さんは従四位下に任命されました。その文書が届きました。御所へ持ってお礼に行きましたとさ。
嘉禎二年(1236)三月小十三日庚午。武州召陰陽助忠尚朝臣。密々被仰云。四品事。朝恩之至。雖令自愛。無勞功忽受此位。天運猶危。頗似不量己。早可奉敬白事由於泰山府君云々。忠尚衣冠。於南庭勤業彼祭。祭文草法橋圓全。C書齋藤兵衛入道淨圓。武州〔淨衣。立烏帽子〕於庭上令拝給云々。 |
読下し ぶしゅう おんみょうのすけただなおあそん め みつみつ おお られ い
嘉禎二年(1236)三月小十三日庚午。武州、
陰陽助忠尚朝臣を 召し。密々に仰せ被て云はく。
しほん こと ちょうおんのいた じあいせし いへど ろうこうな
たちま こ くらい う てんうんなおあぶな
すこぶ おのれ はか ざる に
四品@の事、朝恩之至り、自愛令むと雖も、勞功無くて忽ち此の位を受く。天運猶危し。頗る己を量ら不に似たり。
はや こと よしを たいさんふくん けいびゃくたてまつ べ うんぬん なただおいかん なんてい をい か まつり かんぎょう
早く事の由於泰山府君に敬白 奉る 可しと云々。忠尚衣冠しA、南庭に於て彼の祭を勤業す。
さいぶん そう ほっきょうえんぜん せいしょ さいとうひょうえにゅうどうじょうえん ぶしゅう 〔じょうい たてえぼし 〕ていじょう
をい おが せし たま うんぬん
祭文の草は法橋圓全。
C書は 齋藤兵衛入道淨圓。 武州〔淨衣。立烏帽子〕庭上に於て拝ま令め給ふと云々。
参考@四品は、四位。
参考A衣冠は、宮中勤務者が束帯は窮屈な爲、宿直用に下着類を省き、面倒な裾も止め袴をゆったりした指貫に変えた「宿直装束」。
現代語嘉禎二年(1236)三月小十三日庚午。武州泰時さんは、陰陽助安陪忠尚さんを呼んで、内緒で云うのには「四位になった事は、朝廷の恩なので大事にするけれど、何も手柄もないのに安易にこの位に着いた。天運はどうなんだろう?とても自分の分をわきまえていないみたいだ。早くこの事を泰山府君に報告するべきであろう。」安陪忠尚は衣冠に着替え、南庭で泰山府君祭を勤めました。神様への案分は法橋円全がつくり、清書は斉藤兵衛入道浄園です。武州泰時さん〔白い清浄な衣服に立烏帽子〕は庭の上に跪いて拝まれましたとさ。
嘉禎二年(1236)三月小十四日辛未。霽。若宮大路東。依可被立御所。來廿五日。爲御本所可有御一宿于田村之間。當太白方否。可糺方角之由。被仰于駿河前司。仍相伴陰陽師於武藏大路之山峰。令糺之歸參。田村若戌方分歟。不相當正方西之旨申之。」申尅。將軍家御行始。入御武州御亭。駿河前司義村持御釼。越後守。陸奥右馬助。同太郎民部少輔。相摸式部大夫。攝津前司。周防前司。三條前民部權少輔。左近藏人。源判官以下供奉云々。 |
読下し はれ わかみやおおじ ひがし ごしょ たてられ べ よっ きた にじうごにち
嘉禎二年(1236)三月小十四日辛未。霽。若宮大路の東に、御所を立被る可きに依て、來る廿五日、
ごほんじょ な たむらに ごいっしゅくあ べ のあいだ たいはく ほう あた
いな ほうがく ただ べ のよし するがのぜんじに おお らる
御本所と爲し田村于御一宿有る可き之間、太白の方に當るや否や、方角を糺す可き之由、駿河前司于仰せ被る。
よっ おんみょうじを むさしおおじの さんぽう あいともな これ ただ
せし きさん たむら も いぬ ほう
ぶんか せいほうにし あいあた ざるの むねこれ もう
仍て陰陽師於武藏大路之山峰に相伴ひ、之を糺し令め歸參す。田村は若し戌の方の分歟。正方西に相當ら不之旨之を申す。」
さるのこく しょうぐんけみゆきはじ
ぶしゅう おんてい い たま するがのぜんじよしむらぎょけん
も
申尅、將軍家御行始め。武州の御亭に入り御う。駿河前司義村御釼を持つ。
えちごのかみ むつうまのすけ どうたろうみんぶしょうゆう さがみしきぶのたいふ せっつのぜんじ すおうのぜんじ さんじょうさきのみんぶしょうゆう さこんくらんど
越後守、陸奥右馬助、同太郎民部少輔、相摸式部大夫、攝津前司、周防前司、
三條前民部權少輔、 左近藏人、
みなもとほうがん いげ ぐぶ うんぬん
源判官 以下供奉すと云々。
現代語嘉禎二年(1236)三月小十四日辛未。晴れました。若宮大路の東に御所を建てるので、来る25日に今の御所から方角変えに(神奈川県平塚市)田村へ一泊しようとの計画に、太白星金星の方に当たるかどうか、方角を確かめるように駿河前司三浦義村に云いました。そこで陰陽師を武蔵大路(亀ケ谷)の山上に連れて行って、これを確かめて戻りました。田村は戌西北西の方角に当たるようだ。真西には当たらないと報告しました。」
午後4時頃将軍頼経様のお出ましです。武州泰時さんの屋敷に入りました。駿河前司三浦義村が太刀持ちです。越後守北条朝時・陸奥右馬助(北条実泰らしい)・同太郎民部少輔北条実時・相模式部大夫北条朝直・摂津前司中原師員・周防前司中原親実・三条前民部権少輔親実・左近蔵人毛利親光・源判官以下がお供をしましたとさ。
嘉禎二年(1236)三月小廿日丁丑。可被新造幕府并御持佛堂等於若宮大路東頬事。今日。於御所有其定。日次以下事。召陰陽道勘文。リ賢。文元等所令連署也。 |
読下し ばくふ
なら おんじぶつどうを
わかみやおおじひがしつら しんぞうされ べ こと
きょう ごしょ をい そ さだ あ
嘉禎二年(1236)三月小廿日丁丑。幕府并びに御持佛堂等於若宮大路東頬に新造被る可き事、今日、御所に於て其の定め有り。
ひなみ いげ こと おんみょうどう
かんもん め はるかた ふみもとら
れんしょせし ところなり
日次以下の事は、陰陽道の勘文を召す。リ賢、文元等連署令める所也。
現代語嘉禎二年(1236)三月小二十日丁丑。幕府と将軍専用仏殿の持仏堂を若宮大路の東横に新築する事について、今日、御所でその決定をしました。お日柄などの事は、陰陽師の上申書提出を求めました。安陪晴賢・安陪文元が連名で出しました。
嘉禎二年(1236)三月小廿一日戊寅。南都事。寺社開門戸。神木歸坐。爲使節功之由。殊有其沙汰。被遣御感御書於後藤大夫判官基綱〔當時在京〕之許云々。又南都住侶。有武藏得業隆圓之者。奉運其志於武家。仍六波羅駿河守并使節基綱。内々有被談于隆圓之旨間。對衆徒。輝關東威勢。潜又加諷詞。就之蜂起忽靜謐訖。基綱依令注進其趣。今日同被感仰遣。凡爲世爲寺。奉爲關東。第一奉公也。尤感思食云々。 |
読下し なんと こと じしゃ もんこ ひら しんぼく きざ
嘉禎二年(1236)三月小廿一日戊寅。南都の事、寺社門戸を開き、神木歸坐す。
しせつ
こうたるの よし こと そ さた あ ぎょかん おんしょを ごとうのたいふほうがんもとつな 〔とうじざいきょう〕
のもと つか さる うんぬん
使節の功爲之由、殊に其の沙汰有りて、御感の御書於後藤大夫判官基綱〔當時在京〕之許へ遣は被ると云々。
またなんと じゅうりょ むさしとくごうりゅうえんのもの あ そ こころざしを ぶけ
はこ たてまつ
又南都の住侶、武藏得業隆圓
之者 有り。其の志 於武家に運び奉る。
よっ ろくはらするがのかみなら しせつもとつな
ないない りゅうえんに
だん らる のむねあ あいだ しゅうと たい かんとう いせい かがやか ひそか またふうし くは
仍て六波羅駿河守并びに使節基綱、内々に隆圓于
談ぜ被る之旨有るの間、衆徒に對し、關東の威勢を 輝し、
潜に又諷詞を加う。
これ つ ほうきたちま せいひつ をはんぬ もとつな そ おもむき ちうしんせし
よっ きょう
おな かん おお つか さる
之に就き蜂起忽ちに靜謐し
訖。 基綱 其の趣を
注進令むに依て、今日同じく感じ仰せ遣は被る。
およ よ
ためてら ため かんとう おほんため だいいち ほうこうなり もっと かん
おぼ め うんぬん
凡そ世の爲寺の爲、關東の
奉爲に、第一の奉公也。尤も感じ思し食すと云々。
現代語嘉禎二年(1236)三月小二十一日戊寅。奈良の興福寺については、寺も春日大社も門を開いて、ご神木が元へ戻りました。派遣員の手柄であると、特に命じられて、感謝状を大夫判官後藤基綱〔現在京都駐在です〕の所へ持って行かせましたとさ。又、興福寺の住職に武蔵得業隆円と云う者がおり、志は鎌倉へ通じています。そこで六波羅探題の駿河守北条重時それに派遣員の後藤基綱が内密に隆円に話しがあったので、僧兵達に関東の武力を示し、物静かに又、注意を与えました。この影響で武装蜂起を止めて静かになりました。後藤基綱は、その事を書き出してよこしたので、今日同様に感謝状を出しました。「さすがに世のため、興福寺のため、関東への中世は一番の手柄であります。とても感謝しております。」との事です。