嘉禎二年丙申(1236)四月小
嘉禎二年(1236)四月小一日丁亥。午剋。鶴岳若宮羽蟻群集。子剋地震。 |
読下し うまのこく つるがおかわかみや はあり ぐんしゅう ねのこくぢしん
嘉禎二年(1236)四月小一日丁亥。午剋。
鶴岳若宮に 羽蟻群集す。子剋地震。
現代語嘉禎二年(1236)四月小一日丁亥。昼頃、鶴岡八幡宮の若宮(下社?)に羽蟻が群れ集まりました。夜中の十二時頃に地震です。
嘉禎二年(1236)四月小二日戊子。若宮大路御所造營木作始也。大工着束帶參入。事終。賜酒肴祿物等云々。」今日。宮寺羽蟻事有御占。可令愼病事給之由。六人一同申之云々。 |
読下し
わかみやおおじごしょ ぞうえい こづくりはじ
なり だいく
そくたい つ さんにゅう
嘉禎二年(1236)四月小二日戊子。若宮大路御所
造營の木作始め也。大工束帶を着け參入す。
ことおわ さけさかな
ろくぶつら たま うんぬん
事終り、酒肴
祿物等を賜はると云々。」
きょう
ぐうじ はあり
ことおんうらあ やまい こと つつし せし
たま べ のよし ろくにんいちどう これ
もう うんぬん
今日、宮寺の羽蟻の事御占有り。病の事を愼ま令め給ふ可き之由、六人一同に之を申すと云々。
現代語嘉禎二年(1236)四月小二日戊子。若宮大路御所の作事(手斧)始めです。大工の棟梁が衣冠束帯でお参りしました。式が終わり酒肴や褒美を受けました。」
今日、鶴岡八幡宮寺の羽蟻について占いがありました。病気に気を付けてつつましくするようにと、六人が同じことを言いましたとさ。
嘉禎二年(1236)四月小四日庚寅。將軍家爲御方違。可有渡御于小山下野入道生西若宮大路家之由。有其沙汰。彼家先年燒亡。更新造之後。未及入御。可爲何樣哉之旨。爲藤内大夫判官定員奉行。被尋人々。如此事有兩樣。所謂安家説者。儲本處於塞方。雖有其憚。賀家説者。一宿之後。假取界契用之。付其説渡御。不可有巨難之由。知宗。親行。季氏等申之。此上猶被問リ賢。文元等。可有憚之旨。一旦雖申之。便宜邊無可被用御本所屋之間。可被宥用之由亦申之。但彼家自御所相當坤。今日爲太白方歟之間。將軍家直有御疑。リ賢等打丈尺令笇勘。爲丁方之由依令申。入夜渡御生西家云々。 |
読下し しょうぐんけおんかたたが
ため おやましもつけにゅうどうせいせい わかみやおおじ いえに
嘉禎二年(1236)四月小四日庚寅。將軍家御方違への爲、 小山下野入道生西 が若宮大路の家于
とぎょあ べ のよし そ さた あ か
いえせんねんしょうぼう さら
しんぞうののち いま にゅうご およ
渡御有る可し之由、其の沙汰有り。彼の家先年燒亡し、更に新造之後、未だ入御に及ばず。
いかようたるべ や
のむね とうないたいふほうがんさだかず
ぶぎょう な ひとびと たず らる
何樣爲可き哉之旨、藤内大夫判官定員
奉行と爲し、人々に尋ね被る。
かく ごと ことりょうようあ
此の如き事兩樣有り。
いはゆる
あんけ せつは ほんじょを
ふさが ほう もう そ
はばか あ いへど
所謂、安家@の説者、本處於塞りの方に儲くるは、其の憚り有ると雖も、
かけ
せつは いっしゅくののち かり かいきつ
と これ もち
賀家Aの説者、一宿之後、假に界契を取り之を用ゐる。
そ せつ つ とぎょ
こなん あ べからずの よし ともむね ちかゆき
すえうじらこれ もう
其の説に付き渡御せば、巨難有る不可之由、知宗、親行、季氏等之を申す。
こ うえなお はるかた ふみもとら とはる
此の上猶、リ賢、文元等に問被る。
はばか あ べ のむね
いったんこれ
もう いへど びんぎ へん
おんほんじょや もち らる べ な
のあいだ
憚り有る可し之旨、一旦之を申すと雖も、便宜の邊に御本所屋に用ゐ被る可き無き之間、
ゆうようさる べ のよしまたこれ もう
宥用被る可き之由亦之を申す。
ただ か いえ ごしょよ ひつじさる あいあた きょう たいはくかたたるか
のあいだ しょうぐんけじき おんうたが あ
但し彼の家は御所自り坤に相當る。今日は太白方爲歟之間、將軍家直に御疑い有り。
はるかたらじょうしゃく う
さんかんせし ひのと ほうたる のよしもうせし よっ よ い
せいせい いえ とぎょ うんぬん
リ賢等丈尺を打ち笇勘令め、丁の方爲之由申令むに依て、夜に入り生西の家へ渡御すと云々。
参考@安家は、陰陽師の安陪家。
参考A賀家は、陰陽師の賀茂家。
現代語嘉禎二年(1236)四月小四日庚寅。将軍頼経様の方角変えのため、下野入道生西小山朝政の若宮大路の家へ行かれるようにお決めになりました。その家は、去年火事で燃えて、その後新築しましたが、将軍はお入りになっておりません。どうしたものかと、藤内大夫判官藤原定員が担当して人々に聞きました。「こういう場合は二通り考えられます。一つは安陪家の説では『元の家へ戻る際、ふさがりの方角になるのは避けた方が良い。』と云うのだが、一方賀茂家の説には、『一泊した後、仮の場所へ行ってから戻れば災難はなくなります。』とあります」と知宗・源親行・清原季氏達がいいました。それでも、安陪晴賢・安陪文元などにも質問しました。「避けた方が良い。」と一度は云いましたが、「具合の良い場所を出発点にすれば、何とかなるでしょう。」と云いました。但し、「小山朝政の家は、御所から東南にあたるので、今日は出る方を避ける太白金星にあたるんじゃないのか。」と将軍頼経様は疑っております。晴賢は物差しを出して計ってみて、「丁の南南南西の方角です」と云ったので、夜になって生西小山朝政の家へお渡りになりましたとさ。
嘉禎二年(1236)四月小六日壬辰。巳刻。前駿河守從五位下藤原朝臣季時法師〔法名行阿〕卒。〔年〕去月廿七日以後病惱。時行与脚氣計會云々。 |
読下し
みのこく さきのするがのかみ じゅごいのげ
ふじわらのあそんすえときほっし 〔ほうみょうぎょうあ〕 そっ 〔とし〕
嘉禎二年(1236)四月小六日壬辰。巳刻。
前駿河守 從五位下 藤原朝臣季時法師〔法名行阿〕卒す。〔年〕
さんぬ つきにじうしちにちいご
びょうのう じぎょう と かっけ けいかい うんぬん
去る月
廿七日以後 病惱。時行@与脚氣と計會すと云々。
参考@時行は、老人性掻痒症の時行発斑らしい。法名の阿は念仏衆らしい。
現代語嘉禎二年(1236)四月小六日壬辰。午前10時頃、前駿河守従五位下藤原朝臣中原季時法師〔出家名は行阿〕亡くなりました。先月の27日以降病気でした。老人性掻痒症と脚気との合併症だったそうな。
嘉禎二年(1236)四月小八日甲午。將軍家依可有渡御于伊豆國小名温泉。以來十七日。被定御進發日。而去一日若宮蟻恠異事。動搖不安之由。占申之上。又宿曜師珎譽法印可有御愼遠行之旨言上。陰陽師不快之由占申。仍今日有議定。遂思食止云々。 |
読下し しょうぐんけ いずのくに こなおんせんに とぎょ あ べ よっ きた じうしちにち もっ ごしんぱつび さだ らる
嘉禎二年(1236)四月小八日甲午。將軍家
伊豆國小名温泉@于渡御有る可きに依て、來る十七日を以て、御進發日と定め被る。
しか さんぬ ついたちわかみや あり かいい こと どうようふあんの よし うらな もう のうえ またすくようじちいよほういん えんこうおんつつし あ べ のむねごんじょう
而るに去る一日若宮の蟻の恠異の事、動搖不安之由、占い申す之上、又宿曜師珎譽法印、遠行御愼み有る可き之旨言上す。
おんみょうじふかいのよしうらな もう よっ きょう ぎじょうあ つい
おぼ め と うんぬん
陰陽師不快之由占い申す。仍て今日議定有りて、遂に思し食し止めると云々。
参考@小名温泉は、旧古奈温泉で、現在は長岡温泉と一緒。静岡県伊豆の国市古奈。北条氏の韮崎のそば。
現代語嘉禎二年(1236)四月小八日甲午。将軍頼経様は、静岡県伊豆の国市古奈の古奈温泉へ行きたいので、来る17日を出発の日と決めていました。それなのに先日の1日に鶴岡八幡宮若宮の羽蟻の怪しい出来事は人心を揺れ動かし不安をかきたてると占い結果を云い、その上また。星占い師珍与法印が、遠出は控えた方が良いと申し上げました。陰陽師も良くないと云ってるので、今日会議をしてついにあきらめましたとさ。
嘉禎二年(1236)四月小十一日丁酉。於御所被行御祈等。是依鶴岳宮寺恠也。 |
読下し ごしょ をい おいのりら おこなはれ これ
つるがおかぐうじ あや よっ なり
嘉禎二年(1236)四月小十一日丁酉。御所に於て御祈等を行被る。是、鶴岳宮寺の恠しに依て也。
現代語嘉禎二年(1236)四月小十一日丁酉。御所でお祈りを行いました。これは、鶴岡八幡宮寺の怪異によります。
嘉禎二年(1236)四月小十四日庚子。將軍家爲御方違。渡御下野入道家。是可有四十五日御連宿之由云々。 |
読下し しょうぐんけおんかたたが ため しもつけにゅうどう いえ とぎょ
これ しじうごにち ごれんしゅく あ
べ のよし うんぬん
嘉禎二年(1236)四月小十四日庚子。將軍家御方違への爲、下野入道の家へ渡御す。是、四十五日御連宿有る可き之由と云々。
現代語嘉禎二年(1236)四月小十四日庚子。将軍頼経様は方角変えのため、下野入道小山朝政の家へお渡りです。これは、45日続けて泊まるのだとさ。
嘉禎二年(1236)四月小廿日丙午。弁僧正奉祈雨御祈參籠鶴岳八幡宮云々。 |
読下し べんのそうじょう きう おいのり うけたまは つるがおかはちまんぐう さんろう うんぬん
嘉禎二年(1236)四月小廿日丙午。弁僧正、祈雨の御祈を
奉り 鶴岳八幡宮に 參籠すと云々。
現代語嘉禎二年(1236)四月小二十日丙午。弁僧正定豪は雨乞いのお祈りを仰せつかって、鶴岡八幡宮におこもりだそうな。
嘉禎二年(1236)四月小廿三日己酉。風雨甚。但炎旱亘旬之間。此雨猶不及潤國土。然而被賞法驗。被遣御馬於僧正坊。押垂左衛門尉爲御使。 |
読下し ふううはなは ただ
えんかん しゅん わた のあいだ このあめ なお
こくど うるお およばず
嘉禎二年(1236)四月小廿三日己酉。風雨甚だし。但し炎旱
旬に亘る之間、此雨 猶國土を潤すに不及。
しかでども ほうけん しょうされ おんうまをそうじょうぼう つか
さる おしたれさえもんのじょう おんし な
然而、法驗を賞被、御馬於僧正坊に遣は被る。押垂左衛門尉
御使を爲す。
現代語嘉禎二年(1236)四月小二十三日己酉。暴風雨です。但し旱が十日以上続いたので、この雨も国土を潤すには足りません。でも、お祈りの効果を褒められ、馬を僧正定豪に贈らせました。押垂左衛門尉時基が使者を果たしました。