嘉禎二年丙申(1236)十月小
嘉禎二年(1236)十月小二日丙戌。霽。六波羅飛脚參着。申云。自去月中旬之比。南都蜂起。搆城郭巧合戰。六波羅遣使者雖相宥弥倍増云々。 |
読下し はれ ろくはら ひきゃくさんちゃく もう い さんぬ つき
ちうじゅんのころよ なんとほうき
嘉禎二年(1236)十月小二日丙戌。霽。六波羅の飛脚參着し、申して云はく。去る月
中旬之比自り、南都蜂起す。
じょうかく かま かっせん たく ろくはら ししゃ つか あいなだ いへど やや
ばいぞう うんぬん
城郭を搆へ合戰を巧む。六波羅使者を遣はし相宥めると雖も弥
倍増すと云々。
現代語嘉禎二年(1236)十月小二日丙戌。晴れました。六波羅探題からの伝令が到着して報告するのには、「先月中旬ころから、奈良興福寺の僧兵が武装蜂起して、城郭を構築して合戦に備えています。六波羅から使者を出して宥めていますが、どんどん増えてきています。」だとさ。
嘉禎二年(1236)十月小五日己丑。被經評議。爲鎭南都騒動。暫大和國置守護人。没収衆徒知行庄園。悉被補地頭畢。又相催畿内近國御家人等。塞南都道路。可止人々之出入之由。有議定。被撰遣印東八郎。佐原七郎以下殊勝勇壯力之輩。衆徒若猶成敵對之儀者。更不可有優恕之思。悉可令討亡云々。且各可欲致死之由。於東士者。直被仰含。至京畿者。被仰其趣於六波羅。又南都領在所。悉不可被知食之處。武藏得業隆圓密々与其注文於佐渡守基綱。基綱就送進關東。被新補地頭云々。 |
読下し ひょうぎ へ らる
嘉禎二年(1236)十月小五日己丑。評議を經被る。
なんと そうどう しず ため しばら やまとのくに しゅごにん お しゅうとちぎょう
しょうえん ぼっしゅう ことごと ぢとう ぶされをはんぬ
南都の騒動を鎭めん爲、暫く大和國に守護人を置き、衆徒知行の庄園を没収し、 悉く地頭を補被畢。
また きないきんごく ごけにんら
あいもよお なんと どうろ ふさ ひとびとの でいり
と べ のよし ぎじょうあ
又、畿内近國の御家人等を相催し、南都の道路を塞ぎ、人々之出入を止める可し之由、議定有り。
いんとうのはちろう さはらのしちろう いげ こと すぐ ゆうそうりょくのやから えら つか さる
印東八郎、佐原七郎
以下殊に勝れた勇壯力之輩を撰び遣は被る。
しゅうと も なおてきたいのぎ
な
ば さら ゆうじょの おも あ べからず ことごと う ほろ せし べ うんぬん
衆徒若し猶敵對之儀を成さ者、更に優恕之思ひ有る不可。 悉く討ち亡ぼ令む可しと云々。
かつう おのおの し いた ほっ べ のよし
とうし をい は じき おお ふく らる
且は
各、
死に致らんと欲す可し之由、東士に於て者、直に仰せ含め被る。
けいき もの いた
そ おもむきを ろくはら おお らる
京畿の者に至りては、其の趣於六波羅へ仰せ被る。
また なんとりょうざいしょ ことごと しろ めされ べからずのところ むさしとくごうりゅうえん
みつみつ そ ちうもんを さどなかみもとつな あた
又、南都領在所。悉く知し食被る不可之處、 武藏得業隆圓
密々に其の注文於佐渡守基綱に与う。
もとつなかんとう おく すす
つ ぢとう しんぽさる うんぬん
基綱關東へ送り進めるに就き、地頭を新補被ると云々。
参考得業は、仏教のある課程を終了した者。比叡山では、横川(よかわ)の四季講、定心房の三講の聴衆を勤めた僧の称号。
現代語嘉禎二年(1236)十月小五日己丑。検討をしました。奈良の騒ぎを鎮めるために、しばらくの間大和國に守護人を置いて、僧兵が管理している荘園を取り上げて、全てに地頭を設置する。又、近畿地方の御家人を動員して、奈良への道を塞いで、人々の出入りを止めてしまおうと決定しました。印東八郎・佐原七郎光兼を始めとする特に優れた勇敢で力のある連中を選んで派遣します。僧兵がなおも敵対するようなら、何も情けをかける必要はないので、徹底的にやっつけて滅ぼしてしまうようにとの事です。ひとつは、死を恐れずに攻めて行く気の関東からの武士には、直接命令して、ひとつは近畿地方の者には、その旨を六波羅探題から知らさせます。又、奈良にある向福寺の領地については、よくわからないので、武蔵得業隆円が内密に書き出した文書を佐渡守後藤基綱に渡しました。佐渡守後藤基綱は、それを鎌倉幕府へ送ったので、地頭を新しく任命しましたとさ。
嘉禎二年(1236)十月小六日庚寅。大和國守護職等御下文。被遣六波羅云々。 |
読下し やまとのくにしゅごしきら おんくだしぶみ
ろくはら つか さる うんぬん
嘉禎二年(1236)十月小六日庚寅。大和國守護職等の御下文、六波羅へ遣は被ると云々。
現代語嘉禎二年(1236)十月小六日庚寅。大和国の守護職などの任命書を六波羅探題へ送りましたとさ。
嘉禎二年(1236)十月小十三日丁酉。霽。於御所被行天變〔去月廿七日太白南斗第四星〕御祈。太白星祭泰貞朝臣奉仕之。武州御沙汰也。伊賀六郎右衛門尉爲御使。天地災變祭匠作御沙汰。廣經勤之。廣經去比始下向云々。 |
読下し はれ ごしょ をい てんぺん 〔さんぬ つきにじうしちにちたいはくなんとだいよんせいを〕 おいのり おこなはれ
嘉禎二年(1236)十月小十三日丁酉。霽。御所に於て天變〔去る月廿七日 太白南斗第四星〕の御祈を行被る。
たいはくせいさい
やすさだあそんこれ ほうし ぶしゅうう おんさた なり いがのろくろううえもんのじょうおんし な
太白星祭 泰貞朝臣 之を奉仕す。武州の御沙汰也。伊賀六郎右衛門尉御使と爲す。
てんちさいへんさい
しょうさく おんさた ひろつねこれ つと ひろつね
さんぬ ころはじえ げこう うんぬん
天地災變祭
匠作の御沙汰。廣經之を勤む。廣經
去る比始めて下向すと云々。
現代語嘉禎二年(1236)十月小十三日丁酉。晴れました。御所で天変〔先月27日の太白星金星が南斗第四星射手座オメガ星を犯す〕鎮静のお祈りをしました。金星のお祭りは、安陪泰貞さんが勤めました。武州泰時さんの負担で、伊賀六郎右衛門尉光重が代参です。天地災変祭は匠作時房さんの負担で、安陪広経が勤めました。この広経は最近鎌倉へやってきたのだそうな。
嘉禎二年(1236)十月小廿九日癸丑。下総前司保茂日來參候。抽夙夜之功。而奉男山守護事。上洛之間。武州御主有餞別之儀。剩毎事可加扶持之旨被仰遣六波羅駿州之許云々。 |
読下し しもふさぜんじやすもちひごろさんこう しゅくよ のこう ぬき
嘉禎二年(1236)十月小廿九日癸丑。下総前司保茂日來參候し、夙夜@之功を抽んず。
しか おとこやましゅご こと たてまつ じょうらくのあいだ
ぶしゅうおんぬしせんべつのぎ あ
而るに男山守護の事Aを奉りて、上洛之間、
武州御主 餞別之儀有り。
あまつさ まいじ ふち くは べ のむね ろくはら すんしゅうのもと おお つか さる うんぬん
剩へ毎事扶持を加へる可し之旨、六波羅の駿州之許へ仰せ遣は被ると云々。
参考@夙夜は、一日中。朝から晩までいつもいつも。
参考A男山守護の事は、30巻文暦2年5月16日条で管理を命じられ、3月7日に催促をされている。
現代語嘉禎二年(1236)十月小二十九日癸丑。下総前司源保茂は、普段来ていて一日中頑張っています。ですが、石清水八幡宮の件で京都へ行きますので、武州泰時さんは餞別を贈りました。そればかりか良く面倒を見るように、六波羅の駿河守北条重時に伝えましたとさ。