吾妻鏡入門第卅一巻  

嘉禎二年丙申(1236)十一月大

嘉禎二年(1236)十一月大一日甲寅。霽。未剋。六波羅飛脚參着。南都去月十七日夜破城郭退散。是於所領。被補地頭。被塞關之間。失兵粮之計。難聚人勢之故也云々。

読下し                     はれ ひつじのこく ろくはら  ひきゃくさんちゃく   なんと さんぬ つきじうしちにち よる じょうかく やぶ  たいさん
嘉禎二年(1236)十一月大一日甲寅。霽。未剋、六波羅の飛脚參着す。南都 去る月十七日 夜 城郭を破り退散す。

これしょりょう  をい      ぢとう  ぶされ   せき  ふさがれ のあいだ  ひょうろうのはか   うしな   にんぜい  あつ  がた  のゆえなり  うんぬん
是所領に於ては、地頭を補被、關を塞被る之間、兵粮之計りを失い、人勢を聚め難き之故也と云々。

現代語嘉禎二年(1236)十一月大一日甲寅。晴れました。午後二時頃、六波羅探題からの伝令が着きました。先月十七日奈良の僧兵どもは城郭を壊して退散した。それは、領地については地頭が任命され、関所を塞がれて兵糧を調達できなくなり、人数を集められなくなったからだそうな。

嘉禎二年(1236)十一月大十三日丙寅。小雨潅。六波羅飛脚到着。南都蜂起既落居。自去二日。僧綱已下歸寺。開寺門。行佛事云々。

読下し                       こさめ そそ    ろくはら   ひきゃくとうちゃく   なんと   ほうき すで  らっきょ
嘉禎二年(1236)十一月大十三日丙寅。小雨潅ぐ。六波羅の飛脚到着す。南都の蜂起既に落居す。

さんぬ ふつかよ     そうごう いげ てら  かえ    じもん  ひら    ぶつじ  おこな   うんぬん
去る二日自り、僧綱已下寺へ歸り、寺門を開き、佛事を行うと云々。

現代語嘉禎二年(1236)十一月大十三日丙寅。小雨が降ってます。六波羅探題からの伝令が着きました。奈良の武力蜂起は鎮静しました。先日の二日から役付き坊さん以下は、寺へ帰り、門を開いて仏事を始めたそうです。

嘉禎二年(1236)十一月大十四日丁夘。匠作。武州着評定所給。其衆參進。南都事有沙汰。衆徒靜謐之間。止大和國守護地頭職。如元可被付寺家云々。

読下し                       しょうさく ぶしゅうひょうじょうしょ つ   たま    そ  しゅうさんしん    なんと  こと さた あ
嘉禎二年(1236)十一月大十四日丁夘。匠作、武州評定所に着き給ふ。其の衆參進す。南都の事沙汰有り。

しゅうと せいひつのあいだ  やまとのくに しゅご ぢとうしき  と     もと  ごと    じけ   ふ せら  べ     うんぬん
衆徒 靜謐之間、大和國の守護地頭職を止め、元の如く寺家に付被る可しと云々。

現代語嘉禎二年(1236)十一月大十四日丁卯。匠作時房さん・武州泰時さんが政務会議の評定所に着席しました。その他の皆さんも出席しました。奈良の事について会議をしました。武者僧(僧兵)が静まったので、大和国の守護地頭を止めて、元の様に寺に返す事にしましたとさ。

嘉禎二年(1236)十一月大十五日戊辰。有評儀。是去二日。東寺長者親嚴僧正入滅。以鶴岳別當僧正定豪。可爲其替之由。殿下内々御教書。昨日到來之間。可被上洛否。有沙汰。而補長者。爲關東眉目。爲僧正本意。可然之由。治定云々。仍自當座。遣大和前司。佐藤民部大夫等。被觸仰事由於僧正云々。

読下し                       ひょうぎあ     これさんぬ ふつか   とうじ  ちょうじゃ しんげんそうじょう にゅうめつ
嘉禎二年(1236)十一月大十五日戊辰。評儀有り。是去る二日、東寺の長者 親嚴僧正 入滅す。

つるがおか べっとう そうじょう ていごうこ もっ    そ  かえたるべ   のよし  でんかないない  みぎょうしょ  さくじつとうらい   のあいだ じょうらくされ  べ     いな     さた あ
 鶴岳 別當 僧正 定豪を以て、其の替爲可き之由、殿下内々の御教書、昨日到來する之間、上洛被る可きや否や、沙汰有り。

しか   ちょうじゃ  ぶ       かんとう  びもくたり  そうじょう  ほんいたり  しか  べ   のよし  ちじょう    うんぬん
而して長者を補すは、關東の眉目爲。僧正の本意爲。然る可し之由、治定すと云々。

よっ  とうだ よ     やまとのぜんじ   さとうみんぶたいふ ら  つか      こと  よしをそうじょう  ふ   おお  らる    うんぬん
仍て當座自り、大和前司、佐藤民部大夫等を遣はし、事の由於僧正に觸れ仰せ被ると云々。

現代語嘉禎二年(1236)十一月大十五日戊辰。会議がありました。これは先日の二日に、東寺の筆頭の親厳僧正が亡くなったからです。鶴岡八幡宮寺筆頭の定豪僧正を、その代りに着けたらと、内々に九条道家様からの手紙が昨日着いたから、京都へ上るかどうか検討の、命がありました。そして、筆頭を任命するのは、関東にとっても名誉な事だし、定豪僧正もなりたいだろうし、そうしようと決定しました。そこで、その場から大和前司天野倫重・佐藤民部大夫業時を行かせて、次第を僧正に伝えましたとさ。

嘉禎二年(1236)十一月大廿二日乙亥。霽。將軍家御方違。入御于藏人大夫入道西阿宿所。是御持佛堂造營。其所自御寢所北方分歟之由。依有御疑也。

読下し                      はれ しょうぐんけおんかたたが   くらんどたいふにゅうどうせいあ  すくしょに いりたま
嘉禎二年(1236)十一月大廿二日乙亥。霽。將軍家御方違へ。藏人大夫入道西阿の宿所于入御う。

これ  おんじぶつどう  ぞうえい    そ  ところごしんじょよ  きた  かたぶんか のよし  おんうたが あ     よっ  なり
是、御持佛堂の造營は、其の所御寢所自り北の方分歟之由、御疑い有るに依て也。

現代語嘉禎二年(1236)十一月大二十二日乙亥。晴れました。将軍頼経様は、方角替えで、蔵人入道西阿毛利季光の下屋敷へ入られました。これは、自分の守り本尊を祀る持仏堂の建設で、その場所が寝間から北の方角らしい疑いがあるからです。

嘉禎二年(1236)十一月大廿三日丙子。將軍家還御。藏人大夫入道献御引出物。役人御劔左衛門大夫泰秀。砂金駿河次郎泰村。御馬〔置鞍〕毛利藏人泰光。岩崎左衛門尉等引之。

読下し                      しょうぐんけかんご    くらんどたいふにゅうどうおんひきでもの  けん
嘉禎二年(1236)十一月大廿三日丙子。將軍家還御す。藏人大夫入道御引出物を献ず。

えき  ひと  ぎょけん さえもんのたいふやすひで  さきん  するがにじろうやすむら  おんうま 〔くら  お   〕    もうりくらんどやすみつ  いわさきさえもんのじょうこれ  ひ
役の人、御劔は左衛門大夫泰秀。砂金は駿河次郎泰村。御馬〔鞍を置く〕は毛利藏人泰光。岩崎左衛門尉等之を引く。

現代語嘉禎二年(1236)十一月大二十三日丙子。将軍頼経様はお帰りです。蔵人大夫入道毛利季光は引き出物を献上しました。渡す役は、刀が左衛門大夫長井泰秀。砂金は駿河次郎三浦泰村。馬〔鞍置き〕は毛利蔵人泰光と岩崎左衛門尉が引いてきました。

嘉禎二年(1236)十一月大廿四日丁丑。リ。戌刻町大路失火。南北十余町災。筑後左衛門尉。中民部太郎以下。人家災不可勝計。

読下し                      はれ いぬのこくまちおおじ  しっか  なんぼく じうよちょう わざわい
嘉禎二年(1236)十一月大廿四日丁丑。リ。戌刻町大路で失火。南北 十余町 災す。

ちくごさえもんのじょう  なかのみんぶたろう いげ   じんか わざわい あげ  かぞ  べからず
筑後左衛門尉、中民部太郎以下、人家の 災 勝て計う不可。

現代語嘉禎二年(1236)十一月大二十四日丁丑。晴れです。午後八時頃、大町大路あたりで失火。南北百数十メートルが焼けた。筑後左衛門尉知重・中民部太郎以下の人家の燒失は数えきれません。

嘉禎二年(1236)十一月大廿五日戊寅。霽。御持佛堂供養。導師弁僧正定豪。密供養也。御本尊者。六條法印院圓於京都奉造立。日次事。於一條殿被經沙汰。去四月廿三日賀茂祭日奉始之。是初例也云々。

読下し                      はれ  おんじぶつどう  くよう   どうし  べんのそうじょうていごう  みつくようなり
嘉禎二年(1236)十一月大廿五日戊寅。霽。御持佛堂の供養。導師は弁僧正定豪。密供養也。

ごほんぞんは  ろくじょうほういんいんえん きょうと  をい  ぞうりゅう たてまつ
御本尊者、 六條法印院圓 京都に於て造立し奉る。

ひなみ  こと  いちじょうでん をい  さた   へらる    さんぬ しがつにじうさんにち かもまつり  ひ   これ  はじ たてまつ  これはじ     れいなり  うんぬん
日次の事、一條殿に於て沙汰を經被る。去る四月廿三日の賀茂祭の日、之を始め奉る。是初めての例也と云々。

現代語嘉禎二年(1236)十一月大二十五日戊寅。晴れました。自分の守り本尊を祀る持仏堂の開眼供養です。指導僧は、弁僧正定豪で、密教の法事です。守り本尊は、六条法印院円が京都で作成しました。お日柄については、一条殿で検討しました。去る四月二十三日の賀茂祭の日に、始めました。こんな例は初めてだそうな。

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