吾妻鏡入門第卅一巻  

嘉禎三年丁酉(1237)三月大

嘉禎三年(1237)三月大六日丁巳。晩景小雨降。雷鳴數聲。

読下し                   ばんけい  こさめ ふ    らいめいすうこえ
嘉禎三年(1237)三月大六日丁巳。晩景に小雨降る。雷鳴數聲。

現代語嘉禎三年(1237)三月大六日丁巳。夜に入って小雨が降り。雷が何度か鳴りました。

嘉禎三年(1237)三月大八日己未。天霽。入夜甚雨。今日爲主計頭師員奉行。被定近習并御身固陰陽師員。
一番
 遠江式部丞    周防前司
 前民部權少輔   隱岐式部大夫
 上野弥四郎    平賀三郎兵衛尉
二番
 壹岐守      攝津民部大夫
 武藤左衛門尉   後藤佐渡左衛門尉
 伊賀六郎左衛門尉 伊佐右衛門尉
三番
 相摸六郎     佐原太郎左衛門尉
 江右衛門尉    齋藤左衛門尉
 本間式部丞    飯冨源内
一番 〔御身固事〕
 前大藏權大夫泰貞朝臣
二番
 陰陽權助リ賢朝臣
三番
 前縫殿頭文元朝臣

読下し                   そらはれ  よ   い  はなは あめ
嘉禎三年(1237)三月大八日己未。天霽。夜に入り甚だ雨。

きょう  かぞえのかみもろかず ぶぎょう  な    きんじゅうなら   おんみがた    おんみょうじ かず  さだ  らる
今日 主計頭師員 奉行と爲し、近習并びに御身固めの陰陽師の員を定め被る。

いちばん
一番

  おうみのしきぶのじょう      すおうのぜんじ
 遠江式部丞    周防前司

  さきのみんぶごんのしょうゆう   おきのしきぶのたいふ
 前民部權少輔   隱岐式部大夫

  こうづけのいやしろう       ひらがのさぶろうひょうえのじょう
 上野弥四郎    平賀三郎兵衛尉

 にばん
二番

  いきのかみ             せっつのみんぶたいふ
 壹岐守      攝津民部大夫

  むとうのさえもんのじょう      ごとうのさどさえもんのじょう
 武藤左衛門尉   後藤佐渡左衛門尉 

  いがのろくろうさえもんのじょう  いさのうえもんのじょう
 伊賀六郎左衛門尉 伊佐右衛門尉@

さんばん
三番

  さがみのろくろう          さはらのたろうさえもんのじょう
 相摸六郎     佐原太郎左衛門尉

  えのうえもんのじょう        さいとうのさえもんのじょう
 江右尉門尉    齋藤左衛門尉

  ほんまのしきぶのじょう      いいとみのげんない
 本間式部丞    飯冨源内

いちばん
一番 〔御身固めの事〕

  さきのおおくらごんのたいふやすさだあそん
 前大藏權大夫泰貞朝臣

 にばん
二番

  おんみょうごんのすけはるかたあそん
 陰陽權助リ賢朝臣

さんばん
三番

  さきのぬいどののとうふみもとあそん
 前縫殿頭文元朝臣

参考@伊佐は、茨城県筑西市(旧下館市伊讃)伊讃美。同市西谷貝に伊讃小学校に名が残り、同市外塚に伊讃地区公民館もある。

現代語嘉禎三年(1237)三月大八日己未。空は晴ましたが、夜に入って大雨です。今日、主計頭中原師員が担当して、おそば仕えと体を守るお祓い役を決めました。
一番が、近江式部丞北条光時  周防前司中原親実
    前民部権少輔三条親実 隠岐式部大夫
    上野弥四郎結城時光  平賀三郎兵衛尉
二番が、壱岐守三浦光村    摂津民部大夫狩野為光
    武藤左衛門尉景頼   後藤佐渡左衛門尉基政
    伊賀六郎左衛門尉光重 伊佐右衛門尉為家
三番が、相模六郎北条時定   佐原太郎左衛門尉胤家
    大江右衛門尉範親   齋藤左衛門尉
    本間式部丞元忠    飯富源内長能 

一番お祓い役は、
 前大蔵権大夫安陪泰貞さん
二番が
 陰陽権助安陪晴賢さん
三番が
 前縫殿頭安陪文元さん。

嘉禎三年(1237)三月大九日庚申。甚雨如秡。終日不休止。亥刻洪水。」今夜。新御所始有和哥御會。被守庚申也。題櫻花盛久。花亭祝言〔左兵衛督頼氏朝臣献之〕。左京兆。足利左典廐。相摸三郎入道。快雅僧正。式部大夫入道。源式部大夫。佐渡守。城太郎。都築右衛門尉經景。波多野次郎朝定等候其座。

読下し                   はなは あめはら   ごと   しゅうじつ やまず   いのこくこうずい
嘉禎三年(1237)三月大九日庚申。甚だ雨秡うが如し。終日休止不。亥刻洪水。」

こんや   しんごしょ  はじ     わか   おんえ あ     こうしん  まもらる  なり  だい  おうかせいきゅう  かていしゅうげん 〔さひょうえのかみよりうじあそんこれ   けん  〕
今夜、新御所で始めて和哥の御會有り。庚申@を守被る也。題は櫻花盛久。花亭祝言〔左兵衛督頼氏朝臣之を献ず〕

さけいちょう あしかがさてんきゅう  さがみのさぶろうにゅうどう かいがそうじょう  しきぶのたいふにゅうどう みなもとしきぶのたいふ さどのかみ じょうのたろう
左京兆、足利左典廐、 相摸三郎入道、 快雅僧正、 式部大夫入道、 源式部大夫、 佐渡守、城太郎、

つづきのうえもんのじょうつねかげ   はたののじろうともさだら   そ   ざ   そうら
 都築右衛門尉經景、波多野次郎朝定等、其の座に候う。

参考@庚申は、庚申の夜眠ると体の中に居る三尸虫が口から出て、天帝に普段の行状を告げると寿命が縮まるので寝ずにあかす一種の講。

現代語嘉禎三年(1237)三月大九日庚申。ものすごい豪雨でまるで洗ってるみたいです。一日中降りまないので午後10時頃には洪水です。」

今夜、新築の御所で和歌の会がありました。庚申を守るためです。お題は、「桜花盛久」桜の花がいつまでも盛ん。「花亭祝言」花の館で祝いの言葉〔これは左兵衛督頼氏さんが申しあげました〕。右京兆泰時さん・足利左典厩義氏・相模三郎入道北条資時・快雅僧正・式部大夫入道伊賀光宗・源式部大夫親行・佐渡守後藤基綱・城太郎安達義景・都築右衛門尉経景・波多野次郎朝定などがその座に付き合いました。

解説方や洪水だと云うのに、御所では庚申講で歌会をしている。

嘉禎三年(1237)三月大十日辛酉。明王院東可被新造丈六堂事。今日有其沙汰。是今年相當于故禪定二位家十三年御忌景之間。爲御追善也。可令佐渡守基綱。攝津民部大夫爲光奉行之旨被仰下。仍各召陰陽道勘文。泰貞。リ賢。文元等献之云々。

読下し                   みょうおういん ひがし じょうろくどう しんぞうさる  べ   こと   きょう  そ   さた あ
嘉禎三年(1237)三月大十日辛酉。明王院の東に丈六堂@を新造被る可き事、今日其の沙汰有り。

これ  ことし   こぜんじょうにいけ   じうさんねんおんきけいに あいあた のあいだ  ごついぜん  ためなり
是、今年は故禪定二位家の十三年御忌景于相當る之間、御追善の爲也。

さどのかみもとつな  せっつのみんぶたいふためみつ  し  ぶぎょうすべ  のむねおお  くださる
佐渡守基綱、 攝津民部大夫爲光を 令て奉行可き之旨仰せ下被る。

よっ おのおの おんみょうどう かんもん  め     やすさだ  はるかた ふみもとら これ  けん    うんぬん
仍て 各 陰陽道に 勘文を召す。泰貞。リ賢。文元等之を献ずと云々。

参考@丈六は、釈迦の身長が1丈6尺あったとされ、仏像の大きさで立って4.8m、座ると半分なので坐像は2.4mに作る。

現代語嘉禎三年(1237)三月大十日辛酉。五大堂明王院の東に丈六(2.4mの坐像)の仏像を治めるお堂を新築するように、今日その命令がありました。これは、今年が二位家政子様の十三回忌にあたるので、その追善供養のためです。佐渡守後藤基綱・摂津民部大夫狩野為光を担当にするよう仰せになられました。そこで、それぞれ陰陽師に上申文を出させました。安陪泰貞・晴賢・文元がこれを献上しました。

嘉禎三年(1237)三月大廿一日壬申。京都警衛事。自去々年正月。更被結番之處。猶不法之輩依相交。匠作。左京兆殊令沙汰之給。被催御家人等云々。

読下し                     きょうとけいえい  こと  おととし しょうがつよ     さら  けちばんさる  のところ
嘉禎三年(1237)三月大廿一日壬申。京都警衛の事、去々年正月自り、更に結番@被る之處、

なお ふほうのやからあいまじ     よっ   しょうさく  さけいちょうこと  これ   さた せし  たま    ごけにんら   もよおさる   うんぬん
猶不法之輩相交はるAに依て、匠作、左京兆殊に之を沙汰令め給ひ、御家人等を催被ると云々。

参考@結番は、大番役に就かせる。
参考A
不法之輩相交はるは、非御家人が参加し、参加状を貰うと御家人面してしまう。

現代語嘉禎三年(1237)三月大二十一日壬申。京都警備の大番について、一昨年の正月から順番を決めていたけれど、非御家人が交ざって御家人面してるのがいるので、匠作時房さん・左京兆泰時さんは特にこれを検討して、御家人を指名しましたとさ。

嘉禎三年(1237)三月大廿五日丙子。可被供養新造精舎之日時以下事。今日有其沙汰。可爲六月三日。十一日。十五日。十八日等之旨。雖載陰陽道勘文。又作事半未成功。日數迫訖。可延引給之由。被仰出云々。

読下し                     しんぞうしょうじゃ  くよう さる  べ   の にちじ いげ   こと  きょう  そ    さた あ
嘉禎三年(1237)三月大廿五日丙子。新造精舎の供養被る可き之日時以下の事、今日其の沙汰有り。

ろくがつみっか  じういちにち  じうごにち  じうはちにちらたるべ   のむね おんみょうどう かんもん  の      いへど
六月三日、十一日、十五日、十八日等爲可き之旨、陰陽道 勘文に載せると雖も、

また さくじなか   いま  こう  な         ひかずせま をはんぬ えんいん たま  べ   のよし  おお  いださる    うんぬん
又作事半ばで未だ功を成さずに、日數迫り訖。延引し給ふ可き之由、仰せ出被ると云々。

現代語嘉禎三年(1237)三月大二十五日丙子。新築のお堂の開眼供養の日時などについて、今日指示がありました。六月三日、十一日、十五日、十八日が良いと陰陽師が云いましたけど、工事半ばで未だ未だ出来上がりそうもなく、供養の日が迫ってきました。延期するように仰せになりましたとさ。

嘉禎三年(1237)三月大廿六日丁丑。天變御祈等被行之。

読下し                     てんぺん おいのりら これ  おこなはれ
嘉禎三年(1237)三月大廿六日丁丑。天變の御祈等之を行被る。

現代語嘉禎三年(1237)三月大二十六日丁丑。天変地異を治めるお祈りを行いました。

嘉禎三年(1237)三月大卅日辛巳。御堂供養延引事等及評儀。召陰陽道勘文。可爲六月廿三日之由。親職。泰貞。廣經。リ賢。資俊等献連署勘文云々。

読下し                    しんどう くよう えんいん  ことら ひょうぎ  およ   おんみょうどう かんもん  め
嘉禎三年(1237)三月大卅日辛巳。御堂供養延引の事等評儀に及び、陰陽道に勘文を召す。

ろくがつにじうさんにち たるべ   のよし  ちかもと  やすさだ ひろつね はるかた すけとしら れんしょ  かんもん  けん    うんぬん
 六月廿三日 爲可き之由、親職、泰貞、廣經、リ賢、資俊等連署の勘文を献ずと云々。

現代語嘉禎三年(1237)三月大三十日辛巳。新築のお堂の開眼供養延期について会議をして、陰陽師からの上申書を出させました。6月23日が良いと、安陪親職・泰貞・広経・晴賢・資俊達が連名の上申書を提出しましたとさ。

四月へ

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