吾妻鏡入門第卅一巻  

嘉禎三年丁酉(1237)六月大

嘉禎三年(1237)六月大一日庚辰。矢部禪尼〔法名禪阿〕賜和泉國吉井郷御下文者。前遠江守盛連依令讓附也。彼御下文。五郎時頼被持向三浦矢部別庄云々。是駿河前司義村娘也。始爲左京兆室。生故修理亮。後爲盛連室。爲光盛。々時。々連等母云々。

読下し                    やべのぜんに 〔ほうみょうぜんあ〕 いずみのくによしいごう  おんくだしぶみ たま    てへ
嘉禎三年(1237)六月大一日庚辰。矢部禪尼@〔法名禪阿〕和泉國吉井郷Aの御下文を賜はる者り。

さきのとおとうみのかみもりつら じょうふせし   よっ  なり
 前遠江守盛連 讓附令むに依て也。

か  おんくだしぶみ ごろうときより  みうら やべ  べっしょう も   むか  らる    うんぬん  これ  するがぜんじよしむら むすめなり
彼の御下文、五郎時頼三浦矢部Bの別庄に持ち向は被ると云々。是、駿河前司義村が娘也。

はじ さけいちょう  しつ  な     こしゅりのすけ  う      のち  もりつら  しつ  な     みつもり  もりとき  ときつらら   はは  な    うんぬん
始め左京兆の室と爲し、故修理亮Cを生む。後に盛連の室と爲し、光盛。盛時。時連等の母と爲すと云々。

参考@矢部禪尼は、泰時の元服の時に、頼朝から三浦介義澄に孫を嫁にやるよう云われ、成人して泰時の嫁になり、理由は分からないがその後分かれて佐原盛連に嫁したようだ。
参考A吉井郷は、旧和泉國南郡吉井村。現大阪府岸和田市吉井町。
参考B
矢部は、神奈川県横須賀市大矢部で、付近に頼朝が三浦介義明のために建立した満昌寺や、義村を祀った近殿神社、三浦介義澄の菩提を弔うため和田義盛が建立した薬王寺跡などがあり、衣笠城の根下集落と思われる。
参考C故修理亮は、泰時の嫡男の時氏。時氏の子の時頼には矢部尼は祖母に当たる。

現代語嘉禎三年(1237)六月大一日庚辰。矢部禅尼〔出家名は禅阿〕は和泉國吉井郷(大阪府岸和田市吉井町)地頭の幕府命令書を与えられたそうな。前遠江守佐原盛連が譲渡されたからです。この命令書を五郎北条時頼が三浦矢部の別荘へ持って出かけました。この人は、駿河前司三浦義村の娘です。最初は、左京兆泰時さんに嫁いで故修理亮北条時氏を生みました。後に佐原盛連の奥さんになって、光盛・盛時・時連などの母となりました。

嘉禎三年(1237)六月大十一日庚寅。霽。奉爲二位家追善。於大慈寺。供養一切經。導師助僧正嚴海。題名僧六十口。有舞樂。施主左京權大夫也。將軍家爲御聽聞御出云々。

読下し                     はれ  にいけ ついぜん おほんため  だいじじ  をい   いっさいきょう  くよう      どうし  すけのそうじょうげんかい
嘉禎三年(1237)六月大十一日庚寅。霽。二位家追善@の奉爲、大慈寺に於て、一切經を供養す。導師は 助僧正嚴海。

だいみょうそうろくじっく   ぶがく あ     せしゅ  さきょうごんのたいふなり  しょうぐんけごちょうもん  ためおんいで うんぬん
題名僧六十口。舞樂有り。施主は左京權大夫也。將軍家御聽聞の爲御出と云々。

参考@二位家追善は、政子の十三回忌。

現代語嘉禎三年(1237)六月大十一日庚寅。晴れました。二位家政子様の追善供養のため大慈寺で一切経を読み上げる法要をしました。指導僧は助僧正厳海。一緒に唱える坊さんは六十人です。舞楽の奉納もありました。主催者の施主は左京権大夫泰時さんです。将軍頼経様もお経を聞き仏と縁を結ぶため出席だそうな。

嘉禎三年(1237)六月大十六日乙未。終夜甚雨。仍月蝕不正現。

読下し                    よもすがらはなは あめ  よっ げっしょく せいげんせず
嘉禎三年(1237)六月大十六日乙未。終夜甚だ雨。 仍て月蝕 正現不。

現代語嘉禎三年(1237)六月大十六日乙未。一晩中大雨です。それなので月食は見えません。

嘉禎三年(1237)六月大廿日己亥。京都大番勤否事。及嚴密沙汰。可尋注進之旨。被仰六波羅并諸國守護人云々。

読下し                   きょうとおおばん  きんぴ   こと  げんみつ  さた   およ    たず ちうしんすべ  のむね
嘉禎三年(1237)六月大廿日己亥。京都大番の勤否の事、嚴密の沙汰に及ぶ。尋ね注進可き之旨、

 ろくはら なら    しょこくしゅごにん  おお  らる    うんぬん
六波羅并びに諸國守護人に仰せ被ると云々。

現代語嘉禎三年(1237)六月大二十日己亥。京都朝廷の警備大番の勤務したか否かについては、厳しく取り締まりました。良く調べて書き出すように六波羅及び各国の守護人(大番催促権保持者)に命令しましたとさ。

嘉禎三年(1237)六月大廿二日辛丑。甚雨。明日依可有新丈六堂供養。爲除魔障。被修五壇法。
 鎭壇供    助僧正嚴海
 五壇法
  中壇    安祥寺僧正良瑜     隆三世   信濃法印道禪
  軍茶利   大夫法印賢長      大威徳   佐僧都寛耀
  金剛夜叉  民部卿僧都尊嚴
 外典
  大歳八神祭〔知輔〕 堂鎭〔リ賢〕  大土公〔泰貞〕
  大將軍〔國継〕   王相〔廣資〕  小土公〔文親〕

読下し                     はなは あめ  あす しんじょうろくどう  くよう あ   べ     よっ    ましょう  のぞ    ため  ごだんほう  しゅうさる
嘉禎三年(1237)六月大廿二日辛丑。甚だ雨。明日新丈六堂の供養有る可きに依て、魔障を除かん爲、五壇法@を修被る。

  ちんだんぐ        すけのそうじょうげんかい
 鎭壇供    助僧正嚴海

  ごだんほう
 五壇法

    ちうだん        あんじょうじそうじょうりょうゆ          ごうざんせ       しなののほういんどうぜん
  中壇    安祥寺僧正良瑜     隆三世   信濃法印道禪

    ぐんだり        たいふほういんけんちょう            だいいとく       さのそうづかんよう
  軍茶利   大夫法印賢長      大威徳   佐僧都寛耀

    こんごうやしゃ     みんぶきょうそうづそんげん
  金剛夜叉  民部卿僧都尊嚴

   げてん
 外典A

    たいさいはちじんさい〔ともすけ〕   どうちん 〔はるかた〕     だいどくう  〔やすさだ〕
  大歳八神祭〔知輔〕 堂鎭〔リ賢〕  大土公〔泰貞〕

    だいしょうぐん 〔くにつぐ〕       おうそう 〔ひろすけ〕     しょうどくう  〔ふみちか〕
  大將軍〔國継〕   王相〔廣資〕  小土公〔文親〕

参考@五壇法は、密教の中で五大明王を個別に安置し国家安穏を祈願する修法。
参考A外典は、仏式以外。

現代語嘉禎三年(1237)六月大二十二日辛丑。大雨。明日、二位家政子様の供養の建てた新丈六堂の開眼供養なので、魔物や障害を取り除くため、五大明王を個別に安置して祈願する五壇法を行いました。
壇その物の鎮める供養は、助僧正厳海。
五壇法、
中壇不動明王は安祥寺僧正良瑜。降三世明王は信濃法印道禅。軍茶利明王は大夫法印賢長。大威徳明王は佐僧都寛耀。金剛夜叉明王は民部卿僧都尊厳。
仏式以外は、大歳八神祭〔安陪知輔〕お堂鎮め〔晴賢〕土の神大土公〔泰貞〕大将軍〔國継〕王相〔広資〕小土公〔文親〕

嘉禎三年(1237)六月大廿三日壬寅。降雨滂沱。今日大慈寺郭内新造精舎〔安丈六〕供養也。将軍家御出〔御束帶〕。
行列
 先陣随兵十騎
  小山五郎左衛門尉長村   佐原新左衛門尉光盛
  河越掃部助泰重      佐竹八郎助義
  筑後左衛門尉知定     和泉五郎左衛門尉政泰
  上野七郎左衛門尉朝廣   近江四郎左衛門尉氏信
  相摸六郎時定       遠江式部大夫光時
 御車
  駿河五郎左衛門尉     同八郎左衛門尉
  同太郎          狩野五郎左衛門尉
  長内左衛門尉       那須左衛門太郎
  平賀三郎兵衛尉      宇田左衛門尉
  小河三郎兵衛尉      本間次郎左衛門尉
    以上着直垂。帶劔。候御車左右。
 御調度懸
  佐々木八郎左衛門尉信朝
 御後〔布衣〕
  右馬權頭         北條左近大夫將監
  駿河守有時        宮内少輔泰氏
   陸奥太郎實時
  駿河前司義村       佐渡前司基綱
  出羽守行義
   淡路前司宗政
  壹岐守光時(村)      肥後守爲佐
   宇都宮修理亮泰綱
  和泉前司政景       大和守祐時
  筑後圖書助時家      大友大炊助親秀
  藥師寺左衛門尉朝村    淡路四郎左衛門尉時宗
  駿河四郎左衛門尉家村   宇都宮四郎左衛門尉頼業
  佐渡次郎右衛門尉基親   伊東次郎左衛門尉祐綱
  梶原右衛門尉景俊     壹岐小三郎左衛門尉時C
  笠間左衛門尉時朝     宇都宮新右衛門尉朝基
  關左衛門尉政泰      信濃三郎右衛門尉行綱
  伊賀三郎左衛門尉光泰   弥次郎左衛門尉親盛
  河津八郎左衛門尉尚景   宇佐美藤内左衛門尉祐秀
  和泉次郎左衛門尉景氏   出羽四郎左衛門尉光宗
  長尾平内左衛門尉景氏   押垂左衛門尉時基
  大曾祢兵衛尉長泰
 後陣随兵十騎
  足利五郎長氏       越後太郎親時
  城太郎義景        宇都宮四郎行綱
  佐渡帶刀左衛門尉基政   隱岐次郎左衛門尉泰C
  千葉八郎胤時       大須賀左衛門尉胤秀
  佐原六郎兵衛尉時連    武田五郎次郎信時
 檢非違使
  藤内大夫判官定員     近江大夫判官泰綱
 最末
  修理權大夫        左京權大夫
御參堂之後。有供養之儀。七僧法會也。導師南都東北院僧正圓玄。咒願助僧正嚴海。導師布施卅物廿。又法服横皮香爐筥童裝束等也。此外自太相國禪閣。被物百重。鞍馬十疋。加布施。銀桧扇置砂金百兩。又御劔等被送進之云々。入夜事終。將軍家還御云々。

読下し                      こうう ぼうだ   きょう  だいじじかくない  しんぞうしょうじゃ 〔じょうろく  やす    〕  くようなり  しょうぐんけおんいで 〔おんそくたい〕
嘉禎三年(1237)六月大廿三日壬寅。降雨滂沱@。今日大慈寺郭内の新造精舎〔丈六Aを安んず〕供養也。将軍家御出〔御束帶〕。

参考@滂沱は、雨が激しく降る様。
参考
A丈六は、釈迦の身長が1丈6尺あったとされ、仏像の大きさで立って4.8m、座ると半分なので2.4mに作る。

ぎょうれ
行列

  せんじん  ずいへいじっき
 先陣の随兵十騎

    おやまのごろうさえもんのじょうながむら     さわらのしんさえもんのじょうみつもり
  小山五郎左衛門尉長村   佐原新左衛門尉光盛

    かわごえのかもんのすけやすしげ        さたけのはちろうすけよし
  河越掃部助泰重      佐竹八郎助義

    ちくごのさえもんのじょうともさだ          いずみのごろうさえもんのじょうまさやす
  筑後左衛門尉知定     和泉五郎左衛門尉政泰

    こうづけのしちろうさえもんのじょうともひろ    おうみのしろうさえもんのじょううじのぶ
  上野七郎左衛門尉朝廣   近江四郎左衛門尉氏信

    さがみのろくろうときさだ              とおとうみのしきぶのたいふみつとき
  相摸六郎時定       遠江式部大夫光時

  おくるま
 御車

    するがのごろうさえもんのじょう           どうはちろうさえもんのじょう
  駿河五郎左衛門尉     同八郎左衛門尉

    どうたろう                       かのうのごろうさえもんのじょう
  同太郎          狩野五郎左衛門尉

    おなないのさえもんのじょう            なすのさえもんたろう
  長内左衛門尉       那須左衛門太郎

    ひらがのさぶろうひょうえのじょう         うだのさえもんのじょう
  平賀三郎兵衛尉      宇田左衛門尉

    おがわのさぶろうひょうえのじょう         ほんまのじろうさえもんのじょう
  小河三郎兵衛尉      本間次郎左衛門尉

        いじょうひたたれ  き     けん  お     おくるま  さゆう  そうら 
    以上直垂を着て、劔を帶び、御車の左右に候う。

  ごちょうどがけ
 御調度懸

    ささきのはちろうさえもんのじょうのぶとも
  佐々木八郎左衛門尉信朝

  おんうしろ〔 ほい 〕
 御後〔布衣〕

    うまごんのかみ                   ほうじょうさこんたいふしょうげん
  右馬權頭         北條左近大夫將監

    するがのかみありとき                くないしょうゆうやすうじ
  駿河守有時        宮内少輔泰氏

      むつのたろうさねとき
   陸奥太郎實時

    するがのぜんじよしむら              さどのぜんじもとつな
  駿河前司義村       佐渡前司基綱

    でわのかみゆきよし
  出羽守行義

      あわじのぜんじむねまさ
   淡路前司宗政

    いきのかみみつむら                ひごのかみためすけ
  壹岐守光村        肥後守爲佐

      うつのみやのしゅりのすけやすつな
   宇都宮修理亮泰綱

    いずみのぜんじまさかげ             やまとのかみすけとき
  和泉前司政景       大和守祐時

    ちくごとしょのすけときいえ             おおとものおおいのすけちかひで
  筑後圖書助時家      大友大炊助親秀

    やくしじのさえもんのじょうともむら         あわじのしろうさえもんのじょうときむね
  藥師寺左衛門尉朝村    淡路四郎左衛門尉時宗

    するがのしろうさえもんのじょういえむら     うつのみやのしろうさえもんのじょうよりなり
  駿河四郎左衛門尉家村   宇都宮四郎左衛門尉頼業

    さどのじろうさえもんのじょうもとちか       いとうのじろうさえもんのじょうすけつな
  佐渡次郎右衛門尉基親   伊東次郎左衛門尉祐綱

    かじわらのうえもんのじょうかげとし        いきのこさぶろうさえもんのじょうとききよ
  梶原右衛門尉景俊     壹岐小三郎左衛門尉時C

    かさまのさえもんのじょうときとも          うつのみやのしんうえもんのじょうとももと
  笠間左衛門尉時朝     宇都宮新右衛門尉朝基

    せきのさえもんのじょうまさやす          しなののさぶろううえもんのじょうゆきつな
  關左衛門尉政泰      信濃三郎右衛門尉行綱

    いがのさぶろうさえもんのじょうみつやす     いやじろうさえもんのじょうちかもり
  伊賀三郎左衛門尉光泰   弥次郎左衛門尉親盛

    かわずのはちろうさえもんのじょうなおかげ   うさみのとうないさえもんのじょうすけひで
  河津八郎左衛門尉尚景   宇佐美藤内左衛門尉祐秀

    いずみのじろうさえもんのじょうかげうじ      でわのしろうさえもんのじょうみつむね
  和泉次郎左衛門尉景氏   出羽四郎左衛門尉光宗

    ながおのへいないさえもんのじょうかげうじ    おしだれのさえもんのじょうときもと
  長尾平内左衛門尉景氏   押垂左衛門尉時基

    おおそねのひょうえのじょうながやす
  大曾祢兵衛尉長泰

  こうじん  ずいへいじっき
 後陣の随兵十騎

    あしかがのごろうながうじ              えちごのたろうちかとき
  足利五郎長氏       越後太郎親時

    じょうのたろうよしかげ                うつのみやのしろうゆきつな
  城太郎義景        宇都宮四郎行綱

    さどのたてわきさえもんのじょうもとまさ      おきのじろうさえもんのじょうやすきよ
  佐渡帶刀左衛門尉基政   隱岐次郎左衛門尉泰C

    ちばのはちろうたねとき              おおすがのさえもんのじょうたねひで
  千葉八郎胤時       大須賀左衛門尉胤秀

    さわらのろくろうひょうえのじょうときつら      たけだのごろうじろうのぶとき
  佐原六郎兵衛尉時連    武田五郎次郎信時

   け び い し
 檢非違使

    とうないたいふほうがんさだかず         おうみのたいふほうがんやすつな
  藤内大夫判官定員     近江大夫判官泰綱

  さいまつ
 最末

    しゅりごんのたいふ                 さきょうごんのたいふ
  修理權大夫        左京權大夫

ごさんどう ののち   くよう  のぎ あ     しちそう  ほうえなり  どうし  なんととうほくいんそうじょうえんげん  じゅがん すけのそうじょうげんかい
御參堂之後、供養之儀有り。七僧の法會也。導師は南都東北院僧正圓玄。咒願Bは助僧正嚴海。

どうし   ふせさんじうぶつにじう また  ほうふく  おうひ  こうろばこ  わらわしょうぞくらなり
導師の布施 卅物廿。又、法服、横皮、香爐筥、童裝束等也。

こ  ほかだいしょうこくぜんこうよ    かずけもの ひゃくがさね あんめじっぴき
此の外太相國禪閣自り、 被物 百重、 鞍馬十疋。

 かぶせ    ぎんのひおうぎ さきんひゃくりょう お     また  ぎょけんら これ  おく  しん  らる    うんぬん
加布施は、銀桧扇に砂金百兩を置く。又、御劔等之を送り進じ被ると云々。

よ   い   ことおわ     しょうぐんけかえ  たま    うんぬん
夜に入り事終って、將軍家還り御うと云々。

参考B咒願は、食事や法会の時、施主の願意を受けて唱えられる短い祈り。

現代語嘉禎三年(1237)六月大二十三日壬寅。土砂降りです。今日は、大慈寺境内の新築のお堂〔丈六仏を安置する〕の開眼供養です。将軍頼経様もお出でです〔束帯〕。
行列は、前を祓う武装兵10騎。
 小山五郎左衛門尉長村   と 佐原新左衛門尉光盛
 河越掃部助泰重      と 佐竹八郎助義
 筑後左衛門尉知定     と 和泉五郎左衛門尉天野政泰
 上野七郎左衛門尉結城朝広 と 近江四郎式部大夫佐々木氏信
 相模六郎北条時定     と 遠江式部大夫北条光時
牛車
 駿河五郎左衛門尉三浦資村 と 同八郎左衛門尉三浦胤村
 同太郎三浦朝村      と 狩野五郎左衛門尉為広
 長内左衛門尉       と 那須左衛門太郎
 平賀三郎兵衛尉      と 宇田左衛門尉
 小川三郎兵衛尉直行    と 本間次郎左衛門尉信忠
以上の人は、鎧直垂を着て太刀を穿き、牛車の左右についてます。
弓矢持ちは佐々木八郎左衛門尉信朝
牛車の後ろに続くのは狩衣
 右馬権頭北条政村     と 北条左近大夫将監経時
 駿河守北条有時      と 宮内少輔足利泰氏
  一歩控えて陸奥太郎北条実時
 駿河前司三浦義村     と 佐渡前司後藤基綱
 出羽守二階堂行義
  一歩控えて淡路前司長沼宗政
 壱岐守三浦光村      と 肥後守狩野為佐
  一歩控えて宇都宮修理亮泰綱
 和泉前司天野政景     と 大和守伊東祐時
 筑後図書助助家      と 大友大炊助親秀
 薬師寺左衛門尉朝村    と 淡路四郎左衛門尉長沼時宗
 駿河四郎左衛門尉三浦家村 と 宇都宮四郎左衛門尉頼業
 佐渡次郎右衛門尉後藤基親 と 伊東次郎左衛門尉祐綱
 梶原右衛門尉景俊     と 壱岐小三郎左衛門尉時清
 笠間左衛門尉時朝     と 宇都宮新右衛門尉朝基
 関左衛門尉政泰      と 信濃三郎右衛門尉二階堂行綱
 伊賀三郎左衛門尉光泰   と 弥次郎左衛門尉親盛
 河津八郎左衛門尉尚景   と 宇佐美藤内左衛門尉祐秀
 和泉次郎左衛門尉天野景氏 と 出羽四郎左衛門尉中条光宗
 長尾平内左衛門尉景氏   と 押垂左衛門尉時基
 大曽根兵衛尉長泰
後ろを守る武装兵10騎
 足利五郎長氏       と 越後太郎北条親時
 城太郎安達義景      と 宇都宮四郎行綱
 佐渡帯刀左衛門尉後藤基政 と 隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清
 千葉八郎胤時       と 大須賀左衛門尉胤秀
 佐原六郎兵衛尉時連    と 武田五郎次郎信時
穢れを祓って行く検非違使は、藤内大夫判官藤原定員と近江大夫判官佐々木泰綱
一番後ろに、
 修理権大夫北条時房    と 左京権大夫北条泰時
お堂に昇った後、開眼供養の儀式がありました。七人の坊さんの法要です。指導僧は奈良の東北院僧正円玄。施主の願いを唱える呪願は、助僧正厳海。指導僧へのお布施は、30種類の物20。又、坊さんの着物、右肩に帰る袈裟の横皮、香炉入りの箱、稚児装束などです。この他に、太相國禅閤西園寺公経さんから被り物100枚、鞍乗馬10頭が与えられました。おまけのお布施は、銀塗りの桧の扇に砂金100両を乗せてます。又、刀を送り届けましたとさ。夜になって全ての式典が終わり将軍頼経様は帰られましたとさ。

嘉禎三年(1237)六月大廿五日甲辰。神社佛寺并國司領家訴事。不可依關東式目之旨。被定云々。

読下し                      じんじゃぶつじなら    こくしりょうけ  うった   こと  かんとう  しきもく  よ   べからず のむね  さだ  らる    うんぬん
嘉禎三年(1237)六月大廿五日甲辰。神社佛寺并びに國司領家の訴への事、關東の式目に依る不可之旨、定め被ると云々。

現代語嘉禎三年(1237)六月大二十五日甲辰。神社仏閣それに国の領地管理者の国司や、荘園の上級地権者の領家からの訴えについては侍ではないので、鎌倉幕府の御成敗式目で判断してはいけないとお決めになりましたとさ。

嘉禎三年(1237)六月大廿六日乙巳。於御所御持佛堂。被始八講。々衆十六口云々。

読下し                      ごしょ   おんじぶつどう  をい    はちこう  はじ  らる   こうしゅうじうろっく  うんぬん
嘉禎三年(1237)六月大廿六日乙巳。御所の御持佛堂に於て、八講@を始め被る。々衆十六口と云々。

参考@八講は、法華八講の略で、法華經八巻を八座に分け、朝夕一座ずつ四日間で講ずる法会。

現代語嘉禎三年(1237)六月大二十六日乙巳。御所の将軍の守り本尊を祀る持仏堂で、法華八講を始めました。一緒に行う坊さんは16人だそうな。

七月へ

吾妻鏡入門第卅一巻  

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