吾妻鏡入門第卅一巻  

嘉禎三年丁酉(1237)八月大

嘉禎三年(1237)八月大四日壬午。霽。辰刻大地震。

読下し                   はれ たつのこくおおぢしん
嘉禎三年(1237)八月大四日壬午。霽。辰刻大地震。

現代語嘉禎三年(1237)八月大四日壬午。晴れました。午前八時頃大地震です。

嘉禎三年(1237)八月大七日乙酉。有評議。是明春御上洛間事也。且於六波羅。任建久例。可被新造御所。被充國々。悉以施行之。」今日。京都飛脚到着。去二日一品宮〔當帝御妹。御歳六〕薨御由申之。又去月廿七日攝祿御上表云々。

読下し                    ひょうぎ あ     これ みょうしゅん ごじょうらく あいだ ことなり
嘉禎三年(1237)八月大七日乙酉。評議@有り。是、 明春 御上洛の間の事也。

つう  ろくはら   をい   けんきゅう れい  まか    ごしょ  しんぞうさる  べ     くにぐに  あ   られ ことどと もっ  これ  しぎょう
且は六波羅に於て、建久の例に任せ、御所を新造被る可く、國々に充て被、悉く以て之を施行す。」

きょう   きょうと  ひきゃくとうちゃく
今日、京都の飛脚到着す。

さんぬ ふつかいっぽんのみや 〔とうていおんいもうと おんとしろく〕 こう  たま  よしこれ  もう    またさんぬ つき にじうしちにち せつろく ごじょうひょう   うんぬん
去る二日 一品宮〔當帝 御妹。御歳六〕薨じ御う由之を申す。又去る月 廿七日 攝祿を御上表すと云々。

参考@評議は、評定衆の会議。

現代語現代語嘉禎三年(1237)八月大七日乙酉。政務会議がありました。内容は、来春将軍が京都へ行くことについてです。六波羅に建久の頼朝様上洛の例の通り、住まいを新築するように、又その負担を各國ごとに割り当てるように、それらを全て決めました。」
今日、京都からの伝令が着きました。先日の二日に一品宮内親王〔現四条天皇の妹で六歳〕が亡くなりました。又、摂政が辞表を出したとの事です。

嘉禎三年(1237)八月大十三日辛夘。霽。六波羅飛脚參。申云。去五日。四天王寺執行一族上座覺順引卒二百餘人。欲保天王寺之間。渡部黨相戰之間。覺順已下九十三人被討取訖。餘兵於所々被生虜。金堂已下雖放火。皆打消云々。

読下し                     はれ   ろくはら   ひきゃく  まい    もう    い
嘉禎三年(1237)八月大十三日辛夘。霽。六波羅の飛脚が參り、申して云はく。

さんぬ いつか  してんのうじ しぎょう  いちぞく  じょうざ かくじゅん にひゃくよにん いんそつ    てんのうじ  たも      ほっ    のあいだ
去る五日、四天王寺執行、一族の上座 覺順 二百餘人を引卒し、天王寺を保たんと欲する之間、

わたなべとう あいたたか のあいだ かくじゅん いげ きゅうじゅうさんにん う  とられをはんぬ
渡部黨と相戰う之間、 覺順已下 九十三人 討ち取被訖。

 よへい  しょしょ  をい  いけどられ  こんどう いげ ひ  はな   いへど   みなう   け     うんぬん
餘兵は所々に於て生虜被、金堂已下火を放つと雖も、皆打ち消すと云々。

現代語嘉禎3年(1237)八月大十三日辛卯。晴れました。六波羅からの伝令が来て報告しました。「先日の五日、四天王寺の政務担当で、一族のトップの覚順が二百数人を引き連れて、天王寺に立て籠もりましたが、地頭の渡辺党と闘っているうちに覚順以下九十三人が殺されました。残った連中はあちこちで捕虜になり、金堂を始め建物に火を付けましたが、全て叩き消しました。」

嘉禎三年(1237)八月大十五日癸巳。鶴岳放生會。將軍家御參宮。午刻御出。リ賢候御身固。備中藏人爲陪膳。已寄御車。前民部少輔爲御釼役。下庭上。又着直垂。令帶釼。六位十五人候階間西方。于時駿河前司申云。御出之間。帶釼之輩者。承久元年正月。於宮寺。依有事。被始此儀。是候近々可奉守護之故也。而今日。其役人内。少勇敢之類。可進于御共云々。仍次郎泰村。四男家村。五男資村。六(八)男胤村等。改布衣行粧於直垂參進。加彼衆。駿州傍若無人沙汰。人驚耳目云々。其後御出。法會舞樂等如例。還御之後。入夜。對明月在當座和哥御會。右馬助。相摸三郎入道。主計頭。加賀前司。大夫判官定員。伊賀式部大夫入道。城太郎等候其座。又廣資〔陰陽師〕追參加。

読下し                     つるがおか ほうじょうえ  しょうぐんけごさんぐう うまのこくおんいで はるかたおんみがた  そうら
嘉禎三年(1237)八月大十五日癸巳。鶴岳の放生會。將軍家御參宮。午刻御出。リ賢御身固めに候う。

びっちゅうくらんどう ばいぜん な    すで  おくるま  よ       さきのみんぶしょうゆう ぎょけん えき ため ていじょう お
 備中藏人 陪膳と爲し、已に御車を寄せる。前民部少輔 御釼の役の爲、庭上に下りる。

またひたたれ き     たいけんせし  ろくい じうごにん  はしのま  せいほう  そうら
又直垂を着て、帶釼令む六位十五人 階間@の西方に候う。

ときに するがのぜんじもう    い
時于駿河前司申して云はく。

おんいでのあいだ たいけんのやからは じょうきゅうがんねんしょうがつ ぐうじ   をい   ことあ     よっ    かく  ぎ   はじ  られ
 御出之間、 帶釼之輩者、 承久元年正月、 宮寺に於て事有るに依て、此の儀を始め被る。

これ ちかぢか そうら  しゅご たてまつ べ   のゆえなり  しか    きょう   そ   えき  ひと  うち  ゆうかんのたぐい すくな  おんともに しん  べ    うんぬん
是 近々に候い守護 奉る可き之故也。而るに今日、其の役の人の内、勇敢之類 少し。御共于進ず可きと云々。

よっ  じろうやすむら よんなんいえむら  ごなんすけむら はちなんたねむらら   ほい  ぎょうしょう をひたたれ  あらた さんしん
仍て次郎泰村、四男家村、五男資村、八男胤村等、布衣の行粧 於直垂に改め參進す。

 か しゅう  くは        すんしゅう ぼうじゃくぶじん   さた     ひと じもく  おどろ     うんぬん  そ   ご おんいで  ほうえ ぶがくら れい  ごと
彼の衆を加へるは、駿州の傍若無人の沙汰と、人耳目を驚かすと云々。其の後御出。法會舞樂等例の如し。

かんご ののち  よ   い     めいげつ  たい  とうざ   わか   おんえ あ
還御之後、夜に入り、明月に對し當座に和哥の御會在り。

うまのすけ  さがみさぶろうにゅうどう かぞえのかみ  かがのぜんじ たいふほうがんさだかず いがのしきぶたいふにゅうどう  じょうのたろうら そ  ざ   そうら
右馬助、相摸三郎入道、主計頭、加賀前司、大夫判官定員、伊賀式部大夫入道、城太郎等其の座に候う。

またひろすけ 〔おんみょうじ〕 おっ  さんか
又廣資〔陰陽師〕追て參加す。

参考@階間は、「はしのま」で階隠しの間(はがくしのま)とも謂われ、階段を上った上段、簀子に面する庇の間。階隠しは、社殿や寝殿造りの殿舎で、正面の階段上に、柱を2本立てて突出させた庇。社殿では向拝(こうはい)ともいう。

現代語嘉禎3年(1237)八月大十五日癸巳。鶴岡八幡宮の生き物を放して減罪する儀式の放生会です。将軍頼経様お参りです。昼に出発です。安陪晴賢が体の周りの厄払いにそばに居ます。備中蔵人が御側付きとして、牛車を寄せています。前民部少輔北条有時が片持ちのため庭に下りました。又、鎧直垂を着て太刀を穿いている六位が15人が寝殿の階段上の庇の間におります。突然、駿河前司三浦義村が云いだしました。「将軍のお出ましの時、太刀を穿いている連中は、承久元年正月に鶴岡八幡宮で出来事(実朝暗殺)があったので、こうするようになったのだ。それは御そばに従い警備をするためなのだ。それなのに今日のその役の人の内、勇敢で腕の立つのが少ない。お供を差し出しましょう。」と云いました。それで次郎泰村・四郎家村・五郎資村・八郎胤村が、行列の衣装を鎧直垂に変えて進み出ました。その人達は加えるのは、三浦義村の傍若無人なやり方だと、皆あきれ驚いていました。その後、出発し法要や舞楽の奉納は何時もの通りです。
お帰りの後、夜になって明月を愛でて和歌の会を行いました。右馬助・相模三郎入道北条資時・主計頭中原師員・加賀前司町野康俊・大夫判官藤原定員・式部大夫入道伊賀光宗・城太郎安達義景などがその場に参加しました。又、安陪広資〔陰陽師〕が追って参加しました。

嘉禎三年(1237)八月大十六日甲午。霽。將軍家御參宮。大夫判官景朝〔束帶〕。伊豆判官頼定〔布袴〕等供奉。被行馬塲儀之間。北條五郎時頼主被射流鏑馬。佐渡前司基綱以下五位流鏑馬。的立役河津八郎左衛門尉尚景。佐々木七郎左衛門尉氏綱以下。衛府爲十列。競馬〔十番〕役。行粧各極花美云々。依別御願。及此結搆云々。

読下し                     はれ  しょうぐんけごさんぐう  たいふほうがんかげとも 〔そくたい〕   いずのほうがんよりさだ 〔 ほうこ 〕 ら  ぐぶ
嘉禎三年(1237)八月大十六日甲午。霽。將軍家御參宮。大夫判官景朝〔束帶〕、伊豆判官頼定〔布袴@等供奉す。

 ばば    ぎ  おこなはれ のあいだ ほうじょうごろうときよりぬし やぶさめ  いられ
馬塲の儀を行被る之間、北條五郎時頼主流鏑馬を射被る。

さどのぜんじもとつな  いげ  ごい   やぶさめ   まとたてやく  かわずのはちろうさえもんのじょうなおかげ  ささきのしちろうさえもんのじょううじつな いげ
佐渡前司基綱以下五位は流鏑馬。的立役は、 河津八郎左衛門尉尚景、 佐々木七郎左衛門尉氏綱 以下。

 えふ   じうれつたり くらべうま 〔じうばん〕   えき   ぎょうしょう おのおの かび  きは  うんぬん   べつ    ごがん  よっ    かく   かこう   およ    うんぬん
衛府は十列爲。競馬〔十番〕を役す。行粧 各 花美を極むと云々。別なる御願に依て、此の結搆に及ぶと云々。

参考@布袴は、布製の括り袴。指貫ともいう。束帯の大口袴の代わりで束帯に次ぐ礼装。

現代語嘉禎3年(1237)八月大十六日甲午。晴れました。将軍頼経様は鶴岡八幡宮へお参りです。大夫判官加藤遠山景朝〔束帯〕・伊豆判官頼定〔布袴〕などがお供をしました。馬場での儀式が行われました。北条五郎時頼さまが流鏑馬を射ました。佐渡前司後藤基綱以下の五位は流鏑馬です。的立役は河津八郎左衛門尉尚景・佐々木七郎左衛門尉氏綱以下です。兵衛尉等衛門府の役職は十列に並び、競馬〔十回〕を勤めました。行列はそれぞれ着飾っていましたとさ。将軍が神様に特別なお願いがあって、そういう派手な衣装で神様に奉納するように命じたからなのだそうな。

嘉禎三年(1237)八月大十八日丙申。暮雨雷鳴。今日。將軍家可有御遊行山舘之由。雖有其沙汰。依雷雨延引云々。

読下し                      くれ  あめらいめい
嘉禎三年(1237)八月大十八日丙申。暮て雨雷鳴。

 きょう  しょうぐんけやまだて  ごゆうぎょうあ   べ   のよし   そ   さた あ    いへど    らいう  よっ  えんいん   うんぬん
今日、將軍家山舘へ御遊行有る可き之由、其の沙汰有ると雖も、雷雨に依て延引すと云々。

現代語嘉禎3年(1237)八月大十八日丙申。日暮れてから雨と雷です。今日、将軍頼経様は山の別荘に行くんだと命令がありましたが、雷雨のため延期したそうな。

情報八月二十五日に後鳥羽上皇が配流先の隠岐の島で置文をしている。

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