吾妻鏡入門第卅一巻  

嘉禎三年丁酉(1237)十一月大

嘉禎三年(1237)十一月大一日戊申。霽。將軍家被始二所御精進。

読下し                     はれ しょうぐんけ にしょ  ごしょうじん  はじ  らる
嘉禎三年(1237)十一月大一日戊申。霽。將軍家二所の御精進を始め被る。

現代語嘉禎三年(1237)十一月大一日戊申。晴れました。将軍頼経様は、箱根・伊豆両権現へお参りのための精進潔斎を始めました。

嘉禎三年(1237)十一月大七日甲寅。小雨降。辰刻御進發。丑刻甚雨洪水。稻瀬河邊民屋數十餘宇流失。下女二人漂没云々。

読下し                     こさめ ふ   たつのこくごしんぱつ  うしのこく はなは あめ こうずい
嘉禎三年(1237)十一月大七日甲寅。小雨降る。辰刻御進發。丑刻 甚だ雨、洪水。

いなせがわへん みんや すうじゅうう りゅうしつ   げじょふたりひょうぼつ   うんぬん
稻瀬河邊@の民屋數十餘宇流失し、下女二人漂没すと云々。

参考@稻瀬河は、鎌倉市内南西の長谷の交差点の東側を南北に流れる川。川の名前を捩って「イナセ」から後に芝居で白波五人男が揃うのもここである。

現代語嘉禎三年(1237)十一月大七日甲寅。小雨が降ってます。午前八時頃出発です。午前二時頃大雨で洪水。稲瀬河附近の民家数十軒が流され、しもべの女二名が海へ流されたそうです。

嘉禎三年(1237)十一月大八日乙夘。筥根御奉幣。有御經供養。導師大納言律師隆弁〔依此事。自鎌倉被召具〕。

読下し                     はこね   ごほうへい  おきょう   くよう あ
嘉禎三年(1237)十一月大八日乙夘。筥根@へ御奉幣。御經の供養有り。

どうし   だいなごんりっしりゅうべん 〔かく   こと   よっ    かまくら よ   めしぐ され   〕
導師は大納言律師隆弁A〔此の事に依て、鎌倉自り召具被る〕

参考@筥根は、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80−1箱根神社。旧名は筥根權現。
参考A隆辨は、藤原隆房(四条隆房・冷泉隆房)の息子。母は葉室光雅の娘。

現代語嘉禎三年(1237)十一月大八日乙卯。箱根神社へ幣を捧げました。お経の法要もありました。指導僧は大納言律師隆弁〔このために鎌倉から連れて来たのです〕。

嘉禎三年(1237)十一月大九日丙辰。三嶋。

読下し                     みしま
嘉禎三年(1237)十一月大九日丙辰。三嶋@

参考@三島は、静岡県三島市大宮町2−1−5所在の三島大社

現代語嘉禎三年(1237)十一月大九日丙辰。三島宿です。

嘉禎三年(1237)十一月大十一日戊午。伊豆山。

読下し                       いずさん
嘉禎三年(1237)十一月大十一日戊午。伊豆山@

参考@伊豆山は、静岡県熱海市伊豆山708−1静岡県熱海市の走湯神社伊豆山神社。旧名は走湯權現。

現代語嘉禎三年(1237)十一月大十一日戊午。伊豆山権現走湯神社。

嘉禎三年(1237)十一月大十二日己未。天霽。自二所還御。

読下し                      そらはれ  にしょ よ   かへ  たま
嘉禎三年(1237)十一月大十二日己未。天霽。二所自り還り御う。

現代語嘉禎三年(1237)十一月大十二日己未。空は晴れました。二所詣からお帰りです。

嘉禎三年(1237)十一月大十六日癸亥。子剋月犯填星云々。

読下し                       ねのこく つき  しんせい  おか    うんぬん
嘉禎三年(1237)十一月大十六日癸亥。子剋、月、填星を犯すと云々。

現代語嘉禎三年(1237)十一月大十六日癸亥。夜中の零時頃、月が土星の軌道を犯しましたとさ。

嘉禎三年(1237)十一月大十七日甲子。駿河式部丞泰村献奥州駒五疋於御所云々。

読下し                      するがのしきぶのじょうやすむら おうしゅうごま ごひきを ごしょ   けん   うんぬん
嘉禎三年(1237)十一月大十七日甲子。 駿河式部丞泰村、 奥州駒@五疋於御所へ献ずと云々。

参考@は、体高4尺以下の馬を指す。4尺を越えると龍蹄と云い、一寸ごとに数え、頼朝は4尺8寸の八寸(やき)が好きだったらしい。

現代語嘉禎三年(1237)十一月大十七日甲子。駿河式部丞三浦泰村が、東北産の小型馬五頭を御所へ献上しました。

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