吾妻鏡入門第卅二巻

嘉禎四年戊戌(1238)正月小

嘉禎四年(1238)正月小一日戊申。雨降。今日垸飯〔匠作御沙汰〕。御劔宮内少輔泰氏。御調度若狹守泰村。御行騰沓大和守祐時等持參之。
 1御馬 相摸式部大夫     本間式部丞
 二御馬 相摸六郎       橘右馬允
 三御馬 上総介太郎      同次郎
 四御馬 本間次郎左衛門尉   同四郎
 五御馬 越後太郎       吉良次郎

読下し                   あめふり  きょう   おうばん 〔しょうさく  おんさた 〕    ぎょけん くないしょうゆうやすうじ  ごちょうど  わかさのかみやすむら
嘉禎四年(1238)正月小一日戊申。雨降。今日の垸飯〔匠作の御沙汰〕。御劔は宮内少輔泰氏。御調度は若狹守泰村。

おんむかばき くつ やまとのかみすけときら これ  も   まい
御行騰 沓は 大和守祐時等 之を持ち參る。

 いちのおんうま さがみしきぶのたいふ          ほんましきぶのじょう
 一御馬 相摸式部大夫     本間式部丞

  にのおんうま さがみのろくろう              たちばなうまのじょう
 二御馬 相摸六郎       橘右馬允

 さんのおんうま かずさのすけたろう            どうじろう
 三御馬 上総介太郎      同次郎

  しのおんうま ほんまのじろうさえもんのじょう      どうしろう
 四御馬 本間次郎左衛門尉   同四郎

  ごのおんうま えちごのたろう               きらのじろう
 五御馬 越後太郎       吉良次郎

現代語嘉禎四年(1238)正月大一日戊申。雨降りです。将軍への御馳走のふるまい〔匠作(木工権頭)時房さんの提供〕です。刀の献上は宮内少輔足利泰氏。弓矢は若狭守三浦泰村。馬上袴の行縢は大和守伊東祐時等が持ってきました。
 
一の馬は 相模式部大夫朝直   本間式部丞元忠
 二の馬は 相模六郎北条時定   橘右馬允公高

 
三の馬は 上総介太郎      同上総介次郎
 四の馬は 本間次郎左衛門尉信忠 同四郎光忠
 五の馬は、越後太郎北条親時   吉良次郎

嘉禎四年(1238)正月小二日己酉。垸飯〔左京兆御沙汰〕。御劔駿河前司義村。御調度玄番頭基綱。御行騰肥後守爲佐。
 1御馬 北條左近大夫將監   信濃三郎左衛門尉
 二御馬 駿河五郎左衛門尉   同八郎左衛門尉
 三御馬 上野七郎左衛門尉   同弥四郎
 四御馬 近江四郎左衛門尉   佐々木六郎
 五御馬 北條五郎       南條七郎左衛門尉

読下し                   おうばん 〔さけいちょう  おんさた 〕   ぎょけん  するがのぜんじよしむら  ごちょうど  げんばのかみもとつな
嘉禎四年(1238)正月小二日己酉。垸飯〔左京兆の御沙汰〕。御劔は駿河前司義村。御調度は玄番頭基綱。

おんむかばき ひごのかみためすけ
御行騰は肥後守爲佐。

 いちのおんうま ほうじょうしきぶのたいふしょうげん    しなのさぶろうさえもんのじょう
 一御馬 北條左近大夫將監   信濃三郎左衛門尉

  にのおんうま するがのごろうさえもんのじょう      どうはちろうさえもんのじょう
 二御馬 駿河五郎左衛門尉   同八郎左衛門尉

 さんのおんうま こうずけのしちろうさえもんのじょう    どういやしろう
 三御馬 上野七郎左衛門尉   同弥四郎

  しのおんうま おうみのしろうさえもんのじょう       ささきのろくろう
 四御馬 近江四郎左衛門尉   佐々木六郎

  ごのおんうま ほうじょうのごろう              なんじょうしちろうさえもんのじょう
 五御馬 北條五郎       南條七郎左衛門尉

現代語嘉禎四年(1238)正月大二日己酉。今日の将軍への御馳走のふるまいは左京兆泰時さんの御提供です刀の献上は、駿河前司三浦義村。弓矢は玄番頭後藤基綱。馬上袴は肥後守狩野為佐。
 一
の馬は 北條左近大夫將監経時    
信濃三郎左衛門尉二階堂行綱
 
二の馬は 駿河五郎左衛門尉三浦資村  同八郎左衛門尉三浦胤村
 
三の馬は 上野七郎左衛門尉結城朝広  同弥四郎結城時光
 四の馬は 近江四郎左衛門尉佐々木氏信 佐々木六郎
 五の馬は 北條五郎時頼        南条七郎左衛門尉

嘉禎四年(1238)正月小三日庚戌。垸飯〔遠江守御沙汰〕。御劔右馬權頭政村。御調度遠江式部大夫光時。御行騰壹岐守光村等持參之。
 1御馬 遠江三郎       小井弖左衛門尉
 二御馬 陸奥七郎       廣河五郎
 三御馬 信濃三郎左衛門尉   隱岐四郎左衛門尉
 四御馬 小野寺小次郎左衛門尉 同四郎左衛門尉
 五御馬 豊田太郎兵衛尉    同次郎兵衛尉

読下し                   おうばん 〔さけいちょう  おんさた 〕     ぎょけん うまごんのかみまさむら  ごちょうど とおとうみしきぶのたいふみつとき
嘉禎四年(1238)正月小三日庚戌。垸飯〔遠江守の御沙汰〕。御劔は右馬權頭政村。御調度は遠江式部大夫光時@

おんむかばき いきのかみみつむらら これ  も   まい
御行騰は 壹岐守光村等 之を持ち參る。

 いちのおんうま とおとうみのさぶろう            こいてのさえもんのじょう
 一御馬 遠江三郎       小井弖左衛門尉

  にのおんうま むつのしちろう               ひろかわのごろう
 二御馬 陸奥七郎       廣河五郎

 さんのおんうま しなののさぶろうさえもんのじょう     おきのしろうさえもんのじょう
 三御馬 信濃三郎左衛門尉   隱岐四郎左衛門尉

  しのおんうま おのでらのこじろうさえもんのじょう    どうしろうさえもんのじょう
 四御馬 小野寺小次郎左衛門尉 同四郎左衛門尉

  ごのおんうま とよだのたろうひょうえのじょう       どうじろうひょうえのじょう
 五御馬 豊田太郎兵衛尉    同次郎兵衛尉

参考@遠江式部大夫光時は、名越流北条氏朝時の息。

現代語嘉禎四年(1238)正月大三日庚戌。今日の将軍への御馳走のふるまい〔遠江守朝時さんの提供〕刀の献上は、右馬権頭政村。弓矢は遠江式部大夫光時。馬乗袴は壱岐守三浦光村が持ってきました。
 
の馬は 遠江三郎北条時長      小井弖左衛門尉
 二の馬は 陸奥七郎時尚        広川五郎
 三の馬は 信濃三郎左衛門尉二階堂行綱 隱岐四郎左衛門尉二階堂行久

 
四の馬は 小野寺小次郎左衛門尉通業  同四郎左衛門尉小野寺通時
 
五の馬は 豊田五郎兵衛尉       同豊田次郎兵衛尉

嘉禎四年(1238)正月小四日辛亥。將軍家二所御精進始。

読下し                    しょうぐんけ   にしょ   ごしょうじんはじ
嘉禎四年(1238)正月小四日辛亥。將軍家、二所@の御精進始め。

参考@二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。

現代語嘉禎四年(1238)正月大四日辛亥。将軍頼経様は、箱根伊豆の両権現への二所詣でのため精進潔斎を始めました。

嘉禎四年(1238)正月小九日丙辰。二所御進發。左京兆供奉給。御經供養。導師大納言律師隆弁云々。

読下し                    にしょ  ごしんぱつ  さけいちょう ぐぶ   たま    ごきょうくよう    どうし  だいなごんりっしりゅうべん   うんぬん
嘉禎四年(1238)正月小九日丙辰。二所へ御進發。左京兆供奉し給ふ。御經供養。導師は大納言律師隆弁@と云々。

参考@隆辨は、藤原隆房(四条隆房・冷泉隆房)の息子。母は葉室光雅の娘。

現代語嘉禎四年(1238)正月大九日丙辰。二所詣でに出発です。左京兆泰時さんはお供です。出発式でお経を遂げました。指導僧は大納言律師隆弁だそうな。

嘉禎四年(1238)正月小十日丁巳。丑刻。三浦駿河前司。玄番頭。若狹守家村等家。依失火災。

読下し                    うしのこく  みうらするがぜんじ  げんばのかみ  わかさのかみいえむら ら  いえ   しっか  よっ わざわ
嘉禎四年(1238)正月小十日丁巳。丑刻。三浦駿河前司、玄番頭、 若狹守家村 等の家、失火に依て災いす。

現代語嘉禎四年(1238)正月大十日丁巳。午前二時頃に駿河前司三浦義村・玄番頭後藤基綱・若狭守三浦家村などの家が、失火のため燃えてしまいました。

推理三浦義村の家が、西御門だとして、駿河四郎家村は同族なので、同じ西御門谷戸と思われるが、後藤基綱は正月二日の三浦義村の椀飯に弓矢持ちをしているので、同族扱いとしたら同じ西御門谷戸かもしれない?

嘉禎四年(1238)正月小十五日壬戌。霽。午刻。將軍家自二所還御。

読下し                     はれ  うまのこく  しょうぐんけ にしょよ   かんご
嘉禎四年(1238)正月小十五日壬戌。霽。午刻、將軍家二所自り還御。

現代語嘉禎四年(1238)正月大十五日壬戌。晴れました。昼頃に将軍頼経様が、二所詣でから帰って来ました。

嘉禎四年(1238)正月小十八日乙丑。天リ。匠作。左京兆被候小侍所。主計頭師員。毛利藏人大夫入道西阿。玄番頭基綱。隱岐入道行西。加賀前司康俊等。依召參進。將軍家御上洛事有評議。爲康俊奉行。御路次間條々事。悉被召付奉行人等。諸人不可漏供奉。於信濃民部大夫入道行然者。可候御留主云々。亦爲師員奉行。召陰陽師被問云。來廿日御出門。廿八日可有御進發。而件日八龍也。御出門之後者。不可憚事歟。但同擇宜日。可有御進發之由。有申行之人。可爲何樣哉可計申者。リ賢朝臣申云。御出門之後。強不及擇日次。其故者。暫有御坐于御出門之所者。可准路次逗留之間也。然而以吉日御進發。又可宜哉。來月二日三日可然之日也。此上猶可被問當道歟云々。早披露此趣。重可被尋問當道之由。左京兆被仰之間。基綱參申御前。不可有御延引之旨仰切訖云々。

読下し                     そらはれ しょうさく うけいちょう こさむどころ そうら れる
嘉禎四年(1238)正月小十八日乙丑。天リ。匠作、左京兆小侍所へ候は被。

かぞえのかみもろかず もうりくらんどたいふにゅうどうせいあ  げんばのかみもとつな  おきのにゅうどうぎょうさい  かがのぜんじやすとしら  めし  よっ  さんしん
 主計頭師員、毛利藏人大夫入道西阿、 玄番頭基綱、 隱岐入道行西、 加賀前司康俊等、召に依て參進す。

しょうぐんけごじょうらく  ことひょうぎあ     やすとしぶぎょう  な     おんろじ  あいだ じょうじょう こと ことごと ぶぎょうにんら   めしつ   らる
將軍家御上洛の事評議有り。康俊奉行と爲し、御路次の間の條々の事、悉く奉行人等に召付け被る。

しょにん   ぐぶ    も     べからず  しなののみんぶたいふにゅうどうぎょうねん をい  は   おんるす  そうら べ     うんぬん
諸人の供奉を漏らす不可。 信濃民部大夫入道行然に 於て者、御留主に候う可しと云々。

また  もろかずぶぎょう  な    おんみょうじ  め   と は     い
亦、師員奉行と爲し、陰陽師を召し問被れて云はく。

きた  はつか ごしゅつもん にじうはちにち ごしんぱつあ  べ     しか   くだん ひはちりょうなり  ごしゅつもんののちは  はばか べからざ ことか
來る廿日御出門。 廿八日 御進發有る可き。而るに件の日八龍@也。御出門之後者、憚る不可る事歟。

ただ  おな      よろ      ひ   えら    ごしんぱつ あ   べ    のよし  もう  おこな  の ひとあ    いかようたるべ  や はか  もう  べ   てへ
但し同じくは宜しかる日を擇び、御進發有る可き之由、申し行う之人有り。何樣爲可き哉計り申す可し者り。

はるかたあそんもう    い       ごしゅつもん ののち あなが   ひなみ  えら    およばず
リ賢朝臣申して云はく。御出門之後、強ちに日次を擇ぶに不及。

そ   ゆえは  しばら ごしゅつもんのところに ござ あ   ば    ろじ   とうりゅう なぞら べ  のあいだなり
其の故者、暫く御出門之 所于御坐有ら者、路次の逗留に准う可き之間也。

しかしながら きちじつ  もっ    ごしんぱつ  またよろ      べ   なり
 然而、 吉日を以ての御進發、又宜しかる可き哉。

らいげつふつかみっかしか  べ   の ひ なり   こ  うえなお  とうどう  とはれる べ   か   うんぬん
來月二日三日然る可き之日也。此の上猶、當道に問被る可き歟と云々。

はや  こ おもむき ひろう     かさ    とうどう  たず  とはれるべ   のよし  さけいちょうおお  らる のあいだ  もとつなごぜん  さん  もう
早く此の趣を披露し、重ねて當道に尋ね問被可き之由、左京兆仰せ被る之間、基綱御前に參じ申す。

ごえんいん あ  べからずのむね おお  き をはんぬ うんぬん
御延引有る不可之旨 仰せ切り訖と云々。

参考@八龍は、年に八回外出の出来ない日。春の1〜3月は甲子と乙亥。夏は丙子と丁亥が七鳥日。秋は庚子と癸亥が九寅日。冬は壬子と癸亥が六蛇日。なぜ悪いのかは不明。

現代語嘉禎四年(1238)正月大十八日乙丑。空は晴です。匠作時房さんと左京兆泰時さんが小侍所へお出でになりました。主計頭中原師員・毛利蔵人大夫入道西阿季光・玄番頭後藤基綱・隠岐入道行西二階堂行村・加賀前司町野康俊などが、呼ばれて参りました。将軍頼経様の京都行きの事を検討しました。町野康俊が担当して、道中のこまごました雑用について、全てそれぞれの担当を割り当てました。皆もらさずお供をするように。信濃民部大夫入道行然二階堂行盛は留守番をするようにとの事でした。

又、将軍から中原師員を通して、陰陽師を呼び集めて聞きました。「次の二十日に門を出る儀式をして、28日の出発したい。だけどその日は、年に八回の外出できない八龍だ。出門式を終えているので、控える事は無いのか。但し、『どうせなら縁起の良い日を選んで出発した方が良い』と云ってくる者もいる。どうしたらよいか調べて言うように。」との事です。安陪晴賢さんが答えて、「出門式の後は、特に日を選ぶ必要はありません。その理由は、少しの間出門式の場所に居れば、それは旅の途中と考えるからです。それでも、良い日を選んで出発することに越したことはありません。来月の二月三日が良いと思います。それ以外は改めて陰陽道にお聞きください。」との事でした。「早くこの内容を報告して、もう一度陰陽道に問い直しましょう。」と泰時さんが言ったので、後藤基綱が将軍に申し上げました。将軍は延期するように云い切りましたとさ。

嘉禎四年(1238)正月小十九日丙寅。御所心經會也。

読下し                     ごしょの  しんぎょうえ なり
嘉禎四年(1238)正月小十九日丙寅。御所の心經會@也。

参考@心經會は、般若心経を唱える会。

現代語嘉禎四年(1238)正月大十九日丙寅。御所での般若心経を唱える日です。

嘉禎四年(1238)正月小廿日丁夘。御弓始也。今年依可爲御物忌。不可有此儀之由。窮冬雖被定。故被遂之。射手事。作夕俄於御前被仰合于如始義村。爲催促。被下日記於陸奥太郎云々。
 射手
1番
  小笠原六郎     藤澤四郎
二番
  横溝六郎      松岡四郎
三番
  岡邊左衛門四郎   本間次郎左衛門尉
四番
  三浦又太郎左衛門尉 秋葉小三郎
五番
  下河邊右(左)衛門尉   山田五郎
午刻。將軍家依可有御上洛。爲御出門。入御于秋田城介義景甘繩家。被召御輿。御立烏帽子。御直垂也。供奉人行粧。同奉摸其躰云々。入夜。左京兆并室家御出門于駿河守有時第。

読下し                   おんゆみはじ なり
嘉禎四年(1238)正月小廿日丁夘。御弓始め也。

ことしおんものいみたるべ    よっ    かく  ぎ あ  べからずのよし  きゅうとう さだ  らる   いへど   ことさら これ  と   られ
今年御物忌爲可きに依て、此の儀有る不可之由、窮冬 定め被ると雖も、故に之を遂げ被る。

 いて   こと  さくゆうにはか ごぜん  をい  はじ   よしむら  ごと  に おお  あ   さる    さいそく  ため  にき を むつのたろう  くださる    うんぬん
射手の事、作夕俄に御前に於て始めて義村の如き于仰せ合は被る。催促の爲、日記@於陸奥太郎に下被ると云々。

参考@日記は、日を決めて参内を命じる文書を云う。

   いて
 射手

いちばん

    おがさわらのろくろう         ふじさわのしろう
  小笠原六郎     藤澤四郎

 にばん
二番

    よこみぞのろくろう          まつおかのしろう
  横溝六郎      松岡四郎

さんばん
三番

    おかべのさえもんしろう       ほんまのじろうさえもんのじょう
  岡邊左衛門四郎   本間次郎左衛門尉

よんばん
四番

    みうらのまたたろうさえもんのじょう あきばのこさぶろう
  三浦又太郎左衛門尉 秋葉小三郎

 ごばん
五番

    しもこうべのさえもんのじょう     やまだのごろう
  下河邊左衛門尉A   山田五郎

うまのこく しょうぐんけごじょうらくあ   べ     よっ    ごしゅつもん  ため  あいだのじょうすけよしかげ あまなわ いえに い   たま
午刻、將軍家御上洛有る可きに依て、御出門の爲、 秋田城介義景の 甘繩の家于入り御う。

おんこし  めされ   おんたてえぼし  おんひたたれなり ぐぶにん ぎょうしょう おな    そ   てい  も  たてまつ  うんぬん
御輿を召被、御立烏帽子、御直垂也。供奉人の行粧、同じく其の躰を摸し奉ると云々。

 よ  い     さけいちょうなら   しつけ  するがのかみありとき だいに ごしゅつもん
夜に入り、左京兆并びに室家B、駿河守有時の第于御出門。

参考A下河邊庄は、和田の乱後義時領となり、この時点では実時が領し、後に金沢文庫領となる。
参考B室家は、阿保実員の女。

現代語嘉禎四年(1238)正月大二十日丁卯。正月最初の弓を射る弓始式です。今年は、厄年なので止めようと十二月に決めましたけど、特に実施しました。射手については、昨日の夕方に急遽将軍の御前で初めて三浦義村等に言い出したのです。人集めのために、日を決めて参内を求める文書を陸奥太郎実時に下されたそうな。
射手は
一番
 小笠原六郎時長     藤沢四郎清親
二番
 横溝六郎義行      松岡四郎時家
三番
 岡部左衛門四郎     本間次郎左衛門尉信忠
四番
 三浦又太郎左衛門尉氏村 秋葉小三郎
五番
 下河辺右衛門尉行光   山田五郎
昼頃に、将軍頼経様が京都へ上るための出門式のため、秋田城介安達義景の甘縄の家へお入りです。輿に乗って立烏帽子・直垂です。お供の人達も同じように合わせています。
夜になって、泰時さんと奥さんが、駿河守北条有時の屋敷へ外出です。

嘉禎四年(1238)正月小廿八日乙亥。天霽。將軍家御上洛。寅刻。先リ賢參。勤御身固。今日八龍日也。聊有其難歟之由。雖有傾申之族。御出門之上者。不可及日次沙汰之旨被仰。無御許容云々。巳刻御進發。被用御輿。護持僧岡崎法印成源。〔乘輿〕御驗者公覺僧都。隆弁律師。頼曉律師。醫道施藥院使良基朝臣。權侍醫時長朝臣。陰陽道前大藏權大輔泰貞。散位リ賢朝臣等也。随兵以下前後供奉人悉進發之處。匠作未及御出立。剩有圍碁會。左京兆頻被勸申之。而彼祗候人等云。未被整旅具云々。仍京兆被献野箭行騰等之後。酉刻進發給。」酉剋着御酒匂驛。護持僧并醫陰兩道之輩宿被點御所近邊。同雜事送夫等者。爲加賀前司奉行沙汰給云々。

読下し                     そらはれ しょうぐんけごじょうらく  とらのこく  ま  はるかた  さん   おんみがため つと    きょう  はちりょうびなり
嘉禎四年(1238)正月小廿八日乙亥。天霽。將軍家御上洛。寅刻。先づリ賢が參じ、御身固を勤む。今日は八龍日也。

いささ そ  なんあ   か のよし  かたぶ もう  のやからあ    いへど   ごしゅつもんのうえは   ひなみ   さた   およ  べからずのむねおお られ  ごきょうような     うんぬん
聊か其の難有る歟之由、傾け申す@之族有りと雖も、御出門之上者、日次の沙汰に及ぶ不可之旨仰せ被、御許容無しと云々。

みのこくごしんぱつ  おんこし  もち  らる    ごじそう  おかざきほういんじょうげん 〔こし  の   〕   ごげんざ    こうかくそうづ   りゅうべんりっし  らいぎょうりっし
巳刻御進發。御輿を用い被る。護持僧は岡崎法印成源〔輿に乘る〕。御驗者は公覺僧都、隆弁律師、頼曉律師。

くすしのみち やくいんのかみよしもとあそん  ごんのじいときながあそん  おんみょうどう さきのおおくらごんのたいふやすさだ  さんに はるかたあそんらなり
 醫道は 施藥院使良基朝臣、權侍醫時長朝臣。陰陽道は 前大藏權大輔泰貞、 散位Aリ賢朝臣等也。

ずいへい いげ ぜんご  ぐぶにんことご しんぱつのところ しょうさくいま  ごしゅったつ およ      あまつさ いご  え あ     さけいちょうしきり これ  かん  もうさる
随兵以下前後の供奉人悉く進發之處、匠作未だ御出立に及ばず。剩へ圍碁の會有り。左京兆頻に之を勸じ申被る。

しか    か   しこうにんら い       いま  りょぐ   ととの れ     うんぬん  よっ  けいちょうのや むかばきら  けん  らる  ののち  とりのこくしんぱつ たま
而るに彼の祗候人等云はく。未だ旅具が整は被ずと云々。仍て京兆野箭行騰等を献じ被る之後、酉刻進發し給ふ。」

とりのこくさかわ  うまや つ   たま    ごじそうなら    いいんりょうどうのやから  やど  ごしょ  きんぺん  てん  らる
酉剋酒匂の驛に着き御う。護持僧并びに醫陰兩道之輩の宿、御所の近邊に點じ被る。

おな    ぞうじ そうふら は   かがのぜんじ  ぶぎょう  な    さた   たま    うんぬん
同じく雜事送夫等者、加賀前司を奉行と爲し沙汰し給ふと云々。

参考@傾け申すは、反対する。
参向A
散位(さんに)は、六位の位階はあるが官職を持たないものの総称。

現代語嘉禎四年(1238)正月大二十八日乙亥。空は晴れです。将軍頼経様京都へ出発。午前八時頃まず、安陪晴賢が御身周りのお祓いを勤めました。今日は、外出を嫌う八龍日だからです。多少まずいんじゃないかと、反対する人もいましたが、「すでに門出式を終えたんだからお日和を心配する必要はない。」と気にしませんでしたとさ。午前十時頃出発は輿に乗ってます。将軍を祈り守る坊さんは岡崎法印成源〔輿に乗ってます〕。祈祷をするのが公覚僧都・隆弁律師・頼暁律師。お医者さんは施薬院長官丹波良基さん・次席の医者の権侍医丹波時長さん。陰陽師は、大蔵権大輔安陪泰貞・散位安陪晴賢さんなどです。武装警備兵以下将軍の前後に歩くお供の人は全て出発しようとしていた所、匠作時房さんが出発しません。それどころか囲碁を打っております。泰時さんが何度も早くするよう進言しました。しかし彼の下働きが云うには、「未だ旅の道具がそろっていないのです。」とのこと。そこで泰時さんは、狩用の矢と馬上袴を差し上げたので、午後六時頃出発しました。」
その午後六時頃には将軍は酒匂の宿に到着しました。将軍を祈り守る坊さんと医者や陰陽師の連中は、将軍の近くに宿舎を用意しました。同様に雑事を担当するものや運送人については、加賀前司町野康俊が担当して手配しましたとさ。

嘉禎四年(1238)正月小廿九日丙子。今夕。入御藍澤驛。

読下し                     こんゆう  あいざわ  うまや い   たま
嘉禎四年(1238)正月小廿九日丙子。今夕、藍澤@の驛に入り御う。

参考@藍澤は、静岡県御殿場市新橋鮎沢に鮎澤神社あり。東名御殿場インターのそば。

現代語嘉禎四年(1238)正月大二十九日丙子。今日の夕方に御殿場の鮎沢の宿に入りました。

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吾妻鏡入門第卅二巻

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