吾妻鏡入門第卅二巻

嘉禎四年戊戌(1238)閏二月小

嘉禎四年(1238)閏二月小三日己酉。天霽。依御招請。將軍家渡御大相國禪閤御亭。御儲被盡美。御贈物風流棚二脚〔各餝金銀。置和漢書〕入夜。還御六波羅。

読下し                     そらはれ  ごしょうせい  よっ   しょうぐんけ だいしょうこくぜんこう  おんてい わた  たま    おんまうけ び   つくされ
嘉禎四年(1238)閏二月小三日己酉。天霽。御招請に依て、將軍家、大相國禪閤@の御亭Aへ渡り御う。御儲は美を盡被る。

おんおくちもの ふりゅうだなにきゃく 〔おのおのきんぎんぎん  かざ    わかん  しょ  お   〕    よ   い      ろくはら  かえ  たま
 御贈物は 風流棚二脚〔 各 金銀で餝り、和漢の書を置く〕。夜に入り、六波羅へ還り御う。

参考@大相國禪閤は、西園寺公経。頼経の母方の祖父。
参考A
御亭は、後の金閣寺の場所。

現代語嘉禎四年(1238)閏二月小三日己酉。空は晴です。お招きに預って将軍頼経様は、母方の祖父の大相國禅閤西園寺公経様のお屋敷へ伺いました。歓迎の準備は贅を極めておりました。贈り物は、風景などを飾った風流が二卓〔それぞれ金銀で飾って、一方は日本の書物を、もう一方は中国の書物を用意しました〕。夜になって六波羅へ戻りました。

嘉禎四年(1238)閏二月小七日癸丑。天リ。戌刻。佐女牛東洞院失火。南北二町餘災。

読下し                     そらはれ いぬのこく さめうしひがしとういん  しっか  なんぼくにちょうよ わざわい 
嘉禎四年(1238)閏二月小七日癸丑。天リ。戌刻、佐女牛東洞院で失火。南北二町餘 災す。

現代語嘉禎四年(1238)閏二月小七日癸丑。空は晴です。夜8時頃、左女牛通り(現花屋町通り)と東洞員通りのぶつかった辺り(現富田町)で失火。南北二百b余が焼けました。

嘉禎四年(1238)閏二月小十三日己未。霽。午刻。日有重暈。陰陽頭維範朝臣帶繪圖。最前馳參六波羅殿。殊申可有御愼之由。其後。權天文博士季尚朝臣以下。兩三人應召參上。被下維範朝臣所進圖。可勘申所存之旨。被仰之間。強非重變。去建保年中。道昌朝臣於水無瀬殿。白虹貫日之由。奏聞之時。孝重朝臣申敗之變者。今暈也云々。今夜。維範朝臣奉仕天地災變御祭。伊勢前司定員奉行之云々。

読下し                      はれ  うまのこく  ひじゅううんあ
嘉禎四年(1238)閏二月小十三日己未。霽。午刻、日重暈有り。

おんみょうのかみこれのりあそん えず  お     さいぜん  ろくはらでん  は   さん    こと  おんつつし あ   べ   のよし  もう
 陰陽頭 維範朝臣 繪圖を帶び、最前に六波羅殿へ馳せ參じ、殊に御愼み有る可き之由を申す。

そ  のち  ごんのてんもんはくじすえなおあそん いげ  りょうさんにんめし  おう  さんじょう
其の後、權天文博士 季尚朝臣 以下、兩三人召に應じ參上す。

これのりあそん  すす   ところ  ず  くだされ  しょぞん  かん  もう  べ   のむね  おお  らる のあいだ  あなが  ちょうへん あらず
維範朝臣の進める所の圖を下被、所存を勘じ申す可し之旨、仰せ被る之間、強ちに重變に非。

さんぬ けんぽうねんちう   みちまさそん  みなせでん  をい    はっこう ひ  つら    のよし   そうもんのとき   たかしげあそん  もう  やぶ    のへんは  いま  うんなり  うんぬん
去る建保年中に、道昌朝臣水無瀬殿@に於て、白虹日を貫ぬく之由、奏聞之時、孝重朝臣の申し敗るる之變者、今の暈也と云々。

こんや  これのりあそん てんちさいへん おまつり  ほうし    いせのぜんじさだかずこれ  ぶぎょう    うんぬん
今夜、維範朝臣天地災變の御祭を奉仕す。伊勢前司定員之を奉行すと云々。

参考@水無瀬殿は、後鳥羽上皇の離宮で、大阪府三島郡島本町広瀬の水無瀬神宮の地にあった。始め直接淀川に臨んで建てられたが、健保四年(1216)8月の大洪水で流出し、移転した。

現代語嘉禎四年(1238)閏二月小十三日己未。晴れました。昼頃に、太陽に二重の笠がかかりました。朝廷の陰陽寮長官の安陪維範さんが、絵を持って真っ先に六波羅の屋敷へ急いできて、特に用心して控えめにするように云いました。その後、次席の権天文博士季尚さんをはじめ三人ほど呼ばれてやって来ました。維範さんが持って来た絵を渡して、思う旨を述べるように仰せになると、「必ずしも重大な変調ではありません。去る建保年中(1213-1219)に、道昌さんが水無瀬殿で白い虹が太陽を貫いていると、上皇に申し上げた時、孝重さんが上申負けした変調は、この笠です。」と云いました。今夜、維範さんが天地災変祭を勤めました。伊勢前司藤原定員が担当しましたとさ。

嘉禎四年(1238)閏二月小十四日庚申。雨下。終日不休止。雖有重變。卅日中降雨者。可消歟之由。泰貞朝臣兼申之云々。

読下し                       あめふ    しゅうじつ やまず
嘉禎四年(1238)閏二月小十四日庚申。雨下る。終日休止不。

じゅううんあ    いへど  さんじうにちじゅう こううは   け   べ   か のよし  やすさだあそんかね これ  もう    うんぬん
重變有ると雖も、卅日中の降雨者、消す可き歟之由、泰貞朝臣兼て之を申すと云々。

現代語嘉禎四年(1238)閏二月小十四日庚申。雨降りです。一日中止みません。「重大な変調があっても、三十日以内に雨が降れば、流し消してくれるでしょう。」と安陪泰貞さんんが前もって云ってました。

嘉禎四年(1238)閏二月小十五日辛酉。天リ。戌刻。維範朝臣又參六波羅殿。太白犯昴星。歳星犯哭星之由申之。仍爲將軍御祈。被行属星祭。在衡朝臣奉仕之。戌四剋。樋口町邊燒亡。

読下し                      そらはれ いぬのこく これのりあそんまた ろくはらどの  まい
嘉禎四年(1238)閏二月小十五日辛酉。天リ。戌刻、維範朝臣又六波羅殿へ參る。

たいはくぼうせい  おか   さいせいこくせい おか  のよしこれ  もう
太白昴星を犯す。歳星哭星を犯す之由之を申す。

よっ  しょうぐん おいのり ため  ぞくせいさい おこな れる  ありひらあそんこれ  ほうし    いぬのよんこく ひぐちまちへんしょうぼう
仍て將軍の御祈の爲、属星祭を行は被。在衡朝臣之を奉仕す。戌四剋、樋口町@邊燒亡す。

参考@樋口町は、京都市下京区樋口町カ?

現代語嘉禎四年(1238)閏二月小十五日辛酉。空は晴れです。午後八時頃、安陪維範さんがまた六波羅邸へ来ました。「太白星金星が昴(すばる)を犯し、歳星木星が哭星山羊座の星を犯す。」と申し上げました。それで、将軍頼経様の身を守るお祈りとして、属星祭を行いました。在衡さんが勤めました。
午後九時前に樋口町のあたりで火事です。

解説時刻の刻は、2時間を4等分したのが点。戌なら19:00〜19:30を一刻、19:30〜20:00を二刻、20:00〜20:30を三刻、20:30〜21:00を四刻。

嘉禎四年(1238)閏二月小十六日壬戌。未刻。鞍馬寺燒亡。失火云々。自小堂火出來。當寺者。桓武天皇御宇延暦十五年丙子。藤原伊勢人依貴布祢明神之告。草創以降。星霜既三百八十餘年。專爲帝都擁護精舎云々。

読下し                      ひつじのこく くらまじしょうぼう     しっか  うんぬん  しょうどうよ  ひ いできた
嘉禎四年(1238)閏二月小十六日壬戌。未刻、鞍馬寺燒亡す。失火と云々。小堂自り火出來る。

とうじ は  かんむてんのう  おんうえんりゃくじうごねんひのえね ふじわらのいせんど  きぶねみょうじん のつげ  よっ    そうそう いこう  せいそうすで さんびゃくはちじうよねん
當寺者、桓武天皇の御宇延暦十五年丙子、藤原伊勢人@、貴布祢明神之告に依て、草創以降、星霜既に三百八十餘年。

もっぱ ていと ようご  しょうじゃたり  うんぬん
專ら帝都擁護の精舎爲と云々。

参考@藤原伊勢人は、759-827、藤原南家。参議巨勢麻呂の七男。官位は従四位下・右中弁。

現代語嘉禎四年(1238)閏二月小十六日壬戌。午後二時頃、鞍馬寺が燃えました。失火だそうな。小堂から火が出ました。この寺は、桓武天皇の時代の延暦十五年(796)丙子に、藤原伊勢人が、貴船明神のお告げで創建して以来、年月は三百八十数年。ただひたすら京の都をまもってきたお寺なのだそうな。

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