吾妻鏡入門第卅二巻

嘉禎四年戊戌(1238)五月小

嘉禎四年(1238)五月小四日戊寅。曉陰。及晩。自將軍家被調進昌蒲御枕〔鏤金銀〕并御扇等於公家云々。件御枕者。爲六位定役調進者也。而依被求。御進物之次如此云々。

読下し                   あかつきくも
嘉禎四年(1238)五月小四日戊寅。 曉 陰る。

ばん  およ   しょうぐんけよ   しょうぶ おんまくら 〔きんぎん  ちりば  〕 なら   おんおうぎらを こうけ  ちょうさしんされ  うんぬん
晩に及び、將軍家自り昌蒲の御枕@〔金銀を鏤む〕并びに御扇等於公家へ調進被ると云々。

くだん おんまくらは ろくい  じょうやく  し  ちょうしん    ものなり  しか    もと  られ    よっ    ごしんもつのついで  かく  ごと    うんぬん
件の御枕者、六位の定役Aと爲て調進する者也。而るに求め被るに依て、御進物之次に此の如しと云々。

参考@昌蒲の御枕は、干した菖蒲を詰めた枕は良い夢を見る。
参考A
定役は、恒例の公事。夫役。

現代語嘉禎四年(1238)五月小四日戊寅。明け方は曇っていました。夜になって、将軍頼経様から良い夢を見るように菖蒲を詰めた枕〔金銀がちりばめてあります〕と扇を天皇(四条)に調え進上しました。この枕は、六位の蔵人の恒例の公事ですが、天皇からわざわざ求められたので、献上品のついでにこのようにしましたとさ。

嘉禎四年(1238)五月小五日己卯。戌刻。太白犯軒轅大星。希代變異也。見于延喜天暦二代御記云々。」今日。坊門大納言入道殿〔忠C〕可令謁申之由。雖被示遣于左京兆。稱風氣辞退云々。是承久兵乱之時。彼禪門罪科事。左京兆殊依被加潤色。爲故二品并右京兆等御計。被宥之間。爲報其事。今及此儀云々。京兆兼得其意。不令向給云々。

読下し                   いぬのこく たいはく けんえんたいせい おか    きだい  へんいなり  えんぎ てんりゃくにだい  おんきに み    うんぬん
嘉禎四年(1238)五月小五日己卯。戌刻。 太白 軒轅大星を犯す。希代の變異也。延喜、天暦二代の御記@于見ゆと云々。」

きょう   ぼうもんだいなごんにゅうどうどの〔ただのぶ〕 えっせし もう  べ   のよし  さけいちょうに しめ  つか  さる   いへど   ふうき   しょう  じたい    うんぬん
今日、坊門大納言入道殿〔忠C〕謁令め申す可き之由、左京兆于示し遣は被ると雖も、風氣と稱し辞退すと云々。

これ じょうきょう へいらんのとき  か  ぜんもん  ざいか  こと  さけいちょうこと じゅんしょく くは  らる    よっ    こにほんなら    うけいちょうら  おんはかり な
是、承久 兵乱之時、彼の禪門が罪科の事、左京兆殊に潤色を加へ被るに依て、故二品并びに右京兆等の御計と爲し、

なだ  らる  のあいだ  そ   こと  むく    ため  いまかく  ぎ   およ   うんぬん  けいちょう かね  そ  い  え   むか  せし  たま  ず   うんぬん
宥め被る之間、其の事に報いん爲、今此の儀に及ぶと云々。京兆 兼て其の意を得、向は令め給は不と云々。

現代語嘉禎四年(1238)五月小五日己卯。午後8時頃、太白星金星が、軒轅大星しし座のアルファー星の軌道を犯しました。めったにない天変です。延喜(901-923)・天暦(947-957)の理想的治政時代の記録に見えるそうです。」

今日、坊門忠清大納言入道忠清さんがお会いしてお礼を云いたいと泰時さんに申し入れてきましたが、風邪気味だと云ってお断りしたそうです。これは、承久の乱の時その坊門さんは朝廷方の主犯だったので、その罪については泰時さんが言い訳をしてくれたので、二位家政子様さんや義時さんの配慮として罪を許されましたので、このお礼を云いたくて通知してきたのだそうな。泰時さんはその気持ちを知っているのであえて出かけなかったのだそうな。

解説@延喜・天暦二代の御記とは、延喜・天暦の治とは、平安時代中期(10世紀)の醍醐・村上両天皇の治世を聖代視した呼称。延喜は醍醐の、天暦は村上の元号である。延喜の治および天暦の治も参照のこと。両治世は天皇親政が行われ、王朝政治・王朝文化の最盛期となった理想の時代として後世の人々に観念された。両治世を聖代視する考えは、早くも10世紀後半には現れており、11世紀前葉〜中葉ごろの貴族社会に広く浸透した。当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。そうした中で、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まったのである。

嘉禎四年(1238)五月小十一日乙酉。故左衛門尉坂上明定子息左兵衛尉明胤。領掌亡父遺跡事。不可有相違之由。含嚴旨。是石見國長田保。播磨國巨智庄地頭職。河内國藍御作手奉行。近江國天福寺地頭等事云々。去年十月四日父讓之死去。明定依爲名人。左京兆頻憐愍遺孤給云々。

読下し                     こさえもんのじょうさかがみのあきさだ  しそく さひょうえのじょうあきたね
嘉禎四年(1238)五月小十一日乙酉。故左衛門尉坂上明定@が子息 左兵衛尉明胤、

ぼうふ  ゆいせき りょうしょう   こと  そうい あ   べからず のよし  げんし  ふく
亡父の遺跡を領掌する事、相違有る不可A之由、嚴旨を含む。

これ いわみのくに ながたのほう  はりまのくに こちのしょう  ぢとうしき  かわちのくにあいおんさくてぶぎょう  おうみのくにてんぷくじ  ぢとうら  こと  うんぬん
是、石見國長田保B、播磨國巨智庄Cの地頭職、 河内國藍御作手奉行、 近江國天福寺Dの地頭等の事と云々。

きょねんじうがつよっか ちちこれ  ゆず  しきょ    あきさだめいじんたる  よっ   さけいちょうしきり  いこ   れんみん  たま    うんぬん
去年十月四日 父之を讓り死去す。明定名人E爲に依て、左京兆頻に遺孤を憐愍し給ふと云々。

参考@坂上明定は、出雲の有力御家人であり、鎌倉にも2カ所の屋敷地を有していた。『鎌倉遺文』5966(未確認)。坂上氏は、征夷大将軍坂上田村麻呂の流れをくむが、大江氏(広元)と同様、中流貴族の家柄であった。この泰時の記事から貞永式目作成(28巻)の際に世話になったような気がする。
参考A相違有る不可は、伝領安堵。
参考B長田保は、島根県浜田市金城町長田。
参考C
巨智庄は、兵庫県姫路市高岡新町のあたりらしい。
参考D
近江國天福寺は、不明。

参考
E名人は、坂上名法家。

現代語嘉禎四年(1238)五月小十一日乙酉。故左衛門尉坂上明定の息子の左兵衛尉坂上明胤は、亡き父の所領を相続して把握する事を認めるときちんと決めました。この内容は、石見國長田保(浜田市金城町長田)・播磨國巨智庄(姫路市高岡新町)の地頭職、河内國の藍生産責任支配者、近江國天福寺の地頭職です。去年十月四日明定はこれを譲って亡くなりました。明定は名法家なので、泰時さんはとても残された息子を気に掛けたそうです。

嘉禎四年(1238)五月小十六日庚寅。今日。將軍家渡御右府御亭。御興遊最中。若君〔福王公〕所飼給之小鳥〔鳩(皐于鳥)〕飛去自籠内。在庭前橘之梢。若君周章給之間。諸大夫侍等雖馳走。無所于欲取。或雲客申云。將軍家御共。大略勇士也。召其中弓上手。可令射取之給云々。仍若宮參御前。申此由給。此事將軍家殊有御思慮。態撰小冠召上之上野十郎朝村。此鳥不死之樣。可射取之由被仰含。朝村不能辞申。取弓与引目。進寄于樹下。彼木枝葉尤茂。小鳥之姿僅雖見于葉之隙。枝差違兮。非養由者輙難獲之歟。朝村蹲居庭上。取小刀削欠引目々柱二之後挾之。數反窺廻樹下。諸人見其氣色。敢不瞬。遂發箭。鳥止聲。箭落庭上。朝村即持參件箭。鳥所込于引目内也。削捨目柱事。此用意也。被入籠中之處。動尾羽囀鳴。堂上堂下感嘆之聲滿耳。將軍家令解御衣給。亭主被召出御釼。各爲朝村纏頭云々。

読下し                      きょう   しょうぐんけ うふ  おんてい  わた  たま
嘉禎四年(1238)五月小十六日庚寅。今日、將軍家右府@の御亭へ渡り御う。

ごゆうきょう  さいちう    わかぎみ 〔ふくおうぎみ〕 か  たま  ところのことり  〔はと〕  かごうちよ   よ   さ     にわまえ たちばなのこずえ あ
御興遊の最中に、若君〔福王公〕飼い給ふ所之小鳥〔鳩籠内自り飛び去り、庭前の 橘 之 梢に在り。

わかぎみ しゅうしょう たま のあいだ  しょだいぶ さむらい ら ちそう   いへど   と       ほっ    にところな     あるうんきゃくもう    い
 若君 周章し給ふ之間、 諸大夫 侍 等馳走すと雖も、取らんと欲する于所無し。或雲客申して云はく。

しょうぐんけ  おんとも    たいりゃくゆうしなり  そ   なか  ゆみ  じょうず  め     これ  い と   せし  たま  べ     うんぬん
將軍家の御共は、大略勇士也。其の中の弓の上手を召し、之を射取ら令め給ふ可きと云々。

よっ  わかみやごぜん  まい    かく  よし  もう   たま
仍て若宮御前に參り、此の由を申し給ふ。

かく  こと  しょうぐんけこと  おんしりょあ       わざ  しょうかん  えら   こうづけのじうろうともむら これ  め   あ
此の事、將軍家殊に御思慮有りて、態と小冠を撰び、上野十郎朝村 之を召し上げ、

かく  とり  しなざる のよう    い と   べ   のよしおお  ふく  らる
此の鳥を死不之樣に、射取る可し之由仰せ含め被る。

ともむら じ  もう    あたはず  ゆみと ひきめ  と     じゅかに すす  よ
朝村辞し申すに不能。弓与引目を取り、樹下于進み寄る。

か   き しようもっと  しげ     ことり の すがた わずか  は のすきまに み      いへど   えださ  たが  たり
彼の木枝葉尤も茂り、小鳥之姿 僅かに葉之隙于見えると雖も、枝差し違へ兮。

ようよう  あらず ば  たやす これ  え がた  か
養由Aに非ん者、輙く之を獲難き歟。

ともむらていじょう そんきょ   こがたな  と   ひきめ  めばしらふた   けず  か   ののちこれ  たばさ  すうへんじゅか  うかが めぐ
朝村庭上に蹲居し、小刀を取り引目の々柱二つを削り欠く之後之を挾み、數反樹下を窺い廻る。

しょにん そ  けしき   み       あ     まじろがず つい  や  はっ    とりこえ  と     や  ていじょう  お
諸人其の氣色を見るに、敢へて瞬不、遂に箭を發す。鳥聲を止め、箭は庭上に落つ。

ともむらすなは くだん や  も   まい    とり  ひきめ   うちに こも ところなり  めばしら けず  す     こと  かく  ようい なり  
朝村即ち件の箭を持ち參る。鳥は引目の内于込る所也。目柱を削り捨てる事、此の用意也。

かご  なか  いれられ のところ  おばね  うご    さえず な      どうじょうどうげ  かんたんのこえ みみ  み
籠の中に入被る之處、尾羽を動かし囀り鳴く。堂上堂下の感嘆之聲耳に滿つる。

しょうぐんけ おんころも と   せし  たま    てい あるじぎょけん  め   いだされ おのおの ともむら  てんとう  な    うんぬん
將軍家 御衣を解か令め給ひ、亭の主御釼を召し出被、 各 朝村に纏頭Bを爲すと云々。

参考@右府は、右大臣二条良実。
参考A
養由は、中国の春秋時代の弓の名人。
参考B
纒頭は、本来は芸能のご祝儀として、物々交換の時代に着ている物を脱いで芸人の肩に掛けてやる。

現代語嘉禎四年(1238)五月小十六日庚寅。今日、将軍頼経様は右大臣二条良実さんの屋敷を訪問しました。宴会の最中に、若君〔福王君〕が飼っている小鳥〔鳩〕が籠から飛び出して、庭の前の木の梢に止っています。若君は嘆き悲しんでいますが、家仕や侍があわててじたばたしましたが、捕まえる手立てがりません。或る公卿の客が云うには、「将軍様のお供は勇者ばかりです。その中に弓の名人をお呼びになって、これを射て捕まえる事ができるんじゃないでしょうか。」それを聞いて若君は将軍頼経様の前へ来てその事を話しました。この事については、将軍頼経様さまは特に考える事があって、わざわざ若手を選び、上野十郎結城朝村を呼びつけ、鳥を殺さずに捕まえるよう言い含めました。朝村は断るわけにもいかず、弓と鏃の無い鏑矢を持って、木の下に行きました。その木の枝は、葉が生い茂り、小鳥の姿がわずかに葉の隙間に見えますが、枝が邪魔をしています。中国の弓の名人養由でもなければ、簡単に捕まえられません。朝村は庭にかがみこんで、小刀を取り出して鏑矢の穴と穴の間の柱二本を削り取りました。それを右手に持って、上を見ながら何度か木の下を回っていました。見ている人は、その様子にたじろぎもせずに見守っています。ついに矢を放ちました。鳥は鳴くのを止めて庭に落ちてきました。朝村はすぐにその矢を持ってきました。鳥は鏑矢の中に入っていました。穴の間を削ったのはこのためだったのです。籠の中に戻すと尾羽を動かしてさえずり鳴きました。建物内部の偉い人も、庭に居る家来の人達の感心したため息が庭中に響きました。将軍頼経様は、着ている物を脱いで、屋敷の主は刀を持ってこさせ、それぞれ朝村に褒美として与えましたとさ。

嘉禎四年(1238)五月小十八日壬辰。相摸國深澤里大佛御頭奉擧之。周八丈也。

読下し                     さがみのくに ふかざわのさと だいぶつ みぐしこれ  あ たてまつ  しゅうはちじょうなり
嘉禎四年(1238)五月小十八日壬辰。相摸國 深澤里の大佛の御頭之を擧げ奉る。周八丈也。

現代語嘉禎四年(1238)五月小十八日壬辰。相模國深沢の里の大仏(長谷の鎌倉大仏)の頭を乗せました。周囲は八丈(24m)です。

疑問8丈は、頭ではなく座った象の周囲であろう?

嘉禎四年(1238)五月小十九日癸巳。小雨降。申刻天リ。今日最勝講始也。

読下し                      こさめふ    さるのこく そらはれ  きょうさいしょうこうはじ  なり
嘉禎四年(1238)五月小十九日癸巳。小雨降る。申刻 天リ。今日最勝講始め也。

現代語嘉禎四年(1238)五月小十九日癸巳。小雨が降ってます。午後四時頃空は晴ました。今日は、最勝王経の問答始めです。

嘉禎四年(1238)五月小廿日甲午。陰リ。今日。以將軍家御家人左衛門少尉藤原時朝〔号笠間〕。藤原朝村〔号上野十郎〕等。被加前右大臣家〔普光園〕御簡衆。於朝村者。依感射藝給。及御所望云々。

読下し                    くも  はれ  きょう   しょうぐんけ  ごけにんさえもんしょうじょうふじわらときとも  〔かさま   ごう  〕
嘉禎四年(1238)五月小廿日甲午。陰りリ。今日、將軍家、御家人左衛門少尉藤原時朝@〔笠間と号す〕

ふじわらともむら 〔こうづけじうろう   ごう  〕  ら   もっ   さきのうだいじんけ 〔ふこうえん〕   おふだしゅう  くは  らる
藤原朝村〔上野十郎と号す〕等を以て、前右大臣家〔普光園〕の御簡衆に加へ被る。

ともむら  をい  は   しゃげい  かん  たま    よっ    ごしょもう   およ    うんぬん
朝村に於て者、射藝に感じ給ふに依て、御所望に及ぶと云々。

参考@藤原時朝は、宇都宮の分家の笠間氏祖。塩谷朝業の次男で宇都宮頼綱へ養子、常陸国笠間に入り笠間氏を名乗る。和歌の名人。

現代語嘉禎四年(1238)五月小二十日甲午。晴れたり曇ったり。今日、将軍頼経様は、御家人の左衛門少尉藤原笠間時朝と上野十郎藤原結城朝村を、前右大臣西園寺実氏〔普光園〕の家に仕える役を与えました。朝村については、先日の弓矢の芸に感心して、お声がかかったのだそうな。

参考鎌倉遺文5245号に、泰時が京都の主だった四つ角にかがり屋二十四箇所を設けるべしとある(未確認)。

六月へ

吾妻鏡入門第卅二巻

inserted by FC2 system