嘉禎四年戊戌(1238)七月小
嘉禎四年(1238)七月小二日乙亥。天霽。午刻以後。降雨。今日任大臣召仰也。 |
読下し そらはれ うまのこく いご こうう
きょう にんだいじん めしおお なり
嘉禎四年(1238)七月小二日乙亥。天霽。午刻以後降雨。今日
任大臣 召仰せ也。
現代語嘉禎四年(1238)七月小二日乙亥。空は晴れました。昼頃から雨降り。今日、大臣任命の天皇からの通告です。
嘉禎四年(1238)七月小九日壬午。リ。今日。攝政殿宇治入也。扈從殿上人數十人。公卿一人〔御弟大納言殿云々〕。 |
読下し そらはれ きょう せっしょうどの うじいり なり こしょう でんじょうびとすうじうにん くぎょうひとり 〔おんおとうとだいなごん うんぬん〕
嘉禎四年(1238)七月小九日壬午。リ。今日、
攝政殿 宇治入也。扈從の殿上人數十人。公卿一人〔御弟大納言殿と云々〕。
現代語嘉禎四年(1238)七月小九日壬午。晴れです。今日、摂政殿近衛兼経さんの宇治平等院入りです。お供の殿上人十人。公卿一人〔弟の大納言さまだそうな〕。
嘉禎四年(1238)七月小十日癸未。天霽。寅剋。熒惑与填星同變之由。司天之輩奉勘文云々。 |
読下し そらはれ とらのこく
けいこくと しんせい どうへんのよし してんのやから
かんもん たてまつ うんぬん
嘉禎四年(1238)七月小十日癸未。天霽。寅剋、熒惑与填星
同變之由、司天之輩 勘文を奉ると云々。
現代語嘉禎四年(1238)七月小十日癸未。空は晴れました。午前四時頃、熒惑星火星と填星土星が一緒におかしな動きをしていると、天文方は上申書を出しましたとさ。
嘉禎四年(1238)七月小十一日甲申。左京兆密々參園城寺給。是去年當于禪定二位家一十三年御忌景。爲奉報彼恩徳。於鎌倉所被終書功之一切經五千餘巻。今日又迎件御月忌。依被奉納于唐院靈塲也。當寺者。聖靈之御帰依。施主御渇仰異他所云々。毎經巻之奥。令加左京兆署判給云々。 |
読下し さけいちょう みつみつ
おんじょうじ まい たま
嘉禎四年(1238)七月小十一日甲申。左京兆、密々に園城寺へ參り給ふ。
これ きょねんぜんじょうにいけ いちじゅうさんねん
おんきけいに あた か おんとく むく たてまつ ため
是、去年禪定二位家の
一十三年
御忌景于當り、彼の恩徳に報い奉らん爲に、
かまくら をい しょこう お らる
ところの いっさいきょう ごせんよかん きょう またくだん おんつきいみ むか
とういん れいじょうにほうのうさる よっ なり
鎌倉に於て書功を終へ被る所之
一切經 五千餘巻、今日又件の御月忌を迎へ、唐院@の靈塲于奉納被るに依て也。
とうじ は しょうりょうの ごきえ せしゅ ごかつぎょう たしょ こと うんぬん きょうかんごとのおく さけいちょうしょはん
くは せし たま うんぬん
當寺者、聖靈之御帰依、施主の御渇仰、他所に異なると云々。經巻毎之奥に、左京兆署判を加へ令め給ふと云々。
参考@唐院は、三井寺山内で最も重要な建造物の一つ。開祖智証大師が入唐してもたらした経巻や法具が納められた場所。現在のは桃山時代のもので重要文化財。
現代語嘉禎四年(1238)七月小十一日甲申。泰時さんは非公式に三井寺へお参りです。これは、去年二位家政子様の十三回忌にあたり、その恩返しの意味で、鎌倉で書き終えた一切経五千余巻を、今日またその命日を迎えたので、三井寺の唐院灌頂堂に納めるためです。この寺は、霊の二位家政子様が信じてすがり、又施主の泰時さんも心から慕っているのは、世外は比べ物になりません。お経一巻ごとに、その奥書に泰時さんは花押を書き込んだそうな。
嘉禎四年(1238)七月小十六日己丑。天リ。將軍家令蒙本座 宣旨給云々。 |
読下し
そらはれ しょぐんけ ほんざ せんじ こうむ せし
たま うんぬん
嘉禎四年(1238)七月小十六日己丑。天リ。將軍家本座の宣旨を蒙ら令め給ふと云々。
現代語嘉禎四年(1238)七月小十六日己丑。空は晴です。将軍頼経様は、元の征夷大将軍に戻る命令を宣言されましたそうな。
解説将軍頼経は、嘉禎四年(1238)3月7日頼経権大納言任命。右衛門督と検非違使長官を辞任。嘉禎四年(1238)4月18日。頼経権大納言辞職。
嘉禎四年(1238)七月小十七日庚寅。小雨降。准后〔禪定殿下北政所〕於法性寺殿令落餝給。御戒師飯室僧正良快云々。 |
読下し
こさめふ じゅんごう 〔ぜんじょうでんか きたのまんどころ〕 ほっしょうじでん
をい らくしょくせし たま
嘉禎四年(1238)七月小十七日庚寅。小雨降る。准后〔禪定殿下の北政所〕法性寺殿に於て落餝令め給ふ。
ごかいし いいむろそうじょうりょうかい うんぬん
御戒師は飯室僧正良快と云々。
現代語嘉禎四年(1238)七月小十七日庚寅。小雨が降ってます。准后掄子〔近衛基通様の奥さん〕が、法性寺殿で髪を落としました。戒を与える指導僧は、飯室僧正良快だそうな。
嘉禎四年(1238)七月小廿日癸巳。霽。今日。任大臣節會。左大臣〔良實〕右大臣〔實親〕内大臣〔家嗣〕云々。 |
読下し はれ きょう にんだいじん せちえ さだいじん 〔よしざね〕 うだいじん 〔さねちか〕 ないだいじん 〔いえつぐ〕 うんぬん
嘉禎四年(1238)七月小廿日癸巳。霽。今日。任大臣の節會。左大臣〔良實〕右大臣〔實親〕内大臣〔家嗣〕と云々。
現代語嘉禎四年(1238)七月小二十日癸巳。晴れました。今日は、大臣任命の儀式です。左大臣は二条良実、右大臣は三条実親、内大臣は大炊御門家嗣です。
嘉禎四年(1238)七月小廿三日丙申。リ陰。戌刻小雨降。今日夘一剋。將軍家御參石C水八幡宮。午剋還御。 |
読下し はれくも いぬのこく こさめふ きょううのいっこく しょうぐんけ
いわしみずはちまんぐう ぎょさん うまのこくかえ たま
嘉禎四年(1238)七月小廿三日丙申。リ陰り。戌刻小雨降る。今日夘一剋、將軍家
石C水八幡宮へ御參。午剋還り御う。
現代語嘉禎四年(1238)七月小二十三日丙申。晴れたち曇ったり。午後8時頃小雨が降りました。
今日、午前五時過ぎに、将軍頼経様は石清水八幡宮へお参りに出かけ、昼頃に帰って来ました。
解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。卯なら5時〜5:24を一点、5:24〜5:48を二点、5:48〜6:12を三点、6:12〜6:36を四点、6:36〜7:00を五点。
嘉禎四年(1238)七月小廿五日戊戌。リ陰。法性寺禪定殿下御出家之後始御參内。前駈四人。坊官四人。緇素後車各一兩云々。 |
読下し はれくも ほうっしょうじぜんじょうでんか ごしゅっけののちはじ ごさんだい
嘉禎四年(1238)七月小廿五日戊戌。リ陰り。
法性寺禪定殿下 御出家之後始めて御參内。
さきがけよにん ぼうかんよにん しそ こうしゃおのおのいちりょう うんぬん
前駈四人。坊官四人。緇素の後車
各 一兩と云々。
現代語嘉禎四年(1238)七月小二十五日戊戌。晴れたち曇ったり。法性寺禅定殿下九条道家様は、出家したあと初めての宮中への挨拶です。露払いが4人。寺務員の坊さん四人。後ろへ着く僧俗の牛車がそれぞれ1両だそうな。
嘉禎四年(1238)七月小廿七日庚子。六波羅御所造營所役事。無沙汰之國々相交之間。有其沙汰。早可令弁償之由。今日被仰下云々。 |
読下し ろくはら ごしょぞうえいしょえき こと さた な のくにぐに
あいまじ のあいだ そ さた あ
嘉禎四年(1238)七月小廿七日庚子。六波羅御所造營所役の事、沙汰無き之國々相交じる之間、其の沙汰有り。
はや べんしょうせし べ のよし きょう おお くださる うんぬん
早く弁償令む可き之由、今日仰せ下被ると云々。
現代語嘉禎四年(1238)七月小二十七日庚子。六波羅の屋敷を建築する割り当てについて、当てていない国々があるので、その手配りをしました。早く納税するようにと、今日命令を出されましたとさ。