吾妻鏡入門第卅二巻

嘉禎四年戊戌(1238)八月大

嘉禎四年(1238)八月大二日甲辰。將軍家爲令果年來御願給。於春日社壇。被供養一切經。導師東北院僧正圓玄。題名僧百口云々。

読下し                   しょうぐんけねんらい  ごがん  はたせし  たま    ため  かすがしゃだん  をい   いっさいきょう  くよう さる
嘉禎四年(1238)八月大二日甲辰。將軍家年來の御願を果令め給はん爲、春日社壇に於て、一切經を供養被る。

どうし   とうほくいん そうじょうえんげん だいみょうそう ひゃっく  うんぬん
導師は東北院 僧正圓玄。 題名僧は百口と云々。

現代語嘉禎四年(1238)八月大二日甲辰。将軍頼経様が以前からずうーっと思っているお願いを果たすため、藤原家氏神の春日社社殿で、一切経の奉納をしました。指導僧は東北院僧正円玄。一緒に唱える僧は百人だそうな。

嘉禎四年(1238)八月大十八日庚申。終日雨降。八所御靈祭延引云々。

読下し                     しゅうじつあめふ   はっしょ  ごれいさいえんいん   うんぬん
嘉禎四年(1238)八月大十八日庚申。終日雨降る。八所の御靈祭延引すと云々。

現代語嘉禎四年(1238)八月大十八日庚申。一日中雨です。八か所での霊を祀る祭は延期しましたそうな。

嘉禎四年(1238)八月大十九日辛酉。雨休止。然而時々又時雨灑。山城國惡黨新平太召禁之處逐電訖。仍付在所。可生虜之由。被相觸山城國大和國等住人。又可止双六之由。被仰下云々。」今日御靈祭也。將軍家於今出河殿。御見物間。渡物風流。結搆異例云々。

読下し                     あめきゅうし   しかれども ときどきまた しぐれ そそ   やましろのくに あくとう しんへいた め   きん    のところちくてん をはんぬ
嘉禎四年(1238)八月大十九日辛酉。雨休止す。然而、時々又 時雨灑ぐ。山城國の惡黨@新平太召し禁ずる之處逐電し訖。

よっ  ざいしょ  ふ    せいりょすべ  のよし やましろのくに やまとのくにら  じゅうにん あいふれらる
仍て在所に付し、生虜可き之由、山城國、大和國等の住人に相觸被る。

またすごろき  と     べ   のよし  おお  くださる    うんぬん
又双六を止める可き之由、仰せ下被ると云々。」

きょう   ごれいさいなり   しょうぐんけいまでがわどの  をい    ごけんぶつ あいだ わたりもの ふりゅう  けっこうれい こと      うんぬん
今日、御靈祭也。將軍家今出河殿に於て、御見物の間、渡物A、風流Bの結搆例に異なりと云々。

参考@悪党は、ここでは博打打ちらしい。
参考A渡物は、練り歩き。
参考B
風流は、棚にしつらえたミニ景色。これは山車かも知れない?

現代語嘉禎四年(1238)八月大十九日辛酉。雨が止みました。それでも時々時雨が降ってます。山城國の悪党の新平太を捕まえようとしたら逃げてしまいました。それで見つけて捕まえるように、山城國・大和國の地侍に命令しました。又、双六を禁止するように仰せになりました。」
今日、霊を祀るお祭りです。将軍頼経様は今出川殿西園寺公経(母方の祖父)の屋敷で見物してたら、練り歩く棚にしつらえた盆風景の作成が例年とは違って豪華なのだそうな。

嘉禎四年(1238)八月大廿五日丁夘。將軍家令參賀茂祗薗北野吉田等社給云々。

読下し                     しょうぐんけ   かも   ぎおん  きたの   よしだら  やしろ  まい  せし  たま    うんぬん
嘉禎四年(1238)八月大廿五日丁夘。將軍家、賀茂@、祗薗A、北野B、吉田C等の社に參ら令め給ふと云々。

参考@賀茂は、京都の上賀茂神社下鴨神社との併称が賀茂神社
参考A
祗薗は、京都の八坂神社
参考B
北野は、京都の北野天満宮
参考C
吉田は、京都の吉田神社

現代語嘉禎四年(1238)八月大二十五日丁卯。将軍頼経様は、賀茂神社・八坂神社・北野天満宮・吉田神社へお参りをしましたそうな。

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