吾妻鏡入門第卅二巻

暦仁元年(嘉禎四年)戊戌(1238)十一月大二十三日改元

嘉禎四年(1238)十一月大十四日乙酉。自去夜雨降。申斜乾方雷鳴兩三聲。爲天變御祈。維範朝臣奉仕天地災變祭。

読下し                       さんぬ よ よ   あめふ   さるのななめ いぬいかた  らいめい りょうみこえ
嘉禎四年(1238)十一月大十四日乙酉。去る夜自り雨降る。 申斜 乾方 に 雷鳴 兩三聲。

てんぺん おんいのり ため  これのりあそん てんちさいへんさい  ほうし
天變の御祈の爲、維範朝臣、天地災變祭を奉仕す。

現代語嘉禎四年(1238)十一月大十四日乙酉。夕べから雨ぐ降りです。午後四時過ぎに、西北で雷が二・三回。天の異変を鎮めるお祈りのため安陪維範さんが、天地災変祭を勤めました。

嘉禎四年(1238)十一月大十七日戊子。入夜雪降。於御所有和歌御會。前武州被參。眞昭。基綱。基政。親行等爲其衆。甲斐守泰秀經營。有盃酒置物等云々。

読下し                       よ   い   ゆきふ     ごしょ  をい   わか   おんえ あ    さきのぶしゅう まいられ
嘉禎四年(1238)十一月大十七日戊子。夜に入り雪降る。御所に於て和歌の御會有り。前武州 參被る。

しんしょう  もとつな  もとまさ  ちかゆきら そ   しゅうたり  かいのかみやすひで けいえい    はいしゅおきものら あ     うんぬん
眞昭、基綱、基政、親行等其の衆爲。 甲斐守泰秀 經營し、盃酒置物等有りと云々。

現代語嘉禎四年(1238)十一月大十七日戊子。夜になって雪が降りました。御所で雪見の和歌の会がありました。前武州泰時さんも来ました。真昭北条資時・後藤基綱・後藤基政・源親行達が参加者です。甲斐守長井泰秀が、負担用意して、酒や景品が用意されましたとさ。

暦仁元年(1238)十一月大廿八日己亥。去十六日除目聞書到來。將軍家有御覽。右大將〔兼平公〕云々。即所被遣御賀札也。

読下し                       さんぬ じうろくにち  じもく   ききがきとうらい    しょうぐんけ ごらん あ     うだいしょう 〔かねひらこう〕   うんぬん
暦仁元年(1238)十一月大廿八日己亥。去る十六日の除目の聞書到來す。將軍家御覽有り。右大將〔兼平公@と云々。

すなは おんが  れい つか  さる ところなり
即ち御賀の札を遣は被る所也。

参考@兼平公は、鷹司家の祖。近衛家実の四男。権大納言と兼任。

現代語暦仁元年(1238)十一月大二十八日己亥。先日の十六日の朝廷の人事異動を書いた文書が届きました。将軍頼経様がご覧になると近衛(鷹司)兼平さんが右大将とありましたとさ。すぐにお祝いの使者を送りました。

暦仁元年(1238)十一月大廿九日庚子。天霽。今曉。太白星祭以下被行御祈等云々。」今日。將軍家御參鶴岡八幡宮。未刻御出〔御束帶。御笏〕。維範朝臣候反閇。周防守光時役御劔。」今夕地震。

読下し                       そらはれ こんぎょう たいはくせいさいいげ  おいのりら  おこなはれ   うんぬん
暦仁元年(1238)十一月大廿九日庚子。天霽。今曉、太白星祭以下の御祈等を行被ると云々。」

きょう   しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん ひつじのこく ぎょしゅつ 〔おんそくたい おんしゃく〕  これのりあそんへんばい そうら   すおうのかみみつとき ぎょけん えき
今日、將軍家、鶴岡八幡宮へ御參。 未刻に 御出〔御束帶。御笏〕。維範朝臣反閇@に候う。周防守光時 御劔を役す。」

こんゆう ぢしん
今夕地震。

参考@反閇は、〔中国の夏の禹王が治水のため天下をまわり足が不自由になったという伝説による〕片足を引きずって歩くこと。また、その人。この故事にならって呪文を唱えつつ千鳥足で歩くこと。(2)貴人が外出するとき、陰陽師が行う邪気を払う呪法。禹歩(うほ)とも云う。

現代語暦仁元年(1238)十一月大二十九日庚子。空は晴です。今朝の夜明けに太白星金星などのお祈りを行いましたとさ。」
今日、将軍頼経様は、鶴岡八幡宮へお参りです。午後二時頃に出発です〔束帯に笏を持つ〕。安陪維範さんがお祓いの踊りをしました。周防守北条光時が刀持ちです。」夕方じしんがありました。

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