吾妻鏡入門第卅三巻

暦仁二年己亥(1239)正月小二月七日改元

暦仁二年(1239)正月小一日壬申。天霽。垸飯〔匠作御沙汰〕如例。御劔周防右馬助光時〔束帶〕御弓矢武藏守朝直〔布衣〕御行騰沓肥前守家連。
 一御馬〔置鞍〕相摸式部大夫時直   本間次郎左衛門尉信忠
 二御馬    相摸右近大夫將監時定 横地太郎兵衛長直
 三御馬    佐原太郎左衛門尉家胤 同四郎左衛門尉光連
 四御馬    佐原七郎左衛門尉政連 同六郎助連
 五御馬    相摸七郎時弘     橘右馬允公高

読下し                   そらはれ  おうばん 〔しょうさく  おんさた 〕  れい  ごと
暦仁二年(1239)正月小一日壬申。天霽。垸飯〔匠作の御沙汰〕例の如し。

ぎょけん  すおううまのすけみつとき  〔そくたい〕   おんゆみや  むさしのかみともなお 〔 ほい 〕  おんむかばきくつ ひぜんのかみいえつら
御劔は周防右馬助光時〔束帶〕、御弓矢は武藏守朝直〔布衣〕、御行騰沓は肥前守家連。

 いちのおんうま 〔くら  お   〕 さがみのしきぶのたいふときなお     ほんまのじろうさえもんのじょうのぶただ
 一御馬〔鞍を置く〕相摸式部大夫時直    本間次郎左衛門尉信忠@

  にのおんうま          さがみのうこんたいふしょうげんときさだ  よこちのたろうひょうえながなお
 二御馬     相摸右近大夫將監時定  横地太郎兵衛長直

 さんのおんうま          さわらのたろうさえもんのじょういえたね  どうしろうさえもんのじょうみつつら
 三御馬     佐原太郎左衛門尉家胤  同四郎左衛門尉光連

  しのおんうま           さわらのしちろうさえもんのじょうまさつら  どうろくろうすけつら
 四御馬     佐原七郎左衛門尉政連  同六郎助連

  ごのおんうま          さがみのしちろうときひろ           たちばなうまのじょうきんたか
 五御馬     相摸七郎時弘      橘右馬允公高

現代語暦仁二年(1239)正月小一日壬申。空は晴です。将軍への御馳走のふるまい〔匠作時房の負担〕は、いつもの通りです。刀の献上は周防右馬助北条光時〔束帯〕、弓矢の献上は武蔵守大仏流北条朝直〔狩衣〕、乗馬袴と乗馬沓は肥前守佐原家連。

一の馬〔鞍置〕は、相模式部大夫大仏流北条時直と本間次郎左衛門尉時忠
二の馬は、相模右近大夫将監時定と横地太郎兵衛長重
三の馬は、佐原太郎左衛門尉家胤と同じ佐原四郎左衛門尉光連
四の馬は、佐原七郎左衛門尉政蓮と同じ佐原六郎助蓮
五の馬は、相模七郎時弘と橘右馬允公高

解説@本間は、時房の被官化している。子孫は代官として佐渡へ。佐渡から酒田へ分家して本間様に。

暦仁二年(1239)正月小二日癸酉。垸飯〔前武州御沙汰〕。御劔右馬權頭政村〔束帶〕御調度若狹守泰村〔布衣〕御行騰秋田城介義景〔平礼帶劔〕
 一御馬 周防右馬助光時〔布衣帶劔〕    同修理亮時幸
 二御馬 北條左近大夫將監經時〔布衣帶劔〕 梶原右衛門尉景俊
 三御馬 陸奥掃部助實時          原左衛門尉忠康
 四御馬 大曾祢太郎兵衛尉長經       同次郎兵衛尉盛經
 五御馬 北條五郎兵衛尉時頼        弥次郎左衛門尉親盛

読下し                   おうばん 〔さきのぶしゅう  おんさた 〕
暦仁二年(1239)正月小二日癸酉。垸飯〔前武州の御沙汰〕

ぎょけん  うまごんのかみまさむら 〔そくたい〕   ごちょうど  わかさのかみやすむら 〔 ほい 〕  おんむかばき あいだのじょうすけよしかげ 〔 ひれ たいけん〕
御劔は右馬權頭政村〔束帶〕、御調度は若狹守泰村〔布衣〕、御行騰は 秋田城介義景 〔平礼帶劔〕

 いちのおんうま  すおうのうまのすけみつとき 〔 ほい  たいけん〕       おな   しゅりのすけときゆき
 一御馬 周防右馬助光時〔布衣に帶劔〕    同じき修理亮時幸

  にのおんうま ほうじょうさこんたいしょうげんつねとき 〔 ほい  たいけん〕   かじわらのうえもんのじょうかげとし
 二御馬 北條左近大夫將監經時〔布衣に帶劔〕 梶原右衛門尉景俊

 さんのおんうま むつかもんのすけさねとき                     はらのさえもんのじょうただやす
 三御馬 陸奥掃部助實時          原左衛門尉忠康

  しのおんうま  おおそねのいやたろうひょうえのじょながつね         どうじろうひょうえのじょうもりつね
 四御馬 大曾祢太郎兵衛尉長經@       同次郎兵衛尉盛經A

  ごのおんうま  ほうじょうのごろうひょうえのじょうときより             いやじろうさえもんのじょうちかもり
 五御馬 北條五郎兵衛尉時頼        弥次郎左衛門尉親盛

参考@大曽根長経は、藤九郎盛長―大曽祢時長┬長泰―長経@
                     └盛経
A

現代語暦仁二年(1239)正月小二日癸酉。将軍への御馳走のふるまい〔前武州泰時の負担〕。刀の献上は右馬権頭北条政村〔束帯〕。弓矢は若狭守三浦泰村〔狩衣〕。乗馬袴は秋田城介義景〔平烏帽子に太刀を佩く〕。
 
一の馬は、周防右馬助名越流北条光時〔狩衣に太刀を佩く〕と同修理亮北条時幸
 二の馬は、北条左近大夫将監北条経時〔狩衣に太刀を佩く〕と梶原右衛門尉景俊
 三の馬は、陸奥掃部助金沢流北条実時と原左衛門尉忠康
 四の馬は、大曽根太郎兵衛尉長経
と同じ次郎兵衛尉盛
 五の馬は、北条五郎兵衛尉時頼と弥次郎左衛門尉親盛

暦仁二年(1239)正月小三日甲戌。天霽。垸飯〔遠江守沙汰〕。御劔右馬權頭〔布衣〕御調度周防右馬助光時。御行騰内藤七郎左衛門尉盛繼。
 一御馬〔置鞍〕遠江式部大夫時章  小見左衛門尉親家
 二御馬    南條八郎兵衛尉忠時 同平四郎
 三御馬    陸奥掃部助實時   梶原右衛門尉景俊
 四御馬    平新左衛門尉盛時  同四郎
 五御馬    遠江五郎時兼    飯田五郎家重
垸飯以後。將軍家御行始。入御前武州御亭云々。

読下し                   そらはれ  おうばん 〔とおとうみのかみ さた 〕
暦仁二年(1239)正月小三日甲戌。天霽。垸飯〔遠江守の沙汰〕。

ぎょけん  うまごんのかみ 〔 ほい 〕   ごちょうど  すおうのうまのすけみつとき  おんむかばき ないとうのしちろうさえもんのじょうもりつぐ
御劔は右馬權頭〔布衣〕、御調度は周防右馬助光時、御行騰は 内藤七郎左衛門尉盛繼。

 いちのおんうま 〔くら  お   〕 とおとうみのしきぶのたいふときあき     おみのさえもんのじょうちかいえ
 一御馬〔鞍を置く〕遠江式部大夫時章     小見左衛門尉親家@

  にのおんうま          なんじょうのはちろうひょうえのじょうさだとき  どうへいしろう
 二御馬     南條八郎兵衛尉忠時    同平四郎

 さんのおんうま          むつのかもんのすけさねとき          かじわらのうえもんのじょうかげとし
 三御馬     陸奥掃部助實時      梶原右衛門尉景俊

  しのおんうま           たいらのしんさえもんのじょうもりとき        どうしろう
 四御馬     平新左衛門尉盛時     同四郎

  ごのおんうま          とおとうみのごろうときかね            いいだのごろういえしげ
 五御馬     遠江五郎時兼       飯田五郎家重

おうばん いご  しょうぐんけ みゆきはじ   さきのぶしゅう おんてい い   たま    うんぬん
垸飯以後、將軍家御行始め。前武州の御亭へ入り御うと云々。

参考@小見左衛門尉親家は、富山県富山市小見。朝時の祗候人(同年5月2日条)

現代語暦仁二年(1239)正月小三日甲戌。空は晴。将軍への御馳走のふるまい〔遠江守名越流北条朝時の負担〕。刀の献上は右馬権頭北条政村〔狩衣〕。弓矢は周防右馬助名越流北条光時。乗馬袴は内藤七郎左衛門尉盛継。
 一の馬〔鞍置〕は、遠江式部大夫名越流北条時章と小見左衛門尉親家
 二の馬は、南条八郎兵衛尉忠時と同じ南条平四郎
 三の馬は、陸奥掃部助北条実時と梶原右衛門尉景俊
 四の馬は、平真左衛門尉盛時と同じ四郎
 五の馬は、遠江五郎北条時兼と飯田五郎家重
ふるまいの後、将軍頼経様のお出かけ始めで、前武州泰時邸へ行かれましたとさ。

暦仁二年(1239)正月小五日丙子。御弓始也。
 射手
一番 駿河五郎左衛門尉〔三浦〕 佐貫左衛門次郎
二番 佐原四郎左衛門尉〔同〕  大河戸太郎兵衛尉
三番 南條八郎兵衛尉      平左衛門四郎
四番 藤澤四郎         本間源内左衛門尉
五番 横溝六郎         原三郎
六番 小笠原三郎        神地四郎

読下し                   おんゆみはじ なり
暦仁二年(1239)正月小五日丙子。御弓始め也。

   いて
 射手

いちばん  するがのごろうさえもんのじょう〔みうら〕     さぬきのさえもんじろう
一番 駿河五郎左衛門尉〔三浦〕 佐貫左衛門次郎

 にばん  さわらのしろうさえもんのじょう〔 どう 〕     おおかわどのたろうひょうえのじょう
二番 佐原四郎左衛門尉〔同〕  大河戸太郎兵衛尉

さんばん  なんじうのはちろうひょうえのじょう       たいらのさえもんしろう
三番 南條八郎兵衛尉      平左衛門四郎

よちばん  ふじさわのしろう                 ほんまのげんないさえもんのじょう
四番 藤澤四郎         本間源内左衛門尉

 ごばん  よこみぞのろくろう                はらのさぶろう
五番 横溝六郎         原三郎

ろくばん  おがさわらのさぶろう              かみちのしろう
六番 小笠原三郎        神地四郎

現代語暦仁二年(1239)正月小五日丙子。弓始め式です。
 射手は、
一番は、駿河五郎左衛門尉三浦資村 対 佐貫左衛門次郎
二番は、佐原四郎左衛門尉三浦光連 対 大川戸太郎兵衛尉広行
三番は、南条八郎兵衛尉忠時    対 平左衛門四郎
四番は、藤沢四郎清親       対 本間源内左衛門尉忠直
五番は、横溝六郎義行       対 原三郎
六番は、小笠原三郎        対 神地四郎

暦仁二年(1239)正月小十一日壬午。雨雪降。將軍家御參鶴崗八幡宮。午二點御出〔御束帶。御車〕。陸奥掃部助役御劔。佐渡判官基政。上野判官朝廣等供奉。」今日。陸奥國郡郷所當事有沙汰。是准布之例。沙汰人百姓等。私忘本進之備。好錢貨。所濟乃貢。追年不法之由。依有其聞。白河關以東者。於下向輩所持者。不及禁制。又絹布麁惡甚無謂。本樣可令弁濟之旨被定。以匠作奉書被觸仰前武州〔泰時〕。

読下し                      みぞれふ    しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん うまのにてん ぎょしゅつ 〔おんそくたい おくるま〕
暦仁二年(1239)正月小十一日壬午。雨雪降る。將軍家 鶴崗八幡宮へ御參。 午二點 御出〔御束帶。御車〕

むつのかもんのすけ ぎょけん えき    さどのほうがんもとまさ  こうづけのほうがんともひろら ぐぶ
 陸奥掃部助 御劔を役す。佐渡判官基政、上野判官朝廣等 供奉す。」

きょう    むつのくに   ぐんごう  しょとう  こと さた あ     これじゅんぷのたぐ    さたにんひゃくせいら わたくし ほんしんのそなえ わす   せんか  この
今日、陸奥國の郡郷の所當の事沙汰有り。是准布之例い、沙汰人百姓等、私し本進之備を忘れ、錢貨を好み、

しょさい  のうぐ   とし  おっ  ふほう のよし  そ   きこ  あ     よっ   しわかわのせき いとうは   げこう  やから  しょじ   をい  は   きんせい およばず
所濟の乃貢、年を追て不法之由、其の聞へ有るに依て、白河關 以東者、下向の輩の所持に於て者、禁制に及不@

また  けんぷ  そあくはなは いわ  な     もと  よう  べんさいせし べ   のむねさだ  らる   しょうさくほうしょ  もっ  さきのぶしゅう 〔やすとき〕   ふ   おお  らる
又、絹布の麁惡甚だ謂れ無し。本の樣に弁濟令む可し之旨定め被る。匠作奉書を以て前武州〔泰時〕に觸れ仰せ被るA

参考@下向の輩の所持に於て者、禁制に及不は、意味が分かり難いが、鎌倉から下向の者以外の所持を禁じている。
参考A匠作奉書を以て前武州に觸れ仰せ被るは、祐筆が将軍の意を承り書いたのが奉書で、時房に渡され、時房から泰時に渡ったようだ。

現代語暦仁二年(1239)正月小十一日壬午。ミゾレが降りました。将軍頼経様は鶴岡八幡宮へお参りです。十一時半頃に出発です〔束帯で牛車〕。陸奥掃部助実時が太刀持ちです。佐渡判官後藤基政や上野判官結城朝広達がお供をしました。」

今日、東北太平洋岸地方の年貢について検討されました。これは本来金銭代わりの布なのに、徴税担当の百姓が勝手に本来の規則を忘れ銭に頼って納税を年々ごまかしていると噂があるので、白河の関より先へ行く他国者を除いて、銭の所持はいけない。又、納税用の絹の質を下げても良いなんて話はない。前の通りに納税するように決めました。将軍の意向を右筆が書いた奉書で時房さんから泰時さんに命令されました。

解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。午なら11時〜11:24を一点、11:24〜11:48を二点、11:48〜2:12を三点、12:12〜12:36を四点、12:36〜13:00を五点。

暦仁二年(1239)正月小十七日戊子。霽。將軍家二所御精進始。

読下し                     はれ  しょうぐんけ にしょ  ごしょうじんはじ
暦仁二年(1239)正月小十七日戊子。霽。將軍家二所の御精進始め。

現代語暦仁二年(1239)正月小十七日戊子。晴れました。将軍頼経様は、箱根・走湯山の二所権現参りの精進潔斎を始めました。

暦仁二年(1239)正月小十九日庚寅。小雨降。及終夜。今日京都使者參。去年十二月廿八日宜秋門院崩御〔春秋六十七云々〕。

読下し                      こさめふ     よもすがら およ    
暦仁二年(1239)正月小十九日庚寅。小雨降る。終夜に及ぶ。

きょう きょうと  ししゃまい    きょねんじうにがつにじうはちにち せんしゅうもんいんほうぎょ  〔しゅんじゅうろくじうしち うんぬん〕
今日京都の使者參る。去年 十二月廿八日に宜秋門院@崩御す〔春秋六十七と云々〕

参考@宜秋門院は、九条兼実の娘の任子。

現代語暦仁二年(1239)正月小十九日庚寅。一晩中小雨が降りました。今日、京都からの使いが来ました。去年の十二月二十八日に宜秋門院が亡くなりました〔67才です〕。

暦仁二年(1239)正月小廿七日戊戌。リ。入夜雨雪。至半更属霽。今日巳刻。自二所御皈着。一昨日廿五日曉昏。三嶋伊豆兩社御奉幣云々。

読下し                     はれ  よ   い   みぞれ  はんそう  いた  はれ  ぞく
暦仁二年(1239)正月小廿七日戊戌。リ。夜に入り雨雪。半更に至り霽に属す。

きょう みのこく  にしょ よ   ごきちゃく    おとといにじうごにちぎょうこん みしま いず りょうしゃ  ごほうへい    うんぬん
今日巳刻、二所自り御皈着。一昨日廿五日曉昏。三嶋伊豆兩社に御奉幣すと云々。

現代語暦仁二年(1239)正月小二十七日戊戌。晴れです。夜になって霙が降り、夜中に晴れました。今日、箱根・走湯山の二所権現参りからお帰りになりました。一昨日25日の未明に三島大社と走湯山神社に幣を奉納したそうです。

二月へ

吾妻鏡入門第卅三巻

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