吾妻鏡入門第卅三巻

延應元年己亥(1239)四月大

延應元年(1239)四月大十三日壬子。今日被經評議。有被仰六波羅條々。
一僧徒兵杖禁制事
 度々被下 綸旨畢。猶爲自由濫吹者。任法可行者。
一近年四一半徒黨興盛事
 於京中者。申別當。仰保官人。可破却其家。至邊土者。申本所可停止。凡隨被召禁。申給其身。可令下進關東者。
一所召置京都犯人事
 付大番衆并下向便宜。可下關東者。
一武士召取犯人住宅事
 觸申大理。可爲保官人沙汰。於片土者。可爲本所計者。
一於篝屋打留物具事
 可被充行其守護人者。
一諸社神人等付在京武士宿所。或振神寳或致狼藉事
 爲懲傍輩。可被召下張本於關東者。
  以上事書如此。相加文章。被載御教書云々。

読下し                    きょう ひょうぎ  へ らる     ろくはら  おお  らる じょうじょうあ
延應元年(1239)四月大十三日壬子。今日評議を經被る。六波羅へ仰せ被る條々 有り。

ひとつ そうと  へいじょう きんぜい こと
 一 僧徒の兵杖を禁制の事

    たびたびりんじ  くだされをはんぬ なお じゆう らんすいたらは  ほう  まか  おこな べ  てへ
  度々 綸旨を 下被畢。 猶自由の濫吹爲者、法に任せ行う可し者り。

ひとつ きんねん しはんいち  ととうこうじょう  こと
 一 近年 四一半の徒黨興盛の事

    けいちゅう をい  は  べっとう  もう    ほう  かんじん  おお   そ   いえ はきゃくすべ    へんど  いた    は   ほんじょ  もう  ちょうじすべ
  京中に於て者、別當に申し、保の官人に仰せ、其の家を破却可し。邊土に至りて者、本所に申し停止可し。

    およ  めしいまし らる   したが   そ   み   もう  たま      かんとう  くだ  しん せし  べ   てへ
  凡そ召禁め被るに隨い、其の身を申し給はり、關東へ下し進じ令む可し者り。

ひとつ め   お   ところ きょうと  とがにん  こと
 一 召し置く所の京都の犯人の事

    おおばんしゅうなら    げこう   びんぎ  ふ     かんとう  くだ  べ   てへ
   大番衆 并びに下向の便宜に付し、關東へ下す可し者り。

ひとつ  ぶし   とがにん じゅうたく  めしと   こと
 一 武士が犯人の住宅を召取る事

    だいり   ふ   もう    ほう  かんじん   さた たるべ     へんど  をい  は   ほんじょ  はか  たるべ   てへ
  大理@に觸れ申し、保の官人の沙汰爲可し。片土に於て者、本所の計り爲可し者り。

ひとつ かがりや  をい    う   とど  もののぐ  こと
 一 篝屋に於ての打ち留む物具の事

    そ   しゅごにん   あ  おこなは  べ   てへ
  其の守護人に充て行被る可し者り。

ひとつ しょしゃ  じんにんらざいきょうぶし  すくしょ  つ       ある    しんぽう  ふる  ある    ろうぜきいた  こと
 一 諸社の神人等在京武士の宿所に付きて、或ひは神寳を振い或ひは狼藉致す事

    ぼうはい  こらし     ため  ちょうほんをかんとう  めしくだされ  べ   てへ
  傍輩を懲しめん爲、張本於關東へ召下被る可し者り。

    いじょう  ことがきかく  ごと    もんじょう あいくは    みぎょうしょ  の   らる    うんぬん
  以上の事書此の如く、文章に相加へ、御教書に載せ被ると云々。

参考@大理は、檢非違使の別当。

現代語延応元年(1239)四月大十三日壬子。今日、政務会議を行いました。六波羅探題へ通知する内容の条文を決めました。
一つ 坊主の武装を禁止する事について
   何度も朝廷から命令が出されています。それでも身勝手な行動をしている者は、朝廷の命令通りに実施しなさい。
一つ 最近四一半の博打打が盛んな事について
   京都市街については檢非違使の長官を通じて保(町内の単位)の管理人(保奉行)に命令して、その巣窟となっている家を壊させなさい。郊外については、最上級荘園管理者に申し入れて止めさせ、逮捕させて、その身柄を受け取って、鎌倉へ護送し突き出すように伝えなさい。
一つ 留置している京都の犯罪人の事について
   京都警護に行っている大番の侍が鎌倉へ戻ってくるついでに鎌倉へ連行してくるよう伝えなさい。
一つ 武士が犯罪人の住宅を横取りする事について
   檢非違使の長官を通じて
保(町内の単位)の管理人(保奉行)に任せる事。郊外については、最上級荘園管理者に任せるよう伝えなさい。
一つ 犯罪防止用に街角に設けたかがり火を焚いている交番に備え付けて置く武器の事について
   そこを担当管理している侍に負担させるよう伝えなさい。
一つ 諸神社の武装下部などが、京都駐留の武士の宿所に対して、又は神様の宝を振り回して穢れを振りまいて威したり、乱暴狼藉する事について
   仲間に示しを付けるために、張本人は鎌倉へ連行するように伝えなさい。
以上の書き出した通り、文書に書き加えて命令書に載せましたとさ。

延應元年(1239)四月大十四日癸丑。爲信濃民部大夫入道。大和前司。山城前司。甲斐前司。太田民部大夫。内記太郎等奉行。被下條々制符。
一關東御家人申京都。望補傍官所領上司事
一惣地頭押妨所領内名主職事
一官爵所望申請關東御一行事
一鎌倉中僧徒恣諍官位事
  以上可停止者。
一可令搦禁勾引人并賣買人倫輩事
 守嘉祿元年十月廿九日 宣旨。可有其沙汰者。
一奴婢雜人事〔付所生男女事〕
 寛喜三年餓死之比。爲飢人於出來之輩者。養育之功勞。可爲主人計之由。被定置畢。就其時減直之法。可被糺返之旨。沙汰出來之條。甚無其謂。但兩方令和与。以當時直法。至糺返者。非沙汰之限者。

読下し                     しなのみんぶたいふにゅうどう  やまとのぜんじ  やましろぜんじ  かいぜんじ   おおたみんぶたいふ
延應元年(1239)四月大十四日癸丑。信濃民部大夫入道、大和前司、山城前司、甲斐前司、太田民部大夫、

ないきのたろうら ぶぎょう  な    じょうじょう  せいふ  くださる
内記太郎等奉行と爲し、條々の制符を下被る。

ひとつ かんとうごけにん きょうと  もう    しょりょう ぼうかん  じょうし  ぶ         のぞ  こと
一 關東御家人京都へ申し。所領の傍官の上司に補されんと望む事

ひとつ そうぢとうしょりょうない みょうしゅしき おうぼう    こと
一 惣地頭所領内の名主職を押妨する事(貞永式目三十八条)

ひとつ かんしょく しょもう  かんとう  ごいちぎょう もう   う      こと
一 官爵の所望は關東の御一行を申し請くる事(貞永式目三十九条)

ひとつ かまくらちう  そうと ほしいまま かんい あらそ こと
一 鎌倉中の僧徒 恣に 官位を諍う事(貞永式目四十条)

    いじょうちょうじすべ  てへ
  以上停止可し者り。

ひとつ こういんにんなら   じんりん  ばいばい   やから から いまし せし  べ   こと
一 勾引人并びに人倫を賣買する輩を搦め禁め令む可き事

    かろくがんえんじうがつじうくにち  せんじ   まも    そ    さた あ   べ   てへ
  嘉祿元年十月廿九日の宣旨を守り、其の沙汰有る可き者り。

ひとつ  ぬひ  ぞうにん  こと   〔 つ        しょせい  なんにょ  こと〕
一 奴婢@雜人Aの事。〔付けたり所生の男女の事〕(貞永式目四十一条)

    かんぎさんえん がし のころ  うえびと  な   いできた  のやから  をい  は   よういく のこうろう  しゅじん はか  たるべ    のよし  さだ  お か  をはんぬ
  寛喜三年餓死之比、飢人と爲し出來る之輩に於て者、養育之功勞は主人の計り爲可き之由、定め置被れ畢。

    そ   とき  げんじき のほう  つ    ただ  かえされ  べ   のむね   さた いできた  のじょう  はなは そ  いわ  な
  其の時の減直之法に就き、糺し返被る可き之旨、沙汰出來る之條、甚だ其の謂れ無し。

    ただ りょうほう わよ せし    とうじ   じきほう  もっ    ただ  かえ    いた  ば    さたのかぎり あらずてへ
  但し兩方和与令め、當時の直法を以て、糺し返しに至ら者、沙汰之限に非者り。

参考@奴婢は、女性の奴隷と男性の奴隷。日本の場合は、欧米の奴隷制度と違い奴隷同士所帯を持つ等かなり自由な面もあったらしいので奴隷的下部とした。
参考A雜人は、雑用をする下部だが、主人に隷属しているので、隷属的雇用人とした。

現代語延応元年(1239)四月大十四日癸丑。信濃民部大夫入道行然二階堂行盛、大和前司伊東祐時、山城前司本間元忠、甲斐前司長井泰秀、太田民部大夫康連、内記太郎などが担当して、条文の規則を作って公布しました。
一つ 鎌倉御家人が京都の公家などに申し込んで、領地の同僚の上司に任命されたいと希望する事
一つ 広域管理の総地頭が、荘園内の名主の領地を奪い取る事
一つ 官位・官職を望む場合の鎌倉幕府の推薦状を強要する事
一つ 鎌倉在住の僧侶が、勝手に京都へ官位を望みっこする事
   以上を禁止する
一つ 人さらいや人身売買する連中を逮捕する事
   嘉禄1年10月19日の朝廷の命令書を守り、その通りに実行する事
一つ 奴婢(奴隷的下部)や雑人(隷属的雇用人)の事〔附録 その人達の子供の事〕
   寛喜3年飢饉で餓死者が多かったころ、飢え死にしそうな人を助けて食わせる労力は主人の役目であると、決めてあります。その時に、借金を減らし元の地主に土地が戻される地主変換取得法で処理できるという事は、全く根拠がありません。但し双方で和解のうえ、現在の地主返還取得法に基づいて返還されるなら、干渉するものではありません。

解説A雑人とは、平安時代から鎌倉時代において使われた用語で、「身分が低い者 」を意味する。だが、用法としては一般庶民を指す場合と主家に隷属して雑事に従事して 動産として売買・譲渡の対象とされた賎民を指す場合がある。ウィキペディア

延應元年(1239)四月大十五日甲寅。天リ。月蝕不正現。御祈助僧正嚴海。宿曜道助法印珎譽也。蝕現否有相論。一方聊虧之由。有令申之人。又全無虧。他州蝕歟之旨。有其説云々。

読下し                     そらはれ げっしょく せいげんせず  おいの   すけのそうじょうげんかい すくようどう  すけのほういんちんよなり
延應元年(1239)四月大十五日甲寅。天リ。 月蝕 正現不。御祈りは助僧正嚴海。 宿曜道は助法印珎譽也。

しょくあらわ  いな  そうろんあ
蝕現るや否や相論有り。

いっぽいささ か     のよし  もうせし  の ひとあ     またまった か     な     たしゅう  しょくかのむね  そ   せつあ    うんぬん
一方聊か虧くる之由、申令む之人有り。又全く虧くる無し。他州の蝕歟之旨、其の説有りと云々。

現代語延応元年(1239)四月大十五日甲寅。空は晴れです。月食が現れませんでした。月蝕用のお祈りは助僧正厳海。星祭の祈祷は助法印珎与です。月食が出るかどうか論争がありました。部分食だと云う人もあり、全然かけませんよ、よその地方の事じゃないですかと、言う人もありましたとさ。

延應元年(1239)四月大十六日乙夘。辰剋小地震。

読下し                     たつのこく こぢしん
延應元年(1239)四月大十六日乙夘。辰剋 小地震。

現代語延応元年(1239)四月大十六日乙卯。午前八時頃小さな地震がありました。

延應元年(1239)四月大廿三日壬戌。天霽。戌刻。乾方有妖氣。光芒指巽。長八尺。廣一尺。色白赤。雖無本星。其光映天如野火。御所中上下見怪之。經一時消訖。

読下し                     そらはれ いぬのこく いぬいかた ようけ あ     こうぼうたつみ さ     なが はっしゃく ひろ いっしゃく いろ  しろあか
延應元年(1239)四月大廿三日壬戌。天霽。 戌刻、 乾方に妖氣有り。光芒巽を指す。長さ八尺。廣さ一尺。色は白赤。

ほんぼしな    いへど   そ  ひかりてん は    のび   ごと    ごしょちう  じょうげこれ  みあやし   いっとき  へ   き をはんぬ
本星無しと雖も、其の光天に映へ野火の如し。御所中の上下之を見怪む。一時を經て消へ訖。

現代語延応元年(1239)四月大二十三日壬戌。空は晴れました。午後8時頃、東北に怪しい現象がありました。光が西南を指しています。長さは2.4m、広さは30cmで色は白っぽい赤です。元になる星はありませんが、その光は空に輝き、まるで野火のようです。御所中の上下の人々がこれを見て怪しみました。2時間ほどで消えてしまいました。

疑問超新星爆発か隕石か?定家の明月記に1054の超新星爆発(かに星雲)が記されているらしい(未確認)。実は翌日の記事で「雲」と言ってる。

延應元年(1239)四月大廿四日癸亥。天リ。辰一點。召司天之輩。去夜奇雲事被尋問。維範。リ賢等朝臣不窺見之由申之。承和元暦彗星者。無本星須臾消云々。今度分明可窺旨。直被仰付云々。」今日有評定。諸社神人狼藉事。雖相觸本所。不事行之由。六波羅被申之。仍被經沙汰。無所遁者。可召下其身於關東。凡三ケ度相觸之後。於不叙用者。可令注申。依之他事雖訴訟出來。永不可有沙汰之旨。被仰遣于相摸守。越後守之許云々。

読下し                     そらはれ たつのいってん してんのやから め     さんぬ よ   きうん  ことじんもさんさる
延應元年(1239)四月大廿四日癸亥。天リ。 辰一點、司天之輩を召し、去る夜の奇雲の事尋問被る。

これのり  はるかたら  あそんうかが み ざる のよしこれ  もう
維範、リ賢等の朝臣窺い見不之由之を申す。

じょうわ  げんりゃく すいせい は  ほんぼしな  しゅゆ       き     うんぬん  このたび ぶんめい うかが べ   むね  じき  おお  つ   らる    うんぬん
承和、元暦の彗星@者、本星無く須臾Aにして消ゆと云々。今度は分明に窺う可き旨、直に仰せ付け被ると云々。」

きょうひょうじょうあ     しょしゃ  じんにんろうぜき  こと  ほんじょ  あいふる  いへど   ことおこなはざ のよし  ろくはら これ  もうさる
今日評定有り。諸社の神人狼藉の事、本所に相觸ると雖も、事行不る之由、六波羅之を申被る。

よっ   さた   へられ  のがる ところな    ば   そ   み を かんとう  めしくだ  べ
仍て沙汰を經被、遁る所無くん者、其の身於關東へ召下す可し。

およ  さんかど あいふる  ののち  じょようせざる をい  は   ちう  もうせし  べ
凡そ三ケ度相觸る之後、叙用不に於て者、注し申令む可し。

これ  よっ  た   ことそしょういできた   いへど   なが   さた あ   べからずのむね さがみのかみ えちごのかみ のもとに おお  つか  さる    うんぬん
之に依て他の事訴訟出來ると雖も、永く沙汰有る不可之旨、相摸守、越後守 之許于仰せ遣は被ると云々。

参考@元暦(1184-1185)の彗星は、吾妻鏡では見当たらない。これまでの間に彗星が書かれているのは、第九巻文治五年(1189)二月大廿八日第十九巻承元四年(1210)九月大卅日第二十四巻承久元年(1219)十二月小廿九日。第二十六巻貞應元年(1222)八月二日十三日十五日廿日廿三日第二十八巻貞永元年(1232)閏九月小四日八日九日第二十八巻貞永元年(1232)十月大五日第三十三巻延應二年(1240)正月大二日四日六日七日八日九日十日十一日十五日十八日十九日
参考A須臾は、A暫くの間。@10の15乗分の1。1000兆分の1の単位。逡巡の1/10、瞬息の10倍。少数の単位、分・厘・毛・糸・忽・微・繊・沙・塵・埃・渺・漠・模糊・逡巡・須臾・瞬息・弾指・刹那・六徳・虚空・清浄・阿頼耶・阿摩羅・涅槃寂静(計24単位)

現代語延応元年(1239)四月大二十四日癸亥。空は晴です。午前七時過ぎに天文方の連中を呼びつけ、昨晩の怪しい雲について質問されました。維範と晴賢さん達は見ていないと云いました。承和(834-848)元暦(1184-1185)の彗星は、本体の星が見えなくてしばらくして消えたそうです。今回はちゃんと見届けるように、直接云いつけましたとさ。」
今日、政務会議がありました。諸神社の武装下部などの乱暴狼藉については、
最上級荘園管理者に通知しても、全然実施しないと、六波羅から言ってきました。そこで、将軍の決裁を受けて、言い逃れが出来ないのなら、その身柄を鎌倉へ連行しなさい。又、三度命じたにもかかわらず実施しない所は文書に書き出しなさい。こうしておけば、この事で訴訟してきても、永久に対象にしないと、相摸守重時・越後守時盛に言い送りましたとさ。

解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。辰なら7時〜7:24を一点、7:24〜7:48を二点、7:48〜8:12を三点、8:12〜8:36を四点、8:36〜9:00を五点。

延應元年(1239)四月大廿五日甲子。天リ。未刻。前武州〔泰時〕俄御違例。戌刻以後。御心神殊違亂云々。諸人群參。織部正光重爲將軍御使參入。于時匠作亭〔前武州向顏〕酒宴亂舞折節也。前武州御病惱之由。雖有告申之輩。匠作敢不被停止其事。又不被進使者之間。宿老祗候人等諍申之。匠作曰。如予之遊戯歡樂者。武州御在世之程也。彼不例雖似白地事。若及大事者。恃何仁惠猶可越世哉。永令隱遁。更不可好興宴。且依存最末之儀。不避此座。諷諌之仁還催感涙云々。

読下し                     そらはれ ひつじのこく さきのぶしゅう 〔やすとき〕 にはか ごいれい いぬのこくいご   ごしんしんこと  いらん    うんぬん
延應元年(1239)四月大廿五日甲子。天リ。 未刻、 前武州〔泰時〕俄に御違例。戌刻以後、御心神殊に違亂すと云々。

しょにんぐんさん   おりべのしょうみつしげ しょうぐん  おんし  な  さんにゅう
諸人群參す。 織部正光重 將軍の御使と爲し參入す。

ときにしょうさくてい 〔さきのぶしゅう  こうがん〕 しゅえんらんぶ  おりふしなり
時于匠作亭〔前武州の向顏〕酒宴亂舞の折節也。

さきのぶしゅう ごびょうのう のよし  つ   もう  のやからあ   いへど   しょうさくあえ  そ   こと  ちょうじせられず
 前武州 御病惱之由、告げ申す之輩有ると雖も、匠作敢て其の事を停止被不。

また  ししゃ  すすられずのあいだ すくろう しこうにんら これ  いさ  もう     しょうさくい
又、使者を進被不之間、宿老祗候人等之を諍め申す。匠作曰はく。

よ   ごと  の ゆうぎかんらくは  ぶしゅう ございせ のほどなり
予が如き之遊戯歡樂者、武州御在世之程也。

か   ふれいあからさま こと  に      いへど    も   だいじ  およ  ば   なん  じんけい たの    なお よ  こ   べ     や
彼の不例白地の事に似たりと雖も、若し大事に及ば者、何の仁惠を恃みて猶世を越ゆ可けん哉。

なが  いんとんせし   さら きょうえん この  べからず  かつう さいまつのぎ  ぞん      よっ    かく  ざ   さ   ざる
永く隱遁令め、更に興宴を好む不可。且は最末之儀と存ずるに依て、此の座を避け不と。

ふうかん のじんかへっ かんるい もよお  うんぬん
諷諌之仁還て感涙を催すと云々。

現代語延応元年(1239)四月大二十五日甲子。空は晴です。午後2時頃、前武州泰時さんが急に具合が悪くなりました。午後八時頃には、意識も無くなったそうです。皆駆けつけました。織部正伊賀光重が将軍頼経様の使いとして見舞に来ました。
その時間、匠作時房さん(泰時さんの向かい)は、大宴会の最中でした。「泰時さんが病気ですよ。」と伝えた者が居りましたが、時房さんはあえて宴会を止めませんでした。又、見舞いの使いも出しませんでしたので、年配の御家人や仕えている人たちが、忠告しました。時房さんが言うには「私がやっているような大騒ぎの宴会は、泰時さんが生きているからです。その病気は突然の事だけど、もし重大な事になったならば、何をもってこの世に出る事が来出ましょうか。ずうっとおとなしく隠居して、宴会なんかやりません。そう思えば、これが最後の宴会になるかもしれませんので、席を外さないのです。」それを聞いた注意した人は涙を流して感心しましたとさ。

延應元年(1239)四月大廿六日乙丑。リ。寅刻以後雨降。先之妖氣出見。軸星有無。及司天相論云々。」今日。前武州不例御事未復本心云々。

読下し                     はれ とらのこく いご あめふ    これ  さき    ようけしゅつげん    じくせい   うむ   してんそうろん  およ    うんぬん
延應元年(1239)四月大廿六日乙丑。リ。寅刻以後雨降る。之に先んじ妖氣出見す。軸星の有無。司天相論に及ぶと云々。」

きょう   さきのぶしゅう ふれい  おんこといま ほんしん  ふく      うんぬん
今日、前武州の不例の御事未だ本心に復せずと云々。

現代語延応元年(1239)四月大二十六日乙丑。晴れです。午前4時以降雨が降りました。その前におかしな現象が起きました。彗星の軸になる星の有無で、天文方が言い争いになりましたとさ。」
今日、泰時さんの病気は未だ回復しないようです。

五月へ

吾妻鏡入門第卅三巻

inserted by FC2 system