吾妻鏡入門第卅三巻

延應元年己亥(1239)七月大

延應元年(1239)七月大二日己巳。被召陰陽道七人於御所。各賜御劍一腰。是禪定殿下御不例致御祈祷之上。去五月飛脚參着之時。不可有殊御事之由。占申之故也。凡陰陽道事。内々有御沙汰。被賞翫司天之輩云々。

読下し                   おんみょうどうしちにんを ごしょ  めされ おのおの ぎょけんひとこし たま
延應元年(1239)七月大二日己巳。陰陽道七人於御所に召被、 各 御劍一腰を賜はる。

これ ぜんじょうでんか   ごふれい   ごきとう いた   のうえ  さんぬ ごがつ ひきゃくさんちゃくのとき  こと    おんことあ  べからずのよし  うらな もう  のゆえなり
是、禪定殿下@の御不例を御祈祷致す之上、去る五月 飛脚參着之時、殊なる御事有る不可之由、占い申す之故也。

およ おんみょうどう こと  ないない   ごさた あ       してんのやから しょうがんさる   うんぬん
凡そ陰陽道の事、内々に御沙汰有りて、司天之輩を賞翫被ると云々。

参考@禪定殿下は、将軍頼経の父、九条道家。

現代語延応元年(1239)七月二日己巳。陰陽師七人を御所に呼びつけて、それぞれに刀一振りを与えました。これは、禅定殿下九条道家さんの病気を祈祷したし、去る5月に伝令が着いた時、大事はありませんと占ったのが当たったからです。陰陽師の人達に内々に通知があって、天文方の連中を褒めていたのです。

延應元年(1239)七月大十五日壬午。於御所御持佛堂。被讚嘆盂蘭盆經。信濃法印道禪爲導師。佐房。廣時等取布施云々。」今日。前武州以田地。爲不断念佛料所。限未來際。令寄附于信濃國善光寺給。當寺事。年來御皈依之上。今度御不例之時。殊依被恃弥陀引攝。及此儀。圓全法橋草寄進状云々。
  寄進
   信濃國善光寺不断念佛用途事
  水田陸町陸段。在當國小泉庄室賀郷内。念佛衆拾貳人〔在定器量人〕
 一田疇配分事
  右。六町六段内。六町者。念佛禪侶之免給也。六段者。佛性灯油之料田也。然則校量免田六町於十二分。可充人別五段於十二人。其外相募六段於料田。被副半田於人別。長以此地利。專可備供具。各爲人別之營。可致月別之勤。夫燈油參斗陸升。佛性參斗陸升也。則分十二人。可充十二月。但有沃壤上腴之上田。有薄地下流之下田。悉計會勝劣。配分多少也。
 一免除不退事
  右。於當庄知行之職者。一門互雖交替。至料田寄附之條者。万世不可違乱。而後々代々之際。子々孫々之中。背此契約。若令顛倒。上則長漏西方世尊之憐。下亦可結本願施主之恨者也。
 一結衆補任事
  右。先可論根機之信不信。強勿嫌材智之堪不堪。夫談人過則悪言來身上。企敵論且濫吹遮眼前。然則兼誓心操於桑門。可結良縁於華界〔矣〕。
 一交衆座列事
  右。雖夏臈高年之禪室。莫成上首之思。雖楚才碩學之智峯。可存下身之禮。然則誼譁之根元無萌。覺樹之花報有開〔矣〕。
 一禪侶一味事
  右。當結衆之會者。十二人之人數也。仍以七人以上之議可爲衆議。以五人以下之議。可爲異議。然則縱雖材儇之人。可随衆議。何况柴愚之人。勿就異議〔矣〕。
 一連日不參事
  右。雖他行。雖籠居。不參可過兩月者。置代官可致其勤。雖重病。雖服暇。不參可及百日者。觸結衆可随其儀。
 一相讓所職事
  右。雖有一師之讓。可依諸人之議。是故吹虚之初。涓其仁而可補。相傳之後。露彼短而勿改。
 以前各守七ケ條之式目。可調一結衆之誠心。殊則奉始二品禪尼。可導數輩先君。兼又始自四祖二親。欲助亡息夭孫。乃至自他法界。平等利益。抑此勤者。起自女檀藤氏之中情。雖始聊爾。至于龍華樹佛之下生。不可退轉 。同存此趣。可令勤行之状如件。
  延應元年七月十五日                 正四位上行前武藏守平朝臣

読下し                     ごしょ   おんじぶつどう  をい    うらぼんきょう   さんたんさる
延應元年(1239)七月大十五日壬午。御所の御持佛堂に於て、盂蘭盆經を讚嘆被る。

しなののほういんどうぜんどうしたり  すけふさ  ひろときら ふせ   と    うんぬん
信濃法印道禪導師爲。佐房、廣時等布施を取ると云々。」

きょう  さきのぶしゅうでんち  もっ    ふだんねんぶつ りょうしょ な     みらいさい  かぎ     しなののくにぜんこうじに きふ せし  たま
今日、前武州田地を以て、不断念佛@料所Aと爲し、未來際を限りB、信濃國善光寺于寄附令め給ふ。

とうじ   こと  ねんらい ごきえ  のうえ  このたび  ごふれい のとき  こと   みだ  いんじょう たのまる    よっ    かく  ぎ   およ
當寺の事、年來御皈依之上、今度の御不例之時、殊に弥陀の引攝を恃被るに依て、此の儀に及ぶ。

えんぜんほっきょう きしんじょう  そう   うんぬん
圓全法橋 寄進状を草すと云々。

     きしん
  寄進す

      しなののくに ぜんこうじ ふだんねんぶつ ようとう  こと
   信濃國 善光寺 不断念佛 用途Cの事

    すいでん ろくちょうろくたん とうごく こいずみのしょう むろがごうない  あ    ねんぶつしゅう じうににん 〔さだ    きりょう  ひとあ    〕
  水田 陸町陸段、當國 小泉庄D室賀郷E内に在り。念佛衆 拾貳人〔定めし器量の人在らん〕

参考@不断念佛は、念仏を絶やさない。
参考A
料所は、料金としての年貢を納める田地。
参考B
未來際を限りは、未来の際(きわ・はて)までで永久にの意味。
参考C
用途は、費用。
参考D小泉庄は、長野県小県郡小泉郷(現上田市。市内の一部に小泉の地名が残る)。
参考E室賀郷は、長野県上田市上下室賀。泰時領。

  ひとつ でんちうはいぶん こと
 一  田疇配分の事

    みぎ ろくちょうろくたん うち  ろくちょうは  ねんぶつ ぜんりょの めんきゅうなり  ろくたんは  ぶっしょうとうゆ の りょうでんなり
  右。六町六段@の内、六町者、念佛 禪侶之免給A也。 六段者、佛性灯油之 料田也。

  しか    すなは こうりょう めんでん ろくちょうをじうにぶん    にんべつ  ごたんを じうににん  あ     べ
 然りて則ち校量 免田 六町於十二分し、人別に五段於十二人に充てる可し。

  そ   ほか ろくたんをりょうでん  あいつの   はんでんをにんべつ そ   られ  なが  かく  ち   り   もっ    もっぱ  ぐぐ   そな    べ
 其の外 六段於料田に相募り、半田於人別に副へ被、長く此の地の利を以て、專ら供具に備へる可し。

  おのおの じんべつのいとな  ため  つきべつのつと   いた  べ     それ とうゆ  さんとろくしょう  ぶっしょう さんとろくしょうなり
  各 人別之營みの爲、月別之勤めを致す可し。夫燈油は參斗陸升。佛性は參斗陸升也。

  すなは じうににん  わ     じうにつき   あ     べ
 則ち十二人に分け、十二月に充てる可し。

  ただ  よくじょうじょうゆのじょうでんあ    はくち かりゅうの げでんあ    ことごと しょうれつ けいかい   たしょう  はいぶん    なり
 但し沃壤上腴之上田有り。薄地下流之下田有り。悉く勝劣を計會し、多少を配分する也。

参考@六町六段は、一町が十反11,880u。六段は六反、この頃の一反は360坪1,188u。一坪は3.3u。但し、秀吉以後は一反は300坪なので現在では一町は約1ha。
参考A
免給は、免税。

  ひとつ めんじょふたい  こと
 一 免除不退の事

    みぎ とうしょうちぎょう のしき  をい  は   いちもんたが   こうたい   いへど   りょうでん きふのじょう  いた    は   ばんせいいらん  べからず
  右、當庄知行之職@に於て者、一門A互いに交替すと雖も、料田寄附之條に至りて者、万世違乱す不可。

  しか   のちのちだいだいのきわ   しし そんそんのうち  こ   けいやく  そむ      も   てんとうせし
 而して後々代々之際、子々孫々之中、此の契約に背きて、若し顛倒令めば、

  うえ  すなは なが  さいほうせそん のあわれ   も     した  また ほんがんせしゅ のうらみ むす  べ  ものなり
 上は則ち長く西方世尊之憐みに漏れ、下は亦 本願施主B之恨を結ぶ可き者也。

参考@知行之職は、地頭職。
参考A
一門は、北条一族。
参考B
本願施主は、私泰時。

  ひとつ けっしゅぶにん  こと
 一 結衆補任の事

    みぎ  ま   こんき のしんふしん  ろん  べ     あなが   ざいち のかんふかん  きら  なか
  右、先ず根機之信不信を@論ず可き。強ちに材智之堪不堪を嫌う勿れA

  それひと  とが  だん   すなは あくごん み  うえ  きた  てき  ろん  くわだ   かつう らんすい がんぜん さえ
 夫人の過を談ぜば則ち悪言身の上に來り。敵に論を企てば且は濫吹 眼前に遮ぎる。

   しか   すなは かね  しんそうを そうもん  ちか   りょうえんを かかい  むず  べ    〔と〕
 然らば則ち兼て心操於桑門Bに誓ひ、良縁於華界Cに結ぶ可き〔矣〕

参考@信不信をは、信心深さを。
参考
A材智之堪不堪を嫌う勿れは、才能の有無をはずすな。
参考B桑門は、仏門。
参考C華界は、蓮の花の咲く世界。

  ひとつ こうしゅ  ざれつ  こと
 一 交衆の座列の事

    みぎ  げろう こうねん のぜんしつ いへど  じょうしゅ のおも    な   なか    そさいせきがく のちほう いへど    げしん のれい  ぞん  べ
  右、夏臈@高年之禪室と雖も、上首之思ひを成す莫れ。楚才碩學之智峯と雖も、下身之禮を存ず可し。

  しか   すなは けんか のこんげんきざ  な     かくじゅ のかほうひら  あ      〔と〕
 然らば則ち誼譁之根元萌し無く、覺樹之花報開き有らん〔矣〕

参考@夏臈は、夏安吾(夏の期間一所に籠って修行する事)を終えると年を加える。

  ひとつ ぜんりょいちみ  こと
 一 禪侶一味の事

    みぎ  とうけつじゅの え は   じうににんの にんずうなり  よっ  しちにんいじょうの ぎ   もっ  しゅうぎ  な   べ
  右、當結衆之會者、十二人之人數也。仍て七人以上之議を以て衆議と爲す可し。

   ごにん いげ の ぎ   もっ     いぎ   な   べ
 五人以下之議を以て、異議と爲す可し。

   しか   すなは たと  ざいけん のひと いへど   しゅうぎ  したが べ     なに   いはん さいぐ のひと   いぎ   つ   なか   〔と〕
 然らば則ち縱い材儇@之人と雖も、衆議に随う可し。何をか况や柴愚之人、異議に就く勿れ〔矣〕

参考@は、@軽佻浮薄なAずる賢い。

  ひとつ れんじつふさん こと
 一 連日不參の事

    みぎ  たぎょう いへど   ろうきょ いへど    ふさんりょうげつ  す   べく  ば   だいかん お   そ   つと    いた  べ
  右、他行と雖も、籠居と雖も、不參兩月を過ぐ可ん者、代官を置き其の勤めを致す可し。

  じゅうびょう いへど  ふくか  いへど   ふさんひゃくにち およべく  ば  けつじゅ  ふ   そ   ぎ   したが べ
 重病と雖も、服暇と雖も、不參百日に及可ん者、結衆に觸れ其の儀に随う可し。

  ひとつ しょしき  あいゆず  こと
 一 所職を相讓る事

    みぎ  いっしの ゆず  あ    いえど   しょにん の ぎ   よ   べ     これゆえ  すいきょの はじ    そ   じん  えら  て ぶ   べ
  右、一師之讓り有りと雖も、諸人之議に依る可し。是故に吹虚之初め、其の仁を涓び而補す可し。

   そうでんの のち  か   たん  あらは て かえ  なか
 相傳之後、彼の短を露し而改る勿れ。

いぜんおのおのしちかじょうのしきもく  まも   ひとつ けっしゅうのせいしん ととの   べ
以前 各 七ケ條之式目を守り、一に結衆之誠心を調へる可し。

こと  すなは  にほんぜんに  はじ たてまつ  すうやから せんくん みちび べ
殊に則ち二品禪尼@を始め奉り。數輩の先君を導く可し。

かね また  しそ  にしん よ   はじ      ぼうそくようそん  たす    ないし じたほっかい   びょうどう りやく      ほっ
兼て又、四祖二親A自り始めて、亡息夭孫を助け、乃至自他法界に、平等利益せんと欲す。

そもそ こ  つとめは  にょだんとうし の ちうじょうよ   おこ    りょうじ  はじ     いへど    りゅうげじゅぶつのげしょうに いた        たいてん べからず
抑も此の勤者、女檀藤氏之中情自り起りB。聊爾に始まるCと雖も、龍華樹D之下生于至るまで、退轉す不可。

おな    こ  おもむき ぞん    ごんじょうせし べ  のじょうくだん ごと
同じく此の趣を存じ、勤行令む可し之状件の如し。

    えんのうがんねんしちがつじうごにち                                しょうしいのじょう ぎょう さきのむさしのかみ たいらのあそん
  延應元年七月十五日                 正四位上 行 前武藏守 平朝臣

参考@二品禪尼は、北条政子。
参考A四祖二親は、両親とその両親(祖父祖母)。
参考B
女檀藤氏之中情自り起りは、宇都宮(藤氏)の分家の平田善光の娘が建てた。
参考C聊爾に始まるは、思いつきで始まった。
参考D龍華樹佛は、弥勒菩薩。弥勒菩薩がその下で竜華三会を開くとされる木。枝は竜が百宝を吐くように百宝の花を開くという。

現代語延応元年(1239)七月十五日壬午。御所の将軍個人専用の仏様を祀る持仏堂で、盂蘭盆経を歌い上げました。信濃法印道禅が指導僧です。大江佐房と少輔木工助広時がお布施を渡しました。」

今日、前武州泰時さんは、田圃の年貢で絶やさず念仏を唱え続ける不断念仏灯明料の年貢田として、未来際を限り(期限無しで)信濃國善光寺に寄付しました。この寺については、以前から信じてその力にすがる帰依をしているばかりか、今度の御病気の時、特に阿弥陀様の御導きを願ったので、この寄付をすることにしました。円全法橋が寄進の文章を下書きしました。

 寄付します 信濃國善光寺の絶やさず念仏を唱え続ける不断念仏灯明料の費用について
 水田 六町六反は、この国の小泉の庄室賀郷内にあります。念仏関係者二十六人〔さぞかしちゃんとした人が居るでしょう〕

 一つ 田や畴(うね)の配分について
 右は、六町六反のうち、六町は念仏の坊さん達への免税地です。六反は仏にささげる灯明の料金としての年貢地です。そしてその免税地六町を十二で割って、一人五反づつ十二人に割り当てなさい。その他に六反を灯明としての年貢地として半分を人毎に分け与え、長くこの地からの年貢で仏様に供えてください。それぞれの人毎の生活のため、月別に勤めをしなさい。その灯明用の油に三斗六升。坊さんの食い扶持に三斗六升です。つまり十二人に分けて12月に宛ててください。ただし、肥沃な肥えた良い田もあります。地が薄くて良くない悪田もあります。それらの上下を計算して平均に配分します。

 一つ 免税を取りやめない事
 右は、小泉庄を領地とする地頭職は、北条家一門の誰に相続されても、
不断念仏灯明料として寄付した事は、後の世までも変えてはいけない。しかし、時が移り変わって子孫の中で、この約束を破って、もし踏み倒した場合は、上にはお釈迦様に身華あれ、下にはこれを願った先祖泰時に恨みを抱かれるでしょう。

 一つ 勤めをする順番を任命することについて
 右は、まずその人の信心深さを調べなさい。安易に才能の有無を外してはならない。それに人の悪口を云う奴は我が身にふりかかる。敵対する事を考えれば、すぐに乱闘が起こるでしょう。そう云う事なので普段から心身を落ち着けて仏門に誓って、極楽浄土と良い縁を結ぶべきです。

 一つ 坊さん達の席順について
 右は、夏安吾を幾つも超えた高年齢の坊さんだからと言って、自分は上位の者だと思わないように。才能があって勉学が出来る人であっても、下の者への礼儀を忘れてはいけない。そうすればきっと喧噪の根源が出てくる気配もなくなり、悟りの花も咲く可能性があります。

 一つ 坊さん達の意見の方向について
 右は、順番を決めた坊さんが十二人です。そこで七人の意見が揃ったら決定としなさい。五人以下の場合は破綻としなさい。そうれなのでたとえ智恵があり賢い人であっても、決定に従いなさい。ましてや賢くない人は破綻についてはいけない。

 一つ 毎日来れない場合
 右は、他へ出かける時も、修行に籠る時も、双月を過ぎる欠席は、代理者をおいてその勤めをさせなさい。重病であっても、服喪期間であっても、100日以上になる時は、衆議にかけてその決定に従いなさい。

 一つ 坊さんの職を相続について
 右は、一師匠からの譲りがあっても、皆の議決によるように。それなので推薦する前に、その議決の人を選んで任命しなさい。相続後はその任期を縮めて変えてはならない。

それぞれこの七条を守って、一つにまとまるように心がけること。特に尼御台所政子様を始めに拝んで、それから数人の先祖を供養しなさい。それに両親とその両親四祖父母から供養し始め、亡くなった息子達や早世の孫を救い、此岸・彼岸の仏教世界に全員に御利益がありますよう願う。そもそもこの善光寺の勤めは、宇都宮氏の分家の平田善光の娘の思いつき信心から始まったのですが、弥勒菩薩が現れる時まで、止めてはならない。この気持ちを理解して部卿に勤めるように申すのは、このとおりです。
 延応元年七月十五日   正四位上行前武蔵守平朝臣泰時

延應元年(1239)七月大廿日丁亥。及深更。夜靜月明。將軍家俄渡御于佐渡前司基綱宅。被用御車。御共人々折節八九人計也。所謂周防右馬助。陸奥掃部助。河内守〔三浦〕。毛利藏人。兵庫頭。織部正。駿河四郎左衛門尉〔同〕。同五郎左衛門尉。上野判官〔結城〕等也。於彼所。召勝長壽院兒童等。有管絃舞曲等興遊云々。

読下し                    しんそう  およ    よしずかつきあか  しょうぐんけにはか さどぜんじもとつな  たくに わた  たま    おくるま  もち  らる
延應元年(1239)七月大廿日丁亥。深更に及び、夜靜月明り。將軍家俄に佐渡前司基綱の宅于渡り御う。御車を用い被る。

おとも  ひとびとおりふしはっくにんばか  なり
御共の人々折節八九人計り也。

おはゆる すおううまのすけ  むつかもんのすけ  かわちのかみ 〔みうら〕     もうりくらんど ひょうごのかみ おりべのしょう するがのしろうさえもんのじょう 〔おなじ〕 
所謂、周防右馬助、陸奥掃部助、河内守〔三浦〕、毛利藏人、兵庫頭、織部正、駿河四郎左衛門尉〔同〕

おな    ごろうさえもんのじょう  こうづけのほうがん〔ゆうき〕 らなり
同じき五郎左衛門尉、上野判官〔結城〕等也。

か  ところ をい    しょうちょうじゅいん  じどうら  め     かんげんぶきょうら  こうゆうあ    うんぬん
彼の所に於て、勝長壽院の兒童等を召し、管絃舞曲等の興遊有りと云々。

現代語延応元年(1239)七月二十日丁亥。夜中になって、静かな月明かりの中、将軍頼経様は突然、佐渡前司後藤基綱の屋敷へ出かけました。牛車を着きました。お供の人は、たまたま居合わせた九人だけです。それは、周防右馬助光時・陸奥掃部助実時・河内守三浦光村・毛利蔵人季光・兵庫守藤原定員・織部正伊賀光重・駿河四郎左衛門尉三浦家村・同じ五郎左衛門尉三浦資村・上野判官結城朝広です。その場所で、勝長寿院の稚児達を呼んで、演奏や踊りを楽しみましたとさ。

延應元年(1239)七月大廿五日壬辰。越中國東條。河口。曾祢。八代等保事。爲請所。以京定米百斛。可備進之旨。地頭等去年十一月献連署状於禪定殿下〔道家〕。仍可停止國使入部并勅院事以下國役之由。同十二月國司加廳宣。就之。去正月任國司廳宣。地頭等寄進状。爲東福寺領。停止 勅院事國役等。爲地頭請所。可令備進年貢百石。兼又當國宮嶋保雖爲當家領。被糺返國領之由。被下禪定殿下政所御下文。是爲寄附彼寺。所被相傳也。仍被申其趣於將軍家之間。可存其旨之由。今日被奉御返事云々。

読下し                     えっちゅうのくに とうじょう かわぐち  そね   やしら ら   ほう  こと  うけしょ  な
延應元年(1239)七月大廿五日壬辰。 越中國 東條@、河口A、曾祢B、八代C等の保Dの事、請所Eと爲し、

きょう さだ        こめひゃっこく もっ    そな  しん  べ   のむね  ぢとうら きょねんじういちがつ れんしょじょうを ぜんじょうでんか 〔みちいえ〕   けん
京の定めとして米百斛を以て、備へ進ず可し之旨、地頭等去年 十一月 連署状於 禪定殿下〔道家〕に献ず。

よっ  こくし  にゅうぶなら   ちょくいん  こと いげ   くにやく  ちょうじすべ  のよし  おな    じうにがつ こくしちょうせん  くは
仍て國使の入部并びに勅院の事以下の國役を停止可き之由、同じき十二月國司廳宣を加う。

これ  つ     さんぬ しょうがつこくし ちょうせん  ぢとうら  きしんじょう  まか     とうふくじりょう  な     ちょくいん こと   くにやくら   ちょうじ
之に就き、去る正月國司の廳宣、地頭等の寄進状に任せ、東福寺F領と爲し、勅院の事、國役等を停止す。

 ぢとう うけしょ  な     ねんぐひゃっこく  そな  しん  せし  べ 
地頭請所と爲し、年貢百石を備へ進じ令む可し。

かね  また  とうごくみやじまのほう とうけりょうたる いへど   こくりょう ただ  かえさる  のよし  ぜんじょうでんか まんどころ くだしぶみ  くださる
兼て又、當國宮嶋保Gは當家領爲と雖も、國領に糺し返被る之由、 禪定殿下 政所 御下文を下被る。

これ  か   てら   きふ   ため  そうでんさる ところなり  よっ  そ おもむきを しょうぐんけ  もうさる  のあいだ  そ   むね  ぞん  べ   のよし   きょう  ごへんじ  たてまつらる  うんぬん
是、彼の寺へ寄附の爲、相傳被る所也。仍て其の趣於 將軍家に申被る之間、其の旨を存ず可き之由、今日御返事を奉被ると云々。

参考@東條は、富山県射水市の北陸本線「越中大門駅」付近の旧大島町と旧大門町。
参考
A河口は、富山県射水市港町の万葉線「庄川口駅」付近。
参考B曾祢は、富山県射水市三日曽根。
参考C
八代は、富山県氷見市北八代に箭代神社あり。
参考D
は、国衙領が保で民間(親王や公卿)領が庄。
参考E請所は、年貢を徴収して一定量を決めて収める役を請け負う固定相場制。他に「検見取り」毎年収穫を検査するので変動相場制とがある。
参考F東福寺は、元九条兼実の屋敷地に道家が建立したので、道家の寺である。
参考G宮嶋保は、富山県小矢部市島らしい。

現代語延応元年(1239)七月二十五日壬辰。越中國東条・川口・曽祢・八代等の国衙領の保について、定量納付の請所として、京都側が決めた米百石を用意してお送りしますと、地頭達が去年11月に連名で九条道家さんに出しました。そこで道家様の荘園として、国衙の役人の干渉や院の庁からの賦役を止めるように、同十二月に国司が誓約を書き加えました。これによって、今年の正月に国司の誓約書と地頭達の寄進状を手形に道家さん建立の東福寺の領地として、院の庁の賦役や國衙役人の干渉を止めさせました。地頭の定量納付の請所として、年貢米百石を用意して納付します。しかしながら越中國宮島保は、幕府の領地だけれども、国衙に直して返すと、道家さんは自分の家政から命令書を出しました。これはその寺へ他を寄付したお返しだからです。そこでその内容を将軍頼経様に云ってきたので、その事を承知して今日返事を出しましたとさ。

解説越中の地頭等は国衙の賦役を遁れる為に、国衙を押さえる道家の絶大な権力を利用した。道家はその代わりに幕僚を國衙に返して不平不満を抑えた。将軍は父の利益のために、幕府領を減らした。

延應元年(1239)七月大廿六日癸巳。今日評定。犯科人事。於輕罪之輩者。被行赦之時雖被免。至重科之族者。不可然之由被定。次強盜并重科之輩。雖被禁獄。申出其身。可進關東之由。可被仰六波羅者。次依違背地頭之咎。所召置之庄官百姓等事。自今以後不可誡。早可追出居住所云々。

読下し                     きょう ひょうじょう   はんとがにん  こと  かる  つみのやから をい  は   しゃ  おこなはれ のとき めんぜられ  いへど
延應元年(1239)七月大廿六日癸巳。今日評定す。犯科人の事、輕い罪之輩に於て者、赦を行被る之時 免被ると雖も、

ちょうかのやから いた    は   しか  べからずのよしさだ  らる
重科之族に至りて者、然る不可之由定め被る。

つぎ  ごうとうなら    ちょうかのやから  きんごくさる   いへど   そ   み   もう  いだ    かんとう  しん  べ   のよし   ろくはら   おお  らる  べ   てへ
次に強盜并びに重科之輩、禁獄被ると雖も、其の身を申し出し、關東へ進ず可き之由、六波羅に仰せ被る可し者り。

つぎ  ぢとう   いはい     のとが  よっ    めしおか   ところの しょうかん ひゃくしょうら こと  いまよ   いご いまし べからず はや  きょじゅう ところ おいいだ  べ     うんぬん
次に地頭に違背する之咎に依て、召置れる所之 庄官 百姓等の事、今自り以後誡む不可。早く居住の所を追出す可しと云々。

現代語延応元年(1239)七月二十六日癸巳。今日、政務会議を行いました。犯罪人について、軽い罪の者は、恩赦の時許されるけれども、重罪の連中については、適用しないと決めました。
次に強盗や重犯罪者は投獄されるけれども、その身柄を檢非違使に申し出て、関東へ連行するように、六波羅探題へ伝える事にしました。
次に地頭の命令をきかない罪によって、逮捕されている荘園の従業員や百姓については、現在以後は逮捕してはいけない。早く元の居住地へ追い出すようにとの事です。

延應元年(1239)七月大廿八日乙未。去十一日以後。連夜天變出現云々。

読下し                     さんぬ じういちにち いご  れんやてんぺん しゅつげん  うんぬん
延應元年(1239)七月大廿八日乙未。去る 十一日 以後、連夜天變 出現すと云々。

現代語延応元年(1239)七月二十八日乙未。先日に十一日以後、毎晩天体の異変が現れているそうな。

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吾妻鏡入門第卅三巻

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