延應元年己亥(1239)九月大
延應元年(1239)九月大十一日丁丑。諸國地頭等以山僧并商人借上輩補代官事。一切被停止。是爲貪當時之利潤。不顧後日之煩。以如此輩。補置代官之間。偏忘公物備。只廻私用計之由。依有其聞也。 |
読下し しょこく じとうら やまそう なら しょうにんかりあげ やから もっ
だいかん ぶ こと いっさいちょうじさる
延應元年(1239)九月大十一日丁丑。諸國の地頭等山僧@并びに商人借上Aの輩を以て代官に補す事、一切停止被る。
これ とうじの りじゅん むさぼ ため ごじつのわずら かえりみざる かく ごと
やから もっ だいかん
ぶ お のあいだ
是、當時之利潤を貪らん爲、後日之煩ひを顧不、此の如き輩を以て、代官に補し置く之間、
ひとへ くもつ そなえ わす ただ し はかり もち めぐ のよし そ きこ あ よっ なり
偏に公物の備を忘れ、只私の計を用い廻らす之由、其の聞へ有るに依て也。
参考@山僧は、比叡山の僧侶だが祠堂銭と云って高利貸しをしている。
参考A借上は、質屋。
現代語延応元年(1239)九月大十一日丁丑。諸国の地頭が、比叡山の坊主や、商人・質屋の連中を使って代官に任命することを一切禁止する。これは営利を追求するために後の事を心配しないので、このような連中を代官をして任命しておくから、公の納税の準備をせずに、ただただ個人の利益の事しか考えていないのだと、耳に入ってきているからです。
延應元年(1239)九月大十六日壬午。京都道々之輩。号武士作手。好付沙汰之由。被聞食及之間。可停止之旨。被仰六波羅云々。 |
読下し きょうと みちみちのやから ぶし
さくて ごう この さた
つ のよし
延應元年(1239)九月大十六日壬午。京都の道々之輩@、武士の作手Aと号し、好みて沙汰を付ける之由、
きこ め およ さる
のあいだ ちょうじすべ のむね
ろくはら おお らる うんぬん
聞へ食し及ば被る之間、停止可き之旨、六波羅へ仰せ被ると云々。
参考@道々之輩は、細工職人。
参考A作手は、作手注文。荘園における農民の耕作権。
現代語延応元年(1239)九月大十六日壬午。京都の細工職人の連中が、武士の荘園の耕作者だと云って、その権力を乱用していると噂が入っているので、止めさせるように、六波羅探題へ申し伝えましたとさ。
延應元年(1239)九月大廿一日丁亥。尾張國住人中嶋左衛門尉宣長者。承久逆乱之時。爲官軍之由有沙汰。被収公所領。然而當時候御所中。頻依愁申之。於屋敷田畠者可付渡之旨。今日被仰付西郡中務丞云々。 |
読下し おわりのくに
じうにん なかじまさえもんのじょうのぶなが は じょうきゅう
ぎゃくらんのとき
延應元年(1239)九月大廿一日丁亥。尾張國
住人 中嶋左衛門尉宣長@者、 承久 逆乱之時、
かんぐん
たるのよし さた あ しょりょう しゅうこうさる
官軍
爲之由沙汰有りて、所領を収公被る。
しかれども とうじごしょちう そうら しき これ うれ もう
よっ やしき でんぱく をい
は ふ わた べ のむね
然而、當時御所中に候ひ、頻りに之を愁ひ申すに依て、屋敷田畠に於て者付し渡す可き之旨、
きょう
にしごおりなかつかさのじょう おお つけらる うんぬん
今日 西郡中務丞 に仰せ付被ると云々。
参考@中嶋左衛門尉宣長は、現愛知県名古屋市中区らしい。
現代語延応元年(1239)九月大二十一日丁亥。尾張國の在地武士の中島左衛門尉宣長は、承久の乱の時に、官軍についていたと判断され、領地を取り上げられました。しかし、現在将軍御所に勤めており、さかんにその事を嘆き訴えるので、屋敷とその付属している田畑(門田)だけは、返してあげるように、今日、錦織中務丞に命じましたとさ。
延應元年(1239)九月大卅日丙申。霽。今日評議。御家人妻改嫁事。致所領之成敗。行家中之雜事。於令現形者。可有其誡之由被定云々。」入夜。於御所有和歌御會。題。行路紅葉。曉擣衣。九月盡。右馬權頭。北條左親衛。相摸三郎入道。伊賀式部大夫入道。兵庫頭。佐渡判官等各献懷紙。 |
読下し はれ
きょう ひょうぎ ごけにん
つまあらた か こと
延應元年(1239)九月大卅日丙申。霽。今日評議す。御家人の妻改め嫁する事@。
しょりょうのせいばい いた かちうに ぞうじ おこな げんぎょうせし をい は そ いさ あ べ のよしさだ らる うんぬん
所領之成敗を致しA、家中之雜事を行ひB、現形令むに於て者、其の誡め有る可き之由定め被ると云々。」
参考@改め嫁する事は、再嫁すること。
参考A所領之成敗を致しは、前夫の所領を処分。
参考B家中之雜事を行ひは、前夫の実家の。
よ い ごしょ をい わか おんえ あ だい こうろこうよう あかつぎ とうい ながつきづくし
夜に入り、御所に於て和歌の御會有り。題は、行路紅葉。曉の擣衣C。九月盡。
うまごんのかみ ほうじょうさしんえい さがみのさぶろうにゅうどう いがのしきぶたいふにゅうどう ひょうごのかみ さごのほうがんら おのおの かいし けん
右馬權頭、北條左親衛、 相摸三郎入道、伊賀式部大夫入道、
兵庫頭、 佐渡判官等 各 懷紙を献ず。
参考C擣衣は、砧で衣を打つこと。
現代語延応元年(1239)九月大三十日丙申。晴れました。今日、政務会議がありました。御家人の妻が再嫁について、前夫の領地を処分したり、前夫の実家の財産を処分したりと、現状を変える場合は、それはいけないと決めましたとさ。」
夜になって、御所で和歌の会がありました。題は「行く秋の紅葉」「夜明けの衣打ち」「九月づくし」。右馬権頭北条政村・北条左近将監経時・相模三郎入道北条資時・伊賀式部大夫入道光宗・兵庫頭定員・佐渡判官後藤基綱達が、それぞれ書いた紙を差し出しました。