吾妻鏡入門第卅三巻

延應元年己亥(1239)十一月大

延應元年(1239)十一月大一日丙寅。々剋。西方雷電數度。午尅以後震動。大風甚雨。近日。信濃國司初任檢注事有其沙汰。而諏訪五月會并御射山頭人等企訴訟。相當神事頭番之輩。有預免許之先例。但被優神事。雖被免其年。以後年於被遂行其節者。不可有免除詮之由云々。仍今日有評定。被尋問先例於當社大祝信濃權守信重云々。

読下し                     とらのこく せいほう  らいでんすうこえ うまのこく いご  しんどう  おおかぜはなは あめ
延應元年(1239)十一月大一日丙寅。々剋、西方に雷電數度。午尅以後は震動。大風甚だ雨。

きんじつ しなののこくししょにんけんちう  こと そ   さた あ     しか     すわ    さつきえ なら     みさやま  とうにんらそしょう  くはだ
近日、信濃國司@初任檢注Aの事其の沙汰有り。而るに諏訪の五月會并びに御射山頭人等訴訟を企つ。

しんじ   とうばん  あいあた  のやから  めんきょ  あずか のせんれいあ
神事の頭番に相當る之輩、免許に預る之先例有り。

ただ  しんじ  ゆう  られ  そ   とし  ゆるさる   いへど   こうねん  もっ  そ   とき  すいこうされ   をい  は   めんじょ  せんあ   べからずのよし  うんぬん
但し神事に優じ被、其の年は免被ると雖も、後年を以て其の節を遂行被るに於て者、免除の詮有る不可之由と云々。

よっ  きょうひょうじょうあ       せんれいを とうしゃおおはふり しなのごんのかみのぶしげ たず  とはれ    うんぬん
仍て今日評定有りて、先例於 當社大祝 信濃權守信重 に尋ね問被ると云々。

参考@信濃國司は、源頼輔で宇田源氏。
参考A初任檢注は、着初任検注とも云い、着任時に検地をする。

現代語延応元年(1239)十一月大一日丙寅。午前4時頃、西の空に雷が数回。昼過ぎは振動も加わり、大雨がひどい物でした。近いうちに信濃国司源頼輔着任の検地について命令がありました。それなのに諏訪大社の五月節句担当坊主と神領狩猟儀式地御射山の筆頭等が訴訟を越しました。神事を担当する当番に当たった者は、税などを免除される先例があります。但し、神事のお蔭で担当の年は免除されますけど、それ以後の年に以前の担当を持ち出しても、免除されることは無いとの事だそうな。そこで、協議の結果、先例を諏訪大社の筆頭神主の信濃権守諏訪信重に問い合わせましたとさ。

延應元年(1239)十一月大二日丁夘。北條五郎兵衛尉有嫁娶之儀。毛利藏人大夫入道西阿息女也。今夜被渡西阿宿所云々。

読下し                     ほうじょうのごろうひょうえのじょう よめとり の ぎ あ     もうりのくらんどたいふにゅうどうせいあ そくじょなり
延應元年(1239)十一月大二日丁夘。 北條五郎兵衛尉 嫁娶之儀有り。毛利藏人大夫入道西阿の息女也。

こんや せいあ  すくしょ  わた    うんぬん
今夜西阿の宿所へ渡ると云々。

現代語延応元年(1239)十一月大二日丁卯。北条五郎兵衛尉時頼の嫁取り式がありました。毛利蔵人大夫入道西阿季光の娘です。今夜、季光の館へ行きましたとさ。

延應元年(1239)十一月大五日庚午。薩摩与一公員与伊豆前司頼定相論出羽國秋田郡湯河湊事。今日於御前遂一决。散位康連奉行之。被付公員云々。頼定爲妻女人父遺領之由申之云々。

読下し                      さつまよいちきんかずと いずのぜんじよりさだそうろん    でわのくにあきたぐん いかわみなと  こと  きょう ごぜん    いっけつ  と
延應元年(1239)十一月大五日庚午。薩摩与一公員@与伊豆前司頼定A相論する出羽國秋田郡湯河湊Bの事、今日御前にて一决を遂ぐ。

んにやすよりこれ  ぶぎょう   きんかず  つけられ   うんぬん  よりさだ  さいじょにん ちち  いりょうたるのよし  これ  もう    うんぬん
散位康連之を奉行し、公員に付被ると云々。頼定、妻女人が父の遺領爲之由、之を申すと云々。

参考@薩摩与一公員は、小鹿嶋。元は橘。
参考A伊豆前司頼定は、頼光系清和源氏。
参考B湯河湊は、秋田県南秋田郡井川町浜井川。

現代語延応元年(1239)十一月大五日庚午。薩摩与一小鹿島公員と伊豆前司源頼定とが裁判をしている出羽國秋田郡湯河湊(井川町)について、今日将軍の前で対決し結審しました。散位太田康連が此れを担当し、公員の勝訴にしました。頼定は、妻の父の領地だからと言ってたそうです。

延應元年(1239)十一月大六日辛未。二棟御産平安御祈。被修靈所祭。維範朝臣爲管領云々。

読下し                      にとう  おさんへいあん  おいの    れいしょさい  しゅうされ  これのりあそんかんれいたり  うんぬん
延應元年(1239)十一月大六日辛未。二棟の御産平安の御祈り、靈所祭を修被る。維範朝臣管領爲と云々。

現代語延応元年(1239)十一月大六日辛未。二棟御方の無事な出産の祈り、霊所祭を行いました。安陪維範さんが監督しましたとさ。

延應元年(1239)十一月大九日甲戌。信濃國司初任檢注事。諏方大祝信重捧請文。當社五月會御射山以下頭役人等申國檢事。依相當頭番。不限其年。被免一任間事。爲先例之由載之。仍重御沙汰之趣。不及異儀云々。

読下し                      しなののこくししょにんけんちう  こと  すわおおはふりのぶしげ うけぶみ ささ
延應元年(1239)十一月大九日甲戌。信濃國司初任檢注の事、 諏方大祝信重 請文を捧ぐ。

とうしゃ さつきえ  みさやま いげ   とうやくびとら   もう  こっけん  こと  とうばん  あいあた    よっ    そ   とし  かぎらず
當社五月會御射山以下の頭役人等が申す國檢の事、頭番に相當るに依て、其の年に限不、

いちにん あいだ めん  られ  こと  せんりたる のよしこれ  の       よっ  かさ    ごさたのおもむき   いぎ  およばず  うんぬん
一任の間を免ぜ被る事、先例爲之由之を載せる。仍て重ねて御沙汰之趣、異儀に不及と云々。

現代語延応元年(1239)十一月大九日甲戌。信濃国司源頼輔着任の検地について、諏訪大社の筆頭神主の諏方権守信重が了承の返事をよこしました。諏訪大社の5月節句と神領狩猟儀式地御射山の筆頭担当者が云っている国司検地について、当番に当たるその年に限らず、その人が職に就いている間は免除されるのが、先例だと書かれています。そこで再協議の結果、その通りでよいと決まったそうな。

延應元年(1239)十一月大十二日丁丑。午尅大地震。

読下し                       うまのこくおおぢしん
延應元年(1239)十一月大十二日丁丑。午尅大地震。

現代語延応元年(1239)十一月大十二日丁丑。昼頃に大地震です。

延應元年(1239)十一月大廿日乙酉。霽。巳尅。二棟御方〔号大宮殿〕有御産氣。自大倉移于施藥院使良基朝臣藥師堂之宅給。可爲御産所云々。御驗者助僧正嚴海以下皆以參集彼所。鳴絃役人參進。爲兵庫頭定員奉行。御祈等事有其沙汰云々。

読下し                     はれ みのこく  にとうのおんかた 〔おおみやどの  ごう  〕 おさん  け あ
延應元年(1239)十一月大廿日乙酉。霽。巳尅。二棟御方〔大宮殿と号す〕御産の氣有り。

おおくらよ   やくいんのかみ よしもとあそん  やくしどう のたくに うつ  たま    おさんじょたるべ   うんぬん
大倉自り施藥院使@良基朝臣が藥師堂之宅于移り給ふ。御産所爲可きと云々。

ごげんざ  すけのそうじょうげんかい いげ みなもっ  か  ところ さんしゅう    めいげん  えき  ひとさんしん
御驗者 助僧正嚴海 以下皆以て彼の所へ參集す。鳴絃の役の人參進す。

ひょうごのかみさだかず ぶぎょうたり  おいのりら  こと そ   さた あ   うんぬん
 兵庫頭定員 奉行爲。御祈等の事其の沙汰有りと云々。

参考@施藥院使は、ヤクインノカミと読み、典薬頭以下十医師がいる。光明皇后が始めた。

現代語延応元年(1239)十一月大二十日乙酉。晴れました。午前10時頃、二棟御方〔大宮殿と云う〕産気づきましたので、大倉から施薬院筆頭丹波良基さんの薬師堂の家に移りました。お産場所だからだそうな。加持祈祷をするのは助僧正厳海を始め皆その場所へ集まって来ました。出産の際の悪魔祓いの弓の弦を鳴らす役の人が進み出ました。兵庫頭定員が指揮担当です。お祈りの事を命じましたとさ。

延應元年(1239)十一月大廿一日丙戌。天霽。辰刻御平産也〔若君〕。先御驗者三人。民部卿僧都。宰相僧都。大夫僧都賜祿〔五衣在單〕被引御馬〔置鞍〕。次醫道女醫博士頼行〔水干袴〕給祿〔三重衣〕。於挺(ママ)給之。被引御馬〔置鞍〕。下立庭上取之。次陰陽道大膳權大夫維範朝臣〔衣冠〕給祿〔二衣重薄衣〕。御馬〔置鞍〕賜之。作法如前。次資宣。廣資〔御秡衆〕。各二衣一領。御馬〔裸〕拝領之。佐渡前司基綱爲奉行。雜事勘文。維範朝臣一人献之。載巳刻誕生之由。助法印珎譽申云。辰終剋也。有時刻相違者。宿曜方勘文可相違云々。仍書改之載辰字云々。

読下し                       てんはれ たつのこくごへいさんなり 〔わかぎみ 〕
延應元年(1239)十一月大廿一日丙戌。天霽。辰刻御平産也〔若君@

 ま   ごげんざ さんにん  みんぶのきょうそうづ さいしょうそうづ  たいふそうづ ろく 〔 ごい ひとえあ  〕   たま      おんうま 〔くら  お   〕   ひかれ
先ず御驗者三人。民部卿僧都、宰相僧都、大夫僧都 祿〔五衣A單在り〕を賜はる。御馬〔鞍を置く〕を引被る。

つぎ  いどう   にょいはくじよりゆき  〔すいかんばかま〕 ろく 〔みえのころも〕  たま      えん  をい  これ  たま
次に醫道、女醫博士頼行〔水干袴〕祿〔三重衣〕を給はる。縁に於て之を給はる。

おんうま 〔くら  お   〕   ひかれ    ていじょう お   た   これ  と
御馬〔鞍を置く〕を引被る。庭上に下り立ち之を取る。

つぎ おんみょうどう  だいぜんだいぶよれのりあそん  〔いかん〕 ろく 〔ふたえころもうすぎぬ  かさ    〕  たま      おんうま 〔くら  お   〕 これ  たま      さほう さき  ごと
次に陰陽道、大膳權大夫維範朝臣〔衣冠〕祿〔二衣薄衣を重ねる〕を給はる。御馬〔鞍を置く〕之を賜はる。作法前の如し。

つぎ  すけのぶ ひろすけ 〔おはらえしゅう〕 おのおのふたころもいちりょう  おんうま 〔はだか〕   はいりょう   さどのぜんじもとつなぶぎょうたり
次に資宣、廣資〔御秡衆〕。 各  二衣一領。 御馬〔裸〕之を拝領す。佐渡前司基綱奉行爲。

ぞうじ  かんもん  これのりあそん ひとりこれ  けん    みのこくたんじょうのよし  の
雜事の勘文。維範朝臣一人之を献ず。巳刻誕生之由を載せる。

すけのほういんちんよ もう    い       たつ しゅうこくなり  じこく あいたが  あ  ば   すくようがた  かんもんそういすべ   うんぬん
 助法印珎譽 申して云はく。辰の終剋也。時刻相違へ有ら者、宿曜方の勘文相違可しと云々。

よっ  これ  か   あらた たつ  じ   の       うんぬん
仍て之を書き改め辰の字を載せると云々。

参考@若君は、後の頼嗣。
参考A
五衣は、本来は御衣。

現代語延応元年(1239)十一月大二十一日丙戌。空は晴です。午前八時頃安産でした〔男の子〕。まず加持祈祷の三人。民部卿僧都尊厳・宰相僧都・大夫僧都が褒美〔衣単〕を与えられました。鞍置き馬も出されました。
次に医者です。女医博士
(産婦人科?)頼行〔水干袴〕褒美〔三枚重ねの衣〕を与えました。縁側でこれを受け取りました。鞍置き馬も出されました。庭に下りて手綱を受け取りました。
次に、陰陽道です。大膳権大夫安陪維範さん〔衣冠〕褒美〔二十の薄絹を重ねた衣〕を与えられました。鞍置き馬も出されました。作法は前の人と同じです。
次に資宣・広資〔お祓いを下人達〕は、それぞれ二枚重ねの着物一着。馬〔鞍なし〕を貰いました。佐渡前司後藤基綱の差配です。
誕生の次第を書いて維範さん一人が提出しました。巳の刻
(9:00-11:00)に生まれたと書いてあります。助法印珎与が言い出したのは「辰(7:00-9:00)の終わりです。時刻を間違えたなら天文方の上申書と違ってしまいます。」だとさ。それでこれを書きなおして、辰の文字を書きましたとさ。

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吾妻鏡入門第卅三巻

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