吾妻鏡入門第卅三巻

延應元年己亥(1239)十二月大

延應元年(1239)十二月大五日庚子。未刻。前駿河守正五位下平朝臣義村卒。頓死。大中風云々。入夜。前武州向故駿河前司第。令訪彼賢息等給。人々群集。左馬助光時爲將軍家御使云々。

読下し                    ひつじのこく さきのするがのかみ しょうごいげ たいらのあそんよしむら そつ    とんし  だいちゅうぶ  うんぬん
延應元年(1239)十二月大五日庚子。未刻。 前駿河守 正五位下 平朝臣義村@卒す。頓死。大中風と云々。

 よ  い    さきのぶしゅう こするがぜんじ  だい  むか    か  けんそくら  とぶら  せし  たま    ひとびとぐんしゅう  さまのすけみつときしょうぐんけ おんしたり  うんぬん
夜に入り、前武州故駿河前司の第へ向ひ、彼の賢息等を訪い令め給ふ。人々群集す。左馬助光時將軍家の御使爲と云々。

参考@平朝臣義村は、三浦平六義村。祖父義明・父義澄。母は伊東祐親女と推定。

現代語延応元年(1239)十二月大五日庚子。午後二時頃に、前駿河守正五位下平朝臣三浦義村が死にました。急死です。中風の大きいのだそうな。夜になって前武州泰時さんは三浦義村の屋敷へ向かい、彼の息子達をお悔みに訪問しました。人々が群れ集まって来ました。左馬助名越北条光時が将軍頼経様の名代だそうな。

延應元年(1239)十二月大十三日戊申。若君御前御行始之間事。被經御沙汰。被問吉方。東方若坤方吉之由。維範朝臣申之。東方雖爲吉方。來廿一日者太白方也。坤方依爲吉方。自御産所施藥院使良基朝臣大倉家。當件方。可然之人家可見定之由。被仰下。仍爲平左衛門尉盛綱奉行。令維範朝臣相計之。加賀民部大夫康持并武田入道等名越家叶方角之由申之。盛綱令披露此旨。康持家頗尋常也。早可被用。武田者爲遁世者。不可然之由被仰出云々。

読下し                      わかぎみごぜん  みゆきはじめのあいだ こと  おんさた   へら      えほう  とはれ
延應元年(1239)十二月大十三日戊申。若君御前の御行始之間の事、御沙汰を經被る。吉方を問被る。

とうほう も     ひつじさる ほう きちのよし  これのりあそんこれ  もう     とうほう   えほうたる いへど    きた にじういちにちはたいはく ほうなり
東方若しくは 坤の方 吉之由、維範朝臣之を申す。東方は吉方爲と雖も、來る廿一日者太白の方也。

ひつじさる ほう  きっぽたる   よっ    ごさんじょやくいんのかみよしもとあそん  おおくら  いえよ     くだん ほう  あた
 坤の方は 吉方爲に依て、御産所施藥院使良基朝臣が大倉の家自り、件の方に當りて、

しか  べ   の じんか  み さだ    べ   のよし  おお  くださる
然る可き之人家を見定める可き之由、仰せ下被る。

よっ へいさえもんのじょうもりつなぶぎょう な     これのりあそん  し   これ  あいはか
仍て平左衛門尉盛綱奉行と爲し、維範朝臣を令て之を相計る。

かがのみんぶたいふやすもちなら    たけだにゅうどうら  なごえ  いえ  ほうがく  かn  のよし  これ  もう    もりつなかく  むね  ひろう せし
加賀民部大夫康持并びに武田入道等の名越の家が方角に叶う之由、之を申す。盛綱此の旨を披露令む。

やすもち いえ すこぶ じんじょうなり はや もち  らる   べ     たけだは とんせいたらば  しか  べからずのよしおお いだされ   うんぬん
康持の家は頗る尋常也。早く用い被る可し。武田者遁世爲者、然る不可之由仰せ出被ると云々。

現代語延応元年(1239)十二月大十三日戊申。若君(後の頼嗣)の初外出の方法について、将軍頼経様が判断し、良い方角を尋ねました。「東の方か未申(西南)が良い方角だ。」と、安陪維範さんが云いました。「東は良い方角だけども、来る二十一日は太白星木星の方角だ。西南の方角は良い方向だが、生まれた家の丹波良基さんの大倉の家から西南の方向に、適宜な家を見つけるように。」と仰せになりました。
そこで、平三郎左衛門尉盛綱が指揮担当して、維範さんにこの事を相談しました。「加賀民部大夫三善町野康持それに武田入道五郎信光達の名越の家が良い方角になる。」と言ったので、この事を盛綱が将軍頼経様に報告しました。「町野康持の家がとてもまともであるので、早く使おう。武田信光は隠居している身なので、使わない方が良い。」と仰せになられましたとさ。

延應元年(1239)十二月大十五日庚戌。於御所。年始雜事日次等事有其沙汰。維範。リ賢等朝臣献連署勘文。其中以丙寅爲吉書之日。先年國道朝臣擇申此日之時。師員朝臣。丙寅日不可成吉書之由。就難申之。國道勘例訖。今又此事出來。早可勘進其例之旨。被仰出之間。各丙寅覽吉書之例勘申之。仍不能左右。以彼日可成吉書云々。
 貞觀十二年正月十三日丙寅。藤原朝臣氏宗〔御年六十四〕源朝臣融〔七十四〕源朝臣多〔五十七〕
 承平五年六月三日丙寅。藤原朝臣實頼〔小野宮殿。七十一〕
 同日。藤原朝臣師輔。〔九條殿〕
 天録三年二月五日丙寅。藤原朝臣兼家〔法興院殿。六十二〕
 治安元年八月廿三日丙寅。藤原朝臣實資〔九十〕

読下し                        ごしょ   をい    ねんし  ぞうじ    ひなみ ら  こと   そ   さた あ
延應元年(1239)十二月大十五日庚戌。御所に於て、年始の雜事の日次等の事、其の沙汰有り。

これのり  はるかたら   あそんれんしょ  かんもん  けん     そ  なか  ひのえとら もっ   きっしょのひ   な
維範、リ賢等の朝臣連署の勘文を献ず。其の中、丙寅を以て吉書之日と爲す。

せんねん くにみちあそん こ  ひ   えら  もう   のとき   もろかずあそん ひのえとら ひ きっしょ  な   べからずのよし  これ  なん  もう    つ    くにみちれい  かん をはんぬ
先年 國道朝臣 此の日を擇び申す之時、師員朝臣、丙寅の日吉書と成す不可之由、之を難じ申すに就き、國道例を勘じ訖。

いままた こ こといできた    はや  そ   れい  かんじんすべ  のむね  おお  いだされ のあいだ おのおの ひのえとら  きっしょのれい み   これ  かん  もう
今又此の事出來る。早く其の例を勘進可し之旨、仰せ出被る之間、 各  丙寅の吉書之例を覽て之を勘じ申す。

よっ   そう   あたはず  か   ひ   もっ  きっしょ  な   べ     うんぬん
仍て左右に不能、彼の日を以て吉書と成す可しと云々。

  じょうがんじうにねん しょうがつじうさんにち ひのえとら ふじわらあそんうじむね 〔おんとしろくじうし〕  みなもとあそんとおる 〔しちじうし〕 みなもとあそんまさる 〔ごじうしち〕
 貞觀十二年 正月十三日 丙寅。藤原朝臣氏宗〔御年六十四〕。源朝臣 融〔七十四〕。源朝臣 多〔五十七〕

  しょうへいごねん ろくがつみっか ひのえとら ふじわらあそんさねより 〔おのみやどの しちじういち〕  どうじつ  ふじわらあそんもろすけ 〔くじょうどの〕
 承平五年 六月三日 丙寅。 藤原朝臣實頼〔小野宮殿。七十一〕。同日。藤原朝臣師輔〔九條殿〕

  てんろくさんねん にがついつか ひのえとら ふじわらあそんかねいえ 〔ほっこういんどの ろくじうに〕
 天六三年 二月五日 丙寅。 藤原朝臣兼家〔法興院殿。六十二〕

  じあんがんねん はちがつにじうさんにち ひのえとら ふじわらそんさねすけ 〔くじう〕
 治安元年 八月廿三日 丙寅。 藤原朝臣實資〔九十〕

現代語延応元年(1239)十二月大十五日庚戌。御所で、年始の行事のお日和の事について、命令がありました。維範・晴賢等の陰陽師が連名の上申書を提出しました。その中で、丙寅の日に文書開きの日としました。
去年、國道さんが、この日を選んだ時、師員さんが丙寅の日は文書開きとするものではないと、いちゃもんをつけたので、國道は例を上申しました。
「又、この問題が出て来た。早くその例を上申しなさい。」と仰せになったので、それぞれ丙寅の日に文書開きをした例をみつけて上申しました。
そこで、問題なくその日を文書開きのと決めたそうです。
 貞観十二年(870)一月十三日丙寅、藤原氏宗さん〔年六十四〕。源融さん〔七十四〕。源多さん〔五十七〕。
 承平五年(935)六月三日丙寅、藤原実頼さん〔小野宮殿七十一〕。同日、藤原師輔〔九条殿〕。
 天録三年(972)二月五日丙寅、藤原兼家さん〔法興院殿六十二〕。
 治安元年(1021)八月二十三日丙寅。藤原実資さん〔九十〕

延應元年(1239)十二月大廿一日丙辰。天霽。將軍家若君御行始〔被用御輿〕。午刻自御産所入御町野加賀民部大夫康持宿所〔吉方〕。供奉人立烏帽子直垂也。御引出物有員云々。申剋渡御御所云々。

読下し                       そらはれ しょうぐんけ  わかぎみみゆはじ   〔おんこし  もち  られ  〕
延應元年(1239)十二月大廿一日丙辰。天霽。將軍家の若君御行始め〔御輿を用い被る〕

うまのこくごさんじょよ    まちのかがみんぶたいふやすもち  すくしょ  〔きっぽう〕   い   たま    ぐぶにん    たてえぼし  ひたたれなり
午刻御産所自り町野加賀民部大夫康持が宿所@〔吉方〕に入り御う。供奉人は立烏帽子に直垂也。

おんひきでものかずあ   うんぬん  さるのこくごしょ  わた  たま    うんぬん
御引出物員有りと云々。申剋御所に渡り御うと云々。

参考@宿所は、石井進氏の説く御家人の屋敷地三点セットのうちA「生活所」と思われる。@は幕府へ出仕の「着替所」。Bは鎌倉周辺の野菜食糧生産の「供給所」。

現代語延応元年(1239)十二月大二十一日丙辰。空は晴です。将軍頼経様の若君の初外出です。〔輿を使います〕昼頃に生まれた家から町野加賀民部大夫三善康持の生活所〔良い方角〕に一旦入りました。お供は立烏帽子に鎧直垂です。康持からの引き出物が沢山あったそうです。午後4時頃に御所へと移りましたとさ。

延應元年(1239)十二月大廿七日壬戌。天リ。未刻。前武州南御近隣有失火。人屋五六宇災。

読下し                       そらはれ ひつじのこく さきのぶしゅう みなみ ごきんりん  しっかあ     じんおくごろくうわざわい
延應元年(1239)十二月大廿七日壬戌。天リ。 未刻、 前武州 南の御近隣に失火有り。人屋五六宇災す。

現代語延応元年(1239)十二月大二十七日壬戌。空は晴です。午後二時頃に前武州泰時さんの屋敷(現宝戒寺)の南隣(現小町3丁目)で失火があって、人家五・六軒が燃えました。

延應元年(1239)十二月大廿九日甲子。丑刻。武藏大路下佐々木隱岐入道以下數十宇燒失。々火云々。

読下し                       うしのこく  むさしおおじ した   ささき おきのにゅうどう  いげ すうじううしょうしつ   しっか   うんぬん
延應元年(1239)十二月大廿九日甲子。丑刻、武藏大路下の佐々木隱岐入道以下數十宇燒失す。々火と云々。

現代語延応元年(1239)十二月大二十九日甲子。午前二時頃に、武蔵大路下(亀谷坂下)の佐々木隠岐入道五郎義清以下数十軒が焼失しました。失火だそうです。

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