吾妻鏡入門第卅三巻

延應二年庚子(1240)二月小

延應二年(1240)二月小二日丁酉。鎌倉中可被停止條々事。今日有沙汰治定。相分保々。被付奉行人。固可令禁遏之由云々。其状云。
   鎌倉中保々奉行可存知條々
 一盜人事
 一旅人事
 一辻捕事
 一惡黨事
 一丁々辻々賣買事
 一成小路狹事
 一辻々盲法師〔并〕辻相撲事
 一押買事
 右條々。存知此旨。可令警固奉行保々也。更不可有緩怠之状。依仰下知如件。
    延應二年二月二日                 前武藏守

読下し                   かまくらじゅう  ちょうじさる  べ   じょうじょう こと   きょう  さた あ     ちじょう
延應二年(1240)二月小二日丁酉。鎌倉中で停止被る可き條々の事、今日沙汰有りて治定す。

ほうほう  あいわか     ぶぎょうにん  つ   られ  かた  きんあつせし  べ   のよし  うんぬん  そ  じょう  い
保々に相分ちて、奉行人に付け被、固く禁遏令む可き之由と云々。其の状に云はく。

      かまくらじゅう ほうほうぶぎょうぞんちすべ じょうじょう
   鎌倉中の保々奉行存知可き條々

  ひとつ ぬすっと  こと
 一 盜人の事

  ひとつ たびびと こと
 一 旅人の事

  ひとつ つじと      こと
 一 辻捕りの事

  ひとつ  あくとう  こと
 一 惡黨の事

  ひとつ ちょうちょうつじつじ ばいばい こと
 一  丁々 辻々の賣買の事

  ひとつ  こうじ   せま  な   こと
 一 小路を狹く成す事

  ひとつ つじつじ めくらほっし 〔なら     〕 つじすまい  こと
 一 辻々の盲法師〔并びに〕辻相撲の事

  ひとつ おしか     こと
 一 押買いの事

  みぎ じょうじょう  こ   むね  ぞんち    ぶぎょうほうほう  けいごせし  べ   なり  さら  けたい あ  べからずのじょう  おお    よっ   げち くだん ごと
 右の條々、此の旨を存知し、奉行保々を警固令む可き也。更に緩怠有る不可之状、仰せに依て下知件の如し。

        えんおうにねんにがつふつか                                   さきのむさしのかみ
    延應二年二月二日                 前武藏守

現代語延応二年(1240)二月小二日丁酉。鎌倉の中で禁止する条項について、今日決裁があり決定しました。保ごとに分けて指揮担当者を配し、厳しき禁止するように通達したそうな。その条文には、
   鎌倉の中の保ごとの担当者が認識しておくべき条項
一つ 盗人について
一つ 旅人について
一つ 人さらいについて
一つ 法や常識に背くやつについて
一つ 町境や交差点での勝手な商売について
一つ 家の敷地を拡げて小路をせまくすること
一つ 交差点での盲目の出家が語りをする事〔それに〕路上での相撲興行について
一つ 強制的に値を下げて物を買う事
以上の条項を承知して、指揮担当者はそれぞれの保を警備する事。尚怠ける事の無いようの布告は、将軍の仰せに従った命令はこのとおりです。
   延応二年二月二日           前武蔵守(北条泰時)

延應二年(1240)二月小六日辛丑。政所〔并〕御倉以下燒亡。餘焔不及他所。失火之由雖申之。有放火之疑云々。」入夜彗星出現。自正月四日至今日不消没。

読下し                   まんどころ 〔なら    〕  みくら いげ しょうぼう    よえん たしょ  およばず
 
延應二年(1240)二月小六日辛丑。政所〔并びに〕御倉以下燒亡す。餘焔他所に不及。

 しっか のよしこれ  もう   いへど    ほうかのうたが  あ     うんぬん
失火之由之を申すと雖も、放火之疑い有りと云々。」

 よ  い   すいせいしゅげん  しょうがつよっかよ   きょう   いた しょうぼつせず
夜に入り彗星出現す。正月四日自り今日に至り消没不。

現代語延応二年(1240)二月小六日辛丑。政務事務所の政所〔それに〕幕府の倉庫などが燃えました。炎は他へは移りませんでした。失火だと云ってますが、放火の疑いもあるそうな。」
夜になって彗星が現れました。正月四日から今日まで未だ消えません。

延應二年(1240)二月小七日壬寅。政所造營事。可致急速沙汰之旨被仰下。仍今日御倉以下事始也。入夜。六波羅越後守〔時盛〕下著。依匠作逝卒也。

読下し                   まんどころぞうえい こと  きゅうそく  さた いた  べ   のむねおお  くだされ    よっ   きょう   みくら  いげ    ことはじ  なり
延應二年(1240)二月小七日壬寅。政所造營の事、急速の沙汰致す可き之旨仰せ下被る。仍て今日、御倉以下の事始め也。

 よ  い     ろくはらえちごのかみ  〔ときもり〕  げちゃく   しょうさく  せいきょ  よっ  なり
夜に入り、六波羅越後守〔時盛〕下著す。匠作の逝卒に依て也。

現代語延応二年(1240)二月小七日壬寅。政務事務所の建設について、早急に手配するように命じられました。そこで今日、倉庫などの工作始めです。夜になって、六波羅探題の越後守〔北条時盛〕が到着しました。時房さんの死亡によるのです。

延應二年(1240)二月小十二日丁未。未刻雷鳴。

読下し                    ひつじのこく らいめい
延應二年(1240)二月小十二日丁未。未刻 雷鳴。

現代語延応二年(1240)二月小十二日丁未。午後2時頃、雷さんが鳴りました。

延應二年(1240)二月小十四日己酉。天文道等終夜雖窺見。彗變既入内天云々。

読下し                     てんもんどうら しゅうやうかが み    いへど  すいせいすで  てん うち  い     うんぬん
延應二年(1240)二月小十四日己酉。天文道等終夜窺い見ると雖も、彗變既に天の内に入ると云々。

現代語延応二年(1240)二月小十四日己酉。天文方の連中が一晩中探していましたが、彗星は既に天の彼方へいってしまったようです。

延應二年(1240)二月小十六日辛亥。午刻雨雹降。雷鳴數聲。

読下し                    うまのこくあめ ひょうふ    らいめい すうこえ
延應二年(1240)二月小十六日辛亥。午刻雨 雹降る。雷鳴 數聲。

現代語延応二年(1240)二月小十六日辛亥。昼頃に雨と雹が降りました。雷様も数回鳴りました。

延應二年(1240)二月小十九日甲寅。午刻。政所御倉等上棟。

読下し                    うまのこく  まんどころ みくらら じょうとう
延應二年(1240)二月小十九日甲寅。午刻、政所 御倉等上棟す。

現代語延応二年(1240)二月小十九日甲寅。昼頃、政所と御蔵の棟上げ式です。

延應二年(1240)二月小廿二日丁巳。卯刻地震。鶴岳神宮寺無風顛倒。北山崩云々。本佛奉渡于宮寺別當坊云々。

読下し                     うのこく ぢしん  つるがおか じんぐうじ かぜな     てんとう    きたやまくず     うんぬん
延應二年(1240)二月小廿二日丁巳。卯刻地震。 鶴岳 神宮寺 風無きに顛倒し、北山崩れると云々。

ほんぶつ ぐうじ べっとうぼう に わた たてまつ   うんぬん
本佛は宮寺別當坊于渡し奉ると云々。

現代語延応二年(1240)二月小二十二日丁巳。午前六時頃地震。鶴岡八幡宮寺が風もないのに倒れて、北山が崩れたそうな。御本尊の仏像は、八幡宮長官の坊舎へお写しをしましたとさ。

延應二年(1240)二月小廿三日戊午。以去二日制苻。被付保々奉行人等云々。

読下し                     さんぬ ふつか  せいふ  もっ    ほうほう  ぶぎょうにんら  つけられ    うんぬん
延應二年(1240)二月小廿三日戊午。去る二日の制苻を以て、保々の奉行人等に付被ると云々。

現代語延応二年(1240)二月小二十三日戊午。先日の二日の布告を、保ごとの監督責任者の奉行人に届けましたとさ。

延應二年(1240)二月小廿五日庚申。依連々變異等事。可有敬神御信心之由。前武州令申行給。先鶴岳宮寺領鎌倉中地事。三ケ條有被定下事。神官殊喜悦云々。太田民部大夫康連奉行之。其状云。
   鶴岳八幡宮寺領鎌倉中地間可有禁制三ケ條
 一 神宮御子職掌等。依爲祠官。所宛給之地。無指罪科。乍帶其職。不可點定事
 一 同社司給地。無上仰之外。別當以私芳心。不可立替遠所狹少地事
 一 依爲社司。令拝領地輩之中。無子息之族。或讓後家女子。或付養君權門。致沙汰之間。新補宮人無給地之   條。不便事也。自今以後。子息不相傳之者。付職可宛行其地事
  以前條々。社家存此旨不可違失之状。依仰下知如件。
    延應二年二月廿五日           前武藏守

読下し                     れんれん  へんにら   こと  よっ    けいしん  ごしんじん あ   べ   のよし  さきのぶしゅう もう  おこな せし  たま
延應二年(1240)二月小廿五日庚申。連々の變異等の事に依て、敬神の御信心有る可き之由、前武州 申し行は令め給ふ。

 ま つるがおかぐうじりょう かなくらじゅう ち   こと  さんかじょうさだ  くださる  ことあ     しんかんこと  きえつ    うんぬん
先ず鶴岳宮寺領の鎌倉中の地の事、三ケ條定め下被る事有り。神官殊に喜悦すと云々。

おおたのみんぶたいふやすつら これ ぶぎょう    そ  じょう  い
 太田民部大夫康連 之を奉行す。其の状に云はく。

       つるがおかはちまんぐうじりょう  かなくらじゅう ち あいだ きんせいあ  べ   さんかじょう
    鶴岳八幡宮寺 領  鎌倉中の地の間 禁制有る可き三ケ條

  ひとつ じんぐう    みこ   しきしょうら   しかんたる  よっ    あてたま    ところの ち   さ     ざいかな      そ   しき  おびなが   てんじょう べからざること
 一 神宮の御子・職掌等、祠官爲に依て、宛給はる所之地、指せる罪科無く、其の職を帶乍ら、點定す不可事

  ひとつ どう しゃじ   きゅうち  かみ  おお  な   のほか  べっとうわたくし ほうしん もっ   えんしょ きょうしょう  ち   たてかえ べからざること
 一 同社司の給地、上の仰せ無き之外、別當私の芳心を以て、遠所・狹少の地に立替る不可事

  ひとつ しゃじ たる  よっ    ち  はいりょうせし やからのなか しそく な  のやから  ある     ごけ   じょし  ゆず    ある    ようくん  けんもん  ふ     さた いた  のあいだ
 一 社司爲に依て、地を拝領令む輩之中、子息無き之族、或ひは後家・女子に讓り。或ひは養君・權門に付し、沙汰致す之間、

       しんぽ  みやびと  きゅうちな   のじょう  ふびん  ことなり  いまよ    いご   しそく これ  そうでんせず ば   しき  つ   そ   ち  あておこなは べ  こと
   新補の宮人に給地無き之條、不便な事也。今自り以後、子息之を相傳不ん者、職に付け其の地を宛行る可き事

    いぜん じょうじょう  しゃけかく  むね  ぞん  いしつ  ばからざるのじょう おお  よっ   げち くだん ごと
  以前の條々、社家此の旨を存じ違失す不可之状、仰せに依て下知件の如し。

        えんおうにねんにがつにじうごにち                      さきのむさしのかみ
    延應二年二月廿五日           前武藏守

現代語延応二年(1240)二月小二十五日庚申。引き続く異常な出来事によって、神々への敬う心が必要であると、前武州泰時さんは云いながら実施しました。まず、鶴岡八幡宮の領地である鎌倉の中の土地について、三つの条文を下さったので、神主たちが大喜びしたそうな。太田民部大夫康連が指揮担当をしました。その条文には、
  鶴岡八幡宮寺の領地で鎌倉の中の土地については、禁止することの三ケ条
一つ 鶴岡八幡宮寺の稚児や雅楽演奏者、神主達にあてがった土地については、特別な罪がなくてその職に居るならば、差し押さえてはならない
一つ 同じように社に仕える者たちへ与えられた土地も、幕府の命令が無い以外は、長官が私心で遠い所や狭い所に変えてはならない
一つ 社に仕える者なので、領地を与えられた者のうち、息子のいない一族・或いは未亡人や女子に相続し、或いは養子や権勢家にゆだねたりしては、新任の宮社勤め人への与える領地が無いのは困った事です。今後、息子に譲渡出来ない時は、その職位に対し領地を与える事
  以上の条文を、八幡宮関係者は承知して、忘れないように、仰せを受けて命令するのはこのとおりです。
   延応二年二月二十五日                前武蔵守北条泰時

延應二年(1240)二月小廿九日甲子。將軍家被遣御馬二疋〔鹿毛。鴾毛〕於大宮大納言〔公相卿〕。是來月爲公卿勅使。可被參太神宮之故也。

読下し                     しょうぐんけ  おんうあにひき 〔 かげ   つきげ 〕 を おおみやだいなごん 〔こうそうきょう〕   つか  さる
延應二年(1240)二月小廿九日甲子。將軍家、御馬二疋〔鹿毛。鴾毛〕於大宮大納言〔公相卿〕に遣は被る。

これ  らいげつくぎょうちょくし  な     だいじん  まいられ  べ   のゆえなり
是、來月公卿勅使と爲し、太神宮に參被る可き之故也。

現代語延応二年(1240)二月小二十九日甲子。将軍頼経様は、馬二頭〔鹿毛と月毛〕を大宮大納言〔西園寺公相さん〕に贈らせました。これは、来月公卿が勅使として、伊勢大神宮へお参りに行くからです。

三月へ

吾妻鏡入門第卅三巻

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