吾妻鏡入門第卅三巻

延應二年庚子(1240)四月小

延應二年(1240)四月小一日乙未。新制條々事。今日以後。固可守御旨之由被仰下。若猶不敍用者。随見及。且任法。且可被行罪科云々。」今日京都使者參。去月十五日大相國〔良平〕薨給〔五十六〕之由申之。將軍家御伯父也。

読下し                   しんせいじょうじょう こと   きょう いご    かた おんむね  まも  べ   のよしおお  くだされ
延應二年(1240)四月小一日乙未。新制 條々の事、今日以後、固く御旨を守る可き之由仰せ下被る。

 も   なおじょようせず  ば   み およ    したが   かつう ほう  まか    かつう ざいか  おこなはれ べ     うんぬん
若し猶敍用不ん者、見及ぶに随い、且は法に任せ、且は罪科に行被る可きと云々。」

きょう きょうと  ししゃまい    さんぬ つきじうごにち だいしょうこく 〔よしひら〕  こう  たま    〔ごじうろく〕  のよしこれ  もう     しょぐんけおんおじなり
今日京都の使者參る。去る月十五日大相國〔良平〕薨じ給ふ〔五十六〕之由之を申す。將軍家御伯父也。

現代語延応二年(1240)四月小一日乙未。新しく決めた制度について、今日以後、固く内容を守るように仰せになりました。もしなおも守らなければ、見つけ次第法に任せて、罰するようにとの事でした。」
今日、京都からの使いが来て、先月の十五日に大相国藤原良平さん(五十六)が亡くなりましたと報告しました。将軍頼経様の伯父さんです。

延應二年(1240)四月小八日壬寅。子尅前武州御亭御厩侍鵺鳴。

読下し                   ねのこく  さきのぶしゅう おんてい みんまや さむらい ぬえな
延應二年(1240)四月小八日壬寅。子尅、前武州の御亭の 御厩 侍に 鵺鳴く。

現代語延応二年(1240)四月小八日壬寅。夜中の0時頃に前武州泰時さんの屋敷の馬屋の侍だまりで鵺が鳴きました。

延應二年(1240)四月小九日癸夘。天霽。依鵺恠異。於前武州公文所。被行百恠祭。

読下し                   そらはれ  ぬえ   け   よっ    さきのぶしゅう くもんじょ   をい  ひゃっけさい おこなはれ
延應二年(1240)四月小九日癸夘。天霽。鵺の恠異に依て、前武州の公文所に於て、百恠祭を行被る。

現代語延応二年(1240)四月小九日壬卯。空は晴です。鵺が鳴くと云う怪しい事があったので、泰時さんの家政事務所で百怪祭を行いました。

延應二年(1240)四月小十日甲辰。天リ。若君御方被定御祈衆。岡崎僧正〔成源〕。助僧正〔嚴海〕。助法印〔珎譽〕。陰陽師。一番泰貞。二番リ賢。三番國継等也。兵庫頭定員爲奉行。令結番之。

読下し                   そらはれ わかぎみ おんかた おいのりしゅう さだ  られ    おかざきそうじょう 〔じょうげん〕  すけのそうじょう 〔げんかい〕  すけのほういん 〔ちんよ〕
延應二年(1240)四月小十日甲辰。天リ。若君の御方の 御祈衆を定め被る。岡崎僧正 〔成源〕、 助僧正 〔嚴海〕、助法印〔珎譽〕

おんみょうじ  いちばんやすさだ にばんはるかた さんばんくにつぐらなり ひょうごのかみさだかずぶぎょう な     これ けちばんせし
陰陽師は、一番泰貞、二番リ賢、三番國継等也。 兵庫頭定員 奉行と爲し、之を結番令む。

現代語延応二年(1240)四月小十日甲辰。空は晴です。若君様(後の頼嗣)の魔よけのお祈りをする坊さん達を決めました。岡崎僧正成源・助僧正厳海・助法印珎与です。陰陽師は、一番が安陪泰貞、二番が晴賢、三番が国継達です。兵庫守定員が担当して順番を決めました。

延應二年(1240)四月小十二日丙午。故匠作遺領事。未分死去之間。任去々年十二月廿三日惣目録。被支配子息等。又若狹前司泰村。河内前司光村。左衛門尉家村。資村。胤村。重村等。賜亡父義村遺跡安堵御下文。有進物等。兄弟各被列參御所并前武州御方云々。

読下し                      こしょうさく  ゆいりょう こと  いま  わか    しきょのあいだ  おととしじうにがつにじうさんにち  そうもくろく  まか     しそくら   しはいさる
延應二年(1240)四月小十二日丙午。故匠作が遺領の事、未だ分たず死去之間、去々年十二月廿三日の惣目録に任せ、子息等に支配被る。

また  わかさのぜんじやすむら かわちのぜんじみつむら さえもんのじょういえむら すけむら たねむら しげむらら   ぼうふ よしむら  ゆいせきあんど おんくだしぶみ たま
又、若狹前司泰村、 河内前司光村、 左衛門尉家村、資村、胤村、重村等、亡父義村の遺跡安堵の御下文を賜はる。

しんもつら あ    きょうだい おのおの ごしょなら   さきのぶしゅう おんかた れっさんされ    うんぬん
進物等有り。兄弟  各 御所并びに前武州の御方に列參被ると云々。

現代語延応二年(1240)四月小十二日丙午。故北条時房さんの遺産の領地については、未だ配分を決めずに死んでしまったので、一昨年の十二月二十三日の財産目録内容で、息子達に分けました。又、若狭前司三浦次郎泰村・河内前司三郎光村・左衛門尉四郎家村・五郎資村・八郎胤村・九郎重村達も、十二月五日に亡くなった三浦義村の遺産の領地をそのまま認める将軍の命令書を与えられました。そのお礼に進物があり、兄弟それぞれに御所と泰時さんの所へ並んで行ったんだとさ。

延應二年(1240)四月小十四日戊申。天リ。子尅月蝕。皆虧正現。

読下し                     そらはれ ねのこくげっしょく  みなか   せいげん
延應二年(1240)四月小十四日戊申。天リ。子尅月蝕。 皆虧け正現す。

現代語延応二年(1240)四月小十四日戊申。空は晴です。夜中の零時頃に月食です。皆既月食を確認できました。

延應二年(1240)四月小十八日壬子。未刻地震。

読下し                     ひつじのこく ぢしん
延應二年(1240)四月小十八日壬子。未刻 地震。

現代語延応二年(1240)四月小十八日壬子。午後二時頃地震です。

延應二年(1240)四月小廿五日己未。天リ。被定評定時之退座分限。所謂祖父母。養父母。養子孫。相舅。伯叔父。甥。從父兄弟。小舅夫妻。烏帽子子。聟等。

読下し                     そらはれ ひょうじょうじの たいざ  ぶげん  さだ  られ
延應二年(1240)四月小廿五日己未。天リ。評定時之退座の分限を定め被る。

いはゆる  そふぼ     ようふぼ   ようしまご  あいやけ    おじ    おい  じゅうふけいてい   こじゅうとふさい   えぼしご   むこら
所謂、祖父母、養父母、養子孫@、相舅A、伯叔父、甥、從父兄弟、小舅夫妻、烏帽子子、聟等。

参考@養子孫は、孫を養子に縁組した。
参考A
相舅は、 婿の親と嫁の親との間柄。

現代語延応二年(1240)四月小二十五日己未。空は晴です。政務会議や裁判などでの退席の順の身分を決めました。その順番は、祖父母・養父母・養子孫・夫婦共有の舅・伯父と叔父・甥・父方の従兄弟・小舅夫妻・烏帽子子(元服の烏帽子を与えた子)・婿の順です。

解説この日の前日の二十四日に、評定で恩領は、半分以上弁済していれば、取り戻せると決めている。

延應二年(1240)四月小廿七日辛酉。爲將軍家御祈。被行七座泰山府君祭。泰貞。リ賢。國継。リ貞。廣資。以平。文方等奉仕。是兵庫頭定員依有夢想之告。申行之云々。

読下し                      しょうぐんけ おいのり  ため    しちざ  たいさんふくんさい  おこなはれ
延應二年(1240)四月小廿七日辛酉。將軍家の御祈の爲に、七座の泰山府君祭を行被る。

やすさだ はるかた くにつぐ はるさだ  ひろすけ もちひら  ふみかたら ほうし    これ ひょうごのかみさだかず むそうのつげあ     よっ    これ  もう  おこな   うんぬん
泰貞、リ賢、國継、リ貞、廣資、以平、文方等奉仕す。是、 兵庫頭定員 夢想之告有るに依て、之を申し行うと云々。

現代語延応二年(1240)四月小二十七日辛酉。将軍頼経様のお祈りのために、七人の泰山府君祭を行いました。安陪泰貞・晴賢・国継・晴貞・広資・以平・文方達が勤めました。これは、兵庫守定員が夢のお告げがあったので、これを申し上げて行ったのだそうな。

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