吾妻鏡入門第卅三巻

延應二年庚子(1240)五月大

延應二年(1240)五月大一日甲子。人倫賣買事。一向可停止之旨。今日被仰下云々。

読下し                   じんりんばいばい こと  いっこう  ちょうじすべ  のむね  きょう おお  くだされ    うんぬん
延應二年(1240)五月大一日甲子。人倫賣買の事、一向に停止可き之旨、今日仰せ下被ると云々。

現代語延応二年(1240)五月大一日甲子。人身売買については、全て禁止するように、今日命じられましたとさ。

延應二年(1240)五月大二日乙丑。勝長壽院別當法印良信本坊燒失。放火云々。

読下し                   しょうちょうじゅいんべっとう ほういんりょうしん ほんぼう しょうしつ   ほうか  うんぬん
延應二年(1240)五月大二日乙丑。 勝長壽院別當 法印良信の本坊 燒失す。放火と云々。

現代語延応二年(1240)五月大二日乙丑。勝長寿院筆頭の法印良信の宿舎が燃えました。放火だそうな。

延應二年(1240)五月大四日丁夘。敵對于祖父母相論事。今日被停止之。

読下し                     そふぼ  に てきたい    そうろん  こと  きょう これ  ちょうじされ
延應二年(1240)五月大四日丁夘。祖父母于敵對する相論の事、今日之を停止被る。

現代語延応二年(1240)五月大四日丁卯。祖父母に敵対する訴訟については、今日これを禁止しました。

延應二年(1240)五月大六日己巳。爲師員朝臣。基綱。行然等奉行。人倫賣買事。任綸旨可停止之由。重加下知云々。

読下し                   もろかずあそん  もとつな ぎょうねんら ぶぎょう  な     じんりんばいばい こと  りんじ   まか  ちょうじすべ  のよし
延應二年(1240)五月大六日己巳。師員朝臣、基綱、行然等奉行と爲し、人倫賣買の事、綸旨に任せ停止可き之由、

かさ     げち   くは   うんぬん
重ねて下知を加うと云々。

現代語延応二年(1240)五月大六日己巳。中原師員・後藤基綱・行然二階堂行盛達に担当させて、人身売買については、天皇の命令通りに止めさせるよう、もう一度命令を発出しましたとさ

延應二年(1240)五月大七日庚午。山城前司元忠自京都歸參云々。

読下し                   やましろぜんじもとただきょうとよ   きさん     うんぬん
延應二年(1240)五月大七日庚午。山城前司元忠京都自り歸參すと云々。

現代語延応二年(1240)五月大七日庚午。山城前司本間元忠が京都から帰りましたとさ

延應二年(1240)五月大十一日甲戌。將軍家聊御不例。經兩時之後御少減。霍乱歟。

読下し                     しょうぐんけいささ  ごふれい  りょうとき  へ   ののちごしょうげん かくらんか
延應二年(1240)五月大十一日甲戌。將軍家聊か御不例。兩時を經る之後御少減。霍乱歟。

現代語延応二年(1240)五月大十一日甲戌将軍頼経様が多少具合が悪い。四時間ほどで多少引きました。暑気あたりかも知れません。

延應二年(1240)五月大十二日乙亥。於御所有和歌御會。題。深山郭公。隣家橘。社頭祝也。於常御所被披講。一條少將。右馬權頭。秋田城介。佐渡前司。河内前司。伊賀式部大夫入道。卿僧正。兵庫頭等參。前武州被奉置物砂金羽色革巻絹以下云々。

読下し                      ごしょ   をい   わか   おんえ あ    だい    しんざん ほととぎす  りんか たちばな しゃとう はふり なり
延應二年(1240)五月大十二日乙亥。御所に於て和歌の御會有り。題は、深山の郭公。 隣家の橘。 社頭の祝@也。

つね  ごしょ  をい  ひこうされ
常の御所に於て披講被る。

いちじょうしょうしょう うまごんのかみ  あいだのじょうすけ さどのぜんじ  かわちのぜんじ  いがのしくぶたいふにゅうどう  きょうのそうじょう ひょうごのかみら さん
 一條少將、 右馬權頭、 秋田城介、 佐渡前司、河内前司、伊賀式部大夫入道、卿僧正、兵庫頭等 參ず。

さきのぶしゅう おきもの さきん  はね いろかわ まきぎぬ いげ  たてまつられ  うんぬん
前武州 置物・砂金・羽・色革・巻絹以下を奉被ると云々。

参考@(はふり)は、神主・禰宜に次ぐ神社の神職。

現代語延応二年(1240)五月大十二日乙亥。御所で和歌の会がありました。お題は、深山の郭公(ほととぎす)・隣家の橘(たちばな)・社頭の祝(はふり・神社の入り口で掃除をしている神職)です。不断居られる部屋で読み合いました。一条少将能継・右馬権頭政村・秋田城介義景・佐渡前司後藤基綱・河内前司三浦光村・伊賀式部大夫入道光西光宗・卿僧正快雅・兵庫頭定員が参加です。泰時さんは、置物・砂金・鷲の羽・色染めの皮・絹の反物などを賞品用に差し上げましたとさ。

延應二年(1240)五月大十四日丁丑。信濃國落合後家尼与子息太郎有相論事。今日被經評定。被弃損子息訴訟。且教令違犯。罪科惟重。自今以後。若及敵對者。可被處重科云々。

読下し                     しなののくにおちあい  ごけあま と しそくたろう そうろんあ   こと  きょうひょうじょう  へ られ    しそく  そしょう  きえんされ
延應二年(1240)五月大十四日丁丑。信濃國落合の後家尼与子息太郎相論有る事、今日評定を經被る。子息の訴訟を弃損被る。

かつう きょうれいいはん  ざいかこれおも    いまよ    いご   も   てきたい  およ  ば   じゅうか  しょされ  べ     うんぬん
且は教令違犯の、罪科惟重し。今自り以後、若し敵對に及ば者、重科に處被る可きと云々。

現代語延応二年(1240)五月大十四日丁丑。信濃国大井庄落合郷の出家した未亡人と息子の太郎との裁判沙汰について、今日会議を行いました。息子の訴訟を棄却しました。なお道徳規則違反の罪は重いので、今後敵対した場合は、重い罪に罰するようにとの事でした。

延應二年(1240)五月大廿日癸未。有恩澤沙汰。人々賜御下文。佐渡前司基綱奉行之。御下文者自御所分賜之。

読下し                   おんたく   さた あ    ひとびと おんくだしぶみ たま      さどのぜんじもとつなこれ  ぶぎょう
延應二年(1240)五月大廿日癸未。恩澤の沙汰有り。人々 御下文を賜はる。佐渡前司基綱之を奉行す。

おんくだしぶみは ごしょよ  これ  わか  たま
御下文者 御所自り之を分ち賜はる。

現代語延応二年(1240)五月大二十日癸未。恩賞の決定がありました。対象の人々に命令書を与えました。佐渡前司後藤基綱が担当です。命令書は御所からそれぞれに与えられました。

延應二年(1240)五月大廿五日戊子。今日評定。御家人等以雲客以上爲聟讓所領事。次賣渡私領及御恩之地等於凡下之輩并非御家人事。次以山僧用代官事。自今以後所停止也。

読下し                     きょう ひょうじょう    ごけにんら  うんきゃくいじょう  もっ  むこ  な   しょりょう  ゆず  こと
延應二年(1240)五月大廿五日戊子。今日評定す。御家人等、雲客以上を以て聟と爲し所領を讓る事。

つぎ  しりょうおよ  ごおん の ち ら を ぼんげのやからなら   ひごけにん   うりわた  こと  つぎ  やまそう  もっ  だいかん  もち    こと
次に私領及び御恩之地等於凡下之輩并びに非御家人に賣渡す事。次に山僧を以て代官に用うる事。

いまよ   いご ちょうじ   ところなり
今自り以後停止する所也。

現代語延応二年(1240)五月大二十五日戊子。今日政務会議を開きました。御家人達が、殿上人より上の者を婿にして領地を譲渡する事。次に自分の領地や幕府から与えられた領地を、非武士階級の一般人や御家人以外の武士に売り渡す事。次に年貢徴収に比叡山の武装僧(僧兵)を代官にする事。今から以後は禁止する。

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