吾妻鏡入門第卅三巻

延應二年(1240)六月小

延應二年(1240)六月小一日甲午。於御所御持佛堂。被供養八万四千基泥塔。導師三位僧都頼兼。請僧七口。卿相雲客取布施云々。」今日被始行最勝王經修法。若宮別當法印定親奉仕之云々。

読下し                    ごしょ  おんじぶつどう  をい    はちまんよんせんき  でいとう  くよう され    どうし  さんみのそうづらいけん
延應二年(1240)六月小一日甲午。御所の御持佛堂に於て、八万四千基の泥塔を供養被る。導師は三位僧都頼兼。

しょうそうしちく  けいしょううんきゃく ふせ  と     うんぬん
請僧七口。卿相 雲客布施を取ると云々。」

きょう  さいしょうおうきょう  ずほう  しぎょうされ    わかみやべっとう ほういんじょうしん これ  ほうし    うんぬん
今日、最勝王經@の修法Aを始行被る。 若宮別當 法印定親 之を奉仕すと云々。

参考@最勝王經は、金光明最勝王経で奈良時代に聖武天皇が鎮護国家の経典として尊ばれた。
参考A修法は、密教で行う加持祈祷(きとう)などの法。本尊を安置し、護摩をたき、口に真言を唱え、手で印を結び、心に本尊を念じて行う。祈願の目的により増益(ぞうやく)法・息災法・敬愛法・降伏(ごうぶく)法・鉤召(くしよう)法などに分け、それぞれ壇の形や作法が異なる。すほう。ずほう。

現代語延応二年(1240)六月小一日甲午。御所の将軍の守り本尊のお堂で、84000の泥の塔を作り開眼供養の儀式を行いました。指導僧は三位僧都頼兼。お供の坊さんは七人。公卿と殿上人がお布施を渡したそうな。」今日、鎮護国家の最勝王経の加持祈祷を始めました。八幡宮筆頭の法印定親がこれを勤めたそうな。

延應二年(1240)六月小二日乙未。炎旱渉旬。祈雨法事。日來雖被仰若宮別當法印。依無効驗。今日。被仰付勝長壽院法印良信云々。

読下し                   えんかんしゅん わた    きうほう   こと  ひごろわかみやべっとうほういん おお  られ   いへど   こうけんな     よっ
延應二年(1240)六月小二日乙未。炎旱旬に渉る。祈雨法の事、日來若宮別當法印に仰せ被ると雖も、効驗無きに依て、

きょう  しょうちょうじゅいん ほういんりょうしん おお つ   られ    うんぬん
今日、勝長壽院 法印良信に仰せ付け被ると云々。

現代語延応二年(1240)六月小二日乙未。日照りが10日以上になります。雨乞いの祈りを、このところ八幡宮筆頭の法印定親に命じてきましたが、効果が無いので、今日、勝長寿院の法印良信に命じましたとさ。

延應二年(1240)六月小八日辛巳。將軍家二所御參詣事。爲師員朝臣奉行。有其沙汰云々。

読下し                   しょうげんけ にしょご さんけい  こと  もろかずあそんぶぎょう  な     そ    さた あ     うんぬん
延應二年(1240)六月小八日辛巳。將軍家二所御參詣の事、師員朝臣奉行と爲し、其の沙汰有りと云々。

現代語延応二年(1240)六月小八日辛巳。将軍頼経様の箱根・走湯二権現けのお参りについて、中原師員が担当して、その指示がありましたとさ。

延應二年(1240)六月小九日壬寅。良信法印雖奉仕祈雨法。于今無其驗。仍今日。被改仰于永福寺別當莊嚴房僧都云々。

読下し                   りょうしんほういん きうほう   ほうし     いへど   いまに そ  しるしな
延應二年(1240)六月小九日壬寅。良信法印祈雨法を奉仕すと雖も、今于其の驗無し。

よっ  きょう  ようふくじべっとうしょうごんぼうそうづに あらた おお  られ    うんぬん
仍て今日、永福寺別當莊嚴房僧都于改め仰せ被ると云々。

現代語延応二年(1240)六月小九日壬寅。良信法印が雨乞いの祈りを勤めましたが、いまだにその効力がありません。そこで今日、永福寺の筆頭で僧都の荘厳房退耕行勇に改めて命じましたとさ。

延應二年(1240)六月小十一日甲辰。於前武州御亭有臨時評議定三ケ條事。
一新補地頭得分田畠加徴事
 於本年貢一斗所者。可爲參分一者。
一篝屋用途勤仕所々犯過事
 於謀反殺害者。可召渡守護所。自餘事者。不可有沙汰者。
一山僧補代官事
 地頭所〔山門領非制限〕者。可停止之。但離山之後經年序者。非沙汰之限者。
今日。リ賢朝臣属師員朝臣。申入云。後三條院御當年星令當日曜御之時。天下炎旱也。關東又貞應年中。故禪定二位家令當日曜星給之間。鎌倉旱魃。于時被行屬星日曜七座泰山府君祭。并靈所御秡十壇水天供訖。今年御所御年廿三。令當日曜星給。任例可有御祈祷歟云々。早可有其沙汰之旨。被仰下云々。

読下し                     さきのぶしゅう おんてい  をい  りんじ  ひょうぎあ    さんかじょう  こと  さだ
延應二年(1240)六月小十一日甲辰。前武州の御亭に於て臨時の評議有りて三ケ條の事を定める。

ひとつ しんぽぢとうとくぶん  でんぱくかちょう  こと
一 新補地頭得分@の田畠加徴の事

  ほんねんぐ いっと ところ  をい  は   さんぶ  いちたるべ  てへ
 本年貢一斗Aの所に於て者、參分の一爲可き者り。

参考@新補地頭得分は、承久の乱後新任された地頭の取り分。反別五升の兵糧米と十町別免田一町。
参考A年貢一斗は、二反に付き一斗。5巻文治1年11月28日条に「諸国平均に守護地頭を補任し兵粮米〔段別五升〕を宛て課す」とある。収穫が上がり物価が上がっても兵粮米反別五升は変わらないので、地頭御家人は困窮した。よって加徴を認める法令カ。

ひとつ かがりや ようとうごんじ   しょしょ  はんか  こと
一 篝屋の用途勤仕の所々の犯過の事

  むほん せちがい をい  は   しゅごしょ  めしわた  べ     じよ   ことは   さた あ  べからずてへ
 謀反殺害に於て者、守護所Bへ召渡す可し。自餘の事者、沙汰有る不可者り。

参考B守護所は、朝廷に任命する國衙とは別に、幕府の任命する国衙とほぼ同等の守護職の任地。

ひとつ やなそう だいかん  ぶ   こと
一 山僧を代官に補す事

  ぢとう  ところ 〔さんもんりょう  せい   かぎ    あらず〕 は   これ  ちょうじすべ   ただ  りざん ののちねんじょ  へ   もの     さた の かぎ   あらずてへ
 地頭の所〔山門領は制の限りに非〕者、之を停止可し。但し離山之後年序を經る者は、沙汰之限りに非者り。

きょう   はるかたあそん もろかずあそん  ぞく    もう  い     い
今日、リ賢朝臣師員朝臣に属し、申し入れて云はく。

ごさんじょういん  ごとうねんせい  にちよう  あた  せし  たま  のとき  てんか えんかんなり
後三條院Cの御當年星は日曜に當ら令め御う之時、天下炎旱也。

かんとうまたじょうおうねんちう   こぜんじょうにいけ にちようせい  あた  せし  たま  のあいだ  かまくらかんばつ
關東又貞應年中に、故禪定二位家日曜星に當ら令め給ふ之間、鎌倉旱魃す。

ときに ぞくしょう にちよう  しちざ  たいさんふくんさいなら   れいしょ  おんはら   じうだん  すいてんぐ  おこなわれをはんぬ
時于屬星D・日曜、七座の泰山府君祭并びに靈所Eの御秡へ、十壇の水天供Fを行被 訖。

ことし ごしょ  おんとし  にじうさん  にちようせい  あた  せし  たま    れい  まか  おんきとう あ  べ   か   うんぬん
今年御所の御年は廿三。日曜星に當ら令め給ふ。例に任せ御祈祷有る可き歟と云々。

はや  そ   さた あ   べ   のむね  おお  くだされ   うんぬん
早く其の沙汰有る可き之旨、仰せ下被ると云々。

参考C後三條院は、第71代天皇在位が治暦4年(1068)4月19日〜延久4年(1073)12月8日。
参考D
属星は、陰陽道で生年の干支によって、運命を支配する北斗七星の各星にあてる。

参考E
霊所は、心霊スポット?神の住む場所?
参考F水天供は、祈雨のため水天に供養して祈願する密教の修法。

現代語延応二年(1240)六月小十一日甲辰。前武州泰時さんの屋敷で、臨時の会議があって新法三カ条について決めました。
一つは、承久合戰で褒美に与えられた地頭の取り分の田畑への追加課税について
    元々の年貢が二反につき一斗(反別五升)のところは、その三分の一と命じます
一つは、交番の様にかがり火を焚いている番屋(かがり屋)での勤務中に確保した犯罪者の扱いについて
    謀反人・殺害人については、守護所へ連行する事。その他についての権限はありません。
一つは、年貢徴収に比叡山の武装僧(僧兵)を代官にする事
    地頭が任命されている所〔比叡山の領地は除きます〕は、禁止します。但し、比叡山を退去して年数の経っている者は対象外。

今日、安陪晴賢さんが中原師員さんを通じて、将軍に申言しました。「御三条院のその年の星周りが日曜に当たった年は、天下が日照りでした。関東では、同様に貞応年中(1222-1224)に、亡き二位家政子様が日曜星に当たった時に鎌倉は日照りでした。その時に、属星祭・日曜祭・七人の泰山府君祭それに霊所(心霊スポット)でのお祓い、十の壇を設え水神様に雨を降らせる祈りを行いました。今年、将軍のお年は23才で日曜星に当たります。以前の例のように祈祷をするべきでしょう。」との事です。早くそうするように命令されましたとさ。

延應二年(1240)六月小十五日戊申。爲祈雨。被行日曜祭并靈所七瀬御秡。泰貞。リ賢。國継。廣資。以平。泰房。リ尚等奉仕之云々。

読下し                      きう   ため  にちようさいなら   れいしょななせ  おんはら    おこなわれ
延應二年(1240)六月小十五日戊申。祈雨の爲、日曜祭并びに靈所七瀬の御秡へ@を行被る。

やすさだ がるかた  くにつぐ  ひろすけ もちひら  やすふさ  はるなおら これ  ほうし    うんぬん
泰貞、リ賢、國継、廣資、以平、泰房、リ尚等之を奉仕すと云々。

現代語延応二年(1240)六月小十五日戊申。雨乞いの祈りのため、日曜祭それに霊所七か所の水の流れがある所でのお祓いを行いました。安陪泰貞・晴賢・国継・広資・以平・泰房・晴尚がこれを勤めましたとさ。

説明@七瀬払いは、26巻貞応3年六月6日条では、由比ガ浜・七里ヶ浜・片瀬川・六浦・鼬川・森戸海岸・江の島龍穴。
 又、27巻寛喜
2年(1230)11月13日条では霊所、由比ガ浜、七里ヶ浜、片瀬川、六浦、鼬川、森戸海岸、田越川が書かれている。

延應二年(1240)六月小十六日己酉。爲祈雨。安祥寺僧正被始行孔雀經御修法云々。

読下し                      きう   ため  あんじょうじそうじょう  くじゃくきょう  ごずほう  しぎょうされ    うんぬん
延應二年(1240)六月小十六日己酉。祈雨の爲、安祥寺僧正、孔雀經の御修法を始行被ると云々。

現代語延応二年(1240)六月小十六日己酉。雨乞いの祈りのため、安祥寺僧正良瑜が孔雀経の加持祈祷を始めましたとさ。

延應二年(1240)六月小十七日庚戌。酉刻俄雨降。無程属リ。不及潤地。

読下し                     とりのこく にはか あめふ   ほどな   はれ  ぞく    ち   うる      およばず
延應二年(1240)六月小十七日庚戌。酉刻 俄に雨降る。程無くリに属す。地を潤おすに及不。

現代語延応二年(1240)六月小十七日庚戌。午後6時頃、少し雨が降りましたが、すぐ晴れてしまいました。地面を潤すほどは有りませんでした。

延應二年(1240)六月小十八日辛亥。泰貞朝臣自今日三ケ日。於江嶋可勤修千度御秡之旨。被仰付云々。政所沙汰也。

読下し                     やすさだあそん きょう よ   みっかび  えのしま  をい  せんど   おんはら   ごんじゅすべ  のむね
延應二年(1240)六月小十八日辛亥。泰貞朝臣今日自り三ケ日、江嶋に於て千度の御秡へを勤修可き之旨、

おお  つ   られ   うんぬん  まんどころ さた なり
仰せ付け被ると云々。政所の沙汰也。

現代語延応二年(1240)六月小十八日辛亥。安陪泰貞さんが今日から三日間、江の島で千回のお祓いを勤めるように、命令されました。政務事務所の負担です。

延應二年(1240)六月小廿二日乙夘。於鶴岳宮寺。被行最勝王經御讀經。入夜始行属星祭。權暦博士定昌朝臣奉仕。是皆爲祈雨也。佐渡前司基綱。兵庫頭定員等爲奉行。

読下し                     つるがおかぐうじ  をい   さいしょうおうきょう おんどっきょう おこなはれ  よ   い   ぞくしょうさい しぎょう
延應二年(1240)六月小廿二日乙夘。鶴岳宮寺に於て、最勝王經の 御讀經を行被る。夜に入り属星祭を始行す。

ごんのれきはくじさだまさあそん ほうし    これみな きう   ためなり  さどのぜんじもとつな  ひょうごのかみさだかずらぶぎょうたり
權暦博士定昌朝臣 奉仕す。是皆祈雨の爲也。佐渡前司基綱、兵庫頭定員等奉行爲。

現代語延応二年(1240)六月小二十二日乙卯。鶴岡八幡宮寺で、最勝王経の読み上げを行いました。夜になって属星祭を始めました。権暦博士安倍定昌さんが勤めました。これも全て雨乞いのためです。佐渡前司後藤基綱と兵庫頭藤原定員が指揮担当です。

延應二年(1240)六月小廿四日丁巳。酉刻。將軍家御不例。

読下し                     とりのこく しょうぐんけ ごふれい
延應二年(1240)六月小廿四日丁巳。酉刻。將軍家御不例。

現代語延応二年(1240)六月小二十四日丁巳。午後6時頃に将軍頼経様が具合悪くなりました。

延應二年(1240)六月小廿五日戊午。御不例者御痢病也。仍今夜。爲前武州御沙汰。於御所可被行痢病祭。泰貞朝臣奉仕云々。

読下し                      ごふれいは おんりびょうなり
延應二年(1240)六月小廿五日戊午。御不例者御痢病也。

よっ  こんや  さきのぶしゅう   ごさた   な     ごしょ  をい  りびょうさい  おこなはれ べ      やすさだあそんほうし    うんぬん
仍て今夜、前武州の御沙汰と爲し、御所に於て痢病祭を行被る可し。泰貞朝臣奉仕すと云々。

現代語延応二年(1240)六月小二十五日戊午。病気は下痢です。そこで今夜、前武州泰時さんの負担主催で、御所で下痢の病を治す祭を行いました。安陪泰貞さんが勤めましたとさ。

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吾妻鏡入門第卅三巻

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