吾妻鏡入門第卅三巻

仁治元年(延應二年)庚子(1240)七月小十六日改元

延應二年(1240)七月小一日癸亥。將軍家御不例事。自昨日御減云々。」今日。依炎旱可行水天供之旨。被仰鶴岡供僧等云々。出羽前司行義奉行之。

読下し                   しょうぐんけ ごふれい   こと  きのう よ   ごげん  うんぬん
延應二年(1240)七月小一日癸亥。將軍家御不例の事、昨日自り御減と云々。」

きょう   えんかん  よっ  すいてんぐ  おこな べ   のむね  つるがおかぐそうら  おお  られ    うんぬん  でわのぜんじゆきよしこれ  ぶぎょう
今日、炎旱に依て水天供を行う可き之旨、鶴岡供僧等に仰せ被ると云々。出羽前司行義之を奉行す。

現代語延応二年(1240)七月小一日癸亥。将軍頼経様の病気について、昨日から快方に向かっているそうな。」
今日、日照りなので水を司る神様の水天宮への加持祈祷を行うように、鶴岡八幡宮の坊さんに命じました。出羽前司二階堂行義が指揮担当です。

延應二年(1240)七月小四日丙寅。爲祈雨別被始行十壇水天供。法印定親。良信。良賢等修之。

読下し                    きう   ためべっ    じうだん  すいてんぐ  しぎょうされ   ほういんじょうしん りょうしん りょうけんらこれ  しゅう
延應二年(1240)七月小四日丙寅。祈雨の爲別して十壇の水天供を始行被る。法印定親、良信、良賢等之を修す。

現代語延応二年(1240)七月小四日丙寅。雨乞いの祈祷のため、十人での水天宮への加持祈祷を始めました。法印定親・良信・良賢などが加持祈祷をしました。

延應二年(1240)七月小八日庚午。入夜雨少降。不能濕地。

読下し                    よ   い   あめすこ  ふ     ち   しめ      あたはず
延應二年(1240)七月小八日庚午。夜に入り雨少し降る。地を濕らすに不能。

現代語延応二年(1240)七月小八日庚午。夜になって少し雨が降りました。地面を濡らす程ではありません。

延應二年(1240)七月小九日辛未。雨下。水天供驗徳歟之由及沙汰。但猶不能滂沱。」今曉。六波羅越後守時盛歸洛。依匠作事所參向也。於今日者。可被聽關東祗候之由。此間頻雖愁申。無恩許。去五日可進發之由。四日。前武州以平左衛門尉盛綱。度々被相催。然而五日者太白方之由。申請延引云々。

読下し                    あめふ     すいてんぐ  けんとくか のよし さた   およ    ただ  なお ぼうだ   あたはず
延應二年(1240)七月小九日辛未。雨下る。水天供の驗徳歟之由沙汰に及ぶ。但し猶滂沱に不能。」

こんぎょう  ろくはらえりごのかみときもり きらく    しょうさく  こと   よっ  さんこう   ところなり
今曉、六波羅越後守時盛歸洛す。匠作の事に依て參向する所也。

こんにち をい  は   かんとうしこう   ゆるされ  べ   のよし  こ あいだしきり うれ  もう    いへど   おんきょな
今日に於て者、關東祗候を聽被る可き之由、此の間頻に愁い申すと雖も、恩許無し。

さんぬ いつか しんぱつすべ のよし  よっか    さきのぶしゅう へいさえもんのじょうもりつな もっ    たびたびさいそくされ
去る五日 進發可き之由、四日に、前武州 平左衛門尉盛綱を 以て、度々相催被る。

しかしながら いつかは たいはくかた のよし  えんいん もう  う    うんぬん
 然而、五日者 太白方@之由、延引を申し請くと云々。

現代語延応二年(1240)七月小九日辛未。雨が降りました。水天宮への加持祈祷の効果であろうと決定しました。(褒美が出る)但し、流れるほどではありません。」
今朝の夜明けに、六波羅探題の越後守北条時盛(時房長男)が京都から帰って来ました。時房さんの死の事で来たのです。今日の事は、関東への戻りを許可して欲しいと、散々申し出ていましたが、許可が出ませんでした。先日に五日に出発するように四日に泰時さんは平三郎左衛門尉盛綱を通じて何度も伝えました。しかし、五日は、外出を避けなければならない日なので、延期を申し出ましたとさ。

解説@太白は、三年塞がりと云われ、何事も慎まなければならない。日本では陰陽道の間などによって伝えられ、天一神や八将神と同様、方位に纏わる太白神として信仰されるようになったようである。太白神は既述の通り金星の精であるという点では大将軍神とも類似する。しかし、大将軍神は三年間同じ方位にい続けるのに対して太白神は毎日、日ごとにその所在を変えるという。一日は東、二日は辰巳、三日は南、…というように順に巡っていって、八日は丑寅、九日は天、十日は地で一巡し、十一日、二十一日は一日と同様にして以下も同じであるという。(HP八将神についてから引用)で、五日は西方が良くないので延期した。

延應二年(1240)七月小十一日癸酉。水天供。昨日雖滿七ケ日。猶被延引云々。

読下し                     すいてんぐ  さくじつなぬかにち  み      いへど    なおえんいんされ  うんぬん
延應二年(1240)七月小十一日癸酉。水天供。昨日七ケ日に滿つると雖も、猶延引被ると云々。

現代語延応二年(1240)七月小十一日癸酉。水天宮への加持祈祷が昨日で7カ日で満了しましたが、なお延長しましたとさ。

延應二年(1240)七月小十三日乙亥。辰刻甚雨。巳時属リ。水天供之間。有數度甚雨。仍奉仕之僧各賜御劔一腰。又被奉御劔於鶴岳。可被送進神馬於二所三嶋等云々。

読下し                     たつのこく はなは あめ みのこくはれ ぞく   すいてんぐのあいだ すうど    じんう あ
延應二年(1240)七月小十三日乙亥。辰刻 甚だ雨。巳時リに属す。水天供之間、數度の甚雨有り。

よっ  ほうしのそうおのおのぎょけんひとこし たま
仍て奉仕之僧 各 御劔一腰を賜はる。

また  ぎょけんを つるがおか たてまつ られ  しんめを にしょ みしま ら   おく  しん  られ  べ    うんぬん 
又、御劔於 鶴岳を奉つ被る。神馬於二所三嶋等に送り進じ被る可しと云々。

現代語延応二年(1240)七月小十三日乙亥。午前8時頃に土砂降りです。午前10時頃には晴れました。水天宮への加持祈祷している間、何度かの土砂降りがありました。それで、加持祈祷を勤めた坊さんそれぞれに刀一振りが与えられました。又、刀を鶴岡八幡宮へ奉納しました。馬を箱根・走湯の二所権現と三島大社に送って奉納しましたとさ。

仁治元年(1240)七月小廿六日戊子。天霽。將軍家二所御精進始也。未刻。爲浴潮給。出御于由比浦。御先達一乘房阿闍梨云々。入夜。於由比浦被行風伯祭。左馬頭義氏朝臣沙汰也。任寛喜之例。泰貞朝臣奉仕之。前隼人正光重爲御使。是今年天下旱魃之間。兼爲攘風難所被行也。

読下し                     そらはれ しょうぐんけ にしょ  ごしょうじんはじ なり ひつじのこく うしお よく  たま    ため  ゆいのうらに いでたま
仁治元年(1240)七月小廿六日戊子。天霽。將軍家二所の御精進始め也。未刻、 潮に浴し給はん爲、由比浦于出御う。

ごせんだつ  いちじょうぼうあじゃり  うんぬん   よ   い     ゆいのうら  をい  ふうはくさい  おこなはれ  さまのかみよしうじあそん   さた なり
御先達は一乘房阿闍梨と云々。夜に入り、由比浦@に於て風伯祭を行被る。左馬頭義氏朝臣が沙汰也。

かんぎ のれい  まか   やすさだあそんこれ  ほうし     さきのはやとのしょうみつしげ おんしたり
寛喜之例Aに任せ、泰貞朝臣之を奉仕す。 前隼人正光重 御使爲。

これ  ことし てんか かんばつのあいだ  かね ふうなん  はら   ため おこなはれ ところなり
是、今年天下 旱魃之間、 兼て風難を攘はん爲 行被る所也。

参考@由比浦は、28巻寛喜3年6月15日に風の難で船が多く破損したので、由比浦の鳥居前で風伯祭を勤めている。の記事から鎌倉市由比ガ浜二丁目3−2地先で発掘された鳥居跡の辺りまで浦が入り込んでいたと推理される。
参考A寛喜の例は、28巻寛喜3年6月15日に風の難で船が多く破損したので、由比浦の鳥居前で風伯祭を泰貞が勤めている。

現代語仁治元年(1240)七月小二十六日戊子。空は晴です。将軍頼経様は、箱根・走湯の二所権現参りに為の精進潔斎を始めました。午後2時頃海水による沐浴のため由比浦にお出ましです。先導するのは一乗房阿闍梨です。夜になって、由比ガ浜で風の神のお祭りを行いました。左馬頭足利義氏さんの負担です。寛喜年間に行った例の様に安陪泰貞さんがこれを勤めました。前隼人正伊賀光重が代参です。これは、今年が旱魃なので、ついでに暴風(風の神が雲を飛ばすので雨が降らない)を避けるため行うのです。

仁治元年(1240)七月小廿七日己丑。天震。夘刻。將軍家又御濱出。二所御精進之間。爲令浴潮御也。」今日。京都使者參。去十六日改元。改延應二年爲仁治元年。

読下し                     そらはれ  うのこく  しょうぐんけ また おんはまいで にしょ ごしょうじんのあいだ  うしお よくせし  たま    ためなり
仁治元年(1240)七月小廿七日己丑。天震。夘刻、將軍家 又 御濱出。二所 御精進之間、潮に浴令め御はん爲也。」

きょう    きょうと  ししゃ まい   さんぬ じうろくにちかいげん  えんおうにねん あらた にんじがんねん  な
今日、京都の使者參る。去る十六日改元。 延應二年を改め仁治元年と爲す。

現代語仁治元年(1240)七月小二十七日己丑。空は晴です。午前6時頃に、将軍頼経様は又浜へお出ましです。箱根・走湯の二所権現参りに為の海水で沐浴のためです。」今日、京都からの使いが来ました。先日の十六日に改元があり、延応二年を仁治元年としました。

八月へ

吾妻鏡入門第卅三巻

inserted by FC2 system