吾妻鏡入門第卅三巻

仁治元年庚子(1240)九月大

仁治元年(1240)九月大七日丁夘。御所御持佛堂彼岸法華懺法結願也。僧衆分賜五十二種物。此外有御布施。八條少將。前彈正大弼。内藏權頭等取之。其後。佛師參河法橋依召參御持佛堂。奉造始北斗七星廿八宿七曜十二宮等形像。雖爲九月。造立佛像無憚之由及御沙汰云々。兵庫頭定員奉行之。

読下し                   ごしょ   おんじぶうつう   ひがん  ほっけせんぽう  けちがんなり  そうしゅうごじうにしゅぶつ  わ   たま
仁治元年(1240)九月大七日丁夘。御所の御持佛堂、彼岸の法華懺法@の結願也。僧衆五十二種物を分け賜はる。

こ   ほか おんふせ あ     はちじょうしょうしょう さきのだんじょうしょうひつ くらごんのかみら これ  と
此の外御布施有り。 八條少將、 前彈正大弼、 内藏權頭等之を取る。

  そ  ご  ぶっしみかわほっきょうめし  よっ  おんじぶつどう  まい    ほくとしちせい にじうはちすく しちよう じうにくう ら  ぎょうぞう つく  はじ たてまつ
其の後、佛師參河法橋召に依て御持佛堂へ參り、北斗七星A 廿八宿 七曜 十二宮等の形像を造り始め奉る。

くがつたり  いへど   ぶつぞう ぞうりゅうはばか な  のよし  ごさた    およ   うんぬん ひょうごなみさだかずこれ ぶぎょう
九月爲と雖も、佛像の造立憚り無し之由御沙汰に及ぶと云々。兵庫頭定員之を奉行す。

参考@法華懺法は、法華経を読誦して懺悔し、後生善所を願う法要。天台宗の重要な儀式。
参考A
北斗七星は、妙見菩薩。

現代語仁治元年(1240)九月大七日丁卯。御所の将軍の守り本尊を安置する持仏堂で、お彼岸に法華経を読誦し懺悔する法要が終わりました。お坊さん達には52種類の用意した品物を分け与えました。その他にもお布施がありました。八条少将実清・前弾正大弼三条親実・内蔵権頭資親たちがこれを渡しました。その後、仏師の三河法橋が呼ばれて持仏堂へ来て、北斗七星・二十八宿・七曜・十二宮などの仏像を造り始めました。九月ですけど、仏像の制作には何も縁起は悪くないとご指示になられましたとさ。兵庫頭藤原定員が指揮担当です。

仁治元年(1240)九月大八日戊辰。戌尅。施藥院使正四位上丹波朝臣良基卒〔年五十五〕。于時在伊豆國北條小那温泉云々。

読下し                   いぬのこく やくいんのかみ しょうしいじょう たんばのあそんよしもとそつ 〔 としごじうご 〕 
仁治元年(1240)九月大八日戊辰。戌尅。施藥院使@正四位上 丹波朝臣良基卒〔年五十五〕

ときに いずのくにほうじょう  こなおんせん  あ     うんぬん
時于伊豆國北條 小那温泉Aに在りと云々。

参考@施藥院使は、ヤクインノカミと読み、典薬頭以下十医師がいる。光明皇后が始めた。
参考A小那温泉は、静岡県伊豆の国市古奈。長岡温泉内。

現代語仁治元年(1240)九月大八日。午後8時頃、施薬院の医師正四位上 丹波良基〔年五十五〕が亡くなりました。その時は、伊豆国北条の古奈温泉に居ましたとさ。

仁治元年(1240)九月大十六日丙子。月蝕正現。皆虧。初未尅〔卅分〕。復末戌尅〔廿八分〕。

読下し                     げっしょくせいげん  みなか       はじ  ひつじのこく 〔さんじうぶ〕 ふくすえ いぬのこく 〔にじうはちぶ〕
仁治元年(1240)九月大十六日丙子。月蝕正現す。皆虧ける。初めは未尅〔卅分〕。復末は戌尅〔廿八分〕

現代語仁治元年(1240)九月大十六日丙子。月食がきちんと現れました。全て掛けました。始まりは午後二時頃で、終わりは午後八時頃です。

疑問〔卅分〕〔廿八分〕は、意味不明。乞教示。

仁治元年(1240)九月大卅日庚寅。御家人等中任官之輩不勤行幸役事。依有其恐。可召進用途之由。今日有評定。所謂左右衛門尉分〔人別百疋〕。左右兵衛尉分〔人別七十疋〕。左右近將監分〔人別三十疋〕。左右右馬允分〔人別五十疋〕。内舎人分〔人別廿疋〕等也。不供奉行幸等者。爲毎年役。可進濟云々。且加催促。令致沙汰。可注進交名之旨。所被仰諸國守護人也。

読下し                     ごけにんら  なか にんかんのやから ぎょうこう えき ごんぎょうせざること
仁治元年(1240)九月大卅日庚寅。御家人等の中、任官之輩、行幸の役に勤行不事、

そ   おそ  あ     よっ    ようとう  めししん  べ   のよし  きょうひょうじょうあ
其の恐れ有るに依て、用途を召進ず可き之由、今日評定有り。

いはゆる さゆうえもんのじょうぶん 〔じんべつひゃっぴき 〕  さゆうひょうえのじょうぶん 〔じんべつしちじっぴき〕  さゆうこんしょうげんぶん 〔じんべつさんじっぴき〕
所謂、左右衛門尉分 〔人別百疋@、左右兵衛尉分 〔人別七十疋〕、 左右近將監分〔人別三十疋〕

さゆううまのじょうぶん 〔じんべつごじうごひき〕   うちのとねりぶん 〔じんべつにじっぴき〕 らなり  ぎょうこうら   ぐぶせざるもの    まいとし  えき  な     しんさいすべ   うんぬん
左右右馬允分〔人別五十疋〕、内舎人分〔人別廿疋〕等也。行幸等に供奉不者は、毎年の役と爲し、進濟可きと云々。

かつう さいそく  くは    さた いたせし  きょうみょう ちうしんすべ  のむね  しょこく  しゅごにん  おお  らる ところなり
且は催促を加へ、沙汰致令め、交名を注進可き之旨、諸國の守護人に仰せ被る所也。

参考@一疋は、10文。ずっと後に25文となる。罰金と書いたが、反物一疋かも知れない。

現代語仁治元年(1240)九月大三十日庚寅。御家人の中で、任官していながら、天皇の行列の護衛役を勤めない者は、とんでもない失礼極まりない事なので、罰金を取り上げるようにと、今日会議がありました。その内容は、左右衛門尉の分は、一人当たり百疋、左右兵衛尉の分は、一人当たり七十疋、左右近将監の分は、一人当たり三十疋、左右右馬允分は、一人当たり五十疋、内舎人分は、一人当たり二十疋としました。天皇の行列に参加しない者は、毎年の義務として上納するようにとのことです。催促をし、又名簿を書き出すように、諸国の守護人に命令を出したのです。

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