吾妻鏡入門第卅三巻

仁治元年庚子(1240)十月小

仁治元年(1240)十月小十日庚子。於前武州御亭。可被造山内道路之由。有其沙汰。安東藤内左衛門尉奉行之。

読下し                   さきのぶしゅう おんてい  をい   やまのうち  どうろ  つくられ  べ   のよし  そ   さた あ
仁治元年(1240)十月小十日庚子。前武州の御亭に於て、山内の道路@を造被る可き之由、其の沙汰有り。

あんどうとうないさえもんのじょう これ ぶぎょう
安東藤内左衛門尉 之を奉行す。

参考@山内への道路は、小袋坂切通し。

現代語仁治元年(1240)十月小十日庚子。前武州泰時さんの屋敷で、山内への道路を作るように、お決めになりました。安東藤内左衛門尉光成が担当です。

仁治元年(1240)十月小十三日癸夘。天リ。前武州并評定衆等被參御所。五大堂内可被建北斗堂之由。有議定云々。

読下し                    そらはれ さきのぶしゅうなら   ひょうじょうしゅうらごしょ  まいられ
仁治元年(1240)十月小十三日癸夘。天リ。前武州并びに評定衆等御所へ參被、

ごだいどうない   ほくとどう  たてられ  べ   のよし  ぎじょうあ     うんぬん
五大堂内に北斗堂を建被る可き之由、議定有りと云々。

現代語仁治元年(1240)十月小十三日癸卯。空は晴です。泰時さんそれに政務会議メンバーが御所へ来られて、五大堂明王院内に北斗七星を祀る北斗堂を建てるように、会議で決定したんだとさ。

仁治元年(1240)十月小十九日己酉。天リ。大倉北斗堂地曳始事。佐渡前司。兵庫頭等可奉行之云々。」又爲前武州御沙汰。被造山内道路。是嶮難之間。依有往還煩也。

読下し                    そらはれ  おおくら  ほくとどう ぢびきはじ    こと  さどのぜんじ  ひょうごのかみらこれ  ぶぎょうすべ   うんぬん
仁治元年(1240)十月小十九日己酉。天リ。大倉の北斗堂地曳始めの事、佐渡前司、兵庫頭等之を奉行可きと云々。」

また さきのぶしゅう   おんさた   な    やまのうち  どうろ  つくられ    これ けんなんのあいだ おうかん わずら あ     よっ  なり 
又、前武州の御沙汰と爲し、山内の道路を造被る。是、嶮難之間、往還の煩い有るに依て也。

現代語仁治元年(1240)十月小十九日己酉。空は晴です。大蔵に建てる北斗堂の現地縄張りについて、佐渡前司後藤基綱・兵庫頭藤原定員が指揮担当するんだとさ。」
又、泰時さんの指示として、山内への道路を造ります。これは、峠が険しいので、往復に大変だからです。

仁治元年(1240)十月小廿二日壬子。人々浴恩澤。佐渡前司基綱爲奉行云々。

読下し                     ひとびとおんたく  よく    さどのぜんじおとつなぶぎょうたり  うんぬん
仁治元年(1240)十月小廿二日壬子。人々恩澤に浴す。佐渡前司基綱奉行爲と云々。

現代語仁治元年(1240)十月小二十二日壬子。人々が褒美に所領を貰いました。佐渡前司後藤基綱が指揮担当です。

解説後になると恩沢奉行の名称が出来る。

閏十月へ

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