吾妻鏡入門第卅三巻

仁治元年庚子(1240)閏十月大

仁治元年(1240)閏十月大三日壬戌。去月廿日任大臣〔左實經。内家良〕除書到着。師員朝臣持參御前。可被遣御賀札等之由被仰云々。

読下し                    さんぬ つきはつかにんだいじん 〔さ さねつね ないいえよし〕   じしょとうちゃく
仁治元年(1240)閏十月大三日壬戌。去る月廿日任大臣〔左實經。内家良〕の除書到着す。

もろかずあそん ごぜん  じさん    おんが  さつら   つか  さる  べ   のよしおお  られ    うんぬん
師員朝臣御前に持參し、御賀の札等を遣は被る可き之由仰せ被ると云々。

現代語仁治元年(1240)閏十月大三日壬戌。先月20日大臣〔左大臣が九条実経、内大臣が近衛家良〕任命の人事措置が到着しました。中原師員さんが将軍の前へ持って来たら、祝のお手紙を出させるように命じられましたとさ。

仁治元年(1240)閏十月大五日甲子。問状事。問答訴人等掠申之旨。露顯之時者。可處罪科之由。面々可被仰含之云々。太宰少貳爲佐。加賀民部大夫康持爲奉行云々。

読下し                     といじょう こと   もんどう  そにんら かす  もう  のむね  ろけん のときは   ざいか   しょ  べ   のよし
仁治元年(1240)閏十月大五日甲子。問状の事、問答の訴人等掠め申す之旨、露顯之時者、罪科に處す可き之由、

めんめんこれ おお  ふく  られ  べ    うんぬん
面々之を仰せ含め被る可きと云々。

だざいしょうにためすけ  かがのみんぶたいふやすもち ぶぎょうたり  うんぬん
太宰少貳爲佐、加賀民部大夫康持 奉行爲と云々。

現代語仁治元年(1240)閏十月大五日甲子。裁判記録について、訴訟の当事者がこっそり持って行ってしまった事が、露見した時は罪人として処分するように、それぞれこれを訴人等に言い聞かせるようにとの事なんだそうな。太宰少弐狩野為佐・加賀民部大夫町野康持が指揮担当だそうな。

仁治元年(1240)閏十月大廿三日壬午。丑刻。前陰陽權助正四位下安倍朝臣親職卒。

読下し                       うしのこく さきのおんみょうごんのすけ しょうしいげ あべのあそんちかもとそっ
仁治元年(1240)閏十月大廿三日壬午。丑刻、 前陰陽權助 正四位下 安倍朝臣親職卒す。

現代語仁治元年(1240)閏十月大二十三日壬午。午前2時頃、前陰陽権助正四位下安陪親職さんが亡くなりました。

仁治元年(1240)閏十月大廿八日丁亥。於御所。北斗堂事始以下日次事被定之。伊賀式部大夫入道。大田民部大夫等奉行之。

読下し                        ごしょ   をい    ほくとどう ことはじめ いげ   ひなみ  ことこれ  さだ  られ
仁治元年(1240)閏十月大廿八日丁亥。御所に於て、北斗堂事始以下の日次の事之を定め被る。

いがのしきぶたいふにゅうどう  おおたのみんぶたいふら これ ぶぎょう
伊賀式部大夫入道、大田民部大夫等之を奉行す。

現代語仁治元年(1240)閏十月大二十八日丁亥。御所で、北斗堂の造作始め式を始めとする造作行事のお日和についてお決めになりました。伊賀式部大夫入道光宗・太田民部大夫康連が指揮担当です。

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