吾妻鏡入門第卅三巻

仁治元年庚子(1240)十一月大

仁治元年(1240)十一月大十二日辛丑。大倉北斗堂地引始之。前武州監臨給。伊賀式部大夫入道。加賀民部大夫。大田民部大夫等奉行之。

読下し                      おおくら ほくとどう   ぢびきこれ  はじ     さきのぶしゅうかんりん たま
仁治元年(1240)十一月大十二日辛丑。大倉北斗堂の地引之を始める。前武州監臨し給ふ。

いがのしきぶのたいふにゅうどう かがのみんぶたいふ おおたのみんぶたいふらこれ  ぶぎょう
伊賀式部大夫入道、加賀民部大夫、大田民部大夫等之を奉行す。

現代語仁治元年(1240)十一月大十二日辛丑。大倉の北斗堂の縄張りを始めました。前武州泰時さんが立ち会いました。伊賀式部大夫入道光宗・加賀民部大夫町野康持・太田民部大夫康連達がこれを指揮担当します。

仁治元年(1240)十一月大十九日戊申。長沼前淡路守從五位下藤原朝臣宗政法師死〔年七十九〕。于時在下野國長沼郡云々。

読下し                      ながぬま さきのあわじのかみ じゅごいのげ ふじわらあそんむねまさほっし し   〔とししちじうく〕
仁治元年(1240)十一月大十九日戊申。長沼 前淡路守 從五位下 藤原朝臣宗政法師死す〔年七十九〕

ときに しもつけのくに ながぬまぐん  あ    うんぬん
時于 下野國長沼郡@に在りと云々。

参考@長沼郡は、栃木県真岡市長沼。但し芳賀郡長沼。

現代語仁治元年(1240)十一月大十九日戊申。前淡路守小山五郎長沼宗政、従五位下 藤原宗政法師死亡〔年七十九才〕。その時、下野国長沼郡に居ましたとさ。

仁治元年(1240)十一月大廿一日庚戌。今日爲鎌倉中警固。辻々可燒篝之由被定。省宛保内在家等。定結番。可勤仕之旨。被觸仰保々奉行人等云々。

読下し                       きょう   かまくらちゅう  けいご  ため  つじつじ かがり や   べ   のよしさだ  られ
仁治元年(1240)十一月大廿一日庚戌。今日、鎌倉中を警固の爲、辻々に篝を燒く可き之由定め被る。

ほうない  ざいけら   はぶ  あて  けちばん  さだ    ごんじ すべ  のむね  ほうほう  ぶぎょうにんら  ふれおお  られ   うんぬん
保内の在家等に省き宛、結番を定め、勤仕可き之旨、保々の奉行人等に觸仰せ被ると云々。

現代語仁治元年(1240)十一月大二十一日庚戌。今日、鎌倉中の防犯のため、辻々にかがり火を焚くように決められました。町屋の単位の保内の住民たちの負担に当てて、順番を決めて番屋に勤めるように、保ごとの責任者に布告しましたとさ。

仁治元年(1240)十一月大廿三日壬子。爲C左衛門尉奉行。洛中未作篝屋等事有議定。被省宛其用途於御家人等。而本新補地頭不叙用御下知者。可被召所領之旨。先日雖被載式目。被召所領者。就之所々訴訟無尽期歟。仍可被召篝屋用途也。假令五十町可召錢五十貫文之由被定。但地頭得分也。不可成土民煩云々。

読下し                      せいさえもんのじょうぶぎょう  な     らくちう  みさく   かがりやら   ことぎじょうあ
仁治元年(1240)十一月大廿三日壬子。C左衛門尉奉行と爲し、洛中の未作の篝屋等の事議定有り。

 そ   ようとうを ごけにんら    はぶ  あてられ
其の用途於御家人等に省き宛被る。

しか    ほんしんぽ ぢとう おんげち  じょようせず  ば  しょりょう めされるべ  のむね  せんじつしきもく  の   られ   いへど
而るに本新補地頭御下知を叙用不ん者、所領を召被可き之旨、先日式目に載せ被ると雖も、

しょりょう  めされれば  これ  つ   しょしょ  そしょう つ     ご な       か
所領を召被者、之に就き所々の訴訟尽くる期無からん歟。

よっ  かがりや  ようとう  めされるべ  なり  けりょうぎじっちょう  ぜにごじっかんもん  め   べ   のよしさだ  られ
仍て篝屋の用途を召被可き也。假令五十町に錢五十貫文を召す可し之由定め被る。

ただ ぢとうぶとくぶんなり  どみん  わずら   な   べからず  うんぬん
但し地頭得分也。土民の煩ひを成す不可と云々。

現代語仁治元年(1240)十一月大二十三日壬子。清原左衛門尉満定が担当して、京都市街の未だ設置していないかがり火番屋の事について会議があり鞠ました。その負担を御家人に割り当てました。しかし、承久乱以前からの地頭のその後の地頭も、命令を聞かなければ、領地を取り上げるようにと先日法令規則に載せましたが、領地を取り上げられれば、取り返そうとの訴訟が無くなる日が無いでしょう。そこで、かがり火番屋の費用を新たに取るべきでしょう。例えば、領地50町につき銭50貫文を出させようとお決めになりました。但し、地頭の取り分からで、一般農民に負担をかけてはいけないそうだ。

仁治元年(1240)十一月大廿八日丁巳。京都大番勤否事。被經沙汰。是有遲參不法輩之由。依有其聞也。假令一ケ月令遲參者。被召過怠用途千疋。可被宛未作篝屋料云々。

読下し                      きょうと おおばんきんぴ こと   さた   へ られ
仁治元年(1240)十一月大廿八日丁巳。京都大番勤否の事、沙汰を經被る。

これ  ちさん ふほう  やからあ   のよし  そ   きこ  あ     よっ  なり
是、遲參不法の輩有る之由、其の聞へ有るに依て也。

けりょういっかげつ ちさんせし  ば   けたい  ようとうせんびき  めされ   みさく かがりやりょう あてられ  べ     うんぬん
假令一ケ月遲參令め者、過怠の用途千疋を召被、未作の篝屋料に宛被る可きと云々。

現代語仁治元年(1240)十一月大二十八日丁巳。京都朝廷御所警護のための京都大番役の勤務について、決裁を得ました。これは、遅れたりサボったりする連中がいると聞こえたからです。およそ一ヶ月遅れた者は、遅れた罰金として千疋を取り上げて、未設置のかがり火番屋の設置料に当てるようにだそうな。

仁治元年(1240)十一月大廿九日戊午。洛中群盜蜂起之由。依有風聞説。篝屋守護者并在地人等有懈怠御疑間。今日。於前武州御亭有評定。右馬權頭。攝津前司。佐渡前司。秋田城介。出羽前司。太宰少貳。加賀民部大夫等參入。各意見雖區分。所詮毎篝辻置大鼓。於事出來之時。随發其聲。毎在家令用意續松。不經時刻。可指出松明之由。保官人可申沙汰。於不相從下知之在家者。可被處罪科。於大鼓者。可被宛京畿御家人等云々。以此趣可被仰遣六波羅云々。

読下し                       らくちう ぐんとう ほうき のよし  ふうぶん  せつ あ    よっ
仁治元年(1240)十一月大廿九日戊午。洛中群盜蜂起之由、風聞の説有るに依て、

かがりやしゅごしゃなら    ざいちにんら けたい  おんうたが あ    あいだ  きょう  さきのぶしゅう  おんてい  をい ひょうじょうあ
篝屋守護者并びに在地人等懈怠の御疑い有るの間、今日、前武州の御亭に於て評定有り。

うまごんのかみ  せっつのぜんじ  さどのぜんじ あいだのじょうすけ でわのぜんじ  だざいしょうに  かがのみんぶたいふら さんにゅう
右馬權頭、攝津前司、佐渡前司、秋田城介、出羽前司、太宰少貳、加賀民部大夫等參入す。

おのおの いけん  くぶん     いへど    しょせんかがり つじごと  たいこ   お     こと  をい  いできた  のとき
 各 意見は區分すると雖も、所詮篝の辻毎に大鼓を置き、事に於て出來る之時、

 そ  こえ  はっ      したが     ざいけ ごと  ついまつ  よういせし     じこく  へ ず     たいまつ  さしいだ  べ   のよし  ほう  かんじんもう   さた すべ
其の聲を發するに随いて、在家毎に續松を用意令め、時刻を經不に、松明を指出す可き之由、保の官人申し沙汰可し。

 げち   あいしたが ざるのざいけ  をい  は   ざいか  しょされ  べ     たいこ  をい  は   けいき   ごけにんら   あてられるべ    うんぬん
下知に相從は不之在家に於て者、罪科に處被る可き。大鼓に於て者、京畿の御家人等に宛被可きと云々。

こ おもむき もっ   ろくはら   おお  つか  され  べ    うんぬん
此の趣を以て六波羅へ仰せ遣は被る可きと云々。

現代語仁治元年(1240)十一月大二十九日戊午。京都市中に強盗の群れが出るらしいとの噂があるので、かがり火番屋の管理者それと在京御家人の怠けている疑いがあるので、今日、泰時さんの屋敷で会議がありました。右馬権頭北条政村・摂津前司中原師員・佐渡前司後藤基綱・秋田城介安達義景・出羽前司二階堂行義・太宰少弐狩野為佐・加賀民部大夫町野康持達が参加しました。それぞれ意見はまちまちですが、結論はかがり火番屋に太鼓を置いて、事件が発生した時は、その聞いた音に従って、住宅ごとに松明を置いておいて、時を経ずに松明を持ち出すように、保の管理人が話をして取り決めておきなさい。命令に従わない住宅については、罪人として扱いなさい。太鼓の設置は関西の御家人に割り当てようなんだとさ。この内容を六波羅探題へ伝えるようにとの事です。

仁治元年(1240)十一月大卅日己未。天リ。鎌倉与六浦津之中間。始可被當道路之由有議定。今日曳繩。打丈尺。被配分御家人等。明春三月以後可造之由被仰付云々。前武州監臨其所處給。中野左衛門尉時景奉行之。泰貞朝臣擇申日次云々。

読下し                     そらはれ  かまくらと むつらのつ のちうかん   はじ    どうろ  あてられ  べ   のよしぎじょうあ
仁治元年(1240)十一月大卅日己未。天リ。鎌倉与六浦津之中間に、始めて道路を當被る可き之由議定有り。

きょう  なわ  ひ    じょうしゃく う     ごけにんら   はいぶんされ  みょうしゅん さんがつ いご つく  べ   のよしおお  つ   られ    うんぬん
今日繩を曳き、丈尺を打ち、御家人等に配分被る。明春 三月 以後造る可き之由仰せ付け被ると云々。

さきのぶしゅう そ  しょしょ  かんりん  たま   なかののさえもんのじょうときかげ これ ぶぎょう   やすさだあそん ひなみ  たく  もう    うんぬん
前武州 其の所處に監臨し給ふ。中野左衛門尉時景 之を奉行す。泰貞朝臣日次を擇し申すと云々。

現代語仁治元年(1240)十一月大三十日己未。空は晴です。鎌倉と六浦の間に、初めて道路を通そうとの会議がありました。今日、測量して杭を打って、御家人人に負担配分しました。再春の三月以後に工事に入るようにとの事でした。泰時さんがそのあちこちを観察しました。中野左衛門尉時景が担当します。安陪泰貞さんが工事のお日和を占いましたとさ。

十二月へ

吾妻鏡入門第卅三巻

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