吾妻鏡入門第卅四巻

仁治二年辛丑(1241)正月小

仁治二年(1241)正月小一日庚寅。天霽風靜。垸飯。前武州御沙汰。御劔右馬權頭〔政村〕。御調度甲斐前司〔泰秀〕。御行騰佐渡前司〔基綱〕。
 一御馬 北條左近大夫將監〔經時〕 駿河又太郎左衛門尉
 二御馬 上野五郎兵衛尉      同十郎
 三御馬 信濃三郎左衛門尉     同四郎左衛門尉
 四御馬 佐原五郎左衛門尉     同六郎兵衛尉
 五御馬 北條五郎兵衛尉      平新左衛門尉
今日。於御所大納言僧都隆弁修焔摩天供云々。

読下し                   そらはれ かぜしずか おうばん さきのぶしゅう おんさた
仁治二年(1241)正月小一日庚寅。天霽 風靜。 垸飯、前武州の御沙汰。

ぎょけん うまごんのかみ  〔まさむら〕    ごちょうど   かいのぜんじ  〔やすひで〕  おんむかばき  さどのぜんじ  〔もとつな〕
御劔は右馬權頭〔政村〕。御調度は甲斐前司〔泰秀〕。御行騰は佐渡前司〔基綱〕

  いちのおんうま ほうじょうさこんたいふしょうげん 〔つねとき〕   するがのまたたろうさえもんのじょう
 一御馬  北條左近大夫將監〔經時〕 駿河又太郎左衛門尉

   にのおんうま こうづけのごろうひょうえのじょう           おなじきじうろう
 二御馬  上野五郎兵衛尉      同十郎

  さんのおんうま しなののさぶろうさえもんのじょう          おなじきしろうさえもんのじょう
 三御馬  信濃三郎左衛門尉     同四郎左衛門尉

  よんのおんうま さはらのごろうさえもんのじょう            おなじきろくろうひょうえのじょう
 四御馬  佐原五郎左衛門尉     同六郎兵衛尉

   ごのおんうま ほうじょうごろうぎょうえのじょう            へいしんさえもんのじょう
 五御馬  北條五郎兵衛尉      平新左衛門尉

 きょう    ごしょ  をい  だいなごんそうづりゅうべん  えんまてんぐ  しゅう    うんぬん
今日、御所に於て大納言僧都@隆弁、焔摩天供を修すと云々。

参考@僧都は、坊主の階級。僧都<法印<僧正<大僧正。

現代語仁治二年(1241)正月小一日庚寅。空は晴れました。風は静かです。将軍への御馳走のふるまい。前武州泰時さんの負担。刀の献上は右馬権頭北条政村、弓矢の献上は甲斐前司長井泰秀、乗馬袴は佐渡前司後藤基綱。
 一の馬は、北条左近大夫将監経時    と 駿河又太郎左衛門尉三浦氏村
 二の馬は、上野五郎兵衛尉結城重光   と 同十郎結城朝村
 三の馬は、信濃三郎左衛門尉二階堂行綱 と 同四郎左衛門尉二階堂行忠
 四の馬は、佐原五郎左衛門尉盛時    と 同六郎兵衛尉佐原時連
 五の馬は、北条五郎兵衛尉時頼     と 平新左衛門尉盛時
今日、御所で大納言僧都隆弁が閻魔天の加持祈祷を行いましたとさ。

仁治二年(1241)正月小二日辛夘。天リ。垸飯。左馬頭義氏朝臣沙汰。御劔宮内少輔〔泰氏〕。御調度秋田城介〔義景〕。御行騰太宰少貳〔爲佐〕。
 一御馬 足利五郎         高弥太郎
 二御馬 新田太郎         阿保弥次郎
 三御馬 多々良小太郎       同次郎
 四御馬 武小次郎兵衛尉      同三郎
 五御馬 畠山三郎         大井田十郎

読下し                   そらはれ おうばん  さまのかみよしうじ あそん   さた
仁治二年(1241)正月小二日辛夘。天リ。垸飯、左馬頭義氏@朝臣の沙汰。

ぎょけん  くないしょうゆう 〔やすうじ〕   ごちょうど  あいだのじょうすけ 〔よしかげ〕   おんむかばき  だざいのしょうに 〔ためすけ〕
御劔は宮内少輔〔泰氏A。御調度は秋田城介〔義景〕。 御行騰は 太宰少貳〔爲佐〕。

  いちのおんうま あしかがのごろう                   こうのいやたろう
 一御馬  足利五郎         高弥太郎

   にのおんうま にったのたろう                    あぼのいやじろう
 二御馬  新田太郎         阿保弥次郎

  さんのおんうま たたらのこたろう                   おなじきじろう
 三御馬  多々良小太郎       同次郎

  よんのおんうま たけのこじろうひょうえのじょう            おなじきさぶろう
 四御馬  武小次郎兵衛尉      同三郎

   ごのおんうま はたけやまのさぶろう                おおいだのじうろう
 五御馬  畠山三郎B         大井田十郎C

参考@左馬頭義氏は、足利、母は政子の妹。妻は泰時娘。
参考A
泰氏も、足利。妻は時氏娘。
参考B畠山三郎は、足利の分家。
参考C大井田十郎は、新田の分家。

現代語仁治二年(1241)正月小二日辛卯。空は晴れです。将軍への御馳走のふるまい。左馬頭足利義氏さんの負担。刀の献上は宮内少輔足利泰氏、弓矢の献上は秋田城介安達義景、乗馬袴は太宰少弐狩野為佐。
 一の馬は、足利五郎長氏   と 高弥太郎
 二の馬は、新田太郎政義   と 阿保弥次郎
 三の馬は、多々良小太郎重光 と 同多々良次郎通定
 四の馬は、武小次郎兵衛尉  と 同三郎
 五の馬は、畠山三郎     と 大井田十郎

仁治二年(1241)正月小三日壬辰。朝間雪降。巳以後天リ。垸飯。遠江前司朝時沙汰。御劔備前守〔時長〕。御調度若狹前司〔泰村〕。御行騰遠山大藏少輔〔景朝〕。
 一御馬 周防左馬助        遠藤五郎左衛門尉
 二御馬 遠江式部大夫〔時章〕   小井弖左衛門尉
 三御馬 遠江修理亮〔時幸〕    廣河五郎左衛門尉
 四御馬 遠江五郎         廣河八郎
 五御馬 陸奥七郎〔景時(時尚)〕     平左衛門四郎

読下し                    あさ あいだゆきふ    み  いご そらはれ おうばん  とおとうみのぜんじともとき  さた
仁治二年(1241)正月小三日壬辰。朝の間雪降る。巳以後天リ。垸飯、 遠江前司朝時 の沙汰。

ぎょけん びぜんのかみ〔ときなが〕   ごちょうど   わかさのぜんじ 〔やすむら〕  おんむかばき とおやまのおおくらしょうゆう 〔かげとも〕
御劔は備前守〔時長〕。御調度は若狹前司〔泰村〕。御行騰は 遠山大藏少輔 〔景朝〕。

  いちのおんうま  すおうのさまのすけ              えんどうごろうさえもんのじょう
 一御馬  周防左馬助       遠藤五郎左衛門尉

   にのおんうま とおとうみしきぶのたいふ 〔ときあき〕      こいでのさえもんのじょう
 二御馬  遠江式部大夫〔時章〕   小井弖左衛門尉

  さんのおんうま とおとうみしゅうりのすけ〔ときゆき〕        ひろかわのごろうさえもんのじょう
 三御馬  遠江修理亮〔時幸〕    廣河五郎左衛門尉

  よんのおんうま  とおとうみのごろう                ひろかわのはちろう
 四御馬  遠江五郎        廣河八郎

   ごのおんうま  むつのしちろう 〔ときなお〕           たいらのさえもんしろう
 五御馬  陸奥七郎〔時尚〕     平左衛門四郎

現代語仁治二年(1241)正月小三日壬辰。朝の内は雪が降り、午前10時以後空は晴れです。将軍への御馳走のふるまい。遠江前司北条朝時さんの負担。刀の献上は備前守北条時長、弓矢の献上は若狭前司三浦泰村、乗馬袴は遠山大蔵少輔景朝。
 一の馬は、周防左馬助北条光時  と 遠藤五郎左衛門尉
 二の馬は、遠江式部大夫北条時章 と 小出左衛門尉
 三の馬は、遠江修理亮北条時幸  と 広川五郎左衛門尉
 四の馬は、遠江五郎北条時兼   と 広川八郎
 五の馬は、陸奥七郎時尚     と 平左衛門四郎

仁治二年(1241)正月小四日癸巳。天リ。覽吉書。前武州持參給。信濃民部大夫行泰奉傳之。

読下し                   そらはれ  きっしょ  み   さきのぶしゅう  も   まい  たま    しなのみんぶたいふゆきやす これ  つた たてまつ
仁治二年(1241)正月小四日癸巳。天リ。吉書@を覽る。前武州、持ち參り給ふ。信濃民部大夫行泰 之を傳へ奉る。

参考@吉書は、一条に神仏。二条に春耕。三条に秋の収穫と内容は毎回同じでも文章を替えなければならない。

現代語仁治二年(1241)正月小四日癸巳。空は晴です。正月の文書始め式です。前武州泰時さんが持ってきました。信濃民部大夫二階堂泰行さんがこれを将軍に手渡しました。

仁治二年(1241)正月小五日甲午。天リ。御弓始也。
  射手
 一番   下河邊左衛門尉         佐原六郎兵衛尉
 二番   信濃三郎左衛門尉        海老名左衛門三郎
 三番   澁谷六郎            工藤三郎
 四番   横溝六郎            古庄四郎
 五番   小笠原六郎           岡邊左衛門四郎

読下し                   そらはれ おんゆみはじ なり
仁治二年(1241)正月小五日甲午。天リ。御弓始め也。

     いて
  射手

  いちばん      しもこうべのさえもんのじょう               さはらのろくろうひょうえのじょう
 一番   下河邊左衛門尉        佐原六郎兵衛尉

   にばん      しなののさぶろうさえもんのじょう            えびなのさえもんさぶろう
 二番   信濃三郎左衛門尉       海老名左衛門三郎

  さんばん      しぶやのろくろう                     くどうのさぶろう
 三番   澁谷六郎           工藤三郎

  よんばん      よこみぞのろくろう                    ふるしょうしろう
 四番   横溝六郎           古庄四郎

   ごばん      おがさわらのろくろう                   おかべのさえもんしろう
 五番   小笠原六郎          岡邊左衛門四郎

現代語仁治二年(1241)正月小五日甲午。空は晴です。弓始め式です。
  射手は
 一番 下河辺左衛門尉行光 VS 佐原六郎兵衛尉時連
 二番 信濃三郎左衛門尉二階堂行綱 VS 海老名左衛門三郎
 三番 渋谷六郎盛重 VS 工藤三郎光泰
 四番 横溝六郎義行 VS 古庄四郎
 五番 小笠原六郎時長 VS 岡辺左衛門四郎

仁治二年(1241)正月小八日丁酉。未尅雷鳴。今日。御所心經會也。將軍家御出云々。」入夜。京都使者參着。是常住院僧正坊〔道慶。後京極殿御子〕被轉任大僧正〔將軍家御擧〕之間。持參其僧事除書云々。

読下し                   ひつじのこく らいめい きょう   ごしょ   しんぎょうえ なり  しょうぐんけおんいで うんぬん
仁治二年(1241)正月小八日丁酉。 未尅 雷鳴。今日、御所の心經會@也。將軍家御出と云々。」

 よ  い     きょうと  ししゃさんちゃく    これ  じょうじゅういんそうじょうぼう 〔どうけい  ごきょうごくどの  おんし 〕 だいそうじょう てんにんされ  〔しょうぐんけ  おんきょ〕  のあいだ
夜に入り、京都の使者參着す。是、 常住院僧正坊 〔道慶A。後京極殿Bの御子〕大僧正に轉任被る〔將軍家の御擧〕之間、

 そ   そうじ   じしょ   じさん    うんぬん
其の僧事の除書を持參すと云々。

参考@心經會は、般若心経会。
参考A道慶は、九条道家の弟で頼経の叔父。
参考B後京極殿は、九条良経、兼実の子。

現代語仁治二年(1241)正月小八日丁酉。午後二時頃雷です。今日、御所で般若心経を唱える供養です。将軍頼経様も出席だそうな。」
夜になって、京都からの使いが着きました。これは、常住院僧正坊〔道慶で後京極殿九条良経の子供〕が大僧正に転任されました〔将軍頼経様の推薦〕ので、その坊さんの人事措置を持ってきましたとさ。

仁治二年(1241)正月小十一日庚子。申酉兩時雷鳴。今日垸飯以後。被召リ賢朝臣於御所。以内藏權頭資親賜御扇。是令擧申常住院大僧正轉任事御之間。去七日有許否御占。リ賢已入眼訖之由言上。翌日彼僧事除書參着。如指掌。仍御感故也云々。

読下し                     さるとり りょうときらいめい
仁治二年(1241)正月小十一日庚子。申酉の兩時雷鳴。

きょう おうばん いご   はるかたあそんを ごしょ  めされ  くらごんのかみすけちか もっ  おんおうぎ たま
今日垸飯以後、リ賢朝臣於御所へ召被、内藏權頭資親を以て御扇を賜はる。

これ  じょうじゅういん だいそうじょう てんにん こと  あ   せし  もう  たま  のあいだ  さんぬ なぬか きょひ  おんうらあ
是、 常住院 大僧正 轉任の事を擧げ令め申し御う之間、去る七日許否の御占有り。

はるかたすで  め   い をはんぬ のよし ごんじょう
リ賢已に眼に入り訖 之由 言上す。

よくじつ  か   そうじ   じしょさんちゃく  たなごころ さ    ごと    よっ  ぎょかん  ゆえなり  うんぬん
翌日、彼の僧事の除書參着す。掌を指すが如し。仍て御感の故也と云々。

現代語仁治二年(1241)正月小十一日庚子。午後3頃から午後7時頃まで雷が鳴ってました。今日、将軍への御馳走のふるまいが終わってから、安陪晴賢さんを御所へ呼んで、内蔵権頭資親を通して扇を与えました。これは常住院大僧正道慶の転任について推薦してあげたのだが、それを先日の七日に占いました。晴賢は「もうすでに転任が見えています」と申し上げました。翌日、その坊さんの人事措置が届いたので、彼の指摘はきわめて正確でした。それでその陰陽力に感心したからなんだとさ。

仁治二年(1241)正月小十四日癸夘。天リ。戌剋地震。今日將軍家御參鶴岡八幡宮。
 右馬權頭      宮内少輔     北條大夫將監
 備前守       伊豆前司     甲斐前司
 秋田城介      下野前司     佐渡前司
 若狹前司      河内前司     出羽前司
 大藏少輔〔行賢〕  大和前司     太宰少貳
 壹岐前司      信濃民部大夫   伊賀守
 出羽判官      佐渡判官     上野判官
 小山左衛門尉    上野右衛門尉   近江四郎左衛門尉
 駿河五郎左衛門尉  同八郎左衛門尉  大多和新左衛門尉
 大須賀六郎左衛門尉 和泉次郎左衛門尉
等供奉云々。」今夕。將軍家御祈。被始行百日天曹地府祭。リ繼朝臣奉仕之。

読下し                    そらはれ いぬのこくぢしん  きょう   しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう  まい  たま
仁治二年(1241)正月小十四日癸夘。天リ。戌剋地震。今日、將軍家 鶴岡八幡宮 へ參り御う。

  うまごんのかみ             くないしょうゆう           ほうじょうたいふしょうげん
 右馬權頭      宮内少輔     北條大夫將監

  びぜんのかみ             いずのぜんじ            かいのぜんじ
 備前守       伊豆前司     甲斐前司

  あいだのじょうすけ           しもつけぜんじ           さどのぜんじ
 秋田城介      下野前司     佐渡前司

  わかさのぜんじ             かわちぜんじ           でわのぜんじ
 若狹前司      河内前司     出羽前司

  おおくらしょうゆう 〔ゆきかた〕      やまとのぜんじ           だざいのしょうに
 大藏少輔〔行賢〕   大和前司     太宰少貳

  いきのぜんじ              しなののみんぶたいふ      いがのかみ
 壹岐前司      信濃民部大夫   伊賀守

  でわのほうがん             さどのほうがん          こうづけのほうがん
 出羽判官      佐渡判官     上野判官

  おやまのさえもんのじょう       こうづけのうえもんのじょう    おうみのしろうさえもんのじょう
 小山左衛門尉    上野右衛門尉   近江四郎左衛門尉

  するがのごろうさえもんのじょう    おなじきはちろうさえもんのじょう おおたわのしんさえもんのじょう
 駿河五郎左衛門尉  同八郎左衛門尉  大多和新左衛門尉

  おおすがのろくろうさえもんのじょう いずみのじろうさえもんのじょう
 大須賀六郎左衛門尉 和泉次郎左衛門尉

ら  ぐぶ     うんぬん
等供奉すと云々。」

こんゆう  しょうぐんけ  おいのり ひゃくにち  てんそうちふさい  しぎょうされ    はるつぐあそんこれ  ほうし
今夕、將軍家の御祈、百日の天曹地府祭を始行被る。リ繼朝臣之を奉仕す。

現代語仁治二年(1241)正月小十四日癸卯。空は晴です。午後四時頃地震です。今日は、将軍頼経様は鶴岡八幡宮へ行かれました。
 右馬権頭北条政村     宮内少輔足利泰氏    北条大夫将監経時
 備前守北条長時      伊豆前司若槻頼定    甲斐前司長井泰秀
 秋田城介安達義景     下野前司宇都宮泰綱   佐渡前司後藤基綱
 若狭前司三浦泰村     河内前司三浦光村    出羽前司二階堂行義
 大蔵少輔二階堂行賢    大和前司伊東祐時    太宰少弐狩野為佐
 壱岐前司佐々木泰綱    信濃民部大夫二階堂行泰 伊賀守小田時家
 出羽判官中条家平     佐渡判官後藤基政    上野判官結城朝広
 小山左衛門尉朝長     上野右衛門尉結城重光  近江四郎左衛門尉佐々木氏信
 駿河五郎左衛門尉三浦資村 同八郎左衛門尉三浦家村 大多和新左衛門尉
 大須賀六郎左衛門尉    和泉次郎左衛門尉天野景氏
等がお供をしました。」
今日の夕方、将軍頼経様のお祈りとして、百日の天曹地府祭を始めました。晴継さんが勤めます。 

仁治二年(1241)正月小十七日丙午。天リ。將軍御臺所御參鶴岡宮。被用御車。今日於春日社。二所。三嶋社等。可行御神樂之由。被仰付政所。是可爲毎日式之旨。雖有兼日素顔。去年十二月經評議。所被減定毎月也。

読下し                    そらはれ しょうぐんみだいどころ つるがおかぐう まい  たま   おくるま  もち  られ
仁治二年(1241)正月小十七日丙午。天リ。將軍御臺所@、鶴岡宮へ參り御う。御車を用ひ被る。

 きょう   かすがしゃ   にしょ   みしましゃら   をい     おかぐら   おこな べ   のよし  まんどころ おお  つ   られ
今日、春日社、二所、三嶋社等に於て、御神樂を行う可き之由、政所に仰せ付け被る。

これ  まいにち  しきたるべ  のむね  けんじつ  そがん あ    いへど   きょねんじうにがつ ひょうぎ  へ   まいげつ  げん  さだ  られ ところなり
是、毎日の式爲可き之旨、兼日の素顔有りと雖も、去年十二月 評議を經、毎月に減じ定め被る所也。

現代語仁治二年(1241)正月小十七日丙午。空は晴です。将軍頼経様の奥様が鶴岡八幡宮へお参りです。牛車を使いました。今日、春日大社・箱根湯走の二権現・三島大社でお神楽を奉納するように、政務事務所に命じました。これは、毎日の式事としたい希望がありましたが、去年十二月会議をして毎月に減らしたのです。

参考@御臺所は、将軍の正妻で持明院藤原家行の女。

仁治二年(1241)正月小十九日戊申。京都使者參着。去五日。主上〔春秋十一〕御元服。御加冠〔攝政〕。理髪〔左府〕。能冠〔内藏守顯氏朝臣云々〕。又去年十一月。可相鎭洛中群盜間事。有評定。被仰相州。々々就被申之。公家被仰付使廳等云々。彼状等到來。
 群盜可相鎭間事。任關東申状。可致其沙汰之由。可被仰遣武家之旨。攝政殿御消息候也。仍上啓如件。
     十二月十三日                  右大弁經光
  謹上  堀河中納言殿
 群盜可被相鎭間事。 綸旨如此。殊可致其沙汰之由。被仰使廳候畢。可令存其旨給之状。所被仰下候也。仍執 達如件。
     十二月廿三日                  權中納言〔親俊〕
      相摸守殿

読下し                     きょうと  ししゃさんちゃく   さんぬ いつか しゅじょう 〔しゅんじゅうじういち〕 ごげんぷく
仁治二年(1241)正月小十九日戊申。京都の使者參着す。去る五日、主上@〔春秋十一〕御元服。

ごかかん  〔せっしょう 〕    りはつ 〔 うふ 〕    のうかん 〔くらのかみあきうじあそん  うんぬん〕
御加冠〔攝政A。理髪〔左府B。能冠〔内藏守顯氏朝臣と云々〕

また  きょねんじういちがつ らくちう  ぐんとう  あいしず    べ    あいだ こと ひょうじょうあ      そうしゅう おう  られ   そうしゅうこれ  つ   もうされ
又、去年十一月、洛中の群盜を相鎭める可きの間の事、評定有りて、相州Cに仰せ被る。々々之に就き申被る。

こうけ   しちょうら  おお  つ   られ    うんぬん  か  じょうらとうらい
公家は使廳等に仰せ付け被ると云々。彼の状等到來す。

  ぐんとうあいしず    べ    あいだ こと  かんとう もうしじょう まか    そ    さた いた  べ   のよし   ぶけ   おお  つか  され  べ   のむね
 群盜相鎭める可きの間の事、關東の申状に任せ、其の沙汰致す可き之由、武家に仰せ遣は被る可き之旨、

せっしょうどの ごしょうそこそうろうなり
攝政殿が御消息 候 也。

  よっ しょうけいくだん ごと
 仍て上啓件の如し。

           じうにがつじうさんにち                                      うだいべんつねみつ
     十二月十三日                  右大弁經光D

    きんじょう  ほりかわちうなごんどの
  謹上  堀河中納言殿

  ぐんとうあししず    べ    あいだ こと  りんじ かく  ごと    こと  そ    さた いた   べ    のよし  しちょう  おお られそうら をはんぬ
 群盜相鎭める可きの間の事、綸旨此の如し。殊に其の沙汰致す可き之由、使廳に仰せ被候ひ 畢。

  そ   むね  ぞん  せし  たま  べ   のじょう  おお くだされそうら ところなり  よっ  しったつくだん ごと
 其の旨を存じ令め給ふ可き之状、仰せ下被 候う 所也。仍て執達件の如し。

          じうにがつにじうさんにち                                     ごんのちうなごん 〔ちかとし〕
     十二月廿三日                  權中納言〔親俊〕

            さがみのかみどの
      相摸守殿

参考@主上は、四条天皇。
参考A
攝政は、近衛兼経。
参考B
左府は、左大臣三条良実。
参考C
相州は、六波羅の北条重時。
参考D右大弁經光は、勘解由小路。
参考E堀河中納言は、親俊。

現代語仁治二年(1241)正月小十九日戊申。京都の使いが着きました。先日5日、四条天皇〔十一才〕が元服でした。冠親は摂政近衛兼経。髪を切る役は左大臣三条良実。能冠(冠直しらしい?)は、内蔵守顕氏さんだそうな。
又、去年1正月京都市中の強盗などの群れを退治するように会議で決まり、六波羅探題の相州北条重時に伝えました。重時はこのことについて云ってきました。朝廷は検非違使の庁に命じたそうです。その命令書が届きました。


 強盗などの群れを退治するように、関東からの申し入れ文書の通りに、それを実施するように武士達に命令するようにと摂政殿近衛兼経様の命令書であります。
  それなので、申し上げるのはこの通りです。
    十二月十三日  右大弁勘解由小路経光
   謹んで差し上げます 堀川中納言親俊殿
 
強盗などの群れを退治するようにとの、天皇からの命令はこのとおりです。特にその他に実施する事については、検非違使の庁に云ってください。そのことを手紙で伝えておくようにと仰せになられました。それでこのように書いたのです。
    十二月二十三日    権中納言親俊
   相模守北条重時殿
 

仁治二年(1241)正月小廿三日壬子。將軍家渡御馬塲殿。前武州被參。遠江前司。駿河守。宮内少輔。攝津前司。上総權介。出羽前司以下數輩參上。先令若輩等射遠笠懸。小笠懸。次於弓塲相加宿老之類。有射的之儀。武田伊豆入道光蓮。海野左衛門尉幸氏。望月左衛門尉重隆等。態被召出之。令候見證。各觀彼是。可爲後日美談之由感申。其後有垸飯之儀如恒。次射手等分賜積物。于時幸氏申云。於將軍家御前。射手之賜懸物之次第者。右大將家御時。被尋聚諸家説々云々。即付御尋。悉申之云々。凡今日式。爲日者御本意之間。御自愛無他云々。
笠懸射手
 北條左近大夫將監     同五郎兵衛尉
 駿河八郎左衛門尉     武田五郎三郎
 山内左衛門尉       信濃三郎左衛門尉
 上野十郎         上総五郎左衛門尉
 城次郎          長江八郎四郎
的射手〔二五度〕
 一番  若狹前司     氏家太郎
 二番  下河邊左衛門尉  駿河四郎左衛門尉
 三番  小山五郎左衛門尉 上野五郎兵衛尉
 四番  伊東大和次郎   横溝六郎
 五番  小笠原六郎    加冶八郎左衛門尉
 六番  佐々木壹岐前司  葛西六郎

読下し                     しょうぐんけ   ば ば どの  わた  たま   さきのぶしゅう  まいられ
仁治二年(1241)正月小廿三日壬子。將軍家、馬塲殿へ渡り御う。前武州、參被る。

とおとうみのぜんじ するがのかみ くないしょうゆう  せっつのぜんじ  かずさごんのすけ  でわのぜんじ いげ  すうやらかさんじょう
 遠江前司、 駿河守、宮内少輔、攝津前司、 上総權介、 出羽前司以下の數輩參上す。

ま  じゃくはいら   し  とおがさがけ  こがさがけ  い     つぎ  ゆんば  をい  すくろうのたぐい  あいくは    いまと の ぎ あ
先ず若輩等を令て遠笠懸、小笠懸を射る。次に弓塲に於て宿老之類を相加へ、射的之儀有り。

たけだのいずにゅうどうこうれん   うんののさえもんのじょうゆきうじ  もちづきさえもんのじょうしげたから わざわざ これ めしいだされ けんしょう そうら せし
 武田伊豆入道光蓮、 海野左衛門尉幸氏、 望月左衛門尉重隆等、 態と之を召出被、見證に候は令む。

おのおのかれこれ み     ごじつ  びだんたるべ    のよしかん  もう
 各 彼是を觀て、後日の美談爲可き之由感じ申す。

そ   ご おうばん のぎ つね  ごと  あ     つぎ   いてら つみもの  わ   たま      ときに ゆきうじもう     い
其の後垸飯之儀恒の如く有り。次で射手等積物を分け賜はる。時于幸氏申して云はく。

しょうぐんけ  ごぜん  をい     いて のたま    かけもの の しだいは   うだいしょうけ  おんとき  しょけ  せつせつ  たず  あつ  らる    うんぬん
將軍家の御前に於て、射手之賜はる懸物之次第者、右大將家の御時、諸家の説々を尋ね聚め被ると云々。

すなは おたずね つ   ことごと これ  もう    うんぬん  およ  きょう   しき  ひごろ   ごほんいたる のあいだ  ごじあい ほか  な     うんぬん
即ち御尋に付き、悉く之を申すと云々。凡そ今日の式、日者の御本意爲之間、御自愛他に無しと云々。

かさがけ  いて
笠懸の射手   参考@遠笠懸は、距離十丈。

  ほうじょうさこんたいふしょうげん          おなじきごろうひょうえのじょう
 北條左近大夫將監     同五郎兵衛尉

  するがのはちろうさえもんのじょう         たけだのごろうさぶろう
 駿河八郎左衛門尉     武田五郎三郎

  やまのうちのさえもんのじょう           しなののさぶろうさえもんのじょう
 山内左衛門尉A      信濃三郎左衛門尉

  こうづけのじうろう                  かずさのごろうさえもんのじょう
 上野十郎         上総五郎左衛門尉B

  じょうのじろう                    ながえのはちろうしろう
 城次郎          長江八郎四郎C

まと   いて  〔 ふたごど 〕
的の射手〔二五度〕

  いちばん    わかさのぜんじ         うじいえのたろう
 一番  若狹前司     氏家太郎

   にばん    しもこうべのさえもんのじょう  するがのしろうさえもんのじょう
 二番  下河邊左衛門尉  駿河四郎左衛門尉

  さんばん    おやまのごろうさえもんのじょう こうづけのごろうひょうえのじょう
 三番  小山五郎左衛門尉 上野五郎兵衛尉

  よんばん    いとうのやまとじろう        よこみぞのろくろう
 四番  伊東大和次郎   横溝六郎

   ごばん    おがさわらのろくろう       かぢのはちろうさえもんのじょう
 五番  小笠原六郎    加冶八郎左衛門尉

  ろくばん    ささきのいきぜんじ        かさいのろくろう
 六番  佐々木壹岐前司  葛西六郎

参考A山内左衛門尉は、吉川本は左衛門次郎。
参考B上総五郎左衛門尉は、吉川本は上野五郎左衛門尉
参考C長江八男四郎は、景政−景継−長江義景−師景−秀景−頼景−景助−重景−景秀

現代語仁治二年(1241)正月小二十三日壬子。将軍頼経様は馬場殿へお渡りです。前武州泰時さんも参りました。遠江前司北条朝時・駿河守北条有時・宮内少輔足利泰氏・摂津前司中原師員・上総権介境秀胤・出羽前司二階堂行義始めとする連中も参りました。
まず、若者たちだけで、遠笠懸・小笠懸を射ました。次に弓場で、古参の人達も加えて、的当ての競技をしました。
武田伊豆入道光連(五郎信光)・海野左衛門尉小太郎幸氏・望月左衛門尉三郎重隆を、わざわざ呼び出されて、監督をさせました。
それぞれ、今日の競技を見て、後々まで語り継がれる良い話になるでしょうと感心して云いました。
その後、ご馳走のふるまいが何時もの様にありました。ついで、射手達に積んである褒美の品を分け与えました。
そしたら、海野幸氏が云いました。「将軍の前で、射手が戴く賭けの褒美のやり方について、頼朝様の時にそれぞれの家に伝わる所説を聞いて集めようとなされました。すぐに質問に対し、皆全てを話しました。今日の式のやり方は、その趣旨に合っていますので、これ以上の自慢は他にありませんよ。」だとさ。
笠懸の射手は
 北条左近大夫将監経時   VS 同五郎兵衛尉北条時頼
 駿河八郎左衛門尉三浦胤村 VS 武田五郎三郎政綱
 山内左衛門尉       VS 信濃三郎左衛門尉二階堂行綱
 上野十郎結城朝村     VS 上総五郎左衛門尉境泰秀
 城次郎安達頼景      VS 長江八郎四郎景秀

的の射手〔2本を5度〕
 一番 若狭前司三浦泰村  VS 氏家太郎公信
 二番 下河辺左衛門尉行光 VS 駿河四郎左衛門尉三浦家村
 三番 小山五郎左衛門尉長村VS 上野五郎兵衛尉結城重光
 四番 伊東大和次郎    VS 横溝六郎義行
 五番 小笠原六郎時長   VS 加治八郎左衛門尉佐々木信朝
 六番 佐々木壱岐前司泰綱 VS 葛西六郎

仁治二年(1241)正月小廿四日癸丑。爲二所御精進屋。去年所被新造之御所。可有御移徙儀歟之由。被仰合攝津前司。出羽前司。佐渡前司等。可有御移徙者。御精進以前者。可爲來廿七日之旨。陰陽道申之。而彼是申詞不一准。或先可有御移徙云々。或只二所御精進始日。可令渡始御云々。又廿七日者。右府將軍御忌月。付是非不可然云々。此上仰曰。今年計者令掃除本御所。可被用御精進屋歟者。此等之趣。以師員朝臣。基綱等。重被仰合前武州。被用本御所之條。可宜之由。令申給。仍治定云々。

読下し                     にしょ   ごしょうじんや   な    きょねんしんぞうされ ところの ごしょ    ご い し   ぎ あ   べ   か のよし
仁治二年(1241)正月小廿四日癸丑。二所の御精進屋@と爲し、去年新造被る所之御所、御移徙の儀有る可き歟之由、

せっつのぜんじ  ではのぜんじ   さどのぜんじら   おお  あ   され
攝津前司、出羽前司、佐渡前司等に仰せ合は被る。

 ご い し あ   べ   は   ごしょうじんいぜんは   きた にじうしちにちたるべ  のむね おんみょうどうこれ もう
御移徙有る可き者、御精進以前者、來る廿七日爲可き之旨、陰陽道之を申す。

しか    かれこれもう ことばいちじゅんせず ある    ま    ご い し あ   べ     うんぬん
而るに彼是申す 詞 一准不。或ひは先ず御移徙有る可きと云々。

ある    ただにしょごしょうじん  はじ    ひ   わた  せし  はじ  たま  べ     うんぬん
或ひは只二所御精進の始めの日、渡ら令め始め御う可きと云々。

また にじうしちにちは  うふしょうぐん  おんいみづき   ぜひ   つ   しか  べからず  うんぬん
又、廿七日者、右府將軍の御忌月A。是非に付き然る不可と云々。

かく  うえおお    い       ことし  はか   は ほんごしょ  そうじ せし     ごしょうじんや   もち  られ  べ   か てへ
此の上仰せて曰はく。今年の計り者本御所を掃除令め、御精進屋に用い被る可き歟者り。

これらのおもむき もろかずあそん  もとつなら   もっ    かさ   さきのぶしゅう  おお  あ   され
此等之趣、師員朝臣、基綱等を以て、重ねて前武州に仰せ合は被る。

 ほんごしょ  もち  られ  のじょう  よろ      べ   のよし  もうせし  たま    よっ  ちじょう    うんぬん
本御所を用い被る之條、宜しかる可き之由、申令め給ふ。仍て治定すと云々。

現代語仁治二年(1241)正月小二十四日癸丑。箱根走湯の二権現参りの精進潔斎する建物として去年新築した御所を、引っ越しした方が良いのか、摂津前司中原師員・出羽前司二階堂行義・佐渡前司後藤基綱等に言い出しました。
引っ越すのなら、精進潔斎前なら今度の二十七日が良いと陰陽師が云いました。しかし、あれこれと言う言葉が一致しません。或る者は、先に引っ越すべきだと云い、或る者は、精進潔斎の初日に引っ越し先に入るべきだと云い、又、二十七日は故将軍実朝様様の月違いの命に血なので、対象日に考えるべきではないとも言ってます。
その上おっしゃられるのには、「今年の方法は、元の御所を掃除して、精進の建物につかうべきかなあ。」と言いました。
これらの内容を、中原師員・後藤基綱を通して、なお泰時さんにお聞きになりました。
「元の御所をお使いになられるのがよろしいのでは。」と言いましたので、そう決まりましたとさ。

参考@二所の御精進屋は、二所詣での爲の精進潔斎をする建物。
参考
御忌月は、命日。

二月へ

吾妻鏡入門第卅四巻

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