仁治二年辛丑(1241)三月大
仁治二年(1241)三月大六日甲午。辰尅地震。 |
読下し たつのこくぢしん
仁治二年(1241)三月大六日甲午。辰尅地震。
現代語仁治二年(1241)三月大六日甲午。午前8時頃、地震です。
仁治二年(1241)三月大十五日癸夘。細雨灑。巳尅地震。今日。永福寺一切經會。將軍家爲御聽聞御出。御輿前右馬權頭。武藏守。備前守。甲斐前司。若狹前司以下供奉。晩頭還御。以其次入御甲斐前司第。献御馬御釼等。彼馬〔黒〕當時鎌倉第一名馬云々。日來諸人競馬望云々。 |
読下し さいう ぬ みにこくぢしん きょう
ようふくじ いっさいきょうえ しょうぐんけ
ごちょうもん ためおんいで おんこし
仁治二年(1241)三月大十五日癸夘。細雨灑らす。巳尅地震。今日、永福寺の一切經會。將軍家御聽聞の爲御出。御輿。
さきのうまごんのかみ むさしのかみ びぜんのかみ かいのぜんじ わかさのぜんじ いげ ぐぶ ばんとう かんご
前右馬權頭、武藏守、
備前守、甲斐前司、若狹前司以下供奉す。晩頭に還御す。
そ ついで もっ かいのぜんじ だい い たま おんうま ぎょけんら けん
其の次を以て甲斐前司の第に入り御う。御馬、御釼等を献ず。
か うま 〔くろ〕 とうじ かまくらだいいち めいば うんぬん ひごろしょにんくらべうま のぞ うんぬん
彼の馬〔黒〕は當時鎌倉第一の名馬と云々。日來諸人競馬に望むと云々。
現代語仁治二年(1241)三月大十五日癸卯。小雨が濡らします。午前10時頃、地震です。今日、永福寺で一切経の供養です。将軍頼経様はお経を聴きにお出かけです。輿を使いました。前右馬権頭北条政村・武蔵守北条朝直・備前守北条時長・甲斐前司長井泰秀・若狭前司三浦泰村以下がお供です。夕方に帰りました。帰るついでに長井泰秀の屋敷に入りました。馬や刀を献上しました。その馬〔黒〕は、現在鎌倉一と云われる名馬だそうで、普段飼育人が競馬に出てるそうです。
仁治二年(1241)三月大十六日甲辰。此間。將軍家令加御灸五六ケ所御云々。今日有評定。事終。前武州持參事書。被披覽御前之後。人々退散。前武州猶還着評定所。覽庭上落花。有一首御獨吟。 事しけき世のならひこそ懶けれ花の散らん春もしられす |
読下し かく あいだ しょうぐんけおきゅう ごろっかしょ くは せし
たま うんぬん
仁治二年(1241)三月大十六日甲辰。此の間、將軍家御灸を五六ケ所へ加へ令め御うと云々。
きょう
ひょうじょうあ
ことおわ さきのぶしゅうことがき じさん ごぜん ひらんされ ののち ひとびとたいさん
今日評定有り。事終りて、前武州事書を持參し、御前に披覽被る之後、人々退散す。
さきのぶしゅう
なお ひょうじょうしょ かえ つ ていじょう らっか み いっしゅ おんどくぎんあ
前武州
猶、評定所へ還り着き、庭上の落花を覽て、一首の御獨吟有り。
こと 茂き よ 習いこそ ものうけれ はなの ちるらん はるも 知られず
事しけき世のならひこそ懶けれ花の散らん春もしられす
現代語仁治二年(1241)三月大十六日甲辰。事あるごとに将軍頼経様は、お灸を5・6カ所にしたそうです。
今日、政務会議がありました。それが終わって泰時さんは結果を書いた文書を持って来て、将軍にお見せした後、皆さんは退散しました。
泰時さんは、なおも政務会議所へ戻って、庭の桜の散るのを見て、一首の和歌を吟じました。
事茂き世の習いこそものうけれ 花の散るらん春も知られず(仕事が忙しすぎるのはよくないなあ、花の散る春を気が付かないで)
仁治二年(1241)三月大十七日乙巳。天霽。丑尅巽風烈。自前濱邊人居失火起。限甘繩山麓。數百宇災。千葉介舊宅。秋田城介。伯耆前司等家在其中云々。 |
読下し そらはれ うしのこく
たつみ かぜはげ まえはまへん じんきょよ しっかお
仁治二年(1241)三月大十七日乙巳。天霽。丑尅
巽の風烈し。前濱邊の人居自り失火起きる。
あまなわさんろく かぎ すうひゃくうわざわ ちばのすけきゅうたく あいだのじょうすけ ほうきのぜんじら いえ そ なか あ うんぬん
甘繩山麓を限り、數百宇災いす。千葉介舊宅、
秋田城介、 伯耆前司等の家其の中に在りと云々。
現代語仁治二年(1241)三月大十七日乙巳。空は晴れました。午前2時頃、西南の風が激しく、甘縄神社の前浜あたりの人家から失火が出ました。甘縄神社の裏山まで、数百軒が焼けました。千葉介時胤の古い方の家、秋田城介安達義景・伯耆前司葛西清親等の家がその中に入っているそうな。
仁治二年(1241)三月大廿日戊申。リ。海老名左衛門尉忠行爲御使上洛云々。是禪定殿下依可有御潅頂。被進捧物等之故也。」今日有仰遣六波羅事。自彼所被送進之諸人相論。問答訖。或不就覆問之詞。或不付證文正文等。又彼就遲到事等相交。旁可致精勤沙汰之由云々。 |
読下し はれ えびなのさえもんのじょうただゆき
おんし な じょうらく うんぬん
仁治二年(1241)三月大廿日戊申。リ。海老名左衛門尉忠行、御使と爲し上洛すと云々。
これ ぜんじょうでんかごかんちょうあ
べ よっ ささげものら すす られ の
ゆえなり
是、禪定殿下御潅頂有る可きに依て、捧物等を進め被る之故也。」
きょう ろくはら おお
つか
ことあ
今日、六波羅@へ仰せ遣はす事有り。
か ところよ そうしんされ のしょにん
そうろん もんどう をはんぬ ある ふくもんのことば
つ
ず ある しょうもん せいぶんら つ
ず
彼の所自り送進被る之諸人の相論、問答Aし訖。或ひは覆問B之詞を就け不。或ひは證文C・正文D等を付け不。
また か ちとう ことら あいまじ つ かたがた
せいきん さた いた べ のよし うんぬん
又、彼の遲到の事等相交はるに就き、旁、精勤沙汰致す可き之由と云々。
参考@六波羅は、この頃北探題が重時、南は時盛で、任期は無い。
参考A問答は、原告と被告が三問三答する。
参考B覆問は、三問三答の後、探題からの質問。
参考C證文は、証拠文書。
参考D正文は、反対に偽文書。
現代語仁治二年(1241)三月大二十日戊申。晴れです。海老名左衛門尉忠行は、幕府の使者として京都へあがったそうな。これは将軍の父の禅定殿下九条道家様が仏位に上る聖水を掛けて貰う儀式をするそうなので、お供物などをお届けするためです」
今日、六波羅探題(重時と時盛)へ命じ伝える事があります。六波羅から送ってくる、人々の訴訟や原告被告の三問三答したこと。或いはその後の探題からの質問の言葉がそえられていません。或いは、証拠文書や偽文書などもついていません。又、文書の到達が遅れたり前後したりしてるので、皆がちゃんと仕事をするようにとの内容だそうな。
仁治二年(1241)三月大廿五日癸丑。海野左衛門尉幸氏与武田伊豆入道光連相論上野國三原庄与信濃國長倉保境事。幸氏所申。依有其謂。任式目加押領分限。可沙汰付之旨。被仰含于伊豆前司頼定。布施左衛門尉康高等先訖。此事確執之餘。光蓮含恨。相語一族并朋友等。對前武州欲遂宿意之由。巷説出來之間。重難及細碎沙汰。猶如先。前武州被談人々曰。顧人之恨。不分其理非者。不可有政道本意。怖逆心不申行者。定又招存私之謗者歟。去建暦年中。和田左衛門尉義盛企謀反之比。稱可被免囚人平太胤長之由。一族雖令列參。無許容。結句乍面縛胤長。渡彼等眼前。被預人之處。義盛雖成後日蜂起。於當座者。敢不能抑留其身。無私之先蹤如此。宜備向後指南事也。又庄田四郎二郎行方訴申盜人新五郎男事。同有其沙汰。以彼男主人岩本太郎家C。可被處与同罪之旨。行方頻雖訴申之。所被弃損也。被懸所從盜犯於主人之條。背物儀之由云々。對馬左衛門尉仲康奉行之。 |
読下し うんののさえもんのじょうゆきうじ と たけだのいずにゅうどうこうれん
仁治二年(1241)三月大廿五日癸丑。海野左衛門尉幸氏
与 武田伊豆入道光連、
こうづけのくに
みはらのしょう と しなののくに
ながくらのほう さかい こと そうろん
上野國 三原庄@
与 信濃國 長倉保Aの境の事を相論す。
ゆきうじもう ところ そ いわ あ よっ しきもく まか おうりょうぶげん くは さた つ
べ のむね
幸氏申す所は、其の謂れ有るに依て、式目に任せ押領分限を加へ、沙汰し付ける可し之旨、
いずのぜんじよりさだ ふせのさえもんのじょうやすたか
ら に おお ふく られ さき をはんぬ
伊豆前司頼定、布施左衛門尉康高
等于仰せ含め被ること先に訖。
かく ことかくしつ
のあま こうれんうらみ ふく いちぞくなら
ほうゆうら あいかた さきのぶしゅう たい すくい と ほっ のよし
此の事確執之餘り、光蓮恨みを含み。一族并びに朋友等に相語り、前武州に對し宿意を遂げんと欲するB之由、
ちまたせつ いできた のあいだ かさ
さいさい さた およ
がた なおさき ごと
巷説 出來る之間、重ねて細碎の沙汰に及び難く、猶先の如し。
さきのぶしゅう
ひとびと だん られ いは ひとのうらみ かえりみ
そ りひ わ ず ば せいどう
ほんい あ べからず
前武州
人々に談じ被て曰く。人之恨を顧て、其の理非を分け不ん者、政道の本意に有る不可。
ぎゃくしん おそ もう おこな ず
ば
さだ また しのそしり まね そん ものか
逆心を怖れ申し行は不ん者、定めて又、私之謗を招き存ず者歟。
さんぬ けんりゃくねんちう わだのさえもんのじょうよしもり
むほん くはだ のころ めしうどへいたたねなが
めん られ べ のよし しょう
去る
建暦年中、
和田左衛門尉義盛、謀反を企てる之比、囚人平太胤長を免じ被る可き之由と稱し、
いちぞくれっさんせし いへど きょような あげく
たねなが めんばく
なが かれら がんぜん わた ひと あず
られ のところ
一族列參令むと雖も、許容無し。結句、胤長を面縛し乍ら、彼等の眼前を渡し、人に預け被る之處、
よしもり ごじつ ほうき な いへど とうざ をい
は あえ そ み よくりゅう あたはず
義盛後日蜂起を成すと雖も、當座に於て者、敢て其の身を抑留に不能。
むし
の
せんじゅうかく ごと よろ きょうこう そな しなん ことなり
無私之先蹤此の如し。宜しく向後に備う指南の事也。
また しょうたのしろうじろうゆきかた
ぬすっとしんごろうおとこ こと うった もう おな
そ さた あ
又、庄田四郎二郎行方、盜人新五郎男の事を訴へ申す。同じく其の沙汰有り。
か おとこ もって しゅじん
いわもとのたろういえきよ よ どうざい しょさる べ のむね ゆきかたしき これ うった もう いへど きえんされ ところなり
彼の男を以て
主人
岩本太郎家Cを、与に同罪に處被る可き之旨、行方頻りに之を訴へ申すと雖も、弃損被る所也。
しょじゅう とうはんを
しゅじん かけるのじょう ぶつぎ そむ のよし うんぬん つしまさえもんのじょうなかやす
これ ぶぎょう
所從の盜犯於主人に懸被之條、物儀に背く之由と云々。對馬左衛門尉仲康
之を奉行す。
参考@三原庄は、群馬県吾妻郡嬬恋村大字三原。吾妻線万座鹿沢口駅あたり。
参考A長倉保は、長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉。双方はかつての草軽鉄道沿線で信州軽井沢から上州北軽井沢への通り道で隣同士となる。
参考B前武州に對し宿意を遂げんと欲するは、この落とし前として翌四月十六日に謝罪するが、十二月二十七日に三男信忠を義絶しているので、信忠が主戦派だったようだ。
現代語仁治二年(1241)三月大二十五日癸丑。海野左衛門尉小太郎幸氏と武田伊豆入道光連信光が、上野国三原庄と信濃国長倉保との境界について訴訟しました。海野幸氏が訴える事は、筋道が通っているので、御成敗式目の条文にあわせ、勝訴取り分も加えて処理するように、伊豆前司若槻頼定・布施左衛門尉康高を施行使として云い聞かせてあります。
この事を譲れない不和が生じ、武田信光は恨みを持って、一族や友達に話して、泰時さんにこの報いを遂げたいを云ってると。町で噂が立っていますが、追加して細かい審議はできませんので、前の通りです。
泰時さんは、周りの人たちに云いました。
「人から恨みを受けても、その道理をきちんとしなければ、政治の本質から外れるであろう。敵対する心を怖がって、処理をしなければ、きっとまた、人々からの批判を受ける事になるのであろう。去る建暦年中(1213)、和田左衛門尉義盛が謀反を起こしそうな時、甥で囚人の和田平太胤長の許可を嘆願して一族が並んできたけど、許されませんでした。結局胤長は後ろ手に縛られて、その者達の前を引かれて、二階堂にあずけられた所、和田義盛は後日挙兵したけれども、その場では特に捕まえたり閉じ込めたりしませんでした。私的な感情をさしはさまないのは、このとおりです。それは、今後の事を考えた扱いでした。又、庄田四郎二郎行方が、盗人の新五郎と云う男を訴えて云いました。これも同じような結果でした。その盗人を利用して主人の岩本太郎家清が同罪にするべきだと、庄田行方はさかんに訴えて来ましたけど、破棄しました。家来の窃盗罪を主人にも当てはめるのは、道理に反する事です。」だとさ。
対馬左衛門尉仲康がこの処理を担当します。
仁治二年(1241)三月大廿七日乙夘。午尅。大倉北斗堂立柱上棟。前武州監臨給。前兵庫頭定員。信濃民部大夫入道行然等奉行之云々。又深澤大佛殿同有上棟之儀云々。 |
読下し うまのこく おおくらほくとどう
りっちゅうじょうとう さきのぶしゅう
かんりん たま
仁治二年(1241)三月大廿七日乙夘。午尅、大倉北斗堂
立柱上棟す。前武州 監臨し給ふ。
さきのひょうごのかみさだかず しなののみんぶたいふにゅうどうどうねんら これ ぶぎょう
うんぬん また ふかざわ
だいぶつでん おな じょうとう の ぎ
あ うんぬん
前兵庫頭定員、 信濃民部大夫入道行然等 之を奉行すと云々。又、深沢の大仏殿、
同じく上棟之儀有りと云々。
現代語仁治二年(1241)三月大二十七日乙卯。十二時頃、大蔵北斗堂の柱立棟上げ式です。泰時さんも立ち会いました。前兵庫頭藤原定員と民部大夫入道行然(二階堂行盛)が、これを指揮担当します。
又、深沢の大仏殿で、同様に棟上げ式があったそうです。