吾妻鏡入門第卅四巻

仁治二年辛丑(1241)六月大

仁治二年(1241)六月大八日甲子。佐々木近江入道虚假遁世。子孫事永不可知之由言上云々。

読下し                     ささきのおうみにゅうどう こけ とんせ     しそん  ことなが  し   べからず のよしごんじょう   うんぬん
仁治二年(1241)六月大八日甲子。佐々木近江入道虚假@遁世す。子孫の事永く知る不可之由言上すと云々。

現代語仁治二年(1241)六月大八日甲子。佐々木近江入道虚四郎信綱が、隠居しました。子孫とも縁を切りますと申しあげましたとさ。

解説@佐々木近江入道虚假は、佐々木信綱。信綱は太郎定綱の嫡子で、所領を長男重綱が大原庄を継ぎ大原氏に、次男の高信が高島郡田中郷を継ぎ高島氏に、三男泰綱が蒲生等を継ぎ京都六角に本拠を移し六角氏に、四男氏信が浅井郡などを継ぎ京都の京極の本拠を移し京極氏となる。

仁治二年(1241)六月大九日乙丑。炎旱渉旬之間。鶴岡別當僧都定親承仰。於江嶋修祈雨法。又同被行千度御秡。定昌。泰貞。リ賢。宣賢。國継。資宣。廣資。泰房。リ平。泰宗等奉仕之〔祿物各絹一疋〕。宮内左衛門尉公景。近江大夫爲御使云々。

読下し                   えんんかんしゅん わた のあいだ つるがおかべっとうそうづじょうしん おお  うけたまは  えのしま  をい   きうほう   しゅう
仁治二年(1241)六月大九日乙丑。炎旱 旬に渉る之間、 鶴岡別當僧都定親 仰せを承り@、江嶋に於て祈雨法を修す。

また  おな    せんど  おはらい おこなはれ  さだまさ やすさだ はるかた のぶかた くにつぐ すけのぶ ひろすけ やすふさ はるひら やすむねら これ  ほうし
又、同じく千度の御秡を行被る。定昌、泰貞、リ賢、宣賢、國継、資宣、廣資、泰房、リ平、泰宗等之を奉仕す。

 〔ろくぶつおのおのきぬいっぴき〕 くないさえもんのじょうきんかげ  おうみたいふ おんしたり  うんぬん
〔祿物 各 絹一疋〕宮内左衛門尉公景、近江大夫御使爲と云々。

参考@仰せを承りは、将軍の命令で。

現代語仁治二年(1241)六月大日乙丑。日照りが十日にもなりますので、鶴岡八幡宮筆頭の僧都定親は、命令を受けて江の島で雨乞いの祈祷を行いました。又、同じ目的で千回のお祓いを行いました。安陪定昌・泰貞・晴賢・宣賢・国継・資宣・広資・泰房・晴平・泰宗などがこれを勤めました。〔褒美はそれぞれに絹一匹です〕宮内左衛門尉公員・近江大夫佐々木泰綱が代参です。

仁治二年(1241)六月大十日丙寅。洛中殺害人等事。有其沙汰。至重科者。雖爲使廳沙汰。申給之。可行所當咎之由。被仰遣六波羅云々。

読下し                   らくちう  せちがいにんら   こと   そ   さた あ
仁治二年(1241)六月大十日丙寅。洛中の殺害人等の事、其の沙汰有り。

ちょうか  いた    は   しちょう   さた たり いへど   これ  もう  たま    しょとう   とが  おこな べ   のよし   ろくはら   おお  つか  され    うんぬん
重科に至りて者、使廳の沙汰爲と雖も、之を申し給はり所當の咎に行う可き之由、六波羅へ仰せ遣は被ると云々。

現代語仁治二年(1241)六月大十日丙寅。京都市内での殺人などについて、決裁が出ました。重罪人は、検非違使庁の管轄だけれども、これを申し出て受け取り、適宜な罰を実刑するように、六波羅探題へ申し送りましたとさ。

仁治二年(1241)六月大十一日丁夘。雜人訴訟事。相分國々。被付奉行人。而度々雖被相觸。不事行之時。申御教書之間。尫(原文瓦于王)弱訴訟人。數反往還經日月事不便。自今以後。不可申成御教書。以奉行人奉書。可加下知之旨。被仰出云々。

読下し                     ぞうにんそしょう  こと  くにぐに  あいわか    ぶぎょうにん  つけられ
仁治二年(1241)六月大十一日丁夘。雜人訴訟の事、國々に相分ち、奉行人に付被る。

しか    たびたびふれられ   いへど   こといかざるのとき   みぎょうしょ  もう  のあいだ     おうじゃく そしょうにん  すうはん  おうふく  にちげつ  へ  こと ふびん
而るに度々相觸被ると雖も、事行不之時、 御教書@に申す之間、尫弱Aの訴訟人、數反の往還、日月を經る事不便。

いまよ    いご   みぎょうしょ  もう   な   べからず  ぶぎょうにん ほうしょ  もっ     げち   くは    べ   のむね  おお  いだされ    うんぬん
今自り以後、御教書を申し成す不可。奉行人の奉書を以て、下知を加へる可き之旨、仰せ出被ると云々。

参考Aは、貧民。

現代語仁治二年(1241)六月大十一日丁卯。一般人の訴訟について、国ごとに分けて担当を決めました。それなのに、何度伝えてさえも、裁判が進まない時、将軍の決裁を受けた命令書を出していたのでは、貧乏な訴訟人に何度もの出頭や歳月をかけさせては気の毒である。今から以後は、将軍の決裁命令書を要求しないで、担当者の通知書で処理をするように、仰せになられましたとさ。

解説@御教書は、取りに来させるみたいだ。

仁治二年(1241)六月大十二日戊辰。巳尅以後甘雨。及酉尅天リ。既數日炎旱也。昨日聊陰雲。雨灑始云々。」入夜。於御所被始行属星祭。リ賢朝臣奉仕之。將軍家雖可有出御于其庭。依爲極熱折節。令内藏權頭資親渡御撫物給云々。

読下し                     みのこく いご かんう  とりのこくそらはれ  およ    すで  すうじつえんかんなり  きのういささ  かげくも    あめぬ   はじ     うんぬん
仁治二年(1241)六月大十二日戊辰。巳尅以後甘雨。酉尅天リに及ぶ。既に數日炎旱也。 昨日聊か陰雲り、雨灑れ始めると云々。」

 よ  い     ごしょ  をい  ぞくしょうさい  しぎょうされ   はるかたあそんこれ  ほうし
夜に入り、御所に於て属星祭を始行被る。リ賢朝臣之を奉仕す。

しょうぐんけ そ  にわに いでたま あ   べ    いへど   おりふしきは   あつ  ため  よっ   くらごんのかみすけちか  し   なでもの  とぎょ  たま    うんぬん
將軍家其の庭于出御い有る可しと雖も、折節極めて熱い爲に依て、内藏權頭資親を令て撫物@を渡御し給ふと云々。

参考@撫物は、人形(ひとがた)。体の穢れを撫でて水の流れに流す。

現代語仁治二年(1241)六月大十二日戊辰。午前10時以後待ち焦がれていた雨が降りました。でも午後6時頃には晴れてしまいました。すでに数日もの間日照りです。昨日はいくらか曇ってたので小雨が降り始めました。」
夜になって、御所で属星祭を始めました。晴賢さんが勤めました。将軍頼経様はその庭に出ようと思いましたが、いかんせん暑いので、内蔵権頭資親に命じて穢れを写した人型を渡したそうです。

仁治二年(1241)六月大十五日辛未。六波羅問注記并文書等調進之間。可有勤節事。今日所有其沙汰也。

読下し                      ろくはら   もんちうじ なら    もんじょらちょうしんのあいだ  きんせつあ  べ  こと   きょう  そ    さた あ  ところなり
仁治二年(1241)六月大十五日辛未。六波羅の問注記并びに文書等調進之間、 勤節有る可き事、今日其の沙汰有る所也。

現代語仁治二年(1241)六月大十五日辛未。六波羅探題での裁判記録と政務記録の文書を整理してお見せした所、朝廷に対し尽くす様に、今日命じられましたとさ。

仁治二年(1241)六月大十六日壬申。小河高太入道直季被止出仕。是依密懷源八兼頼〔筑後國御家人〕妻女之科也。其上男女共可被召放所領半分云々。彼領所等。皆在筑後國之間。以御教書。被仰守護人遠江式部大夫。此事。去三月晦日雖有其沙汰。是等事終及晩訖。翌日依爲三御精進被閣之。延而到今日云々。内記兵庫允祐持奉行之。」又諸人預置如謀反人之時。令迯失者。依爲重科可召放所領。以其所持物等。可被付寺社修理之由。有議定。但迯脱之後。三ケ月者可延引。過其期者。随事躰。殊可有其沙汰之由。仰侍所司。普可被相觸云々。

読下し                     おがわのこうたにゅうどうなおすえ しゅっし  と   られ
仁治二年(1241)六月大十六日壬申。小河高太入道直季@、出仕を止め被る。

これ げんぱちよりかね 〔ちくごのくにごけにん〕     さいじょ  みっかいのとが  よっ  なり   そ  うえだんじょとも しょりょうはんぶん めしはなたれ べ    うんぬん
是、源八兼頼〔筑後國御家人〕が妻女に密懷之科に依て也。其の上男女共に所領半分を召放被る可きと云々。

か  りょうしょら   みなちくごのくに  あ  のあいだ  みぎょうしょ  もっ   しゅごにんとおとうみのしきぶたいふ  おお  られ
彼の領所等、皆筑後國に在る之間、御教書を以て、守護人遠江式部大夫に仰せ被る。

かく  こと  さんぬ さんがつみそか そ    さた あ    いへど   これら  ことおわり ばん  およ をはんぬ
此の事、去る三月晦日に其の沙汰有ると雖も、是等の事終り晩に及び訖。

よくじつ  さんごしょうじんたる  よっ  これ さしおかれ  のばして きょう  いた    うんぬん  ないきひょうごのじょうすけもち これ ぶぎょう
翌日は三御精進爲に依て之を閣被、 延而今日に到ると云々。 内記兵庫允祐持 之を奉行す。」

また  しょにんむほんにん ごと    あずか お    のとき   に   うしな せし  ば   ちょうかたる  よっ  しょりょう  めしはな  べ
又、諸人謀反人の如きを預り置く之時、迯げ失は令め者、重科爲に依て所領を召放つ可し。

 そ  ところ もちものら   もっ    じしゃ  つけられ  しゅうりすべ  のよし  ぎじょうあ     ただ  とうだつののち  さんかげつは えんいんすべ
其の所の持物等を以て、寺社に付被、修理可き之由、議定有り。但し迯脱之後、三ケ月者延引可し。

 そ  ご   すぎ  ば   こと  てい  したが   こと  そ    さた あ   べ   のよし  さむらいしょし おお     あまね あいふれら  べ     うんぬん
其の期を過れ者、事の躰に随い、殊に其の沙汰有る可き之由、侍所司に仰せて、普く相觸被る可きと云々。

参考@小河高太入道直季は、埼玉県比企郡小川町。西党。筑後に領地有り。

現代語仁治二年(1241)六月大十六日壬申。小川高太入道直季が、幕府への勤務を禁止されました。これは、源八兼頼〔筑後国(福岡県)の御家人です〕の奥さんとの不倫の罪によってです。その他に男女ともに領地を半分取り上げることにしましたとさ。その領地は、全て筑後国にあるので、将軍命令書をつかわせて、守護の遠江式部大夫北条時章に命令しました。この事は、去る三月三十日にその決裁がありましたが、この手続きが終わったのが夜になってしまいました。翌日の四月一日は、三精進潔斎なので実施を避けたので延期して今日になってしまいましたとさ。内記兵庫允祐持がこれの担当です。」
また、皆が反逆者(預かり囚人)などを預かっている時に、逃げられてしまったら、重罪なので領地を取り上げます。その領地の道具類を寺社に寄付して修理料にしようと議決しました。但し、逃げられて3か月は待ちましょう。その期間が過ぎたら、逃げられたままならば、特にその処分をするように、武士を取り締まる侍所の副長官に命令して、もれなく通知しましょうだとさ。

仁治二年(1241)六月大十七日癸酉。若君御前御生髪也。前武州着布衣被令參仕給。毛利藏人泰光。左衛門大夫定範以下。父母兼備諸大夫候侍所役。師員朝臣。基綱等奉行之。毎事不被召付雜掌。爲將軍家御沙汰。殊及結搆之儀云々。

読下し                     わかぎみごぜん  おんうぶかみなり さきのぶしゅう ほい  き   さんしせし  られたま
仁治二年(1241)六月大十七日癸酉。若君御前の御生髪@也。 前武州 布衣を着て參仕令め被給ふ。

 もうりくらんどやすみつ  さえもんたいふさだのり いげ    ふぼ けんび  しょだいぶ  しょやく こうじ   もろかずあそん  もとつなら これ  ぶぎょう
毛利藏人泰光、左衛門大夫定範以下、父母兼備の諸大夫、 所役に候侍す。師員朝臣、基綱等之を奉行す。

まいじ ざっしょう めしつけられず  しょうぐんけ  おんさた  な     こと  けっこう のぎ   およ    うんぬん
毎事雜掌を召付被不、將軍家の御沙汰と爲し、殊に結搆之儀に及ぶと云々。

参考@生髪は、散髪。七五三の男女共三歳は「髪置」と云い、産髪を剃って来たのを初めて髪を伸ばす式。頼嗣は1239年11月21日生なので数えの3才。

現代語仁治二年(1241)六月大十七日癸酉。若君(後の頼嗣)の三才の髪を伸ばす儀式です。泰時さんは束帯に次ぐ礼装の布衣を着て勤めました。毛利蔵人泰光・左衛門大夫藤原定範以下の両親が揃っている五位が手伝いの役をしました。中原師員・後藤基綱が担当です。ことごとく雑事の下働きを呼ばないで、将軍の事業として、特に大仰な儀式にしましたとさ。

仁治二年(1241)六月大十八日甲戌。近年。西國諸社神人。權門寄人。好寄沙汰致狼藉。令煩甲乙人之由。依有其聞。今日被經評議。於如然之輩者。相觸本所。召出其身。無所遁者。可召進關東之旨。可被仰遣六波羅云々。

読下し                     きんねん  さいごくしょしゃ じんにん  けんもん  よりうど  よせさた   この  ろうぜきいた
仁治二年(1241)六月大十八日甲戌。近年。西國諸社の神人、權門に寄人、寄沙汰@を好み狼藉致し、

とこうのひと わずら せし  のよし   そ  きこ  あ     よっ    きょう ひょうぎ  へられ
甲乙人を煩は令む之由、其の聞へ有るに依て、今日評議を經被、

しか  ごと  のやから  をい  は   ほんじょ  あいふれ そ   み   めしいだ    のが   ところな    ば
然る如き之輩に於て者、本所に相觸、其の身を召出し、遁れる所無くん者、

かんとう  めししn  べ   のむね   ろくはら  おお  つか  さる  べ    うんぬん
關東へ召進ず可き之旨、六波羅へ仰せ遣は被る可きと云々。

参考@寄沙汰は、威光を傘に着て。

現代語仁治二年(1241)六月大十八日甲戌。最近、関西の神社の下働きどもが、身分の高い公卿に身を寄せたり、威光を笠に着て悪事をするので、一般人の迷惑となっていると噂があるので、今日会議を通して、身分の分かる連中は、その荘園の最上級権利者の本所に連絡して、身柄を差し出させ拘束し、罪状から逃れられない者は、鎌倉へ連行するように、六波羅探題へ通知することにしましたとさ。

仁治二年(1241)六月大廿七日癸未。前武州聊御不例云々。

読下し                     さきのぶしゅう いささ  ごふれい  うんぬん
仁治二年(1241)六月大廿七日癸未。前武州、聊か御不例と云々。

現代語仁治二年(1241)六月大二十七日壬未。泰時さんが多少具合が悪いようです。

仁治二年(1241)六月大廿八日甲申。有臨時評議。故佐貫八郎時綱養子太郎時信訴申後家藤原氏改嫁之由事。今日被經沙汰。爲式目以前改嫁之間。不及罪科。仍於本夫遺領上野國赤岩郷者可令後家領掌云々。對馬左衛門尉爲奉行。又北條左親衛并甲斐前司泰秀等加評定衆云々。

読下し                     りんじ   ひょうぎあ
仁治二年(1241)六月大廿八日甲申。臨時の評議有り。

こさぬきのはちろうときつな  ようし たろうのぶとくうった もう   ごけ   ふじわらし かいか のよし  こと  きょう  さた   へられ
故佐貫八郎時綱が養子太郎時信訴へ申す後家、藤原氏改嫁之由の事、今日沙汰を經被る。

 しきもくいぜん  かいかたるのあいだ ざいか  およばず  よっ  もと  おっと いりょう こうづけのくに あかいわごう  をい  は   ごけりょうしょうせし  べ     うんぬん
式目以前の改嫁爲之間、罪科に不及。仍て本の夫の遺領 上野國 赤岩郷に於て者、後家領掌令む可きと云々。

つしまのさえもんのじょうぶぎょうたり
對馬左衛門尉奉行爲。

また  ほうじょうさしんえいなら   かいのぜんじやすひでら ひょうじょうしゅう くは    うんぬん
又、北條左親衛并びに甲斐前司泰秀等 評定衆に 加うと云々。

現代語仁治二年(1241)六月大二十八日甲申。臨時の政務会議がありました。故佐貫八郎時綱の養子の太郎時信が訴訟している未亡人の藤原さんの再婚について、今日決裁を経ました。御成敗式目が公布される前の再婚なので、罪にはなりません。それなので夫の相続した財産の上野国赤岩郷については、未亡人がそのまま持って居て良いそうな。対馬左衛門尉仲康が処理します。
また、北条左近将監経時と甲斐前司長井泰秀が政務会議に加えられましたとさ。

七月へ

吾妻鏡入門第卅四巻

inserted by FC2 system