仁治二年辛丑(1241)七月小
仁治二年(1241)七月小三日己丑。大納言僧都隆弁爲將軍家御使。參籠筥根山般若峯。轉讀十六會云々。 |
読下し
だいなごんそうづりゅうべん しょうぐんけ おんし な はこねさん
はんにゃみね さんろう じうろくえ てんどく うんぬん
仁治二年(1241)七月小三日己丑。大納言僧都隆弁、將軍家の御使と爲し、筥根山
般若峯@に參籠し十六會Aを轉讀Bすと云々。
参考@筥根山般若峯は、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根の駒ケ岳。
参考A十六会は、般若経を四つの場所で16回に分けて説かれたとあります。
初会 王舎城の鷲峯山1-400。第2会 同401−478。第3会 同479−537。第4会
同538−555。第5会 同556−565。第6会 同566−573。第7会 舎衛国の給孤独園574−575。第8会
同576。第9会 同577。第10会 他化自在天宮578。第11会 舎衛国の給孤独園579−583。第12会
同584−588。第13会 同589。第14会 同590。第15会 王舎城の鷲峯山591−592。第16会
竹林精舎の白鷺池593−600。
参考B転読は、略式の飛ばし読みのお経を上げる事で、お経を左右にアコーデオンのように片手から片手へ移しながらお経を唱える。摺り読みとも云う。反対にちゃんと読むのを「真読」と云う。
現代語仁治二年(1241)七月小三日己丑。大納言僧都隆弁は、将軍頼経様の代理で箱根山の般若峰におこもりして大般若経を16回に分けて略読みをしましたとさ。
仁治二年(1241)七月小四日庚寅。子尅地震。今日於御所御持佛堂。爲將軍家息〔災〕御祈。有八万四千基泥塔供養。導師宮内卿僧都承快。 |
読下し
ねのこくぢしん
仁治二年(1241)七月小四日庚寅。子尅地震。
きょう
ごしょ おんじぶつどう をい しょうぐんけ
そくさいおいのり ため はちまんよんせんき
でいとうくようあ どうし くないきょうそうづじょうかい
今日御所の御持佛堂に於て、將軍家
息災御祈の爲、八万四千基@の泥塔供養有り。導師は宮内卿僧都承快。
参考@八萬四千は、釈尊のお説きになった教え「経」の数と謂われる。
現代語仁治二年(1241)七月小四日庚寅。夜中の0時頃に地震です。今日、御所の将軍の守り本尊の持仏堂で、将軍頼経様の元気でいるように、無病息災のお祈りのため、84000の泥の塔を奉納しました。指導僧は宮内卿僧都承快です。
仁治二年(1241)七月小五日辛夘。於前武州亭。被行七座泰山府君祭。依御不例也。 |
読下し さきのぶしゅう てい
をい しちざ たいさんふくんさい おこなはれ ごふれい
よっ なり
仁治二年(1241)七月小五日辛夘。前武州の亭に於て、七座の泰山府君祭を行被る。御不例に依て也。
現代語仁治二年(1241)七月小五日辛卯。泰時さんの屋敷で、七人が拝む泰山府君祭を行いました。泰時さんが具合が悪いからです。
仁治二年(1241)七月小六日壬辰。北條左親衛。同武衛等。於鶴岡上下宮。有百度詣。是祖父息災延壽御祈請云々。 |
読下し
ほうじょうさしんえい
おな ぶえいら つるがおか じょうげぐう をい ひゃくどもうであ
仁治二年(1241)七月小六日壬辰。北條左親衛、同じき武衛等、鶴岡
上下宮に於て、百度詣有り。
これ
そふ そくさいえんじゅ ごきしょう うんぬん
是、祖父息災延壽の御祈請と云々。
現代語仁治二年(1241)七月小六日壬辰。北条左親衛経時、同武衛時頼は、鶴岡八幡宮の上下社で、お百度参りをしました。これは、祖父の泰時さんが元気になって長生きするように祈願を込めたんだそうな。
仁治二年(1241)七月小八日甲午。於御所。被行七座泰山府君祭。定昌。泰貞。リ賢。資俊。國継。廣資。以平等奉仕之。令御厩舎人等引送御馬於其庭給云々。 |
読下し ごしょ をい しちざ たいさんふくんさい おこなはれ
仁治二年(1241)七月小八日甲午。御所に於て、七座の泰山府君祭を行被る。
さだまさ やすまさ はるかた すけとし くにつぐ ひろすけ もちひらら
これ ほうし
定昌、泰貞、リ賢、資俊、國継、廣資、以平等之を奉仕す。
みんまや とねり ら し おんうまを そ
にわ ひきおく たま うんぬん
御厩の舎人等を令て御馬於其の庭に引送り給ふと云々。
現代語仁治二年(1241)七月小八日甲午。御所で、七人が拝む泰山府君祭を行いました。定昌・泰貞・晴賢・資俊・国継・広資・以平がこれを勤めました。厩舎の厩務員に馬をその庭に引き出して与えましたとさ。
仁治二年(1241)七月小廿日丙午。前武州御不例無殊事云々。 |
読下し さきのぶしゅう ごふれい こと ことな うんぬん
仁治二年(1241)七月小廿日丙午。前武州の御不例、殊なる事無しと云々。
現代語仁治二年(1241)七月小二十日丙午。泰時さんの病気は、大したことがありませんでしたとさ。
仁治二年(1241)七月小廿六日壬子。御臺所渡御石山局里亭。依可聞食辛蒜也。」入夜。珎譽法印修大属星供。又文元朝臣始行属星祭。所引募上総國皆吉郷知行之功也云々。各將軍家御息災御祈祷云々。 |
読下し
みだいどころ いしやまのつぼね さとてい わた たま しんさん
き め すべ よっ なり
仁治二年(1241)七月小廿六日壬子。御臺所@、石山局の
里亭へ渡り御う。辛蒜を聞こし食め可きに依て也。」
よ い ちんよほういん だいぞくしょうぐ しゅう また ふみもとあそんぞくしょうさい しぎょう
夜に入り、珎譽法印大属星供を修す。又、文元朝臣属星祭を始行す。
かずさのくに
みなよしごう ちぎょうのこう ひきつの ところなり うんぬん
上総國
皆吉郷A知行之功Bを引募るC所也と云々。
おのおの しょうぐんけおんそくさい ごきとう うんぬん
各 將軍家御息災の御祈祷と云々。
参考@御臺所は、将軍の正妻で持明院藤原家行の女。
参考A皆吉郷は、千葉県市原市皆吉。
参考B功は、成功(じょうごう)の功を指す。買官。
参考C引募るは、自分のほうへ引いて募るで、応募する。
現代語仁治二年(1241)七月小二十六日壬子。将軍の奥様は、幕府の女官の石山局の街中の実家へ行かれました。穢れになる忍辱をたべるためです。」
夜になって、珎与法印が大属星の護摩供養を勤めました。又、文元さんは属星祭を始めました。上総国皆吉郷の管理権で買官に応募したんだとさ(管理権を寄付した?)。双方とも将軍頼経様が無事なようにとのお祈りだそうな。
仁治二年(1241)七月小廿七日癸丑。今夕。定昌朝臣奉仕如法泰山府君祭。是又將軍家御祈也。今月相當御愼之期。殊及精誠之儀云々。 |
読下し
こんゆう さだまさそん にょほうたいさんふくんさい ほうし これまたしょうぐんけ おいのりなり
仁治二年(1241)七月小廿七日癸丑。今夕、定昌朝臣如法泰山府君祭を奉仕す。是又將軍家の御祈也。
こんげつ おんつつし のご あいあた こと せいせい のぎ およ うんぬん
今月 御愼み之期に相當り、殊に精誠之儀に及ぶと云々。
現代語仁治二年(1241)七月小二十七日癸丑。今日の夕方、定昌さんが規則通りの泰山府君祭を勤めました。これはまたも将軍頼経様のお祈りです。今月は将軍頼経様は鎮静していた方が良い月に当たるので、特に力を込めた祈りにしたそうです。
仁治二年(1241)七月小廿八日甲寅。大納言僧都隆弁自筥根山般若峯退出。 |
読下し
だいなごんそうづりゅうべん はこねさん
はんにゃみねよ たいしゅつ
仁治二年(1241)七月小廿八日甲寅。大納言僧都隆弁、筥根山
般若峯自り退出す。
現代語仁治二年(1241)七月小二十八日甲寅。大納言僧都隆弁は、箱根山の般若峰から降りてきました。