吾妻鏡入門第卅四巻

仁治二年辛丑(1241)九月小

仁治二年(1241)九月小三日戊子。信濃國住人奈古又太郎者。承久三年大乱之時。乍施勳功。漏其賞之由。頻雖愁申之。依無便宜之地。空送年序訖。但猶雖有如此不幸之類。於奈古軍忠者。勝其中之間。相搆可被行之由。故匠作〔時氏〕遺命也。仍左親衛爲不違其趣。今日執彼款状。加別御詞。被仰遣恩澤奉行人師員朝臣之許。師員申御返事云。
 奈古又太郎申勳功賞事。折紙給預候畢。早可申入候。恐々謹言。
                              師員
   北條大夫將監殿〔御返事〕

読下し                   しなののくに じゅうにん なこのまたたろう は  じょうきゅうさんねんたいらんのとき  くんこう  ほどこ なが
仁治二年(1241)九月小三日戊子。信濃國 住人 奈古又太郎@者、 承久三年 大乱之時、勳功を施し乍らも、

 そ  しょう も     のよし  しきり これ  うれ  もう     いへど   びんぎ の ち な     よっ    むな    ねんじょ  おく をはんぬ 
其の賞に漏れる之由、頻に之を愁ひ申すと雖も、便宜之地無きに依て、空しく年序を送り訖。

ただ  なお  かく  ごと  ふこうのたぐいあ    いへど    なこ   ぐんちう  をい  は   そ   なか  まさ  のあいだ
但し猶、此の如き不幸之類有ると雖も、奈古の軍忠に於て者、其の中に勝る之間、

あいかま おこなはれ べ   のよし   こしょうさく 〔ときうじ〕    いめいなり
相搆へ行被る可き之由、故匠作〔時氏〕の遺命也。

よっ  さしんえい そ おもむき たが ざるため  きょう か  かんじょう と     べつ  おことば  くわ    おんたくぶぎょうにんもろかずあそんのもと  おお  つか  され
仍て左親衛其の趣を違は不爲、今日彼の款状を執り、別の御詞を加へ、恩澤奉行人師員朝臣之許へ仰せ遣は被る。

もろかず ごへんじ  もう    い
師員御返事に申して云はく。

   なこのまたたろう   もう  くんこう  しょう  こと  おりがみ    たま  あずか そうら をはんぬ はや  もう  い   べ そうろう きょうきょうきんげん
 奈古又太郎が申す勳功の賞の事、折紙にし給ひ預り候ひ畢。 早く申し入る可く候。恐々謹言。

                                                               もろかず
                              師員

       ほうじょうたいふしょうげんどの 〔ごへんじ〕
   北條大夫將監殿〔御返事〕

参考@奈古又太郎は、名子郷で、長野県下伊那郡松川町元大島に「名子」交差点あり。

現代語仁治二年(1241)九月小三日戊子。信濃国侍奈古又太郎は、承久三年の大乱の時、手柄をたてているのに、その恩賞に盛れていると盛んに嘆き訴えていましたが、褒美にあげられる空いている土地が無いと、むなしく年が過ぎて行きました。ただし、なおもこのような運の悪い連中もいるけれども、奈古の手柄はその中でも優れたものなので、ちゃんと考えてやるようにと、故匠作北条時氏さんの遺言です。それなので左親衛北条経時さんはその趣旨を裏切らず、今日その上申書を取り上げ、別に推薦状を添えて、恩賞担当官の中原師員さんの所へ伝えました。中原師員の返事には、「奈古太郎が申請している手柄の褒美については、正式書類にして用意しましたので、早めに将軍に上申します。謹んでお受けします。北条大夫将監経時様へご返事 師員

仁治二年(1241)九月小七日壬辰。有臨時評定。爲出羽前司行義奉行。細工所輩恩澤事有沙汰。野世五郎拝領相摸國横山五郎跡新田垣内等。是細工故日向房實圓本給地也。女子頻雖申子細。付藝能宛給訖。今又爲御用人分。勿論云々。

読下し                    りんじ ひょうじょうあ     でわのぜんじゆきよしぶぎょう  な     さいくじょ  やから おんたく  こと さた あ
仁治二年(1241)九月小七日壬辰。臨時の評定有り。出羽前司行義奉行と爲し、細工所の輩の恩澤の事沙汰有り。

のせのごろうはいりょう  さがみのくに  よこやまのごろうあと しんでんかきないら  これ さいく こひゅうがぼうじつえん ほんきゅう ちなり
野世五郎@拝領の相摸國の 横山五郎跡 新田垣内等、是細工 故日向房實圓A本給の地也。

じょし しきり  しさい  もう   いへど    げいのう  つ   あてたま をはんぬ いままた  ごよう  ひと  ぶんたる      もちろん  うんぬん
女子頻に子細を申すと雖も、藝能に付け宛給ひ訖。 今又、御用の人の分爲こと、勿論と云々。

参考@野世五郎は、能勢で頼光系源氏。
参考A細工故日向房實圓は、円派の仏師かもしれない。

現代語仁治二年(1241)九月小七日壬辰。臨時の政務会議がありました。出羽前司二階堂行義が担当して、工務所の人達に褒美をあげるよう指示がありました。能勢五郎が貰う領地の相模国で横山五郎が持っていた新田の集落は、これは仏師故日向房実円が以前与えられた領地です。その娘が文句をつけたけれども、これは技術への付随として支給されたものです。ですから今もまた、その仕事をしている人の分であることは明白なんだそうな。

仁治二年(1241)九月小九日甲午。鶴岡神事如例。將軍家御參宮。

読下し                   つるがおか しんじれい  ごと   しょうぐんけ ごさんぐう
仁治二年(1241)九月小九日甲午。鶴岡の神事例の如し。將軍家御參宮。

現代語仁治二年(1241)九月小九日甲午。鶴岡八幡宮の重陽の節句の神事は何時もの通りです。将軍頼経様もお参りです。

仁治二年(1241)九月小十日乙未。御禊大嘗會用途事。毎田地一段。可進濟錢二百文之由 宣下。於關東御分國并没官御領等者。直可進納之旨。自公家被仰下訖。其外地頭所々事。今日有議定。來十月以前。可被沙汰之由。被下御教書。

読下し                   ごけいだいじょうえ ようとう  こと  でんち いったんごと   ぜににひゃくもん  しんさいすべ  のよし せんげ
仁治二年(1241)九月小十日乙未。御禊大嘗會用途の事、田地一段毎に、錢二百文を進濟可き之由宣下す。

かんとうごぶんこくなら    もっかんごりょうら  をい  は   じき  しんのうすべ  のむね  こうけ よ   おお  くだされをはんぬ
關東御分國并びに没官御領等に於て者、直に進納可き之旨、公家自り仰せ下被訖。

 そ  ほか  ぢとう しょしょ  こと   きょう ぎじょう あ     きた  じうがつ いぜん     さた され  べ   のよし  みぎょうしょ  くだされ
其の外の地頭所々の事、今日議定有り。來る十月以前に、沙汰被る可き之由、御教書を下被る。

現代語仁治二年(1241)九月小十日乙未。みそぎや大嘗会の費用について、田圃一反について、銭200文を納税するよう天皇が命令しました。鎌倉幕府の管理している関東御分国それと、平家や承久の乱で取り上げた領地の分は、直ぐに納めるよう京都朝廷から命令してきました。その他の地頭が管理している土地については、今日政務会議があって十月までに処理するように命令書を出しました。

仁治二年(1241)九月小十一日丙申。洛中警衛事。及嚴密沙汰。可懸篝於辻々續松料物用途。毎年一所別千疋被付之。於彼用途弁償之地者。可停止關東公事并守護入部之由云々。

読下し                     らくちうけいえい  こと  げんみつ  さた   およ
仁治二年(1241)九月小十一日丙申。洛中警衛の事、嚴密の沙汰に及ぶ。

つじつじ  をい  かがり か     べ  ついまつりょうぶつ ようとう  まいねん いっしょべつ  せんびき これ  つけられ
辻々に於て篝を懸ける可き續松料物の用途、毎年 一所別に千疋@之を付被る。

 か  ようとう  べんしょうのち  をい  は   かんとう   くじ なら    しゅごにゅうぶ  ちょうじすべ  のよし  うんぬん
彼の用途の弁償之地に於て者、關東の公事并びに守護入部を停止可き之由と云々。

参考@千疋は、100疋をもって1貫としたのは「1疋=銭10文」になるが、徒然草には1疋30文とある。

2現代語仁治二年(1241)九月小十一日丙申。京都市中の警備ついて、厳しく命令を出しました。交差点などで灯りを燃やしているかがり火の費用は、毎年一ヵ所ごとに銭千匹を与えました。その料金にあてる領地については、幕府関係の労働奉仕や、守護の干渉を止めるようにとのことだそうな。

仁治二年(1241)九月小十三日戊戌。今夜。於御所被行柿本影供於廣御出居有其儀。卿僧正快雅讀講式伽陀。垂髪羅喉丸。如意丸。摩尼珠丸。妙珠丸云々。管絃兒童等并樂所輩候之。其後被披講和歌。前右馬權頭。陸奥掃部助。相摸三郎入道。佐渡前司。同大夫判官。三浦能登守。伊賀式部大夫入道。河内式部大夫等參候云々。

読下し                      こんや  ごしょ  をい  かきのもとえいぐ  おこなはれ  ひろ   おんでい   をい  そ   ぎ あ
仁治二年(1241)九月小十三日戊戌。今夜、御所に於て柿本影供@を行被る。廣の御出居Aに於て其の儀有り。

きょうのそうじょうかいが こうじき かだ  よ
 僧正快雅 講式B伽陀Cを讀む。

すいはつ  らごうまる  にょいまる   まにじゅまる   みょうじゅまる うんぬん  かんげん  じどう ら なら    がくしょ やからこれ  こう
垂髪は羅喉丸、如意丸、摩尼珠丸、妙珠丸と云々。管絃の兒童等并びに樂所の輩之に候ず。

そ   ご    わか  ひこう さる    さきのうまごんのかみ むつかもんのすけ さがみさぶろうにゅうどう  さどのぜんじ おなじきたいふほうがん
其の後、和歌を披講D被る。前右馬權頭、陸奥掃部助、相摸三郎入道、佐渡前司、同大夫判官、

みうらのとのかみ いがのしきぶのたいふにゅうどう  かわちのしきぶたいふら さんこう    うんぬん
三浦能登守、伊賀式部大夫入道、河内式部大夫等參候すと云々。

参考@柿本影供は、柿本人麻呂。
参考A
出居は、寝殿造りに設けられた居間と来客接待用の部屋とを兼ねたもの。客間。
参考B
講式は、声明の語りの部分。
参考C伽陀は、仏を賛美する歌。
参考D披講は、詩歌などの作品を読み上げる。

現代語仁治二年(1241)九月小十三日戊戌。今夜、御所で柿本人麻呂の絵を掲げての法要です。広庇の客間の出居でその儀式がありました。卿僧正快雅が声明の語りと仏を賛美する歌を読み上げました。踊る神を垂らした稚児は羅喉丸、如意丸、摩尼珠丸、妙珠丸です。音楽を奏でる稚児や楽隊の連中も参加しております。その後、和歌を読み上げました。前右馬権頭北条政村・陸奥掃部助北条実時・相模三郎入道資時・佐渡判官後藤基綱・同大夫判官後藤基政・三浦能登守光村・伊賀式部大夫入道光宗・河内式部大夫源親行が参加しましたとさ。

仁治二年(1241)九月小十四日己亥。北條左親衛爲狩獵。被行向藍澤。若狹前司。小山五郎左衛門尉。駿河式部大夫。同五郎左衛門尉。下河邊左衛門尉。海野左衛門太郎等扈從。又甲斐信濃兩國住人數輩。相具獵師等。奉待渡御云々。

読下し                     ほうじょうさしんえいしゅりょう ため  あいざわ  ゆきむかわれ
仁治二年(1241)九月小十四日己亥。北條左親衛狩獵の爲、藍澤@へ行向被る。

わかさのぜんじ  おやまのごるさえもんのじょう  するがしきぶたいふ  おなじきごろうさえもんのじょう しもこうべのさえもんのじょう うんののさえもんたろう ら  こしょう
若狹前司、小山五郎左衛門尉、駿河式部大夫、同五郎左衛門尉、下河邊左衛門尉、海野左衛門太郎等扈從す。

また   かい しなの  りょうごくじゅうにんすうやから りょうしら  あいぐ    とぎょう  ま  たてまつ  うんぬん
又、甲斐信濃の兩國住人數輩、獵師等を相具し、渡御を待ち奉ると云々。

参考@藍澤は、静岡県御殿場市新橋鮎沢に鮎澤神社あり。東名御殿場インターのそば。

現代語仁治二年(1241)九月小十四日己亥。北条左親衛は、狩をするため御殿場の鮎沢へ向かいました。若狭前司三浦泰村・小山五郎左衛門尉長村・駿河式部大夫三浦家村・同五郎左衛門尉三浦資村・下河辺左衛門尉行光・海野左衛門尉太郎等がお供をしました。又、甲斐・信濃の地侍達数人が、猟師を連れて彼の来るのをお待していましたとさ。

仁治二年(1241)九月小十五日庚子。月蝕正現。圓親法印。珎譽法印等勤仕御祈云々。

読下し                     げっしょくせいげん  えんしんほういん ちんよほういんら おいのり  ごんじ    うんぬん
仁治二年(1241)九月小十五日庚子。月蝕正現す。圓親法印、珎譽法印等御祈を勤仕すと云々。

現代語仁治二年(1241)九月小十五日庚子。月食ちゃんと見えました。円親法印・珍与法印がお祈りを勤めましたとさ。

仁治二年(1241)九月小廿二日丁未。左親衛自藍澤被歸。數日踏山野。熊猪鹿多獲之。其中熊一者。親衛以引目射取之。爲先代未聞珎事之由。諸人一同感申。又下河邊左衛門尉行光者。自幼少住于太田下河邊等田畔。定不馴如此狩塲歟之由。傍輩依侮思。動爲試其堪否。毎走獸之便宜追合之。行光必射取之。然者今度物員。獨在行光。但若狹前司及相論云々。行光爲故實射手之上。毎年交那須狩倉。太堪馳嶺谷也云々。

読下し                     さしんえい あいざわ   かえられ   すうじつさんや  ふ     くま いのしし しかおお  これ  え
仁治二年(1241)九月小廿二日丁未。左親衛藍澤自り歸被る。數日山野を踏み、熊 猪 鹿多く之を獲る。

 そ  なか  くま  いちは  しんえいひきめ  もっ  これ  い と     せんだいみもん  ちんじたる のよし  しょにんいちどう  かん  もう
其の中で熊の一者、親衛引目を以て之を射取る。先代未聞の珎事爲之由、諸人一同に感じ申す。

また  しもうこうべのさえもんのじょうゆきみつ は  ようしょうよ   おおた しもこうべら  でんはんに す     さだ   かく  ごと   かりば    なじ  ざるか のよし
又、 下河邊左衛門尉行光 者、 幼少自り太田下河邊等の田畔于住み、定めし此の如き狩塲には馴ま不歟之由、

ぼうはい く  おも    よっ    ややもすれば そ   たんぴ  ため    ため  そうじゅう のびんぎごと  これ  お   あは    ゆきみつ かなら これ  いと
傍輩侮い思うに依て、 動、 其の堪否を試さん爲、走獸之便宜毎に之を追い合せ、 行光 必ず之を射取る。

しからば  このたび ものかず    ひと  ゆきみつ  あ
然者、今度の物員は、獨り行光に在り。

ただ  わかさのぜんじそうろん  およ   うんぬん  ゆきみつ こじつ  いて たる のうえ  まいねん なす  かりくら  まじ     はなは りょうこく は   たう  なり  うんぬん
但し若狹前司相論に及ぶと云々。行光故實の射手爲之上、毎年那須の狩倉に交はる。太だ嶺谷を馳せ堪る也と云々。

現代語仁治二年(1241)九月小二十二日丁未。左親衛北条経時が、御殿場の鮎沢から帰りました。数日間、山野を駆け巡り、熊・猪・鹿など沢山獲物を得ました。その内で熊の一頭は、経時が鏃の無い頭の丸い矢で射とめました。前代未聞の珍事だと、一緒の皆さんが感心して云ってました。
又、下河辺左衛門尉行光は、子供の頃から太田や下河辺の田んぼの平野に住んでるから、さぞかしこのような野山の狩には慣れていないだろうと、同僚たちは連れて来るんじゃなかったと思っていたので、もしかしたらとその腕を試そうとして、獣が走り出る度にこれを行光の方へ追いやると、行光は必ず仕留めました。そういう訳だから、今度の獲物数の勝者は、ダントツに行光です。
但し、若狭前司泰村が文句を付けましたとさ。「行光の家は先祖代々の弓の名人であるうえに、毎年、那須野での巻狩りに参加しているよ。何時もとても上手に山や谷を走り回ってますよ。
(なのに知らなくて仲間どもがわざわざ獲物を行光の前へ追い出すんだもん。多くて当たり前だよ)。」だとさ。

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吾妻鏡入門第卅四巻

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