吾妻鏡入門第卅四巻

仁治二年辛丑(1241)十月小

仁治二年(1241)十月小九日癸亥。子尅。大流星亘天。其跡白雲氣也。暫不消。人怪之。

読下し                   ねのこく だいりゅうせいてん わた    そ   あとはくうん  けなり  しばら きえず  ひとこれ  あやし
仁治二年(1241)十月小九日癸亥。子尅。大流星天を亘る。其の跡白雲の氣也。暫く消不。人之を怪む。

現代語仁治二年(1241)十月小九日癸亥。夜中の0時頃、大流星が空を駆け抜けました。其の後に白い雲が残りました。しばらくして消えました。人々は不審に思いました。

仁治二年(1241)十月小十一日乙丑。雨降。於御所在和歌御會。前右典厩。隆弁僧都。親行。基綱。基政。光西等參上。

読下し                     あめふ     ごしょ  をい   わか   おんえ あ
仁治二年(1241)十月小十一日乙丑。雨降る。御所に於て和歌の御會在り。

さきのうてんきゅう りゅうべんそうづ ちかゆき  もとつな  もとまさ  こうさいら さんじょう
前右典厩、隆弁僧都、親行、基綱、基政、光西等參上す。

現代語仁治二年(1241)十月小十一日乙丑。雨降りです。御所で和歌の会がありました。前左典厩北条政村・隆弁僧都・源親行・後藤基綱・後藤基政・伊賀光西(光宗)等が参加しました。

仁治二年(1241)十月小十三日丁夘。亥尅地震。

読下し                     いのこく ぢしん
仁治二年(1241)十月小十三日丁夘。亥尅地震。

現代語仁治二年(1241)十月小十三日丁卯。午後十時頃地震です。

仁治二年(1241)十月小十九日癸酉。群盜張本新平太郎。同八郎。田井十郎等逐電晦跡訖。當時在大和國之由。風聞之間。可被召渡其身之旨。被仰興福寺別當僧正坊云々。

読下し                     ぐんとう  ちょうほんしんへいじろう おな    はちろう   たいじうろうら ちくてん  あと  くら  をはんぬ
仁治二年(1241)十月小十九日癸酉。群盜の張本新平太郎、同じき八郎、田井十郎等逐電し跡を晦まし訖。

とうじ やまとのくに  あ   のよし  ふうぶんのあいだ そ   み   めしわたされ べ   のむね  こうふくじべっとうそうじょうぼう  おお  られ    うんぬん
當時大和國に在る之由、風聞之間、其の身を召渡被る可き之旨、興福寺別當僧正坊に仰せ被ると云々。

現代語仁治二年(1241)十月小十九日癸酉。盗人の群れの親玉たちの新平太郎・同八郎・田井十郎などが逃亡して行方知れずになりました。今では、大和国にいるらしいと噂があるので、そいつらを逮捕するように、興福寺筆頭僧正へ通知をしましたとさ。

仁治二年(1241)十月小廿二日丙子。以武藏野。可被開水田之由。議定訖。就之。可被懸上多磨河水之間。可爲犯土之儀歟。將又可爲將軍家御沙汰歟。可爲私計歟。賢慮猶難被一决。仍今日。前武州召陰陽師泰貞。リ賢等朝臣。被示合。各一同申云。堰溝耕作田畠事者。雖不及土用方角沙汰。於此事者。已爲始御沙汰歟。可謂大犯土者歟。雖非將軍家御沙汰。私御方違可宜歟。若可爲國司沙汰乎云々。前武州又被仰曰。雖似私沙汰。耕作之後者。爲御所御計。可賜人々。然者可爲御所御沙汰。北方當時王相歟。自明年又可爲大將軍方。可見定御方違御本所云々。爲武藤左衛門尉頼親奉行。相具泰貞。リ賢。行向武藏國海月郡。自彼所猶爲北方〔亥方云々〕。即兩人歸參于前武州御亭。申此由。以秋田城介所領同國鶴見郷。可爲御本所之旨。泰貞等令一同之間。可有入御之由云々。攝津前司師員。毛利藏人大夫入道西阿。民部大夫入道行然。佐渡前司基綱。出羽前司行義。秋田城介義景。太宰少貳爲佐。加賀民部大夫康持等。群議治定之後。相副行義。々景於泰貞。リ賢。被申御所。召入御前。被聞食其子細。仰曰。冬至以後。鶴見相當艮方。可爲王相方。始御方違于塞方事者有其憚。冬至以前。先可有渡御。可被用何日哉云々。泰貞等申云。來月四日可宜。其後可有立春御方違也云々。」今夜半更。龜谷邊俄騒動。無程靜謐。是群盜襲武藏大路民居之間。隱岐次郎左衛門尉泰C。加地八郎左衛門尉信朝。并近隣之輩馳向令虜之故也。

読下し                     むさしの   もっ    すいでん  ひらかれ  べ   のよし  ぎじょう をはんぬ
仁治二年(1241)十月小廿二日丙子。武藏野を以て、水田を開被る可き之由、議定し訖。

これ  つ     たまがわ  みず  け あげられ  べ  のあいだ  ぼんど の ぎ たるべ  か
之に就き、多磨河の水を懸上被る可き之間、犯土之儀爲可き歟。

はたまた  しょうぐんけ  ごさた たるべ   か  わたくし はか  たるべ   か   けんりょ なおいっけつされがた
將又、將軍家の御沙汰爲可き歟。私の計り爲可き歟。賢慮 猶一决被難し。

よっ  きょう  さきのぶしゅう おんみょうじ やすさだ はるかたら  あそん  め     しめ  あ   され  おのおの いちどう もう    い
仍て今日、前武州 陰陽師 泰貞、リ賢等の朝臣を召し、示し合は被る。各 一同に申して云はく。

せき みぞ こうさくでんぱく  ことは   どよう  ほうがく   さた   およばざる いへど   かく  こと  をい  は  すで   ごさた    はじ  たるか
堰 溝 耕作田畠の事者、土用や方角の沙汰に及不と雖も、此の事に於て者、已に御沙汰を始め爲歟。

だいぼんど  い     べ   ものか   しょうぐんけ   ごさた   あらず いへど  わたくし おんかたが  よろ      べ   か
大犯土と謂ひつ可き者歟。將軍家の御沙汰に非と雖も、私の御方違へ宜しかる可き歟。

も   こくし    さた たるべ   と  うんぬん  さきのぶしゅう またおお    い
若し國司の沙汰爲可き乎と云々。前武州 又仰せて曰はく。

わたくし さた   に      いへど   こうさく の のちは   ごしょ  おんはかり な    ひとびと  たま    べ     しからば  ごしょ   おんさた たるべ
私の沙汰に似たりと雖も、耕作之後者、御所の御計と爲し、人々に賜はる可し。然者、御所の御沙汰爲可き。

ほっぽう  とうじ おうそう か  みょうねんよ  また  だいしょうぐん  かたたるべ   おんかたたが   ごほんじょ  み さだ    べ     うんぬん
北方は當時王相@歟。明年自り又、大將軍Aの方爲可き。御方違への御本所を見定める可きと云々。

むとうさえもんのじょうよりちかぶぎょう  な    やすさだ  はるかた  あいぐ  むさしのくにくらぎぬぐん ゆきむか   か  ところよ  なおほっぽうたり 〔いのかた うんぬん〕
武藤左衛門尉頼親奉行と爲し、泰貞、リ賢を相具し武藏國海月郡Bへ行向ひ、彼の所自り猶北方爲〔亥方と云々〕

すなは りょうにん さきのぶしゅう おんていにきさん    かく  よし  もう
即ち 兩人、前武州の御亭于歸參し、此の由を申す。

あいだのじょうすけ しょりょうどうこくつるみごう  もっ    ごほんじょ  な   べ   のむね やすさだらいちどうせし  のあいだ  にゅうごあ   べ   のよし  うんぬん
秋田城介が所領同國鶴見郷Cを以て、御本所と爲す可き之旨、泰貞等一同令む之間、入御有る可き之由と云々。

せっつのぜんじもろかず もうりくらんどたいふにゅうどうせいあ  みんぶのたいふにゅうどうぎょうねん さどのぜんじもとつな  でわのぜんじゆきよし  あいだのじょうすけよしかげ
攝津前司師員、毛利藏人大夫入道西阿、 民部大夫入道行然、 佐渡前司基綱、出羽前司行義、秋田城介義景、

だざいのしょうにためすけ かかのみんぶたいふやすもちら ぐんぎ   ちじょうののち  ゆきよし  よしかげをやすさだ はるかた  あいそ     ごしょ  もうされ
太宰少貳爲佐、加賀民部大夫康持等群議し、治定之後、行義、々景於泰貞、リ賢に相副へ、御所に申被る。

ごぜん  めしい     そ   しさい  き     めされ   おお    い
御前に召入り、其の子細を聞こし食被、仰せて曰はく。

とうじ いご     つるみ うしとらがた あいあた    おうそうかたたるべ    さいほうにおんかたたが   はじ    ことは   そ  はばか あ
冬至以後に、鶴見は艮方に相當り、王相方爲可し。塞方于御方違へを始める事者、其の憚り有り。

とうじ いぜん    ま   とぎょ あ   べ     なんにち  もち  られ  べ   や  うんぬん
冬至以前に、先ず渡御有る可し。何日を用い被る可き哉と云々。

やすさだら もう    い      らいげつ よっか よろ      べ     そ   ご りっしゅん おんかたたが あ   べ   なり  うんぬん  
泰貞等申して云はく。來月四日宜しかる可し。其の後立春の御方違へ有る可き也と云々。」

こんや はんそう   かめがやつへん にはか そうどう   ほどな  せいひつ
今夜半更に、 龜谷邊 俄に騒動し、程無く靜謐す。

これ  ぐんとう むさしおおじ  みんきょ  おそ  のあいだ  おきのじろうさえもんのじょうやすきよ  かじのはちろうさえもんのじょうのぶとも なら   きんりんおやから
是、群盜武藏大路の民居を襲う之間、隱岐次郎左衛門尉泰C、 加地八郎左衛門尉信朝 并びに近隣之輩

  は   むか  とら  せし のゆえなり
馳せ向い虜へ令む之故也。

参考@王相は、王神と相神で月ごとに方角が禁忌とされる。
参考A
大将軍は、素戔嗚尊らしい。陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一。金星で3年ごとに居を変え、その方角は万事凶とされ、特に土を動かす事が良くないとされる。
参考B海月郡は、久良岐郡で現在の神奈川県横浜市南区港南区磯子区金沢区。
参考C鶴見郷は、同横浜市鶴見区鶴見。

現代語仁治二年(1241)十月小二十二日丙子。武蔵野を開発して水田を開くように会議で決まりました。この方法については、多摩川の水を堰で上げて引いてくるのだが、土神様への祈りが必要な事業でしょうか。或いは、将軍の公務事業とすべきか、個人の事業とすべきか、意見が一致しません。
そこで今日、泰時さんは陰陽師の安陪泰貞さん・晴賢さん達を呼んで聞きました。皆意見が一致して云うのには、「堰・溝・田畑の耕作については、土用や方角を気にする必要はありませんが、この件についてはすでに検討を始めてしまってますね。土神様への祈りが必要な事業と言えるでしょうね。将軍としての事業ではなくても、個人的な方角替えをした方がいいですね。あるいは国司の事業としますかね。」だとさ。
泰時さんが云うには、「私的な事業とも思えるけど、造成の後は将軍の配慮として、人々に田畑を与える事になります。ですから幕府の事業とすべきです。北は現在王神と相神で避ける方角でしょうから、来年から又大将軍の土をいじくれない方角でしょう。方角替えの出発地を見定めておきなさい。」だとさ。
武藤左衛門尉頼親が指揮担当として、泰貞・晴賢を引き連れて武蔵国久良岐郡(横浜市東南)へ出かけて行き、その場所からなおも北側〔北北東だそうな〕。すぐに二人は、泰時さんの屋敷へ帰って来て、その事を報告しました。
秋田城介安達義景の領地の武蔵国鶴見郷を方角替えの出発点にするように、泰貞達陰陽師は意見が一致しているので、そこへ行くようにしましたとさ。
摂津前司中原師員・毛利蔵人大夫入道西阿(季光)・民部大夫入道行然(二階堂行盛)・佐渡前司後藤基綱・出羽前司二階堂行義・秋田城介安達義景・太宰少貳狩野為佐・加賀民部大夫町野康持等が会議をし、決定後二階堂行義・安達義景を泰貞・晴賢に付き添わせて、将軍に申しあげました。
御前に呼んで、その状況をお聞きになり、仰せになるのには、「冬至以後には、鶴見は北東の鬼門に当たって、なお王相方である。塞がりの方へ方角替えをするのは、やばいんじゃないの。冬至前に入ちゃっておこう。何日がよいのかなあー。」だとさ。泰貞が云うには、「来月四日が良いですよ。その後、立春の方角替えがあるはずです。」とのことでした。

今夜、真夜中に亀が谷辺で急に騒ぎがあって、間もなく静まりました。これは、強盗が武蔵大路の民家を襲ったので、隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清・加治八郎左衛門尉佐々木信朝それにご近所の皆さんが走って来て捕まえたからなのです。

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