吾妻鏡入門第卅四巻

仁治二年辛丑(1241)十一月大

仁治二年(1241)十一月大三日丙戌。畿内西海悪徒蜂起之間可禁遏事。諸國可停止博奕事。及評議云々。

読下し                     きない  さいかい  あくと  ほうきのあいだ きんあつずべ こと  しょこく ばくえき ちょうじすべ  こと  ひょうぎ  およ    うんぬん
仁治二年(1241)十一月大三日丙戌。畿内、西海の悪徒蜂起之間、禁遏可き事、諸國 博奕を停止可き事、評議に及ぶと云々。

現代語仁治二年(1241)十一月大三日丙戌。関西の悪人どもが武力蜂起しているので鎮圧すること、諸国の賭博を止めさせることについて、政務会議で検討しましたとさ。

仁治二年(1241)十一月大四日丁亥。天リ。今朝。將軍家爲武藏野開發御方違。渡御于秋田城介義景武藏國鶴見別庄。御布衣。御輿。御力者三手供奉人。着水干。宿老帶野矢。若輩爲征矢。面々刷行粧。頗以壯觀也。前武州參給。申尅着御。即有笠懸。可决勝負。就其雌雄。於鎌倉可定所課之由。被仰下之間。各思箭員云々。
射手
 北條大夫將監   武藏守      相摸式部大夫
 北條五郎兵衛尉  遠江式部大夫   陸奥掃部助
 若狹前司     佐々木壹岐前司  佐渡大夫判官
 上総式部大夫   伊賀次郎左衛門尉 佐原五郎左衛門尉
 上野十郎     下河邊左衛門次郎 加地八郎左衛門尉
 城次郎      小笠原六郎    佐原六郎兵衛尉
 小山五郎左衛門尉 駿河式部大夫
念人
 御 所      前武州      宮内少輔
 遠江前司     右馬權頭     毛利藏人大夫入道
 甲斐前司     駿河守      秋田城介
 能登守      佐渡前司     前大藏少輔
 下野前司     大藏權少輔    出羽前司
 大和前司     大宰少貳     加賀民部大夫
 信濃民部大夫   伊賀前司     近江四郎左衛門尉
 但馬守
此人數外今日供奉人
 隱岐大夫判官行久 隱岐前大藏少輔  笠間判官
 大須賀左衛門尉  隱岐次郎左衛門尉 大多和新左衛門尉
 大隅左衛門尉   三村右衛門尉   狩野五郎左衛門尉
 加地七郎左衛門尉 加藤左衛門尉   宇佐美左衛門尉
 弥次郎左衛門尉  弥善太左衛門尉  信濃四郎左衛門尉
 武藤左衛門尉   長尾三郎兵衛尉  土肥次郎
 田中太郎     和泉七郎左衛門尉 宇都宮五郎左衛門尉
 前隼人正     毛利藏人     但馬左衛門大夫

読下し                    そらはれ   けさ   しょうぐんけむさしのかいはつ  おんかたたが   ため 
仁治二年(1241)十一月大四日丁亥。天リ。今朝、將軍家武藏野開發の御方違への爲、

あいだのじょうすけよしかげ むさしのくに つるみ  べっしょうにわた  たま    おんほい    みこし   ごじからは さんて ぐぶにん  すいかん  き
秋田城介義景が 武藏國 鶴見の別庄@于渡り御う。御布衣A。御輿。御力者三手供奉人水干Bを着る。

すくろう   のや   お     じゃくはい  そや   な     めんめん ぎょうしょう さっ   すこぶ もっ  そうかんなり  さきのぶしゅう まい  たま
宿老は野矢を帶び、若輩は征矢と爲す。面々 行粧を刷し、頗る以て壯觀也。前武州 參り給ふ。

さるのこく  ちゃくご  すなは かさがけあ     しょうぶ  けっ  べ     そ   しゆう  つ
申尅に着御。即ち笠懸有りて、勝負を决す可く、其の雌雄に就く。

かまくら  をい  しょか  さだ     べ    のよし  おお  くだされ のあいだ おのおの やかず  おも    うんぬん
鎌倉に於て所課を定める可き之由、仰せ下被る之間、 各 箭員を思うと云々。

 いて
射手

  ほうじょうたいふしょうげん     むさしのかみ           さがみしきぶのたいふ
 北條大夫將監   武藏守      相摸式部大夫

  ほうじょうごろうひょうえのじょう   とおとうみしきぶのおたいふ  むつかもんのすけ
 北條五郎兵衛尉  遠江式部大夫   陸奥掃部助

  わかさのぜんじ          ささきのいきぜんじ        さどのほうがんたいふ
 若狹前司     佐々木壹岐前司  佐渡大夫判官

  かずさしきぶのたいふ      いがのじろうさえもんのじょう   さわらのごろうさえもんのじょう
 上総式部大夫   伊賀次郎左衛門尉 佐原五郎左衛門尉

  こうづけのじうろう          しもこうべのさえもんじろう    かぢのはちろうさえもんのじょう
 上野十郎     下河邊左衛門次郎 加地八郎左衛門尉

  じょうのじろう            おがさわらのろくろう       さわらのろくろうひょうえのじょう
 城次郎      小笠原六郎    佐原六郎兵衛尉

  おやまのごろうさえもんのじょう  するがしきぶのたいふ
 小山五郎左衛門尉 駿河式部大夫

ねんじん
念人

   ごしょ              さきのぶしゅう            くないしょうゆう
 御 所      前武州      宮内少輔

  とおとうみのぜんじ       うまごんのかみ            もうりくらんどたいふにゅうどう
 遠江前司     右馬權頭     毛利藏人大夫入道

  かいのぜんじ          するがのかみ            あいだのじょうすけ
 甲斐前司     駿河守      秋田城介

  のとのかみ            さどのぜんじ            さきのおおくらしょうゆう
 能登守      佐渡前司     前大藏少輔

  しもつけぜんじ          おおくらごんのしょうゆう     でわのぜんじ
 下野前司     大藏權少輔    出羽前司

  やまとのぜんじ          だざいのしょうに          かがのみんぶたいふ
 大和前司     大宰少貳     加賀民部大夫

  しなののみんぶたいふ      いがのぜんじ           おうみのしろうさえもんのじょう
 信濃民部大夫   伊賀前司     近江四郎左衛門尉

  たじまのかみ
 但馬守

かく  にんずう  ほか  きょう   ぐぶにん
此の人數の外の今日の供奉人

  おきのたいふほうがんゆきひさ おきのさえきのおおくらしょうゆう  かさまのほうがん
 隱岐大夫判官行久 隱岐前大藏少輔  笠間判官

  おおすがのさえもんのじょう   おきのじろうさえもんのじょう   おおたわのしんさえもんのじょう
 大須賀左衛門尉  隱岐次郎左衛門尉 大多和新左衛門尉

  おおすみさえもんのじょう     みむらうえもんのじょう       かのうのごろうさえもんのじょう
 大隅左衛門尉   三村右衛門尉   狩野五郎左衛門尉

  かぢのしちろうさえもんのじょう  かとうさえもんのじょう        うさみのさえもんのじょう
 加地七郎左衛門尉 加藤左衛門尉   宇佐美左衛門尉

  いやじろうさえもんのじょう    いやぜんたさえもんのじょう    しなののしろうさえもんのじょう
 弥次郎左衛門尉  弥善太左衛門尉  信濃四郎左衛門尉

  むとうさえもんのじょう       ながおのさぶろうひょうえのじょう といのじろう
 武藤左衛門尉   長尾三郎兵衛尉  土肥次郎

  たかなのたろう          いずのしちろうさえもんのじょう  うつのみやのごろうさえもんのじょう
 田中太郎     和泉七郎左衛門尉 宇都宮五郎左衛門尉

  さきのはやとのしょう        もうりくらんど            たじまのさえもんたいふ
 前隼人正     毛利藏人     但馬左衛門大夫

参考@秋田城介義景が武藏國鶴見の別庄は、江戸名所図会巻之二に「その地、いましるべからず。」と吾妻鏡を引用している。
参考A布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装であった。
参考B
水干は、狩衣の変化したもので、水張りにして干した絹の服、下に袴を穿く。

現代語仁治二年(1241)十一月大四日丁亥。空は晴です。今朝、将軍頼経様は武蔵野開発の土神様に対する方角替えのため、秋田城介安達義景の武蔵国鶴見の別荘へ行かれました。束帯に次ぐ礼装の狩衣。輿。かつぐのは三人のお供で水干を着てます。長老たちは、狩用の矢を担ぎ、若者は戦争用の矢にしました。それぞれ行列用に着飾っているので、とても規模が大きく素晴らしい眺めです。泰時さんも来ました。
午後4時頃に到着しました。すぐに笠懸があって腕前の勝負を決めようと、その勝敗を懸けました。鎌倉へ戻ってから賞品を決めようと仰せになったので、それぞれ自分の当り矢を数えていましたとさ。
射手
 北条大夫将監経時    武蔵守北条朝直      相模式部大夫北条時直
 北条五郎兵衛尉時頼   遠江式部大夫北条時章   陸奥掃部助北条実時
 若狭前司三浦泰村    佐々木壱岐前司泰綱    佐渡大夫判官後藤基政
 上総式部大夫境時秀   伊賀次郎左衛門尉光房   佐原五郎左衛門尉盛時
 上野十郎結城朝村    下河辺左衛門次郎宗光   加治八郎左衛門尉佐々木信朝
 城次郎頼景       小笠原六郎時長      佐原六郎兵衛尉時連
 小山五郎左衛門尉長村  駿河式部大夫三浦家村
立会人
 御所将軍頼経様     前武州泰時        宮内少輔足利泰氏
 遠江前司北条朝時    右馬権頭北条政村     毛利蔵人大夫入道西阿季光
 甲斐前司長井泰秀    駿河守北条有時      秋田城介安達義景
 能登守三浦光村     佐渡前司後藤基綱     前大蔵少輔遠山景朝
 下野前司宇都宮泰綱   大蔵権少輔結城朝広    出羽前司二階堂民部大夫行光行義
 大和前司伊東祐時    太宰前司狩野為佐     加賀民部大夫町野康持
 信濃民部大夫二階堂行盛 伊賀前司小田時家     近江四郎左衛門尉佐々木氏信
 但馬守藤原定員
この人数の他の今日のお供の人
 隠岐大夫判官二階堂行久 隠岐前大蔵少輔二階堂行方 笠間判官時朝
 大須賀左衛門尉     隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清 大多和新左衛門尉
 大隅左衛門尉      三村右衛門尉       狩野五郎左衛門尉為広
 加治七郎左衛門尉氏綱  加藤左衛門尉行景     宇佐美左衛門尉祐政
 弥次郎左衛門尉親盛   弥善太左衛門尉三善康義  信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
 武藤左衛門尉頼親    長尾三郎兵衛尉光景    土肥次郎
 田中太郎        和泉七郎左衛門尉天野景経 宇都宮五郎左衛門尉宗朝
 前隼人正伊賀光重    毛利蔵人泰光       但馬左衛門大夫藤原定範

仁治二年(1241)十一月大五日戊子。自鶴見還御。以此次。令歴覽海邊御。又有犬追物〔三十疋云々〕。

読下し                     つるみ よ   かんご  かく  ついで  もっ    かいへん  れきらんせし  たま
仁治二年(1241)十一月大五日戊子。鶴見自り還御。此の次を以て、海邊を歴覽令め御う。

また  いぬおうものあ    〔さんじっぴき  うんぬん〕
又、犬追物@有り。〔三十疋と云々〕

参考@犬追物は、犬を円形の柵の中に放ち、それを柵の外から馬上弓で矢じりの無い匹目矢で当てる。

現代語仁治二年(1241)十一月大五日戊子。鶴見からお帰りです。そのついでに、海のあたりを観光しました。又、犬追物がありました〔三十匹だそうな〕。

仁治二年(1241)十一月大十七日庚子。天霽。御家人等未及老耄無病而不蒙御免令出家。猶知行所領。又乍浴關東之御恩。居住京都事。自今以後。可被停止之由。有評定云々。又若君御魚味以下事。及其沙汰云々。」今日。箕匂太郎師政募去承久三年勳功賞。拝領武藏國多磨野荒野。是父左近大夫政高加故匠作〔時房〕陣。於勢多橋抽軍忠訖。仍連々雖申其賞。依無其地延引。而今。彼所可被開水田之間。兼所有御計也云々。

読下し                      そらはれ  ごけにんら いま  ろうもう  およば  やまいな     て ごめん  もうむ ず しゅっけせし    なおしょりょう  ちぎょう
仁治二年(1241)十一月大十七日庚子。天霽。御家人等未だ老耄に及ずに病無くし而御免を蒙ら不出家令め、猶所領を知行す。

また  かんとうの ごおん  よく  なが    きょうと  きょじゅう こと  いまよ    いご   ちょうじされ  べ   のよし ひょうじょうあ    うんぬん
又、關東之御恩に浴し乍ら、京都に居住の事、今自り以後、停止被る可き之由、評定有りと云々。

また  わかぎみ おんぎょみ  いげ   こと  そ    さた   およ    うんぬん
又、若君の御魚味@以下の事、其の沙汰に及ぶと云々。」

きょう   みのわのたろうもろまさ さんぬ じょうきゅうさんねん くんこうしょう  つの    むさしのくに たまの こうや  はいりょう
今日、箕匂太郎師政 去る承久三年の勳功賞に募り、武藏國多磨野荒野を拝領す。

これ  ちちさこんたいふまさたか  こしょうさく  〔ときふさ〕   じん  くわ       せたばし  をい  ぐんちう  ぬき   をはんぬ
是、父左近大夫政高、故匠作〔時房〕の陣に加はり、勢多橋に於て軍忠を抽んじ訖。

よっ  れんれんそ  しょう  もう   いへど    そ   ち な     よっ  えんいん
仍て連々其の賞を申すと雖も、其の地無きに依て延引す。

しか    いま   か  ところ  すいでん ひらかれ  べ   のあいだ  かね  おんはか  あ  ところなり  うんぬん
而るに今、彼の所、水田を開被る可き之間、兼て御計り有る所也と云々。

参考@魚味は、子供に生後初めて魚肉を食べさせる儀式。古くは3歳。

現代語仁治二年(1241)十一月大十七日庚子。空は晴れました。御家人が未だ老人にもなっていないし、病気でもないのに許可を受けないで出家してしまい、なおも領地を管理している。又、鎌倉幕府から領地を与えられているのに京都に住んでいる事について、今から以後は禁止しようと政務会議で検討しました。又、若君の初めて魚を食べる儀式などについて、その実施を決めましたとさ。」
今日、箕輪太郎師政は、去る承久3年の合戦の手柄として、武蔵国多摩野荒野を貰いました。これは、父の左近大夫政高が、故匠作時房さんの陣に加わって勢多橋で手柄を立てたのです。それで何度もその褒美をせがんできましたが、丁度良い空地が無いので引き延ばされてきました。しかし今、その場所で水田を開発するので、それを充てるように考えた場所です。

仁治二年(1241)十一月大廿一日甲辰。天リ風靜。今日。將軍家若君御前御着袴魚味也。未尅。於二棟御所南面簾中有其儀。先魚味。次御着袴。任承久佳例。前武州令奉結御腰給。陪膳北條大夫將監。役送筑前權守重輔。同手長弥次郎左衛門尉親盛。但馬左衛門大夫定範等也。其後着始綿衣給云々。

読下し                      そらはれ かぜしずか きょう  しょうぐんけわかぎみごぜん おんちゃっこ ぎょみなり
仁治二年(1241)十一月大廿一日甲辰。天リ 風靜。今日、將軍家若君御前、御着袴 魚味也。

ひつじのこく にとうごしょ  なんめんみす なか  をい  そ   ぎ あ
未尅、二棟御所の南面簾の中に於て其の儀有り。

 ま   ぎょみ  つぎ  おんちゃっこ じょうきゅう かれい  まか   さきのぶしゅう おんこし むす たてまつ せし  たま
先ず魚味。次に御着袴。承久の佳例@に任せ、前武州 御腰を結び奉ら令め給ふ。

ばいぜん ほうじょうたいふしょうげん えきそう ちくぜんごんのかみしげすけ  おな    てなが  いやじろうさえもんのじょうちかもり  たじまのさえもんたいふさだのりら なり
陪膳Aは北條大夫將監。 役送Bは筑前權守重輔。 同じく手長Cは弥次郎左衛門尉親盛、但馬左衛門大夫定範等也。

 そ   ご はじ    めんい  き たま    うんぬん
其の後始めて綿衣を着給ふと云々。

参考@承久の佳例は、24巻承久2年(1220)12月1日頼経の着袴式で義時が頼経の腰ひもを結んだ。
参考A陪膳は、朝飯の給仕。
参考
B役送は、運搬係。
参考
C手長は、運び人

現代語仁治二年(1241)十一月大二十一日甲辰。空は晴です。今日、将軍頼経様の若君が初めて袴を履く式(七五三)と初めて魚を食べる儀式です。午後二時頃、二棟御所の南側の御簾の中でその儀式を行いました。先ず魚を味わい。次に袴を着けました。承久の父(頼経と義時)の時を真似て、泰時さんが腰ひもを結びました。お給仕は北条大夫将監経時。運搬係は筑前権守水谷重輔。同様に運び人は弥次郎左衛門尉親盛と但馬左衛門大夫藤原定範です。その後、初めて綿入れを着ましたとさ。

仁治二年(1241)十一月大廿五日戊申。今夕。前武州御亭有御酒宴。北條親衛。陸奥掃部助。若狹前司。佐渡前司等着座。信濃民部大夫入道。太田民部大夫等。文士數輩同參候。此間及御雜談。多是理世事也。亭主被諌親衛曰。好文爲事。可扶武家政道。且可被相談陸奥掃部助。凡兩人相互可被成水魚之思之由云々。仍各差鍾。今夜御會合。以此事爲詮云々。

読下し                      こんゆう  さきのぶしゅう おんてい  ごしゅえんあ
仁治二年(1241)十一月大廿五日戊申。今夕、前武州の御亭に御酒宴有り。

ほうじょうしんえい むつかもんのすけ  わかさのぜんじ  さどのぜんじた ちゃくざ  しなののみんぶたいふにゅうどう  おおたのみんぶたいふら   ぶんしすうやからおな    さんこう
北條親衛、陸奥掃部助、若狹前司、佐渡前司等着座、信濃民部大夫入道、太田民部大夫等の文士數輩同じく參候す。

 こ あいだ ござつだん およ    おお これ りせ   ことなり  てい あるじしんえい  いさ  られ  い       ふみ  この  たること   ぶけ   せいどう  たす    べ
此の間御雜談に及ぶ。多く是理世の事也。亭の主親衛に諌め被て曰はく。文を好み爲事、武家の政道を扶ける可し。

かつう むつかもんおすけ  あいだん  られ  べ     およ りょうにんあいたが    すいぎょのおもい  な さ   べ   のよし  うんぬん 
且は陸奥掃部助に相談じ被る可き。凡そ兩人相互いに水魚之思を成被る可き之由と云々。

よっ おのおの さかづき さ     こんや  おんかいごう     こ  こと  もって  せん  な     うんぬん
仍て 各 鍾 を差す。今夜の御會合は、此の事を以て詮と爲すと云々。

現代語仁治二年(1241)十一月大二十五日戊申。今日の夕方に、泰時さんの屋敷で宴会がありました。北条親衛経時・陸奥掃部助北条実時・若狭前司三浦泰村・佐渡前司後藤基綱が座っています。信濃民部大夫入道二階堂行盛・太田民部大夫康連の文官の連中も同様に参加しました。その宴会の間に雑談をしていました。話の多くは政治の話でした。主催者の泰時さんが孫の経時に忠告して云うのには、「学問を好む事は、武家の政治を助ける事になるでしょう。だから陸奥掃部助北条実時に相談し聞くようにしなさい。なんでも二人はお互いに水魚の交わりをするよう努めるように。」との事でした。それでお互いに盃をかわし合いました。今夜の会合では、この事が一番の効果でしたとさ。

仁治二年(1241)十一月大廿七日庚戌。當將軍家御時關東射手似繪可被圖之由。有其沙汰。今日以評定之次。先注其人數。如陸奥掃部助。若狹前司。秋田城介。爲意見者被用捨之。自京都就被仰下。爲被進覽也。而前武州祗候人。依爲達者被召出之輩。可被加否。及再往沙汰。是前武州不可然之旨有御色代之故也。雖致彼家礼。爲本御家人也。又勤公役之上。爲堪能之族。依何憚可被除哉之由。遂治定。横溝六郎。山内左衛門次郎等。尤可爲其人數云々。但横溝事。前武州頻辞申給。片目有疵故歟。

読下し                      とうしゅうぐんけ  おんとき  かんとう   いて にせえ  ずさる  べ    のよし   そ   さた あ
仁治二年(1241)十一月大廿七日庚戌。當將軍家の御時、關東の射手似繪に圖被る可き之由、其の沙汰有り。

きょう ひょうじょうんのついで もっ    ま   そ   にんずう  ちう    むつかもんおすけ わかさのぜんじ  あいだのじょうすけ ごと    いけんじゃ  な   これ  ようしゃされ
今日 評定 之次を以て、先ず其の人數を注す。陸奥掃部助、若狹前司、秋田城介の如き、意見者と爲し之を用捨被る。

きょうとよ   おお  くだされ    つ     しんらんされ  ためなり
京都自り仰せ下被るに就き、進覽被ん爲也。

しか   さきのぶしゅう  しこうにん  たっしゃたる  よっ  めしいだされ のやから   かひ され  べ    さいおう   さた   およ
而して前武州が祗候人、達者爲に依て召出被る之輩、加否被る可く、再往の沙汰に及ぶ。

これ さきのぶしゅう しか べからざるのむね おんしきだいあ   のゆえなり  か   かれい  いた   いへど   もと   ごけにん   な   なり
是、前武州 然る 不可之旨 御色代有る之故也。彼の家礼を致すと雖も、本は御家人を爲す也。

また  くえき  つと    のうえ  たんのうのやからたり  なん はばか   よっ  のぞかれ  べ   や のよし  ちじょう  と
又、公役を勤むる之上、堪能之族爲。何の憚りに依て除被る可き哉之由、治定を遂ぐ。

よこみぞろくろう  やまのうちさえもんじろう ら   もっと  そ  にんずうたるべ    うんぬん
横溝六郎、山内左衛門次郎等、尤も其の人數爲可きと云々。

ただ  よこみぞ  こと   さきのぶしゅう しき    じ   もう  たま    かため  きずあ   ゆえか
但し横溝が事は、前武州 頻りに辞し申し給ふ。片目に疵有る故歟@

参考@片目に疵有る故歟は、五体満足でない者は神仏に対し縁起が良くないとされる。この時代、身障者への差別がある。

現代語仁治二年(1241)十一月大二十七日庚戌。現在の将軍の時代の、鎌倉での射手を似顔絵えに書き残したいとの命令がありました。今日の政務会議のついでに、まずその人数を書き出しました。陸奥掃部助北条実時・若狭前司三浦泰村・秋田城介安達義景が、審査員としてこれを取捨選択しました。京都からめじてきたから見せるためです。
しかしながら、泰時さんの部下(得宗被官)で腕が良くて書き出された連中を入れるかどうか(御家人に限るべきか)、再検討になりました。それは、泰時さんが居れるべきでないと、遠慮しているからです。彼らは泰時さんの家に勤めているけど、元は御家人だったのです。又、公の仕事もやっているし、腕利きの人達です。なんの遠慮があってはずさなければいけないのだと決定しました。横溝六郎義行・山内左衛門次郎が、該当する人達です。だそうな。
ただし、横溝六郎義行については、泰時さんがさかんに遠慮していました。もしかして片目に傷があるからかもしれません。

仁治二年(1241)十一月大廿九日壬子。未尅。若宮大路下々馬橋邊騒動。是三浦一族与小山之輩有喧嘩。兩方縁者馳集成群之故也。前武州太令驚給。即遣佐渡前司基綱。平左衛門尉盛綱等。令宥給之間。靜謐云々。事起。爲若狹前司泰村。能登守光村。四郎式部大夫家村以下兄弟親類。於下々馬橋西頬好色家。有酒宴乱舞會。結城大藏權少輔朝廣。小山五郎左衛門尉長村。長沼左衛門尉時宗以下一門。於同東頬又催此興遊。于時上野十郎朝村〔朝廣舎弟〕起彼座。爲遠笠懸向由比浦之處。先於門前射追出犬。其箭誤而入于三浦會所簾中。朝村令雜色男乞此箭。家村不可出与之由骨張。依之及過言云々。件兩家有其好。日來互無異心。今日確執。天魔入其性歟云々。

読下し                     ひつじのこく わかみやおおじしも げばばし へんそうどう    これ  みうらいちぞく と おやまのやからけんかあ
仁治二年(1241)十一月大廿九日壬子。未尅、若宮大路下の々馬橋の邊騒動す。是、三浦一族与小山之輩 喧嘩有り。

りょうほう えんじゃ は  あつ    むれ  な   のゆえなり  さきのぶしゅう はなは おどろ せし  たま
兩方の縁者馳せ集まり群を成す之故也。 前武州 太だ 驚か令め給ふ。

すなは さどのぜんじもとつな へいさえもんのじょうもりつなら  つか      なだ  せし  たま  のあいだ  せいひつ   うんぬん
即ち佐渡前司基綱、平左衛門尉盛綱等を遣はし、宥め令め給ふ之間、靜謐すと云々。

こと  おこ     わかさのぜんじやすむら  のとかみみつむら  しろうしきぶのたいふいえむら いげ  きょうだいしんるい ため
事の起りは、若狹前司泰村、能登守光村・四郎式部大夫家村以下の兄弟親類の爲、

しものげばばし にしつら  こうしょくや  をい    しゅえんらんぶ  え あ
下々馬橋 西頬の好色家に於て、酒宴乱舞の會有り。

ゆうきのおおくらごんのしょうゆうともひろ おやまのごろうさえもんのじょうながむら  ながぬまさえもんのじょうときむね いげ  いちもん
 結城大藏權少輔朝廣、 小山五郎左衛門尉長村、 長沼左衛門尉時宗 以下の一門、

おな  ひがしつら をい  またかく きょうゆう  もよお
同じき東頬に於て又此の興遊を催す。

ときに こうずけじうろうともむら 〔ともひろ  しゃてい〕  か   ざ   た    とおがさがけ  ため ゆいうら  むか  のところ  ま   もんぜん  をい  いぬ  い おいいだ
時于上野十郎朝村〔朝廣が舎弟〕彼の座を起ち、遠笠懸の爲由比浦に向う之處、先ず門前に於て犬を射追出す。

 そ  や あやま て みうら  かいしょ  れんちうに い     ともむらぞうしきおとこ し   こ   や   こ
其の箭誤っ而三浦の會所の簾中于入る。朝村雜色男を令て此の箭を乞う。

いえむらいだ あた  べからずのよし こっちょう    これ  よっ  かごん  およ    うんぬん
家村出し与う不可之由 骨張す。之に依て過言に及ぶと云々。

くだん りょうけ そ よしみあ     ひごろ たが    いしん な     きょう   かくしつ    てんま そ  しょう  い   か   うんぬん
件の兩家其の好有り。日來互いに異心無し。今日の確執は、天魔其の性に入る歟と云々。

現代語仁治二年(1241)十一月大二十九日壬子。午後2時頃、若宮大路「下の下馬橋」あたりで騒ぎがありました。これは、三浦一族と小山の連中とで喧嘩があったのです。双方の知り合いが集まって群れとなり睨み合っているからです。泰時さんは驚かれました。すぐに佐渡前司後藤基綱と平三郎左衛門尉盛綱を行かせて宥めさせたところ、静かになりましたとさ。
事件の始まりは、若狭前司三浦泰村が、能登守三浦光村・四郎式部大夫家村を始めとする兄弟親類のために、下の下馬橋西側の遊郭で酒盛り乱舞の大宴会をしていたのです。
一方、結城大蔵権少輔朝広・小山五郎左衛門尉長村・長沼左衛門尉時宗を始めとする小山一門が同様に東側で同じように宴会をしていました。
ある時、上野十郎結城朝村〔朝広の弟〕がその宴会の席を立って、遠笠懸のために由比浦に向って出たところ、門前で犬を射て追い出しました。ところがその矢が手元が狂って、三浦の連中が宴会をしている御簾の中に入ってしまいました。朝村は雑用の男に矢を貰いに行かせました。
家村は返さないと強情を張りました。これで悪口の言い争いになったんだそうな。
この両家は、良く知り合いで、普段とても仲が良いのです。今日の争いは、魔が差したとか言えないでしょう

仁治二年(1241)十一月大卅日癸丑。駿河四郎式部大夫家村。上野十郎朝村。被止出仕。昨日喧嘩。職而起自彼等武勇云々。凡就此事。預勘發之輩多之。雖非指親昵。只稱所縁。相分兩方。与本人等同令確執之故也。又北條左親衛者。令祗候人帶兵具。被遣若狹前司方。同武衛者。不及被訪兩方子細。依之前武州御諷詞云。各將來御後見之器也。對諸御家人事。爭存好悪乎。親衛所爲太輕骨也。暫不可來前。武衛斟酌。頗似大儀。追可有優賞云々。次招若狹前司。大藏權少輔。小山五郎左衛門尉。被仰曰。互爲一家數輩棟梁。尤全身可禦不慮凶事之處。輝私武威好自滅之條。愚案之所致歟。向後事。殊可令謹愼之由云々。皆以敬屈。敢無陳謝云々。」今日。駿河守有時雖辞申評定衆。無許容云々。

読下し                    するがのしろうしきぶのたいふいえむら  こうずけじうろうともむらしゅっし  と   られ
仁治二年(1241)十一月大卅日癸丑。駿河四郎式部大夫家村、上野十郎朝村出仕を止め被る。

さくじつ  けんか  もとより かれら  ぶゆう よ   お       うんぬん  およ  かく  こと  つ     かんぱつ  あず   のやからこれおお
昨日の喧嘩、職而彼等の武勇自り起きると云々。凡そ此の事に就き、勘發に預かる之輩之多し。

  さ    しんじつ あらず いへど  ただしょえん しょう   りょうほう  あいわか   ほんにんら  よ   おな    かくしつせし  のゆえなり
指せる親昵に非と雖も、只所縁と稱し、兩方に相分れ、本人等に与し同じく確執令む之故也。

また  ほうじょうさしんえいは   しこうにん  し   ひょうぐ  お     わかさのぜんじがた  つか  され
又、北條左親衛者、祗候人を令て兵具を帶び、若狹前司方に遣は被る。

おな    ぶえいは   りょうほう  しさい  たず  られ   およばず  これ  よっ  さきのぶしゅう ごふう  ことば い
同じく武衛者、兩方の子細を訪ね被るに不及、之に依て 前武州 御諷の詞に云はく。

おのおの しょうらいごこうけんのうつわなり  しょごけにん  たい    こと  いかで こうあく  ぞん    や   しんえい  しょい  はなは けいこつなり しばら まえ  く   べからず
 各 將來御後見之器也。諸御家人に對する事、爭か好悪を存ずる乎。親衛の所爲は太だ輕骨也。暫く前へ來る不可。

ぶえい  しんしゃく   すこぶ もっ  たいぎ  おっ  ゆうしょうあ  べ     うんぬん
武衛の斟酌は、頗る似て大儀。追て優賞有る可きと云々。

つぎ  わかさのぜんじ  おおくらほんのじょうしゅう おやまのごるさえもんのじょう  まね    おお  られ  い
次に若狹前司、 大藏權少輔、 小山五郎左衛門尉を招き、仰せ被て曰はく。

たがい いっかすうやから とうりょう な     もっと み   まっとう   ふりょ  きょうじ  ふせ  べ   のところ
互に一家數輩の棟梁と爲し、尤も身を全うし不慮の凶事を禦ぐ可き之處、

わたしの ぶい  かがや   じめつ  この  のじょう  ぐあんのいた ところか
私の武威を輝かし自滅を好む之條、愚案之致す所歟。

きょうこう こと  こと  きんしんせし  べ   のよし  うんぬん  みなもっ  けいくつ   あ     ちんしゃな     うんぬん
向後の事、殊に謹愼令む可し之由と云々。皆以て敬屈し、敢へて陳謝無しと云々。」

きょう  するがのかみありとき ひょうじょうしゅう じ   もう   いへど    きょような     うんぬん
今日、駿河守有時、評定衆を辞し申すと雖も、許容無しと云々。

現代語仁治二年(1241)十一月大三十日癸丑。駿河四郎式部大夫三浦家村と上野十郎結城朝村は出勤停止処分になりました。
昨日の喧嘩の原因は、この二人の無骨さから起こったからだそうな。この事件については、お叱りを受けた連中は大勢でした。たいして知り合いでもないくせに、縁続きだと云って双方に分かれて、本人たちについて同様に敵対したからです。
また北条左親衛経時は、自分の部下達に武装させて三浦泰村側に行かせました。又、時頼は双方の言い分を受け付けませんでした。
それで泰時さんは注意して云いました。「それぞれ将来は将軍の後見ともなる身分なのです。だから、御家人に対する方法は、何が良し悪しかを知るべきであります。経時のやり方はとても浅墓でした。当分出仕してはいけない。時頼の考えはとても良い事だった。後で褒美をあげよう。」との事でした。
次に、若狭前司三浦泰村・大蔵権少輔結城朝広・小山五郎左衛門尉長村を呼んで云い聞かせました。「互いに一家数人の棟梁(惣領)として、その身を大事にして思わぬ事故による災いを防ぐべきなのに、個人的な武力自慢をして自滅するのが良いのですか。よくよく考えるべきでしょう。今後の事もあるので、特に身を慎みなさい。」との仰せでした。皆さん頷いて弁解の余地もありませんでしたとさ。」
今日、駿河守北条有時は、政務会議メンバーを遠慮したいと云いましたが、許可されませんでしたとさ。

十二月へ

吾妻鏡入門第卅四巻

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