吾妻鏡入門第卅四巻

仁治二年辛丑(1241)十二月大

仁治二年(1241)十二月大一日甲寅。酒宴經營之間。或用風流菓子。或衝重外居等。畫圖爲事。御所中之外。向後一切可停止如此過分式之由。被觸仰諸家。凡禁制過差事。先日雖被定。經營結搆之時。動依有違犯事。今日重被仰下云々。

読下し                    しゅえんけいえいのあいだ ある    ふりゅう   かし   もち    ある   ついがさね ほかいら   がず   な   こと
仁治二年(1241)十二月大一日甲寅。酒宴經營之間、或ひは風流の菓子を用い、或ひは衝重@・外居A等に畫圖を爲す事、

ごしょちうのほか  きょうこう いっさいかく  ごと  かぶん  しき  ちょうじすべ  のよし  しょけ  ふれおお  られ
御所中之外は、向後 一切此の如き過分の式を停止可き之由、諸家へ觸仰せ被る。

およ   かさ   きんせい   こと  せんじつさだ  られ   いへど   けっこう  けいえいのとき ややすれ いはん ことあ     よっ    きょう かさ    おお  くだされ    うんぬん
凡そ過差を禁制する事、先日定め被ると雖も、結搆を經營之時、動ば違犯の事有るに依て、今日重ねて仰せ下被ると云々。

参考@衝重は、お膳の一種で折敷に台をつけたもの。台の三方に穴を開けたのが三方。四方にあいているのが四方。穴の無いのが供饗(くぎょう)という。
参考A外居は、食物を入れて運ぶ容器。木製で角型と丸型があり、三本の反り足がついている。共にGoo電子辞書から

現代語仁治二年(1241)十二月大一日甲寅。宴会をするときに、盆の上に風景などを作るのに果物などを使ったり、或いは食べ物を載せる三方等や三本足の食べ物を運ぶ容器に漆で絵を画くこと、それは幕府の将軍用以外は、今後一切そのような贅沢な事は止めるように、豪族らの家へ命令を伝えました。贅沢を禁止することは、先日来決めてありますけど、何か行事を実施するときは、うっかりして違反することがあるので、今日改めて命令を出しましたとさ。

仁治二年(1241)十二月大五日戊午。北條武衛自前武州令拝領一村給。是御所中宿直祗候事。勤厚之故云々。凡前武州現所勞之外。毎外(月)六ケ日夜當番。自壯年于今所令致勤節給也。又左親衛突鼻事。今日有免許。如前右馬權頭。若狹前司。殊被執申之云々。駿河式部大夫家村。上野十郎朝村。同被聽出仕云々。

読下し                     ほうじょうぶえい さきのぶしゅうよ  いっそん はいりょうせし たま
仁治二年(1241)十二月大五日戊午。北條武衛、前武州自り一村を拝領令め給ふ。

これ  ごしょちう  とのい しこう   こと  きんあつのゆえ  うんぬん
是、御所中の宿直祗候の事、勤厚之故と云々。

およ さきのしゅう  しょろう  あらわ  のほか  まいげつむいかび よ  とうばん  そうねんよ   いまに きんせついたせし  たま ところなり
凡そ前武州、所勞を現す之外、毎月六ケ日夜の當番、壯年自り今于勤節致令め給ふ所也。

またさしんえい とっぴ  こと  きょう めんきょあ     さいのうまごんのかみ わかさのぜんじ  ごと    こと  これ  と   もうされ    うんぬん
又左親衛突鼻の事、今日免許有り。前右馬權頭、若狹前司の如き、殊に之を執り申被ると云々。

するがしきぶのたいふいえむら  こうづけじろうともむら  おな    しゅっし  ゆるされ    うんぬん
駿河式部大夫家村、上野十郎朝村、同じく出仕を聽被る@と云々。

現代語仁治二年(1241)十二月大五日戊午。北条武衛時頼は、泰時さんから一村の地頭職を貰いました。これは、御所での宿直に勤務している時特にちゃんとしているからだとさ。最近、泰時さんが具合が悪くなった時ばかりでなく、毎月六日は日夜の当番を成人したから今まできちんと勤めて来たからです。
又、左親衛経時へのお叱りの出仕停止は、今日許されました。前右馬権頭政村・若狭前司三浦泰村達が、特にとりなしたからだそうな。
駿河式部大夫三浦四郎家村・上野十郎結城朝村も同様に出勤を許されました。

解説@突鼻の事、今日免許有りと家村・朝村、同じく出仕を聽被るは、11月29日の喧嘩で30日に三人とも出勤停止にさせられた。

仁治二年(1241)十二月大八日辛酉。小侍所番帳更被改之。毎番堪諸事藝能之者一人。必被加之。手跡。弓馬。蹴鞠。管絃。郢曲以下事云々。諸人随其志。可始如此一藝之由被仰下。是於時依可有御要也。陸奥掃部助被相觸此趣於人々云々。

読下し                    こさむらいどころ ばんちょう さら  これ  あらた られ
仁治二年(1241)十二月大八日辛酉。小侍所の 番帳、 更に之を改め被る。

まいばんしょじげいのう  た     のもにひとり  かなら これ  くは  られ
毎番諸事藝能に堪える之者一人、必ず之を加へ被る。

しゅせき  きゅうば  けまり  かんげん えいきょくいげ   こと  うんぬん  しょにん そ こころざし したが   かく  ごと  いちげい  はじ    べ   のよしおお  くだされ
手跡、弓馬、蹴鞠、管絃、郢曲以下の事と云々。諸人其の志に随い、此の如き一藝を始める可き之由仰せ下被る。

これ  とき  をい  ごよう あ   べ     よっ  なり  むつかもんのすけ  こ おもむきをひとびと  あいふれられ   うんぬん
是、時に於て御要有る可きに依て也。陸奥掃部助、此の趣於人々に相觸被ると云々。

現代語仁治二年(1241)十二月大八日辛酉。将軍の身の回りを世話する小侍所の順番をあえて変えました。どの順番にも芸能に通じている者を一人必ず入れる事にしました。書道・馬上弓・蹴鞠・音楽・歌などの事だそうな。皆この将軍の気持ちに従って、この様な芸を一つ身に着けるよう練習しなさいと仰せになられました。これは、将軍の希望があった時に、できるようにとのことで、陸奥掃部助実時は、この趣旨を人々に伝えましたとさ。

仁治二年(1241)十二月大十一日甲子。入夜。於御所被行大土公祭。泰貞朝臣奉仕之。將軍家令出其庭給云々。

読下し                       よ   い     ごしょ  をい  だいどくうさい  おこなはれ   やすさだあそんこれ  ほうし
仁治二年(1241)十二月大十一日甲子。夜に入り、御所に於て大土公祭を行被る。泰貞朝臣之を奉仕す。

しょうぐんけ そ  にわ  いでせし  たま    うんぬん
將軍家其の庭に出令め給ふと云々。

現代語仁治二年(1241)十二月大十一日甲子。夜になって闇が穢れを隠すので、御所で土神様へのお祈りを行いました。安陪泰貞さんが勤めました。将軍頼経様もその庭に出て立ち会いましたとさ。

仁治二年(1241)十二月大十三日丙寅。六波羅御沙汰之間。問注奉行人緩怠遲參之由。依有其聞。定時尅令着到之。毎月可進關東之旨。被仰相州之許云々。

読下し                       ろくはら ごさた のあいだ  もんちうぶぎょうにん けたい ちさん のよし  そ   きこ  あ     よっ
仁治二年(1241)十二月大十三日丙寅。六波羅御沙汰之間、問注奉行人緩怠遲參之由、其の聞へ有るに依て、

じこく  さだ  これ ちゃくとうせし    まいげつかんとう  しん  べ   のむね  そうしゅうのもと  おお  られ    うんぬ
時尅を定め之を着到令め、毎月關東へ進ず可し之旨、相州之許へ仰せ被ると云々。

現代語仁治二年(1241)十二月大十三日丙寅。六波羅探題での事務処理について、裁判担当者が怠けて遅れていると、噂が伝わって来たので、期限を切って提出させ、毎月関東へ報告してくるように、相州重時の所へ伝えましたとさ。

仁治二年(1241)十二月大廿一日甲戌。天リ。將軍家若君御前御乘馬始也。及晩。於小侍小庭有此儀。前武州被奉扶持之。遠江守。前右馬權頭。前宮内少輔。甲斐前司。秋田城介。下野前司。壹岐前司。佐渡前司。出羽前司。太宰少貳。大和前司。遠山大藏少輔。大藏權少輔。以下數輩群居庭上。近江四郎左衛門尉氏信引立御馬。若狹前司泰村奉抱之。小山五郎左衛門尉長村抑御鐙云々。

読下し                       そらはれ しょうぐんけ  わかぎみごぜん  ごじょうばはじ  なり
仁治二年(1241)十二月大廿一日甲戌。天リ。將軍家が若君御前の御乘馬始め也。

ばん  およ   こさむらい  こにわ   をい  かく  ぎ あ     さきのしゅう  これ  ふち  たてまつ られ
晩に及び@、小侍Aの小庭Bに於て此の儀有り。前武州、之を扶持し奉つ被る。

とおとうみのかみ さきのうまごんのかみ さきのくないしょうゆう  かいのぜんじ あいだのじょうすけ  しもつけぜんじ  いきのぜんじ   さどのぜんじ  でわのぜんじ
 遠江守、 前右馬權頭、 前宮内少輔、甲斐前司、秋田城介、 下野前司、壹岐前司、佐渡前司、出羽前司、

だざいのしょうに  やまとのぜんじ  とおやまおおくらしょうゆう おおくらごんのしょうゆう いげ すうやからていじょう ぐんきょ
太宰少貳、大和前司、 遠山大藏少輔、 大藏權少輔 以下の數輩庭上に群居す。

おうみのしろうさえもんのじょううじのぶ おんうま  ひきた   わかさのぜんじやすむら これ  かか たてまつ   おやまのごろうさえもんのじょうながむら おんあぶみ おさ      うんぬん
近江四郎左衛門尉氏信 御馬を引立て、若狹前司泰村 之を抱へ奉る。 小山五郎左衛門尉長村 御鐙を抑へると云々。

参考@晩に及びは、夜になって周りが暗くて見えない方が馬が落ち着くからだと思われる。
参考A小侍(所)は、将軍の身の回りを世話する者の詰所。
参考B
小庭は、三方に建物が無い小さな庭。三方又は四方に建物がある場合は坪庭で御坪という。

現代語仁治二年(1241)十二月大二十一日甲戌。空は晴です。将軍頼経様の若君(後の頼嗣)の初めての乗馬です。夜になって小侍所の小庭でこの事がありました。泰時さんが手を添え面倒を見てました。
遠江守北条朝時、前右馬權頭北条政村、前宮内少輔足利泰氏、甲斐前司長井泰秀、秋田城介安達義景、下野前司宇都宮泰綱、壹岐前司佐々木泰綱、佐渡前司後藤基綱、出羽前司二階堂行義、太宰少弐狩野為佐、大和前司伊東祐時、遠山大蔵少輔景朝、大蔵権少輔結城朝広を始めとする何人もが庭に集まっていました。
近江四郎左衛門尉佐々木氏信が馬を引いており、若狭前司三浦泰村が落ちないように抱きかかえるように押さえて、小山五郎左衛門尉長村が鐙がはずれないように押さえていましたとさ。

仁治二年(1241)十二月大廿四日丁丑。堀通多磨河。堰上其流於武藏野。可開水田之由事。施行既訖。指間左衛門尉。多賀谷兵衛尉。恒富兵衛尉等爲奉行。今日所下向彼國也。

読下し                        たまがわ  ほりとお    そ  ながれを むさしの  せきあ     すいでん ひら  べ   のよし  こと  せぎょうすで をはんぬ
仁治二年(1241)十二月大廿四日丁丑。多磨河を堀通し、其の流於武藏野に堰上げ、水田を開く可き之由の事、施行既に訖。

さしまさえもんのじょう  たがやのひょうえのじょう つねとみひょうえのじょうら ぶぎょう  な     きょう か    くに  げこう    ところなり
指間左衛門尉@、多賀谷兵衛尉A、恒富兵衛尉B等奉行と爲し、今日彼の國へ下向する所也。

参考@指間左衛門尉は、地名としては無いので猿島ではないか。常陸に郡名あり。
参考A
多賀谷兵衛尉は、武蔵七党野与党を祖とする。埼玉郡騎西庄多賀谷郷(加須市騎西町大福寺)。
参考B恒富兵衛尉は、常陸國常澄村で、水戸市大串町の常澄中学校に名が残る。

現代語仁治二年(1241)十二月大二十四日丁丑。多摩川を掘って迂回させ、そこに堰を作って水を武蔵野に揚げ引いて、水田を開くことについて命令を現地に出しています。猿島左衛門尉・多賀谷兵衛尉・常富兵衛尉などを指揮担当にして、今日その武蔵野へ出発させるところです。

仁治二年(1241)十二月大廿七日庚辰。武田伊豆入道光蓮令義絶次男信忠〔号悪三郎〕之由。申入御所并前武州御方先訖。於公私。有大功之子息也。就何過失。及此儀哉之由。前武州頻雖被宥仰。依數ケ條不可之上者。随嚴命難令免許之旨。申切之云々。而今日。光蓮奉謁前武州之間。信忠伺其便宜。令推參砌。申云。信忠爲父有孝無怠。義絶故何事哉。先建暦年中。和田左衛門尉義盛謀叛之時。諸人以防戰雖爲事。怖朝夷名三郎義秀武威。或違于彼發向之方。或雖見逢遁傍路。以逢義秀爲自之凶。爰光蓮者。奉尋武州。通若宮大路東頬米町前。向由比浦方。義秀者自牛渡津橋。打出同西頬。指御所方馳參。各相逢于妻手番。義秀見光蓮。頗合鎧進寄。光蓮暫者不懸目。只雖降行。已在箭比之間。聊向轡於西取直弓。于時信忠忽爲相代父命。捨身馳隔兩人中之處。義秀雖取太刀。見信忠無二之躰。直加感詞。不及鬪戰。馳過訖。且是兼知信忠武畧實之故歟。次承久三年兵乱之時。向京方要害等。毎敗軍陣。莫非信忠之先登。舎弟等雖相伴之。論其功全不均信忠之勞。兩度事。共以亭主所被知食也。然者。於父者雖忘哀憐。爲上而爭無御口入哉云々。前武州閑被聞食事始終。及御落涙。仍殊被加御詞曰。所申皆有子細歟。優泰時早可被免許者。光蓮申云。奉重御旨之事雖勿論。限此一事者。枉欲蒙御免者。次對信忠云。汝之所申。悉非虚言。於武畧者。誠以神妙。凡云父慈愛。云子至孝。于今不能忘却。但心操不調窮訖。且憚親踈之所思。令義絶之上。無據宥。須量己之凶器云々。前武州無重仰。信忠泣起座。觀者憐之云々。

読下し                       たけだのいずにゅうどうこうれん じなんのぶただ 〔あくさぶろう  ごう  〕    ぎぜつせし  のよし
仁治二年(1241)十二月大廿七日庚辰。武田伊豆入道光蓮、次男信忠〔悪三郎と号す〕を義絶令む之由、

ごしょなら    さきのぶしゅう おんかた もうしい さき をはんぬ
御所并びに前武州の御方に申入れ先に訖。

こうし   をい    たいこうあ   の しそくなり  なん  かしつ  つ     かく  ぎ   およ    や のよし  さきのぶしゅう しきり なだ  おお  られ   いへど
公私に於て、大功有る之子息也。何の過失に就き、此の儀に及ばん哉之由、前武州 頻に宥め仰せ被ると雖も、

すうかじょう   ふか   よ   の うえは  げんめい したが めんきょせし がた  のむね  これ  もう  き     うんぬん
數ケ條の不可に依る之上者、嚴命に随い免許令め難き之旨、之を申し切ると云々。

しか    きょう   こうれん さきのぶしゅう えっ たてまつ のあいだ のぶただそ  びんぎ  うかが  みぎり すいさんせし   もう    い
而るに今日、光蓮、前武州に謁し奉る之間、 信忠其の便宜を伺い、砌に推參令め、申して云はく。

のぶただちち ためこうあ  おこた な     ぎぜつ  ゆえ  なにごとや
信忠父の爲孝有り怠り無し。義絶の故は何事哉。

さき けんりゃくねんちう  わださえもんのじょうよしもり むほん のとき  しょにんぼうせん もっ  こと  な    いへど   あさいなのさぶろうよしひで   ぶい   おそ
先の建暦年中、和田左衛門尉義盛謀叛之時、諸人防戰を以て事と爲すと雖も、朝夷名三郎義秀の武威を怖れ、

ある    か   はっこう のほうにたが    ある    み あう いへど  ぼうろ   のが    よしひで  あ     もっ  みずか のきょう  な
或ひは彼の發向之方于違へ、或ひは見逢と雖も傍路に遁れ、義秀に逢うを以て自ら之凶と爲す。

ここ  こうれんは  ぶしゅう  たず たてまつ  わかみやおおじ ひがしつら よねまちまえ とお   ゆいのうらかた  むか
爰に光蓮者、武州を尋ね奉り、 若宮大路 東頬 米町前を通り、由比浦方へ向ひ、

よしひではうしわたつばしよ     おな    にしつら  う   いで  ごしょ かた  さ   は   さん
義秀者牛渡津橋自り、同じく西頬に打ち出、御所方を指し馳せ參ず。

おのおの めて   つが  に あいあ    よしひで  こうれん  み    すこぶ あぶみ あわ  すす  よ
  各 妻手の番い于相逢う。義秀、光蓮を見て、頗る鎧を合せ進み寄る。

こうれんしばら は め  かけず  ただ お  ゆ    いへど    すで  やごろのあいだ  あ    いささ くつわを にし  む   じき  ゆみ  と
光蓮暫く者目を懸不、只降り行くと雖も、已に箭比之間に在り。聊か轡於西へ向け直に弓を取る。

ときに のぶただ たちま ちち いのち あいかわ   ため  み   す  りょうにんちう  は  へだ  のところ  よしひで たち   と   いへど   のぶただ  むに のてい  み
時于信忠 忽ち父の命に相代らん爲、身を捨て兩人中に馳せ隔つ之處、義秀太刀を取ると雖も、信忠が無二之躰を見て、

ただ    かんし   くは    とうせん  およばず  は   す  をはんぬ かつう これかね のぶただ ぶりゃく  じつ  し   のゆえか
直ちに感詞を加へ、鬪戰に不及、馳せ過ぎ 訖。 且は是兼て信忠の武畧の實を知る之故歟。

つい じょうきゅうさんねん へいらんのとき きょうがた  ようがら   むか    ぐんじん  やぶ  ごと    のぶただのせんと  あらず  な
次で 承久三年 兵乱之時、京方の要害等へ向い、軍陣を敗る毎に、信忠之先登に非は莫し。

しゃてら これ  あいともな  いへど    そ   こう  ろん      まった のぶただのろう  くら      ず
舎弟等之を相伴うと雖も、其の功を論ずるに全く信忠之勞に均べられ不。

りょうど  こと  とも  もっ  てい  あるじ し     め され ところなり
兩度の事、共に以て亭の主の知ろし食被る所也。

しからば  ちち  をい  は あいりん  わす     いへど   うえ  なしていかで  ごくにゅう な       や   うんぬん
然者、父に於て者哀憐を忘れると雖も、上と爲而爭か御口入無からん哉と云々。

さきのぶしゅう ひそ    こと  しじゅう  き     めされ   ごらくるい  およ    よっ  こと  おことば  くは  られ  い
 前武州 閑かに事の始終を聞こし食被、御落涙に及ぶ。仍て殊に御詞を加へ被て曰はく。

もう  ところ みな しさい あ  か   やすとき  ゆう  はや  めんきょされ  べ   てへ    こうれんもう    い
申す所は皆子細有る歟。泰時に優じ早く免許被る可き者り。光蓮申して云はく。

おんむね おも  たてまつ  のこともちろん いへど   こ   いちじ  かぎ  ば   まげ  ごめん  こうむ     ほっ  てへ    つぎ のぶただ たい    い
御旨を重んじ奉る之事勿論と雖も、此の一事に限ら者、枉て御免を蒙らんと欲す者り。次に信忠に對して云はく。

なんじのもう ところ ことごと きょげん あらず ぶりゃく  をい  は   まこと もっ  しんみょう およ  ちち   じあい   い     こ   しこう   い     いまに ぼうきゃく あたはず
汝之申す所、悉く虚言に非。武畧に於て者、誠に以て神妙。凡そ父の慈愛と云ひ、子の至孝と云ひ、今于忘却に不能。

ただ こころばせ ふちょう きはま をはんぬ かつう  しんそ の おも ところ はばか  ぎぜつせし    のうえ   なだ     よんどころ な
但し心操の不調は窮り 訖。 且は親踈之思う所を憚り、義絶令める之上、宥めるに 據ろ無し。

すべから おのれのきょうき はか       うんぬん
須く 己之凶器を量るべしと云々。

さきのぶしゅう かさ      おお  な    のぶただ な    ざ   た    みるものこれ あわれ   うんぬん
前武州、重ねての仰せ無し。信忠泣いて座を起つ。觀者之を憐むと云々。

現代語仁治二年(1241)十二月大二十七日庚辰。武田伊豆入道光蓮(信光)は、次男の信忠〔悪三郎と呼ばれる〕を勘当すると将軍と泰時さんに申し入れ終えています。
 将軍にとっても泰時さんにとっても大きな手柄のある息子です。それが何の過失によって、このような事になったのか、泰時さんは何度も宥めましたが、「幾つか許せないことがあったのですから、規則に従えば許すわけには行かない。」と、云い切ってしまいましたとさ。
 しかしながら、今日、光蓮が泰時さんにお会いになっている時に、そのついでのチャンスをみつけて、そばへ来て云いました。
「私信忠は、父のために孝行はしてなまけてはいません。それなのに勘当するのはなぜでしょうか。以前の建暦年の頃に、和田左衛門尉義盛が叛逆した時、皆防戦するのが最善の仕事とはいえ、朝夷名三郎義秀の武力を怖がって、ある人はかれの出る方ではない方へ、ある人は見かけただけで他の道へ逃れ、朝夷名義秀に会うのが一番の不幸だとしていました。
ここで父光蓮は、泰時さんを探し回って、若宮大路の東側の米町を通って、由比浦へ向ってました。
一方義秀は、牛渡津橋
(下の下馬橋の異称か?)から同じように若宮大路の西側へ出て、御所へ向って走り出しました。
お互いに相手を右側にして出会いました。義秀は光蓮を見て、ぜひとも組討ちのため鐙を合わせようと進んできました。
(若宮大路の幅は33mある)光蓮は、しばらく目もくれずに下って行こうとしましたが、既に矢を射る距離内にいます。多少馬首を西へ向けてすぐに弓を構えました。それを見て、信忠は父の身代わりになろうと思って、身命を賭して双方の間に走って行き邪魔をした処、義秀刀を抜きながらも、信忠のがむしゃらな姿を見て、『命を粗末にするんじゃない。』と注意をして戦わずに走り去って行きました。これは、それもあるけど信忠の本当の実力を知っていたからでしょうね。」
(反省もなく自慢している。)

次に承久三年の大戦の時、京都方の要塞へ向って群を進めるたびに、信忠は先頭に居なかったことが無い。弟たちが一緒ではあったが、その手柄は私とは比べ物にならない。両方の出来事は、この屋の主殿もご存知のとおりです。それならば、父親が子供への愛情を忘れたとしても、上司としてお口添えを願えないでしょうか。との事でした。
泰時さんは、この話を黙って終いまでお聞きになって涙を流されました。
それでお言葉を懸けられたのは「言いたいことはそれぞれ理由があるでしょうが、ここはこの泰時に免じて早く許してあげてください。」光蓮が云うには「お気持ちは重大にお受けしますが、この一件だけに限って言えば、無理してでもお許し願いたい。」と云いながら、次に信忠に対して云いました。
「お前の言ってることは、全てにうそはない。戦の技量では、本当に大したものだ。父が子を愛する気持ちも、子供が親に孝行していることも、未だに忘れている訳ではないのだ。但し、お前の心には、悪い虫が巣食っている。それを思うと親しくすべきか否かを推量した上で、遠慮すべきだと思うので、勘当したのだから、なだめようもないのだ。すべて、己の胸に聞いてみなさい。」との事でした。泰時さんも、それ以上口出しはできませんでした。信忠は涙ながらに引き上げて行きました。見ていた人は同情するしかありませんでしたとさ。

解説この記事は、21巻建暦三年(1213)五月二日条(和田合戦)に又、武田五郎信光は、若宮大路 米町口に於て、義秀于行き逢い、互に目を懸け、已に相戰はんと欲する之處、信光が男 惡三郎信忠 其の中に馳せ入る。時于義秀、信忠父に代らんと欲する之形勢に感じ、馳せ過ぎ畢。とある。
解説大胆な仮説を想定するならば、まず
@若宮大路を横切る道にまっすぐな道を作る筈が無い。何故なら二の鳥居の「中の下馬橋」では、東西の道が食違い、しかも釘貫と言う枡形まで作っている。後に忍性の時代に和賀江島の関税権や由比ガ浜の漁業権をもった極楽寺が、和賀江島で荷揚げした貨物を極楽寺又は坂之下へ運ぶために一本南の車大路と同様に、
交通量が増えて、下馬の交差点も東西にまっすぐに直されてしまったと考えられないだろうか?
A長谷小路から若宮大路へは牛渡津橋で佐助川を渡って出ていた。
Bそう想定すると米町口から出てきた光蓮(武田五郎信光)が若見大路へ出て海岸へ向って南下し、
C
朝夷名三郎義秀が西から若見大路へ出て、御所へ向って北上すると、双方は相手を右側(妻手めて))に見る事になる。
D米町口から北側の若宮大路には段葛が書かれた古絵図が残されている。

解説この義絶は、三月二十五日の海野幸氏との境相論に対する泰時の判決に対して、信忠が不満を流布した「落し前」としたようだ。へたくそな現代語なので、この辺りの光蓮の苦境が旨く表現できずに、すいません。

仁治二年(1241)十二月大廿八日辛巳。御祈供料。雜掌等寄事於左右。有對捍之輩。慥可注進交名。處不忠。可被行重科之旨。被仰政所云々。師員朝臣奉行之。

読下し                       おいのり  くりょう  ざっしょうら ことを とこう  よ     たいかんのやから あ    たしか きょうみょう ちうしんすべ
仁治二年(1241)十二月大廿八日辛巳。御祈の供料、雜掌等事於左右に寄せ、對捍之輩 有り。慥に 交名を注進可し。

ふちゅう  しょ    ちょうか おこなはれ べ  のむね まんどころ おお  られ   うんぬん  もろかずあそんこれ  ぶぎょう
不忠に處し、重科に行被る可き之旨、政所に仰せ被ると云々。師員朝臣之を奉行す。

現代語仁治二年(1241)十二月大二十八日辛巳。お祈りの費用を、雑用の連中がいちいちいちゃもんをつけ、滞納している連中がいる。しっかりと名前を書き出して提出しなさい。違反建議をして重罪に処分するように、政務事務所に命じました。中原師員さんがこれを担当します。

仁治二年(1241)十二月大廿九日壬午。被定若君御前御方祗候人數。結六番。御撫物御使。并御格子上下役。悉被分置之。所被摸將軍御方之躰也。陸奥掃部助奉行之。

読下し                       わかぎみごぜん おんかた  しこう  にんずう  さだ  られ
仁治二年(1241)十二月大廿九日壬午。若君御前の御方の祗候の人數を定め被る。

ろくばん  むす   おんなでもの おんしなら    おんこうしじょうげやく  ことごと これ  わか  おかれ    しょうぐん おんかたのてい  も され ところなり
六番を結び、御撫物の御使并びに御格子上下役、悉く之を分ち置被る。將軍の御方之躰を摸被る所也。 

むつかもんのすけ これ ぶぎょう
陸奥掃部助之を奉行す。

現代語仁治二年(1241)十二月大二十九日壬午。若君(後の頼嗣)の身の回りをする人数を決めました。6組にして、撫物(穢れを洗い落とす紙の人型)を流しに行く担当それと窓の蔀戸を上下させる役など、全て分担しました。将軍頼経様の例を真似る事にしました。陸奥掃部助実時が指揮担当します。

仁治二年(1241)十二月大卅日癸未。前武州參右幕下。右京兆等法花堂給。又獄囚及乞食之輩有施行等。三津藤二爲奉行。其後渡御于山内巨福礼別居。秉燭以前令還給云々。

読下し                     さきのぶしゅう  うばっか  うけいちょうら    ほけどう   まい  たま   また  ごくしゅうおよ  こつじきのやから せぎょうら あ
仁治二年(1241)十二月大卅日癸未。前武州、右幕下、右京兆等の法花堂へ參り給ふ。又、獄囚及び乞食之輩に施行等有り。

みつのとうじぶぎょうたり   そ   ご   やまのうちこぶくろ  べっきょ に わた  たま   へいしょくいぜん  かえ  せし  たま    うんぬん
三津藤二奉行爲。其の後、山内巨福礼の別居@于渡り御う。秉燭以前に還ら令め給ふと云々。

参考@山内巨福礼の別居は、常楽寺の地かもしれない。31巻嘉禎3年十二月13日に妻の母の供養に一梵宇を建立している。

現代語仁治二年(1241)十二月大三十日癸未。泰時さんは、頼朝様や義時さんの法華堂へお参りしました。又、投獄されている者や乞食の連中に施しをしました。三津藤二が担当です。その後、山内の小袋谷の別荘へ行かれました。暗くなる前に執権邸へ帰りましたとさ。

吾妻鏡入門第卅四巻

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