寛元元年(仁治四年)癸卯(1243)二月小二十六日改元
仁治四年(1243)二月小二日己酉。天霽。辰尅。故前右京兆崇敬大倉藥師堂燒亡。失火云々。本佛奉取出之云々。 |
読下し そらはれ
たつのこく こさきのうけいちょう すうけい おおくらやくしどうしょうぼう しっか うんぬん
仁治四年(1243)二月小二日己酉。天霽。辰尅、
故前右京兆 崇敬の大倉藥師堂@燒亡す。失火と云々。
ほんぶつ
これ とりいだ たてまつ うんぬん
本佛A之を取出し奉ると云々。
参考@大倉藥師堂は、後に貞時が覚園寺に改める。
参考A本佛は、薬師如来の首と戌神将だけが当所のものと伝えられる。
現代語仁治四年(1243)二月小二日己酉。空は晴れました。午前8時頃、故前右京権大夫北条義時さんが崇め奉った大蔵薬師堂(後の覚園寺)が燃えました。失火だそうな。御本尊は持ち出せたそうです。
仁治四年(1243)二月小十三日庚申。被始行天變御祈等云々。 |
読下し てんぺん おいのりら しぎょうされ うんぬん
仁治四年(1243)二月小十三日庚申。天變の御祈等を始行被ると云々。
現代語仁治四年(1243)二月小十三日庚申。天変地異が起きないようお祈りを始めましたとさ。
仁治四年(1243)二月小十五日壬戌。御沙汰間詮句勘録事。大事二箇月。中事者一ケ月。小事者廿日。此日數可令勘進之由。可相觸之旨。被仰含于問注所執事加賀民部大夫云々。 |
読下し おんさた あいだ せんく
かんろく こと だいじ にかげつ ちゅうじは
いっかげつ しょうじは はつか
仁治四年(1243)二月小十五日壬戌。御沙汰の間、詮句勘録@の事。大事二箇月。中事者一ケ月。小事者廿日。
こ
にすうかんじんせし べ のよし あいふれ べ
のむね もんちうじょしつじ かがみんぶたいふ に おお
ふく られ うんぬん
此の日數勘進令む可き之由、相觸る可き之旨、問注所執事加賀民部大夫于仰せ含め被ると云々。
参考@詮句勘録は、結論の言葉の記録。
現代語仁治四年(1243)二月小十五日壬戌。政務決定の、結論の記録について、大きな出来事は二か月。中くらいの事は一ヶ月、小さなことは20日。此の日数は公布しておくように、事務官に伝えてなさいと、裁判所事務長の加賀民部大夫町野康持に言い聞かせましたとさ。
仁治四年(1243)二月小廿三日庚午。霽。依將軍家御願。被奉桑絲呉綿等於二所。是爲被施神主社僧等也。伊豆山御使左衛門尉忠行。筥根御使駿河五郎左衛門尉也。攝津前司奉行之云々。申尅。御臺所御參鶴岳〔今年初度也〕。御車也。女房出車一兩。供奉人卅余輩〔布衣〕。 |
読下し はれ しょうぐんけ ごがん
よっ そうし ごめん ら を にしょ たてま られ
仁治四年(1243)二月小廿三日庚午。霽。將軍家の御願に依て、桑絲@呉綿A等於二所へ奉つ被る。
これ かんぬししゃそうら ほどこされ ためなり
是、神主社僧等に施被ん爲也。
いずさん おんし さえもんのじょうただゆき はこね おんし するがのごるさえもんのじょうなり せっつのぜんじこれ
ぶぎょう うんぬん
伊豆山への御使は左衛門尉忠行。筥根への御使は駿河五郎左衛門尉也。攝津前司之を奉行すと云々。
さるのこく みだいどころ
つるがおか ぎょさん 〔
ことし しょどなり 〕 おんくるまなり にょぼういだしぐるまいちりょう ぐぶにんさんじうよやから 〔 ほい 〕
申尅、御臺所B 鶴岳へ御參す。〔今年初度也〕御車也。女房
出車 一兩。 供奉人卅余輩。〔布衣〕
参考@桑絲は、一般に蚕糸と表記されるがおそらく同様の絹糸と思われる。
参考A呉綿は、呉綿は、ここと36巻寛元3年(1245)8月15日の二度しか出ないので、綿の表記は絹の真綿と考えられ、呉と付けているのは呉は南方なので綿花の綿だと思われる。
参考B御臺所は、将軍の正妻で持明院藤原家行の女。
現代語仁治四年(1243)二月小二十三日庚午。晴れました。将軍頼経様の願で、絹糸・綿を伊豆山走湯神社・箱根神社の両権現に奉納しました。これは、神主や神社の僧に施し(功徳)をするためです。伊豆山への代参は、左衛門尉海老名忠行、箱根への代参は、駿河五郎左衛門尉三浦資村です。摂津前司中原師員が指揮担当だそうな。
午後4時頃、正妻さんは鶴岡八幡宮お参りです。〔今年初めて〕牛車です。女物のけだしのついた牛車一両。お供は30数人です。〔狩衣〕
仁治四年(1243)二月小廿五日壬申。諸御家人任官間事。日來内々被經沙汰。今日。於評議有治定之篇。所謂。式部丞所司助事。於侍所望者。一向可停止云々。彼兩職成功事。先度准靱負尉一萬疋之由。雖被定。自今以後。不可然云々。可爲二万疋歟。 |
読下し しょ
ごけにん にんかん あいだ こと ひごろないない
さた へ られ きょう ひょうぎ をい ちじょうのへんあ
仁治四年(1243)二月小廿五日壬申。諸御家人任官の間の事、日來内々に沙汰を經被る。今日、評議に於て治定之篇有り。
いはゆる しきぶのじょう しょし すけ こと さむらい しょもう
をい は いっこう ちょうじすべ うんぬん
所謂、式部丞・所司の助の事、侍の
所望に於て者、一向に停止可きと云々。
か りょうしき じょうごう こと せんど ゆげいのじょう なぞら いちまんびき のよし さだ
られ いへど いまよ いご しか べからず うんぬん
彼の兩職の成功の事、先度靱負尉@に
准い 一萬疋A之由、定め被ると雖も、今自り以後、然る不可と云々。
にまんびきたるべ か
二万疋爲可き歟。
参考@靱負は、上代には王族の親衛士で、律令制下では衛門府詰めの官職名で、宮中を靭(ゆぎ:矢を入れる道具の一種)を背負って見回りをする者。定員は四名。
参考A万疋は、100疋をもって1貫としたのは「1疋=銭10文」になるが、徒然草には1疋30文とある。
現代語仁治四年(1243)二月小二十五日壬申。諸御家人の朝廷の官職に付くことについて、最近内々に将軍の決裁をえました。今日、政務会議で決めた事があります。それは、式部丞や次官の助について、侍が直接朝廷に申請するのは、全て禁止だそうな。その両方の職を貢物で買うにあたり、以前の衛門府の尉の例に合わせて、1万匹と値段を決めたけど、今後はそうではなくしよう。じゃ2万匹でしょうかねえ。
寛元々年(1243)二月小廿六日癸酉。諸人訴論事。爲無成敗懈緩。今日。於左親衛御亭有其沙汰。且被點其日々。且被結人數。 |
読下し しょにん そろん こと せいばいけたいな ため きょう さしんえい おんてい をい そ さた あ
寛元々年(1243)二月小廿六日癸酉。諸人訴論の事、成敗懈緩無からん爲、今日、左親衛@の御亭に於て其の沙汰有り。
かつう そ ひび てん
られ かつう にんずう むすばれ
且は其の日々を點じ被、且は人數を結被る。
さだめ
定
そろん さた ひ けちばん こと
訴論沙汰の日結番の事
いちばん 〔 みっか ここのか じうさんにち じうしちにち にじうさんにち〕
一番〔三日 九日 十三日 十七日 廿三日〕
せっつのぜんじ わかさのぜんじ しもつけぜんじ
攝津前司 若狹前司 下野前司
つしまのぜんじ おおたみんぶたいふ
對馬前司 大田民部大夫
にばん 〔 よっか ようか じうはちにち にじうよっか にじうはちにち〕
二番〔四日 八日 十八日 廿四日 廿八日〕
さどのぜんじ だざいのしょうに でわのぜんじ
佐渡前司 太宰少貳 出羽前司
せいうえもんのじょう
C右衛門尉
さんばん 〔 むいか じうよっか じうくにち にじうろくにち にじうくにち〕
三番〔六日 十四日 十九日 廿六日 廿九日〕
しなののみんぶたいふにゅうどう かいのぜんじ あいだのじょうすけ
信濃民部大夫入道 甲斐前司 秋田城介
かがのみんぶたいふ
加賀民部大夫
みぎ しだい まも けたい な
さんきんされ べ のじょうくだん ごと
右、次第を守り、懈怠無く、參懃被る可き之状件の如し。
にんじよねん にがつ にち
仁治四年二月 日
参考@左親衛は、四代執権で左近大夫将監の北条経時。
現代語寛元々年(1243)二月小二十六日癸酉。一般人の訴訟について、結審に遅れが出ないために、今日、左親衛北条経時の屋敷でその命令がありました。
一つは、その実施の日を決め、一つは人数を組まれました。
定め書き
裁判の日程と当番について
一番〔3日、9日、13日、17日、23日〕 摂津前司中原師員 若狭前司三浦泰村 下野前司宇都宮泰綱 対馬前司三善矢野倫重 太田民部大夫康連
二番〔4日、8日、18日、24日、28日〕 佐渡前司後藤基綱 太宰少弐狩野為佐 出羽前司二階堂行義 右衛門尉清原満定
三番〔6日、14日、19日、26日、29日〕
信濃民部大夫入道二階堂行盛 甲斐前司長井泰秀 秋田城介安達義景 加賀民部大夫町野康持
右の順番を守り、怠けることなく勤務するようにとの命令はこの通りである
仁治4年2月 日
寛元々年(1243)二月小廿七日甲戌。天霽。戌刻。若君御不例猶無御減之間。被始御祈。攝津前司爲奉行。又被行御占。 |
読下し そらはれ
いぬのこく わかぎみ ごふれいなおごげんな のあいだ おいのり
はじ
られ せっつのぜんじぶぎょうたり
寛元々年(1243)二月小廿七日甲戌。天霽。戌刻、若君御不例猶御減無き之間、御祈を始め被る。攝津前司奉行爲。
またおんうら おこなはれ
又御占を行被る。
現代語寛元々年(1243)二月小二十七日甲戌。空は晴れました。午後8時頃、若君の病気が治らないので、お祈りを始めました。摂津前司中原師員が担当です。また、占いをさせました。
寛元々年(1243)二月小廿九日丙子。霽。今日評議。御恩事。不定闕所之以前。差其所所望之輩等事者。不能御沙汰云々。 |
読下し はれ きょう ひょうぎ ごおん こと けっしょ さだ ざるの いぜん
寛元々年(1243)二月小廿九日丙子。霽。今日の評議、御恩の事、闕所を定め不之以前に、
そ ところ さ しょもう のやからら ことは ごさた あたはず うんぬん
其の所を差し所望する之輩等の事者、御沙汰に不能と云々。
現代語寛元々年(1243)二月小二十九日丙子。晴れました。今日の会議は、褒美について、空いている領地を決める前に、その場所を指定して希望するような連中については、与える必要はないそうな。