寛元元年癸卯(1243)四月小
寛元々年(1243)四月小八日甲寅。於御所御持佛堂。被行佛生會。導師岡崎僧正坊。 |
読下し
ごしょ おんじぶつどう をい ぶっしょうえ おこなはれ どうし おかざきそうじょうぼう
寛元々年(1243)四月小八日甲寅。御所の御持佛堂に於て、佛生會を行被る。導師は岡崎僧正坊。
現代語寛元々年(1243)四月八日甲寅。御所の将軍様の守り本尊を祀る持仏堂で、お釈迦様の生誕祭の供養を行いました。指導僧は岡崎僧正坊成源です。
寛元々年(1243)四月小十日丙辰。大嘗會用途未濟所々可相催之由。被仰政所。即施行云々。 |
読下し
だいじょうえ ようとう みさい しょしょあいもよお べ のよし まんどころ おお られ すなは せぎょう
うんぬん
寛元々年(1243)四月小十日丙辰。大嘗會の用途未濟の所々相催す可き之由、政所に仰せ被る。即ち施行すと云々。
現代語寛元々年(1243)四月十日丙辰。天皇の大嘗会の費用で未納の所は、催促するように政務事務所に命じられました。すぐに実施したそうです。
寛元々年(1243)四月小廿日丙寅。奴婢等事及評定。越堺下人事。地頭等有不知之子細。年來於令留之輩者。不論年記。今更非沙汰之限。百姓下人者。爲十ケ年内者。可返与云々。加賀民部大夫奉行之。 |
読下し
ぬ ひ ら ことひょうじょう およ さかい こ げにん こと ぢとうら し
ざるの しさいあ
寛元々年(1243)四月小廿日丙寅。奴婢@等の事評定に及ぶ。堺を越ゆる下人の事、地頭等知ら不之子細有り。
としごろとど せし のやから
をい は ねんき ろんぜず
年來留め令む之輩に於て者、年記を論不。
いまさら さた
の
かぎ あらず ひょくしょう げにんは じっかねんないたらば
かえ よ べ うんぬん
今更、沙汰之限りに非。百姓・下人者、十ケ年内爲者、返し与す可きと云々。
かがみんぶたいふ これ ぶぎょう
加賀民部大夫之を奉行す。
参考@奴婢は、女性の奴隷と男性の奴隷。日本の場合は、欧米の奴隷制度と違い奴隷同士所帯を持つ等かなり自由な面もあったらしいので奴隷的下部とした。
現代語寛元々年(1243)四月二十日丙寅。奴隷的下部について政務会議をしました。領域を超えて逃げ出して来た下部を、地頭が知らないで使っている状況があります。20年以上働いている連中については、今さら干渉はしません。百姓や下部は10年以内なら、元の領主に返す事にしました。加賀民部大夫町野康持が指揮担当します。
寛元々年(1243)四月小廿一日丁夘。於鶴岳八幡宮。被行最勝八講。將軍家御參宮。 |
読下し
つるがおかはちまんぐう をい さいしょうはっこう おこなはれ しょうぐんけごさんぐう
寛元々年(1243)四月小廿一日丁夘。鶴岳八幡宮に於て、最勝八講@を行被る。將軍家御參宮。
参考@八講は、法華八講の略で、法華經八巻を八座に分け、朝夕一座ずつ四日間で講ずる法会。
現代語寛元々年(1243)四月二十一日丁宇。鶴岡八幡宮で、最勝王経を法華八講のように行いました。将軍頼経様もお参りです。