吾妻鏡入門第卅五巻

寛元元年癸卯(1243)六月大

寛元々年(1243)六月大十五日庚申。天霽。故前武州禪室周闋御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衛并武衞參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讃衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。

読下し                     そらはれ  こさきのぶしゅうぜんしつ しゅうけつ おんぶつじ  やまのうち あわふねみどう  をい  これ  しゅうさる
寛元々年(1243)六月大十五日庚申。天霽。 故前武州禪室 周闋の 御佛事、山内の粟船御堂に於て之を修被る。

ほうじょうさしんえいなら   ぶえい さん  たま  とおとうみにゅうどう さきのうまごんのかみ むさしのかみいげ  ひとびとぐんしゅう   まんだらぐ の ぎ なり
北條左親衛并びに武衞參じ給ふ。遠江入道、前右馬權頭、武藏守以下の人々群集す。曼茶羅供之儀也。

だいあじゃりしなののほういんどうぜん  さんしゅうじうにくち  うんぬん  こ   ぐ     ゆうぎございせい の とき  こと  しんじん  ぬき      うんぬん
大阿闍梨信濃法印道禪、讃衆十二口と云々。此の供は、幽儀御在生之時、殊に信心を抽んずと云々。

現代語寛元々年(1243)六月大十五日庚申。空は晴れました。故武州禅室泰時さんの一周忌の法要を、山内の粟船御堂(後の常楽寺)で行いました。北条左親衛経時それに武衛北条時頼がお参りしました。遠江入道北条朝時・前右馬権頭北条政村・武蔵守北条朝直いかの人々が集まりました。曼荼羅の供養儀式です。指導僧は信濃法印道禅、お供の坊さんは12人だそうな。この供養は、故人が存命時代に特に熱心に信心していたからだそうな。

寛元々年(1243)六月大十六日辛酉。未刻小雨雷電。深澤村建立一宇精舎。安八丈餘阿弥陀像。今日展供養。導師卿僧正良信。讃衆十人。勸進聖人淨光房。此六年之間。勸進都鄙。尊卑莫不奉加。

読下し                   ひつじのこく こさめらいでん  ふかざわむら いちう  しうょじゃ  こんりゅう    はちじょうよ  あみだぞう   やす
寛元々年(1243)六月十六日辛酉。未刻、 小雨雷電。 深沢村に一宇の精舎を建立し、八丈余の阿弥陀像@を安んず。

きょう  くよう   てん    どうし  きょうのそうじょうりょうしん しょうそうじうにん かんじんしょうにんじょうこうぼう  こ   ろくねんのかん   とひ   かんじん
今日供養を展ず。導師は卿僧正良信、 讃衆十人、 勧進聖人浄光房、 此の六年之間、都鄙を勧進す。

そんぴ ほうかせず  な
尊卑奉加不は莫しA

参考@阿弥陀像は、有名な鎌倉大仏である。
参考A
尊卑奉加不は莫しは、庶民が寄進した銭を鋳つぶしたので、大仏は宋銭と同じ銅の成分である。

現代語寛元々年(1243)六月大十六日辛酉。午後2時頃、小雨で雷が鳴りました。深沢村に一軒のお寺を建立して、24mの阿弥陀像を造りました。今日開眼供養式典をしました。指導僧は、大蔵卿僧正良信、お供の坊さんは10人。寄付を募って歩いた勧進僧の浄光房は、この6年間、都も地方も勧進しました。身分の高い人も低い人も寄付をしない者はありませんでした。

寛元々年(1243)六月大十八日癸亥。京都使者參着。去十日午刻。皇子降誕云々。爲此御加持。大納言僧都隆弁去年上洛。爲件勸賞。同廿日敍法印。此御誕生。別爲將軍家御慶賀。有御外戚寄故也。仍御息(災)御祈用途事。可爲御沙汰云々。

読下し                      きょうと  ししゃさんちゃく   さんぬ とおかうまのこく  みこ こうたん  うんぬん
寛元々年(1243)六月大十八日癸亥。京都の使者參着す。去る十日午刻、皇子降誕と云々。

 こ  おんかじ   ため  だいなごんそうづりゅうべん きょねんじょうらく    くだん かんじょう な   おな   はつかほういん  じょ
此の御加持の爲、大納言僧都隆弁 去年上洛す。件の勸賞と爲し同じき廿日法印に敍す。

こ  ごたんじょう  べっ    しょうぐんけ ごけいが たり  ごがいせき  よせあ     ゆえなり
此の御誕生、別して將軍家御慶賀爲。御外戚の寄有るが故也。

よっ  おんそくさいおいの    ようとう  こと   ごさた たるべ     うんぬん
仍て御息災御祈りの用途の事、御沙汰爲可きと云々。

現代語寛元々年(1243)六月大十八日癸亥。京都からの使いが到着しました。先日に10日に皇子が誕生したそうです。この無事な出産を加持祈祷のために大納言僧都隆弁が去年京都へあがり、この褒美として同じ20日に法印を与えられました。このお誕生は、特別に将軍頼経様にはお祝いです。親戚として縁があるからです。それで、無事に育つようお祈りのための費用について、めいれいがありましたとさ。

寛元々年(1243)六月大廿日乙丑。來八月鶴岡放生會役人以下事。有其沙汰。

読下し                   きた  はちがつ つるがおかほうじょうえ えき  ひと いげ  こと  そ   さた あ
寛元々年(1243)六月大廿日乙丑。來る八月の 鶴岡放生會の役の人以下の事、其の沙汰有り。

現代語寛元々年(1243)六月大二十日乙丑。来る8月の鶴岡八幡宮の生き物を放ち原罪する儀式の放生会の役をする人以下お供などについて、命令がありました。

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