吾妻鏡入門第卅五巻

寛元元年癸卯(1243)七月小

寛元々年(1243)七月小十日乙酉。諸人訴論事。兩方證文分明之時者。雖不遂對决。可有成敗之由。被仰問注所云々。

読下し                   しょにん そろん  こと りょうほう しょうもんぶんめい のときは   たいけつ  と   ざる いへど   せいばいあ   べ   のよし
寛元々年(1243)七月小十日乙酉。諸人訴論の事、兩方の證文分明之時者、對决を遂げ不と雖も、成敗有る可き之由、

もんちゅうしょ  おお  られ   うんぬん
問注所へ仰せ被ると云々。

現代語寛元々年(1243)七月小十日乙酉。御家人達の訴訟について、双方の証拠書類がはっきりしている時には、双方を呼んで論争させなくても、結審するように、裁判担当の問注所へ命じましたとさ。

寛元々年(1243)七月小十五日庚寅。於御持佛堂。有盂蘭盆。導師卿僧正。將軍家出御云々。

読下し                     おんじぶつどう  をい     うらぼん あ     どうし きょうのそうじょう しょうぐんけいでたま   うんぬん
寛元々年(1243)七月小十五日庚寅。御持佛堂に於て、盂蘭盆@有り。導師は卿僧正。將軍家出御うと云々。

現代語寛元々年(1243)七月小十五日庚寅。将軍の守り本尊を祀る持仏堂で、お盆の供養盂蘭盆会がありました。指導僧は卿僧正良信(又は快雅)。将軍頼経様も出席だそうな。

解説@盂蘭盆は、今で云うお盆。餓鬼道に落ちた母を救う手段を仏にたずねた目連(もくれん)が、夏安居(げあんご)の最後の日の7月15日に僧を供養するよう教えられた故事を説いた盂蘭盆経に基づき、もと中国で苦しんでいる亡者を救うための仏事として七月十五日に行われた。日本に伝わって初秋の魂(たま)祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。迎え火・送り火をたき、精霊棚(しょうりょうだな)に食物を供え、僧に棚経(たなぎょう)を読んでもらうなど、地域によって各種の風習がある。江戸時代から旧暦の七月十三日から十六日までになり、現在地方では月遅れの八月十三日から十五日に行われるが、都会では七月に行う地域も多い。

寛元々年(1243)七月小十六日辛夘。天霽。戌尅。泰貞朝臣依仰。於由比浦勤風伯祭。春日部大和前司献祭料。宮内左衛門尉公景爲御使。

読下し                     そらはれ いぬのこく やすさだあそん おお    よっ    ゆいのうら  をい  ふうはくさい つと
寛元々年(1243)七月小十六日辛夘。天霽。戌尅、泰貞朝臣 仰せに依て、由比浦に於て風伯祭を勤む。

 かすかべやまとぜんじ さいりょう けん    くないさえもんのじょうきんかげ おんしたり
春日部大和前司祭料を献ず。宮内左衛門尉公景 御使爲。

現代語寛元々年(1243)七月小十六日辛卯。空は晴れました。午後8時頃、安陪泰貞は命じられて、由比浦で風伯祭を勤めました。春日部大和前司実平が祭の費用を献上しました。宮内左衛門尉公景が代参です。

寛元々年(1243)七月小十七日壬辰。臨時御出供奉人事。依不知其參否。毎度相催之條。且遲引基也。且奉行人煩也。兼令存知之。聞御出之期者。不論晝夜。爲令應御要。可結番之旨。被仰陸奥掃部助之間。以當時不祗候人數。令結番之。前大藏少輔行方於小侍加C書。所押臺所之上也。又就在國等。雖不加此人數。於時隨令參上。可被召具之。雖爲此衆。若有數輩同時故障者。可催加他番人之由。被仰出云々。
 定
  御共結番事〔次第不同〕
 上旬
  前右馬權頭     遠江馬助
  遠江式部大夫    足利大夫判官
  相摸右近大夫將監  甲斐前司
  遠江修理亮     能登守
  上総權介      秋田城介
  周防前司      毛利藏人
  越後二郎      遠山前大藏少輔
  大和前司      大隅前司
  上総式部大夫    春日部甲斐守
  宇都宮大夫判官   但馬右衛門大夫
  笠間判官      小山五郎左衛門尉
  新田三郎      上野弥四郎左衛門尉
  同十郎       宇都宮掃部助
  關左衛門尉     宇都宮五郎左衛門尉
  駿河五郎左衛門尉  佐原五郎左衛門尉
  葛西三郎左衛門尉  近江四郎左衛門尉
  和泉次郎左衛門尉  同七郎左衛門尉
  宮内左衛門尉    大須賀七郎左衛門尉
  木内次郎      宇佐美藤左衛門尉
  小野寺四郎左衛門尉 信濃四郎左衛門尉
  後藤新左衛門尉   多々良次郎左衛門尉
  山内藤内左衛門尉  澁谷次郎太郎
  佐貫太郎      大和次郎
  益戸三郎左衛門尉  本間次郎左衛門尉
  大見左衛門尉
 中旬
  武藏守       備前守
  相摸式部大夫    攝津前司
  佐渡前司      下野前司
  遠江右近大夫將監  大藏權少輔
  駿河式部大夫    河越掃部助
  相摸七郎      上総修理亮
  美作前司      江石見前司
  前太宰少貳     水谷右衛門大夫
  佐原大炊助     能登右近藏人
  隱岐大夫判官    信濃大夫判官
  藥師寺左衛門尉   佐竹八郎
  駿河八郎左衛門尉  武田五郎三郎
  梶原左衛門尉    武藤左衛門尉
  淡路又四郎左衛門尉 薗田弥二郎
  塩谷四郎左衛門尉  攝津左衛門尉
  大多和新左衛門尉  肥前太郎左衛門尉
  伊賀次郎左衛門尉  土肥次郎兵衛尉
  狩野五郎左衛門尉  常陸太郎
  千葉八郎      長江八郎四郎
  弥善太左衛門尉   内藤七郎左衛門尉
  後藤三郎左衞門尉  同小幡三郎左衛門尉
  雅樂左衛門尉    豊田源兵衛尉
  太宰三郎左衛門尉  安積六郎左衛門尉
  海老名左衛門尉   飯冨源内左衛門尉
  加藤左衛門尉
 下旬
  丹後前司      陸奥掃部助
  北條五郎兵衛尉   若狹前司
  越後掃部助     伊豆前司
  佐々木壹岐前司   少輔左近大夫將監
  陸奥七郎      出羽前司
  隱岐前大藏少輔   美濃前司
  佐原肥前々司    前隼人正
  伊賀前司      伯耆前司
  加賀民部大夫    信濃民部大夫
  佐渡大夫判官    但馬前司
  淡路式部大夫    常陸修理亮
  城次郎       小笠原六郎
  河津判官      上総五郎左衛門尉
  上野五郎兵衛尉   駿河九郎
  大曾祢兵衛尉    駿河又太郎左衛門尉
  隱岐次郎左衛門尉  佐原六郎左衛門尉
  東中務丞      伊東三郎左衛門尉
  弥次郎左衛門尉   長掃部左衛門尉
  加地七郎右衛門尉  同八郎左衛門尉
  大隅太郎左衛門尉  肥後四郎兵衛尉
  紀伊次郎左衛門尉  長尾三郎左衛門尉
  廣澤三郎左衛門尉  波多野六郎左衛門尉
  出羽次郎兵衛尉   伊賀四郎左衛門尉
  相馬左衛門五郎   海上五郎
  押垂左衛門尉
 右。守結番次第。參勤之状。依仰所定如件。
    寛元々年七月 日

読下し                     りんじ   おんいで  ぐぶにん   こと  そ   さんぴ   し   ざる  よっ    まいど あいもよお のじょう  
寛元々年(1243)七月小十七日壬辰。臨時の御出の供奉人の事、其の參否を知ら不に依て、毎度相催す之條、

かつう ちいん もといなり  かつう ぶぎょうにん わずら なり
 且は遲引の基也。且は奉行人の煩ひ也。

かね  これ  ぞんち せし   おんいで のご  き   ば   ちゅうや ろんぜず  ごよう  おう  せし    ため けちばんすべ のむね
兼て之を存知令め、御出之期を聞か者、晝夜を論不、御要に應じ令めん爲、結番可き之旨、

むつかもんのすけ  おお  られ  のあいだ  とうじ しこう せざ  にんずう  もっ    これ けちばんせし
陸奥掃部助に仰せ被る之間、當時祗候不る人數を以て、之を結番令め、 

さきのおおくらしょうゆうゆきかた こさむらい をい  せいしょ  くは    だいどころのかみ  お  ところなり
前大藏少輔行方  小侍に 於てC書を加へ、臺所之上に押す所@也。

また  ざいこくら   つ     かく  にんずう  くは      ざる いへど    とき  をい さんじょうせし     したが   これ  めしぐ され  べ
又、在國等に就き、此の人數に加へられ不と雖も、時に於て參上令むるに隨い、之を召具被る可き。

かく  しう  な    いへど    も   すうやからどうじ  こしょうあ  ば   ほか  ばん  ひと  もよお くは    べ   のよし  おお  いだされ   うんぬん
此の衆を爲すと雖も、若し數輩同時に故障有ら者、他の番の人を催し加へる可き之由、仰せ出被ると云々。

参考@臺所之上に押す所は、台所(食堂)に貼りだすなので、皆が見る場所であろうから、参勤の武士には食事が給付されていたのか?それとも手弁当を食べる場所なのか?分からない。

  さだめ
 定

    おんともけちばん  こと 〔 しだい ふどう 〕
  御共結番の事〔次第不同〕

 じょうじゅん
 上旬

    さきのうまごんのかみ          とおとうみうまのすけ
  前右馬權頭     遠江馬助

    とおとうみしきぶのたいふ       あしかがたいふほうがん
  遠江式部大夫    足利大夫判官

    さがみうこんたいふしょうげん     かいのぜんじ
  相摸右近大夫將監  甲斐前司

    とおとうみしゅりのすけ         のとのかみ
  遠江修理亮     能登守

    かずさごんのすけ           あいだのじょうすけ
  上総權介      秋田城介

    すおうのぜんじ             もうりくらんど
  周防前司      毛利藏人

    えちごのじろう             とおやまさきのおおくらしょうゆう
  越後二郎      遠山前大藏少輔

    やまとのぜんじ             おおすみぜんじ
  大和前司      大隅前司 参考大隅前司重隆は、三浦義澄大河戸重隆

    かずさしきぶのたいふ         かすかべかいのかみ
  上総式部大夫    春日部甲斐守

    うつのみやたいふほうがん      たじまうえもんたいふ
  宇都宮大夫判官   但馬右衛門大夫

    かさまのほうがん            おやまのごろうさえもんのじょう
  笠間判官      小山五郎左衛門尉

    にったのさぶろう            こうづけいやしろうさえもんのじょう
  新田三郎      上野弥四郎左衛門尉

    おなじきじうろう             うつのみやかもんのすけ
  同十郎       宇都宮掃部助

    せきさえもんのじょう          うつのみやごろうさえもんのじょう
  關左衛門尉     宇都宮五郎左衛門尉

    するがのごろうさえもんのじょう    さわらのごろうさえもんのじょう
  駿河五郎左衛門尉  佐原五郎左衛門尉

    かさいのさぶろうさえもんのじょう   おうみのしろうさえもんのじょう
  葛西三郎左衛門尉  近江四郎左衛門尉

    いずみのじろうさえもんのじょう    どうしちろうさえもんのじょう
  和泉次郎左衛門尉  同七郎左衛門尉

    くないさえもんのじょう         おおすがしちろうさえもんのじょう
  宮内左衛門尉    大須賀七郎左衛門尉

    きうちのじろう              うさみのとうさえもんのじょう
  木内次郎      宇佐美藤左衛門尉

    おのでらのしろうさえもんのじょう   しなののしろうさえもんのじょう
  小野寺四郎左衛門尉 信濃四郎左衛門尉

    ごとうしんさえもんのじょう       たたらのじろうさえもんのじょう
  後藤新左衛門尉   多々良次郎左衛門尉

    やまのうちとうないさえもんのじょう  しぶやのじろたろう
  山内藤内左衛門尉  澁谷次郎太郎

    さぬきのたろう             やまとのじろう
  佐貫太郎      大和次郎

    ましどのさぶろうさえもんのじょう   ほんまのじろうさえもんのじょう
  益戸三郎左衛門尉  本間次郎左衛門尉

    おおみのさえもんのじょう
  大見左衛門尉

  ちうじゅん
 中旬

    むさしのかみ              びぜんのかみ
  武藏守       備前守

    さがみしきぶのたいふ         せっつのぜんじ
  相摸式部大夫    攝津前司

    さどのぜんじ               しもつけぜんじ
  佐渡前司      下野前司

    とおとうみうこんたいふしょうげん   おおくらごんのしょうゆう
  遠江右近大夫將監  大藏權少輔

    するがしきぶのたいふ         かわごえかもんのすけ
  駿河式部大夫    河越掃部助

    さがみのしちろう           かずさしゅりのすけ
  相摸七郎      上総修理亮

    みまさかぜんじ            えのいわみのぜんじ
  美作前司      江石見前司

    さきのだいざいしょうに        みずたのうえもんたいふ
  前太宰少貳     水谷右衛門大夫

    さわらおおいのすけ         のとのうこんくらんど
  佐原大炊助     能登右近藏人

    おきのたいふほうがん        しなののたいふほうがん
  隱岐大夫判官    信濃大夫判官

    たくしじさえもんのじょう        さたけのはちろう
  藥師寺左衛門尉   佐竹八郎

    するがのはちろうさえもんのじょう  たけだのごろさぶろう
  駿河八郎左衛門尉  武田五郎三郎

    かじわらさえもんのじょう       むとうさえもんのじょう
  梶原左衛門尉    武藤左衛門尉

    あわじにまたしろうさえもんのじょう  そのだのいやじろう
  淡路又四郎左衛門尉 薗田弥二郎

    えんやのしろうさえもんのじょう    せっつのさえもんのじょう
  塩谷四郎左衛門尉  攝津左衛門尉

    おおたわしんさえもんのじょう     ひぜんのたろうさえもんのじょう
  大多和新左衛門尉  肥前太郎左衛門尉

    おおすがのじろうさえもんのじょう   といのじろうひょうえのじょう
  伊賀次郎左衛門尉  土肥次郎兵衛尉

    かのうのごろうさえもんのじょう     ひたちのたろう
  狩野五郎左衛門尉  常陸太郎

    ちばのはちろう             ながえのはちろうしろう
  千葉八郎      長江八郎四郎

    いやぜんたさえもんのじょう      ないとうしちろうさえもんのじょう
  弥善太左衛門尉   内藤七郎左衛門尉

    ごとうさぶろうさえもんのじょう     どうこばたさぶろうさえもんのじょう
  後藤三郎左衞門尉  同小幡三郎左衛門尉

    うたのさえもんのじょう         とよたげんのひょうえのじょう
  雅樂左衛門尉    豊田源兵衛尉

    だざいのさぶろうさえもんのじょう   あさかのろくろうさえもんのじょう
  太宰三郎左衛門尉  安積六郎左衛門尉

    えびなのさえもんのじょう       いいとみげんないさえもんのじょう
  海老名左衛門尉   飯冨源内左衛門尉

    かとうさえもんのじょう
  加藤左衛門尉

  げじゅん
 下旬

    たんごのぜんじ             むつかもんのすけ
  丹後前司      陸奥掃部助

    ほうじょうgろうひょえのじょう      わかさのぜんじ
  北條五郎兵衛尉   若狹前司

    えちごのかもんのすけ         いずのぜんじ
  越後掃部助     伊豆前司

    ささきのいきぜんじ           しょうゆうさこんたいふしょうげん
  佐々木壹岐前司   少輔左近大夫將監

    むつのしちろう             でわのぜんじ
  陸奥七郎      出羽前司

    おきさきのおおくらしょうゆう      みののぜんじ
  隱岐前大藏少輔   美濃前司

    さわらのひぜんぜんじ         さきのはやとのしょう
  佐原肥前々司    前隼人正

    いがのぜんじ              ほうきのぜんじ
  伊賀前司      伯耆前司

    いがみんぶのたいふ          しなのみんぶのたいふ
  加賀民部大夫    信濃民部大夫

    さどのたいふほうがん         たじまのぜんじ
  佐渡大夫判官    但馬前司

    あわじしきぶのたいふ         ひたちしゅりのすけ
  淡路式部大夫    常陸修理亮

    じょうのじろう              おがわさわのろくろう
  城次郎       小笠原六郎

    かわづのほうがん           かずさのごろうさえもんのじょう
  河津判官      上総五郎左衛門尉

    こうづけごろうひょうえのじょう     するがのくろう
  上野五郎兵衛尉   駿河九郎

    おおそねのひょうえのじょう     するがまたたろうさえもんのじょう
  大曾祢兵衛尉    駿河又太郎左衛門尉

    おきのじろうさえもんのじょう     さわらのろくろうさえもんのじょう
  隱岐次郎左衛門尉  佐原六郎左衛門尉

    とうのなかつかさのじょう       いとうのさぶろうさえもんのじょう
  東中務丞      伊東三郎左衛門尉

    いやじろうさえもんのじょう      ちょうのかもんさえもんのじょう
  弥次郎左衛門尉   長掃部左衛門尉

    kぢのしちろううえもんのじょう     どうはちろうさえもんのじょう
  加地七郎右衛門尉  同八郎左衛門尉

    おおすみのたろうさえもんのじょう  ひごのしろうひょうえのじょう
  大隅太郎左衛門尉  肥後四郎兵衛尉

    きいのじろうさえもんのじょう      ながおのさぶろうさえもんのじょう
  紀伊次郎左衛門尉  長尾三郎左衛門尉

    ひろさわのさぶろうさえもんのじょう  はたののろくろうさえもんのじょう
  廣澤三郎左衛門尉  波多野六郎左衛門尉

    でわのじろうひょうえのじょう      いがのしろうさえもんのじょう
  出羽次郎兵衛尉   伊賀四郎左衛門尉

    そうまのさえもんごろう         うなかみのごろう
  相馬左衛門五郎   海上五郎

    おしだれのさえもんのじょう
  押垂左衛門尉

  みぎ  けちばん  しだい  まも    さんきんのじょう  おお    よっ  さだ   ところくだん ごと
 右、結番の次第を守り、參勤之状、仰せに依て定める所件の如し。

        かんげんがんねん しちがつ にち
    寛元々年 七月 日

現代語寛元々年(1243)七月小十七日壬辰。臨時の外出のお供に付いて、その参加するかしないかを知らないので、毎回決めるのは、一つは出発が遅れる基だし、一つは担当者の手間が大変だ。予め決めて承知していれば、外出の時間を聞けば、昼夜を問わず、お供が出来るように順番を決めておくよう、陸奥掃部助北条実時におっしゃられたので、今来ていない人の数を定員にして順番を決めて、前大蔵少輔二階堂行方が、小侍所で清書をして、食堂の上に貼りだしました。
又、国元へ帰っていて、この人数に指名されて居なくても、その時に来ていればこれも連れて行きます。このメンバーに入っていても、若し何人か同時に(何かの理由で)不参加が出た時は、他の番の人を指名するようにと仰せになられましたとさ。

 定め書き
  お供をする順番について〔順不同〕
 上旬(49名)
  前右馬権頭北条政村(常盤)  遠江馬助北条清時(名越)
  遠江式部大夫北条時章(名越) 大夫判官足利家氏
  相模右近大夫将監時定    甲斐前司長井泰秀
  遠江修理亮北条時幸(名越)  能登守三浦光村
  上総権介秀胤        秋田城介安達義景

  周防前司中原親実      毛利蔵人経光
  越後二郎          遠山前大蔵少輔景朝
  大和前司伊藤祐時      大隅前司大河戸重隆
  上総式部大夫時秀      春日部甲斐守実景
  宇都宮大夫判官頼業     但馬右衛門大夫藤原定範

  笠間判官時朝        小山五郎左衛門尉長村
  新田三郎          上野弥四郎左衛門尉結城時光
  同十郎結城朝村       宇都宮掃部助時村
  関左衛門尉政泰       宇都宮五郎左衛門尉泰親
  駿河五郎左衛門尉三浦資村  佐原五郎左衛門尉盛時

  葛西三郎左衛門尉      近江四郎左衛門尉氏信
  和泉次郎左衛門尉天野景氏  同七郎左衛門尉天野景経
  宮内左衛門尉公重      大須賀七郎左衛門尉重信
  木内次郎胤家        宇佐美藤左衛門尉祐時
  小野寺四郎左衛門尉通時   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠

  後藤新左衛門尉       多々良次郎左衛門尉通定
  山内藤内左衛門尉通重    渋谷次郎太郎武重
  佐貫太郎時信        大和次郎宗綱
  益戸三郎左衛門尉      本間次郎左衛門尉信忠
  大見左衛門尉実景

 中旬(49名)
  武蔵守北条経時       備前守北条時長
  相模式部大夫北条時直    摂津前司中原師員
  佐渡前司後藤基綱      下野前司宇都宮泰綱
  遠江右近大夫将監北条時兼  大蔵権少輔結城朝広
  駿河式部大夫三浦家村    河越掃部助泰重

  相模七郎北条時弘      上総修理亮千葉政秀
  美作前司宇都宮時綱     石見前司大江能行
  前太宰少弐狩野為佐     水谷右衛門大夫重輔
  佐原大炊助経連       能登右近蔵人中原仲時
  隠岐大夫判官二階堂行久   信濃大夫判官二階堂行綱

  薬師寺左衛門尉朝村     佐竹八郎助義
  駿河八郎左衛門尉三浦胤村  武田五郎三郎政綱
  梶原左衛門尉景俊      武藤左衛門尉景頼
  淡路又四郎左衛門尉長沼宗泰 薗田弥二郎
  塩谷四郎左衛門尉      摂津左衛門尉狩野為光

  大多和新左衛門尉      肥前太郎左衛門尉佐原胤家
  伊賀次郎左衛門尉光房    土肥次郎兵衛尉朝平
  狩野五郎左衛門尉為広    常陸太郎
  千葉八郎胤時        長江八郎四郎景秀
  弥善太左衛門尉三善康義   内藤七郎左衛門尉盛継

  後藤三郎左衛門尉基村    同小幡三郎左衛門尉
  雅楽左衛門尉源時景     豊田源兵衛尉
  太宰三郎左衛門尉狩野為成  安積六郎左衛門尉祐長
  海老名左衛門尉忠行     飯富源内左衛門尉長能
  加藤左衛門尉行景

 下旬(49名)
  丹後前司足利泰氏      陸奥掃部助北条実時
  北条五郎兵衛尉時頼     若狭前司三浦泰村
  越後掃部助北条時景     伊豆前司若槻頼定
  佐々木壱岐前司泰綱     少輔左近大夫将監大江佐房
  陸奥七郎北条業時      出羽前司二階堂行義

  隠岐前大蔵少輔二階堂行方  美濃前司中原親実
  佐原肥前前司家連      前隼人正伊賀光重
  伊賀前司小田時家      伯耆前司葛西清親
  加賀民部大夫町野康持    信濃民部大夫二階堂行盛
  佐渡大夫判官後藤基政    但馬前司藤原定員

  淡路式部大夫        常陸修理亮重継
  城次郎安達頼景       小笠原六郎時長
  河津判官尚景        上総五郎左衛門尉境泰秀
  上野五郎兵衛尉結城重光   駿河九郎三浦重村
  大曽祢兵衛尉長泰      駿河又太郎左衛門尉三浦氏村

  隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清 佐原六郎左衛門尉時連
  東中務丞胤行        伊東三郎左衛門尉祐綱
  弥次郎左衛門尉親盛     長掃部左衛門尉長谷部秀連
  加治七郎左衛門尉佐々木氏綱 同八郎左衛門尉佐々木信朝
  大隅太郎左衛門尉大川戸重村 肥後四郎兵衛尉行定

  紀伊次郎左衛門尉為経    長尾三郎左衛門尉光景
  広沢三郎左衛門尉実能    波多野六郎左衛門尉
  出羽次郎兵衛尉二階堂行有  伊賀四郎左衛門尉朝行
  相馬左衛門五郎胤村     海上五郎胤有
  押垂左衛門尉時基

 右に決めた順番を守り、勤務することを、将軍の仰せに従って決めたのはこの通りです。
   還元元年 七月  日

愚問49名と云う事は、将軍を入れて50名にしたのか?

寛元々年(1243)七月小十八日癸巳。去八日除目聞書到來。北條親衛被任武藏守。前武藏守朝直遷任遠江守云々。」今夜戌尅。被行天變御祈。泰貞朝臣奉仕。御使式部次郎藏人。雜掌河野左衛門入道。

読下し                     さんぬ ようか   じもく   ききがきとうらい   ほうじょうしんえい むさしのかみ にん  られ
寛元々年(1243)七月小十八日癸巳。去る八日の除目の聞書到來す。北條親衛 武藏守に任じ被る。

さきのむさしのかみともなお とおとうみのかみ せんにん    うんぬん
前武藏守朝直 は、遠江守に遷任すと云々。」

こんやいぬのこく てんぺん おいの   おこなはれ   やすさだあそんほうし    おんし  しきぶのじろうくらんど  ざっしょう こうののさえもんにゅうどう
今夜戌尅、天變の御祈りを行被る。泰貞朝臣奉仕す。御使は式部次郎藏人。雜掌は河野左衛門入道。

現代語寛元々年(1243)七月小十八日癸巳。去る8日の朝廷の人事異動を書いた紙が届きました。北条親衛経時が武蔵守に任命されました。前武蔵守朝直は、遠江守に転任になりましたとさ。」
今夜、午後8時頃に、天変地異を鎮めるお祈りを行いました。安陪泰貞さんが勤めました。代参は式部次郎蔵人。供物係は、河野左衛門入道です。

寛元々年(1243)七月小廿日乙未。佐藤民部大夫業時蒙厚免。自鎭西歸參云々。

読下し                    さとうみんぶたいふなりとき こうめん  こうむ   ちんぜいよ   きさん    うんぬん
寛元々年(1243)七月小廿日乙未。佐藤民部大夫業時@厚免を蒙り、鎭西自り歸參すと云々。

現代語寛元々年(1243)七月小二十日乙未。佐藤民部大夫業時が、許されて九州から帰って来ましたとさ。

解説@佐藤民部大夫業時は、24巻仁治2年5月20日楽書をして奇怪の罪で評定衆を外され、26日九州へ流罪になった。

寛元々年(1243)七月小廿九日甲辰。將軍家可有御上洛之由。内々依思食立。六波羅御所可加修理之旨。日來被仰訖。而可有王相方御憚之間。云新造。云修理。節以後可有其沙汰之由。今日被仰遣相州之許云々。

読下し                     しょうぐんけごじょうらくあ   べ   のよし  ないないおぼ  め   た     よっ
寛元々年(1243)七月小廿九日甲辰。將軍家御上洛有る可き之由、内々思し食し立つに依て、

ろくはら ごしょ   しゅうり  くわ    べ   のむね  ひごろおお られをはんぬ
六波羅御所に修理を加へる可き之旨、日來仰せ被訖。

しか    おうそうかた  おんはばか あ  べ  のあいだ  しんぞう  い     しゅうり  い     せつ いご   そ    さた あ   べ   のよし
而るに王相@方に御憚り有る可き之間、新造と云ひ、修理と云ひ、節以後に其の沙汰有る可き之由、

きょう そうしゅうのもと  おお  つか  され   うんぬん
今日相州之許へ仰せ遣は被ると云々。

参考@王相は、王神と相神で月ごとに方角が禁忌とされる。

現代語寛元々年(1243)七月小二十九日甲辰。将軍頼経様が京都へ行きたいと内々に思い立ったので、六波羅御所を修理するようにとこの頃云っておられます。しかし、王相方に当たっているので、新築も修理も節以後にその命令を出すように、今日、相州重時の所へ云い伝えましたとさ。

閏七月へ

吾妻鏡入門第卅五巻

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