吾妻鏡入門第卅五巻

寛元元年癸卯(1243)閏七月小

寛元々年(1243)閏七月小二日丙午。御持佛堂供花結願也。將軍家日來手自所書寫給之法花妙典。被遂供養。導師岡崎僧正。布施物等過差至極也。諸人屬目云々。

読下し                     おんじぶつど くうげ  けちがんなり
寛元々年(1243)閏七月小二日丙午。御持佛堂@供花Aの結願也。

しょうぐんけひごろ て   よ   しょしゃ  たま  ところのほっけみょうてん  くよう    と   られ
將軍家日來手づ自り書寫し給ふ所之法花妙典、供養を遂げ被る。

どうし   おかざきそうじょう  ふせもの ら   かさ しごくなり  しょにんしょくもく   うんぬん
導師は岡崎僧正。布施物等の過差至極也。諸人屬目Bすと云々。

現代語寛元々年(1243)閏七月小二日丙午。将軍の守り本尊を祀る持仏堂への花を捧げる儀式の最終日です。将軍頼経様は普段自分で手書きしている法華経典の開眼供養も出来ました。指導僧は岡崎僧正成源。お布施の多い事はこの上ありません。世間の注目を集めましたとさ。

参考@御持佛堂は、久遠寿量院。
参考A
供花は、「供花会(くげえ)」の略。仏に花をささげる儀式。京都六波羅蜜寺で3月に行われた法華八講を結縁供花と称したのに始まり、5月と9月に京都六条長講堂で行われた法会などが著名。Goo電子辞書から。
参考B
屬目は、注目を集める。

寛元々年(1243)閏七月小六日庚戌。洛中辻々篝屋雖被定員數并立所。依無其地。一兩所于今未作云々。仍今日有沙汰。彼地事。以承久没収注文。尋出便宜之地。可被相博之由。被仰六波羅云々。

読下し                     らくちうつじつじ かがりや いんずうなら    りっしょ  さだ  られ   いへど   そ   ち な     よっ   いちりょうしょいま に みさく  うんぬん
寛元々年(1243)閏七月小六日庚戌。洛中辻々の篝屋@、員數并びに立所を定め被ると雖も、其の地無きに依て、一兩所今于未作と云々。

よっ  きょう  さた あ
仍て今日沙汰有り。

か   ち   こと じょうきゅうぶっしゅちうもん もっ    びんぎ の ち  たず  いだ    そうはくされ  べ   のよし   ろくはら  おお  られ   うんぬん
彼の地の事、承久没収注文を以て、便宜之地を尋ね出し、相博A被る可き之由、六波羅へ仰せ被ると云々。

参考@篝屋は、京都市中の交差点などでかがり火を焚いている番屋で最終的に48箇所あった。
参考A
相博は、合意の上等価交換する事。

現代語寛元々年(1243)閏七月小六日庚戌。京都市中の交差点などのかがり火を焚いている番屋の、人数や警備に建つ場所を決めてありますが、丁度良い土地が無くて、一・二か所未だ設置してないんだそうな。それで今日、決定がありました。其の地については、承久の乱で没収した土地の書き出しを使って、ちょうど良い代替え地を見つけて、交換するように六波羅探題へ伝えましたとさ。

寛元々年(1243)閏七月小七日辛亥。越堺下人事。重及御沙汰。是地頭与百姓令差別者。更無落居之儀故也。於前々事者。共以不及沙汰。自今以後。相交可令糺返之由。被仰付加賀民部大夫云々。

読下し                     さかい こ   げにん  こと  かさ    おんさた  およ
寛元々年(1243)閏七月小七日辛亥。堺を越す下人の事、重ねて御沙汰に及ぶ。

これ  ぢとう とひゃくしょう さべつせし  ば   さら  らっきょ のぎ な     ゆえなり
是、地頭与百姓@と差別令め者、更に落居之儀無きの故也。

さきざき  こと  をい  は   とも  もっ   さた  およばず
前々の事に於て者、共に以て沙汰に不及。

いまよ   いご   あいまじ    ただ  かえせし  べ   のよし   かがみんぶたいふ   おお  つ   られ    うんぬん
今自り以後、相交へて糺し返令む可し之由、加賀民部大夫に仰せ付け被ると云々。

参考@地頭与百姓とは、地頭の下人と百姓の下人と。

現代語寛元々年(1243)閏七月小七日辛亥。領域を超えて逃げ出して来た奴隷的下部について、なおも決定をしました。これは、地頭の下部と百姓(耕作権利人)の下部を差別すれば、なおさら解決への道は遠いでしょう。以前の事は干渉しません。今から以後は、逃げてきた元の領主に返すようにすると、加賀民部大夫三善町野康持に命じられましたとさ。

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