吾妻鏡入門第卅五巻

寛元元年癸卯(1243)八月大

寛元々年(1243)八月大十五日戊子。鶴岡八幡宮放生會也。將軍家御出〔御車〕如例。越後守光時御劔。梶原左衛門尉景俊懸御調度。信濃大夫判官行綱。河津大夫判官尚景〔各具家子〕等供奉。

読下し                    つるがおかはちまんぐう ほうじょうえなり  しょうぐんけ おんいで 〔おくるま〕 れい  ごと   えちごのかみみつとき ぎょけん
寛元々年(1243)八月大十五日戊子。鶴岡八幡宮の 放生會也。將軍家 御出〔御車〕例の如し。越後守光時 御劔。 

 かじわらさえもんのじょうかげとし ごちょうど  か     しなのたいふほうがんゆきつな  かわづたいふほうがんなおかげ 〔おのおの いえのこ  ぐ    〕 ら ぐぶ
梶原左衛門尉景俊 御調度を懸く。信濃大夫判官行綱、 河津大夫判官尚景 〔 各 家子を具す〕等供奉す。

現代語寛元々年(1243)八月大十五日戊子。鶴岡八幡宮の生き物を放して贖罪する放生会です。将軍頼経様のお出ましは何時もの通りです。〔牛車〕越後守名越流北条光時が刀持ちです。梶原左衛門尉景俊が弓矢を担いでいます。信濃民部大夫判官二階堂行綱。河津大夫判官尚景がお供です。〔それぞれ一族や部下を連れています〕

寛元々年(1243)八月大十六日己丑。將軍家御參宮如昨日。自今年三ケ年。馬塲儀。依御立願可有結搆云々。仍十列。武藤左衛門尉。加藤左衛門尉。加地七郎左衛門尉。紀伊次郎左衛門尉。長掃部左衛門尉以下騎之。信濃大夫判官。小笠原六郎。駿河五郎左衛門尉。上野十郎。加地八郎左衛門尉以下。爲流鏑馬射手。同的立。能登前司。但馬前司。隱岐前大藏少輔。上野大藏權少輔。大隅前司。上総權介以下立之。競馬。雅樂左衛門尉。左府生兼見。本間左衛門尉。中村馬三郎以下。被召决之也云々。

読下し                     しょうぐんけ ごさんぐう さくじつ  ごと
寛元々年(1243)八月大十六日己丑。將軍家 御參宮昨日の如し。

ことし よ   さんかねん  ばば   ぎ   ごりゅうがん  よっ  けっこうあ   べ     うんぬん
今年自り三ケ年、馬塲の儀@、御立願に依て結搆有る可きと云々。

よっ  じうれつ  むとうさえもんのじょう  かとうさえもんのじょう  かぢのしちろうさえもんのじょう  きいのじろうさえもんのじょう  ちょうのかもんさえもんのじょう いげ これ  の
仍て十列、武藤左衛門尉、加藤左衛門尉、加地七郎左衛門尉、紀伊次郎左衛門尉、長掃部左衛門尉 以下之に騎る。

しなのたいふほうがん  おがさわのろくろう  するがのごろうさえもんのじょう こうずけのじうろう かぢのはちろうさえもんのじょう いげ    やぶさめ   いて たり
信濃大夫判官、小笠原六郎、駿河五郎左衛門尉、上野十郎、加地八郎左衛門尉 以下、流鏑馬の射手爲。

おな    まとたて  のとのぜんじ  たじまのぜんじ おきさきのおおくらしょうゆう こうづけおおくらのしょうゆう  おおすみぜんじ  かずさごんのすけ いげ これ  た
同じき的立、能登前司、但馬前司、隱岐前大藏少輔、上野大藏權少輔、大隅前司、 上総權介 以下之を立てる。

くらべうま  うらさえもんのじょう    さふしょうかねみ   ほんまさえもんのじょう  なかむらうまさぶろう いげ   これ  めしけっ  られ  なり  うんぬん
競馬A、雅樂左衛門尉、左府生兼見、本間左衛門尉、中村馬三郎 以下、之を召决せ被る也と云々。

参考@馬場の儀は、@馬長A流鏑馬B競馬の三種。馬長(あげうま)は、馬飾りを着け着飾った者が乗る。祭礼草子に馬上役と出てくる。「めのおさ」
参考A競馬は、二頭で争うが、一頭が先に走り出し一頭が追い駆ける。逃げ切りの勝ちと追いついて捕まえの勝ち。46巻建長8年8月16日の記事が分かり易い。

現代語寛元々年(1243)八月大十六日己丑。将軍頼経様のお参りは昨日と同じです。今年から三年間は、馬場での行事は願掛けがあるので豪華にとの事だそうな。それで十列で、武藤左衛門尉景頼・加藤左衛門尉行景・加治七郎左衛門尉佐々木氏綱・紀伊次郎左衛門尉為経・長掃部左衛門尉長谷部秀連以下が着飾った馬長に乗る。信濃大夫判官二階堂行綱・小笠原六郎時長・駿河五郎左衛門尉三浦資村・上野十郎結城朝村・加治八郎左衛門尉佐々木信朝以下が流鏑馬の射手です。同様に流鏑馬の的立役は、能登前司三浦光村・但馬前司藤原定員・隠岐前大蔵少輔二階堂行方・上野大蔵権少輔結城朝広・大隅前司大河戸重隆・上総権介境秀胤以下がこれを立てました。競馬は、雅楽左衛門尉源時景・左府生兼見・本間次郎左衛門尉信忠・中村馬三郎以下が二人づつ走り比べました。

 

寛元々年(1243)八月大廿四日丁酉。天霽。於御所廊。被行千度御秡。泰貞。リ茂。泰守。リ長。國継。リ貞。以平。泰房。泰兼〔以上衣冠〕等勤之。被催此人數之處。宣賢乍進奉。臨尅稱不可候泰守座下。進男資宣之間。被止出仕間。泰兼爲其替云々。陪膳相摸右近大夫將監時定。遠江式部大夫時章〔已上布衣〕也。攝津前司師員朝臣奉行之。

読下し                     そらはれ  ごしょ  ろう  をい    せんど  おんはら   おこなはれ
寛元々年(1243)八月大廿四日丁酉。天霽。御所の廊に於て、千度の御秡へを行被る。

やすさだ はるもち やすもり はるなが くにつぐ はるさだ  もちひら  やすふさ やすかね 〔いじょういかん〕  ら これ  つと
泰貞、リ茂、泰守、リ長、國継、リ貞、以平、泰房、泰兼〔以上衣冠〕等之を勤む。

こ   にんずう  もよおされ のところ のぶかた たてまつ しん  なが    とき  のぞ  やすもり  ざげ   こう  べからず  しょう
此の人數を催被る之處、宣賢 奉りを 進じ乍ら、尅に臨み泰守が座下に候ず不可と稱し、

だんすけのぶ すす   のあいだ  しゅっし と   られ   あいだ  やすかね そ  かえ  な     うんぬん
男資宣を進める之間、出仕を止め被るの間、泰兼其の替を爲すと云々。

ばいぜん さがみのうこんたいふしょうげんときさだ  とおとうみしきぶのたいふときあきら 〔いじょう ほい 〕 なり  せっつのぜんじもろかずあそん これ  ぶぎょう
陪膳は 相摸右近大夫將監時定、 遠江式部大夫時章 〔已上布衣〕也。攝津前司師員朝臣 之を奉行す。

現代語寛元々年(1243)八月大二十四日丁酉。空は晴れました。御所の廊下で千回のお祓いを行いました。安陪泰貞・晴茂・泰守・晴長・国継・晴貞・以平・泰房・泰兼〔以上衣冠束帯〕達がこれを勤めました。この順番を決めるている際に、宣賢は承知していながら、その時になって泰守より下位には座りたくないと云って、息子の資宣を水洗したので、出席を止められましたので、泰兼がその代わりをしました。お給仕は、相模右近大夫将監北条時定と遠江式部大夫名越流北条時章です。摂津前司中原師員が指揮担当しました。

寛元々年(1243)八月大廿六日己亥。三嶋御神事也。以放生會流鏑馬射手以下役人。所被遂行之也。爲殊御宿願云々。」今日。武州〔經時〕被遣御書於問注所。是武州禪門時。有成敗事。訴人不進懸物押書者。縱可遂問答之由雖有御書下。不可被召决云々。執事加賀民部大夫献請文云々。」入夜。將軍家令移前右馬權頭亭御。是小御所并御持佛堂以下可被壞立之間。爲被移四十五日御方忌也云々。

読下し                     みしま   ごしんじなり   ほうじょうえ   やぶさめ   いて いげ   えき  ひと  もっ    これ  すいこうされ ところなり
寛元々年(1243)八月大廿六日己亥。三嶋の御神事也。放生會の流鏑馬の射手以下の役の人を以て、之を遂行被る所也。

こと    ごすくがんたり  うんぬん
殊なる御宿願爲と云々。」

きょう   ぶしゅう 〔つねとき〕 おんしょを もんちうじょ  つか  され
今日、武州〔經時〕御書於問注所に遣は被る。

これ  ぶしゅうぜんもん とき  せいばいあ   こと  そにん かけもの おしがき  しん  ず   ば   たと  もんどう  と     べ   のよしおんしょくだ  あ    いへど
是、武州禪門の時、成敗有る事、訴人 懸物 押書を進ぜ不ん者、縱い問答を遂げる可き之由御書下し有ると雖も、

め   けっ  られ  べからず  うんぬん   しつじ かがのみんぶたいふ うけぶみ  けん    うんぬん
召し决せ被る不可と云々。執事加賀民部大夫 請文を献ずと云々。」

 よ   い    しょうぐんけ  さきのうまごんのかみ てい  うつ  せし  たま
夜に入り、將軍家、前右馬權頭の亭へ移ら令め御う。

これ  こごしょ なら    おんじぶつどう いげ こぼ  た   られ  べ  のあいだ  しじうごにち  おんかたいみ  うつられ  ためなり  うんぬん
是、小御所并びに御持佛堂以下壞ち立て被る可き之間、四十五日の御方忌に移被る爲也と云々。

現代語寛元々年(1243)八月大二十六日己亥。三島社の神事です。16日の流鏑馬の射手以下の役の人で、これをやり遂げたのです。特別な願い事があるからだそうな。」
今日、武州経時は、文章を裁判担当の問注所へ命じました。これは、武州禅門泰時さんの時、結審がある時、原告が担保の土地所有由緒書きを出さなければ、仕方ないので原告被告で三問三答の掛け合いをさせるように、文書命令を出しましたけど、呼びつけて掛け合いをさせる事無く棄却する。との事だそうな。問注所筆頭の
加賀民部大夫三善町野康持は、了承の返事を出しましたとさ。」
夜になって、将軍頼経様は、前右馬権頭北条政村の屋敷へお移りになりました。これは、小御所と持仏堂などを壊して建て直すまでの間、45日の縁起を担いで移ったのです。

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吾妻鏡入門第卅五巻

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