吾妻鏡入門第卅五巻

寛元二年甲辰(1244)九月小

寛元二年(1244)九月小一日己亥。京都使者參着。去月廿五日敍正五位下給云々。是前將軍家閑院修造功云々。

読下し                   きょうと   ししゃさんちゃく   さんぬ つき にじうごにち しょうごいのげ   じょ  たま    うんぬん
寛元二年(1244)九月小一日己亥。京都の使者參着す。去る月 廿五日 正五位下に敍し給ふと云々。

これ  さきのしょうぐんけ かんいん しゅうぞう こう  うんぬん
是、前將軍家の 閑院 修造の功と云々。

現代語寛元二年(1244)九月小一日己亥。京都朝廷からの使いが着きました。先月25日将軍頼嗣は正五位下に任命されたとの事です。これは、前将軍頼経様が里内裏を修理したお手柄だそうです。

寛元二年(1244)九月小二日庚子。六波羅飛脚參着。去月廿九日今出河相國禪閤薨御〔御年七十四〕之由申之。

読下し                    ろくはら   ひきゃくさんちゃく  さんぬ つき にじうくにち いまでがわしょうこくぜんこう こうご  〔 おんとししちじうし 〕  のよし   これ  もう
寛元二年(1244)九月小二日庚子。六波羅の飛脚參着す。去る月 廿九日 今出河相國禪閤 薨御〔御年七十四〕之由、之を申す。

現代語寛元二年(1244)九月小二日庚子。六波羅探題の伝令が着きました。先月29日に今出川相国禅閤西園寺公経さんが亡くなった〔年74才〕ことを報告しました。

寛元二年(1244)九月小三日辛丑。依相國御事。前大納言家御輕服也。當將軍者。爲彼御曾孫也。旁有其沙汰。二十ケ日可止評定之由被定之云々。

読下し                   しょうこく  おんこと  よっ    さきのだいなごんけ ごきょうぶくなり  とうしょうぐんは   か  おんひまごたるなり
寛元二年(1244)九月小三日辛丑。相國の御事に依て、前大納言家御輕服也。 當將軍者、彼の御曾孫爲也。

かたがた そ  さた あ     はつかがにちひょうじょう と     べ   のよし  これ  さだ  られ    うんぬん
 旁 其の沙汰有り。二十ケ日評定を止める可し之由、之を定め被ると云々。

現代語寛元二年(1244)九月小三日辛丑。西園寺公経さんの死によって、前大納言家頼経様は軽い喪に服します。今の将軍頼嗣はひ孫にあたります。政務の連中が検討をして、20日間政務会議を止めるように、お決めになりましたとさ。

寛元二年(1244)九月小五日癸卯。近江前司爲使節上洛。依今出河殿御事也。

読下し                   おうみのぜんじ しせつ  な  じょうらく    いまでがわどの  おんこと  よっ  なり
寛元二年(1244)九月小五日癸卯。近江前司使節と爲し上洛す。今出河殿の御事に依て也。

現代語寛元二年(1244)九月小五日癸卯。近江前司佐々木氏信は幕府の代表として京都へ上ります。今出川殿西園寺公経様の弔いの事でです。

寛元二年(1244)九月小十三日辛亥。明春大納言家可有御上洛事。去月評定。有其沙汰治定之間。今日。諸事奉行等被差定之。

読下し                    みょうしゅん だいなごんけ ごじょうらくあ   べ    こと  さんぬ つき ひょうじょう    そ    さた ちじょうあ   のあいだ
寛元二年(1244)九月小十三日辛亥。明春、大納言家御上洛有る可きの事、去る月の評定で、其の沙汰治定有る之間、

きょう しょじ ぶぎょうら これ  さ   さだ  られ
今日諸事奉行等之を差し定め被る。

現代語寛元二年(1244)九月小十三日辛亥。来春、前大納言家頼経様が京都へ上る事について、先月の政務会議でそのことを決めましたが、今日その準備の担当を指名して決めました。

寛元二年(1244)九月小十五日癸丑。後鳥羽院御追福摺寫法華經。於御持佛堂被奉讀始之。定親法師奉仕之。

読下し                       ごとばいん   ごついぶく  ほけきょう  すりうつ    おんじぶつどう  をい  これ  よ   はじ たてまつ られ
寛元二年(1244)九月小十五日癸丑。後鳥羽院の御追福に法華經の摺寫し、御持佛堂に於て之を讀み始め奉つ被る。

じょうしんほうしこれ  ほうし
定親法師之を奉仕す。

現代語寛元二年(1244)九月小十五日癸丑。後鳥羽院の冥福を祈るために、法華経を摺って持仏堂でこれを読み始めました。定親法師が勤めました。

寛元二年(1244)九月小十九日丁巳。大殿明春御上洛事。爲但馬前司定員奉行。有御沙汰等。日次事二月一日可有御進發之由。被思食之處。爲四不出日之旨。依有其説。可憚否。被召問維範。リ賢等朝臣。各定申云。四不出日勿論也。但賀(茂)家不憚之歟。保憲暦林。擇入丙寅丙午。不可有禁忌。二月九日吉日也。以件日可爲御入洛之期歟。一日御進發。有十六日御入洛者厭對日也。出行可憚之。旁可被用九日云々。

読下し                     おおとの みょうしゅん ごじょうらく  こと  たじまのぜんじさだかず ぶぎょう  な    おんさた  ら あ
寛元二年(1244)九月小十九日丁巳。大殿 明春 御上洛の事、 但馬前司定員 奉行と爲し、御沙汰等有り。

なみ  こと  にがつついたち ごしんぱつあ   べ   のよし   おぼ  め され  のところ  よんふしゅつび たる のむね  そ   せつあ     よっ
日次の事、二月一日に御進發有る可き之由、思し食被る之處、 四不出日@爲之旨、其の説有るに依て、

はばか べ     いな   これのり はるかたら   あそん   めしと   れる
憚る可きや否や、維範、リ賢等の朝臣に召問は被。

おのおの さだ  もう    い       よんふしゅつび  もちろんなり  ただ   かもけ  これ はばからずか
 各 定め申して云はく。四不出日は勿論也。但し賀茂家は之を不憚歟。

やすのり   れきりん  ひのえとら ひのえうま えら  い     きんき あ  べからず
保憲Aの暦林に、丙寅、丙午を擇び入る。禁忌有る不可。

にがつここのか きちじつなり  くだん ひ   もっ   ごじゅらく のご たるべ  か   ついたち ごしんぱつ  じうろくにち  ごじゅらく あ   ば えんたいにちなり
二月九日は吉日也。件の日を以て御入洛之期爲可き歟。一日の御進發、十六日の御入洛有ら者厭對日B也。

しゅっこうこれ はばか べ   かたがた ここのか もち  られ  べ     うんぬん
出行之を憚る可し。 旁 九日を用い被る可きと云々。

参考@四不出日は、出るのが縁起が悪い日。乙卯。戊午。辛酉。壬子。但し寛元3年2月1日は丙寅。
参考A保憲は、賀茂保憲(917-977)。陰陽師で安陪清明の兄弟子とも師匠とも。
参考B
厭對日は、婚礼・外出・種蒔を忌む日、11月は午の日。12月は巳の日、正月は辰の日と逆回り。

現代語寛元二年(1244)九月小十九日丁巳。前大納言家頼経様の来春の京都行について、但馬前司藤原定員が担当して指示がありました。お日和については、2月1日の出発するようにお考えですが、出るのが縁起の悪い四つの不出日だとの、説があるので、避けるべきかどうか、維範・晴賢の陰陽師を呼んで尋ねました。それぞれ占って云うには、「四不出日は確かです。但し、賀茂家は気にしません。賀茂保憲さんの暦の本に、丙寅・丙午を撰んで入れています。忌み嫌う必要はありません。二月九日甲戌は良いお日和です。この日を京都へ入る日にしたらよいのです。一日の出発は、十六日辛巳に京都へ入ることになるのは厭対日です。外出を避けるべきです。なるべく9日にしましょう。」との事です。

寛元二年(1244)九月小廿八日丙寅。尼三條局卒去。雖爲女性。存營中古儀。殊要須也。人以莫不惜之。

読下し                     あまさんじょうのつぼね そっきょ   じょせいたり いへど   えいちゅう  こぎ  ぞん    こと  ようすうなり
寛元二年(1244)九月小廿八日丙寅。 尼三條局  卒去す。女性爲と雖も、營中の古儀を存じ、殊に要須也。

ひと  もっ  これ  お   ざる  な
人を以て之を惜ま不は莫し。

現代語寛元二年(1244)九月小二十八日丙寅。出家していた三条局さんが亡くなりました。女性ではあっても御所での古い慣習を良く知っており重要な人物でした。人々で、その死を惜しまない人はありませんでした。

解説 季範┬ 女 ─頼朝
     └範智─ 女(三条局・顯季と結婚)

十月へ

吾妻鏡入門第卅五巻

inserted by FC2 system