寛元二年甲辰(1244)十月大
寛元二年(1244)十月大二日己巳。近江前司自京都歸參。 |
読下し おうみのぜんじ きょうと よ きさん
寛元二年(1244)十月大二日己巳。近江前司@京都自り歸參す。
参考@近江前司は、佐々木氏信。西園寺公経の死に、幕府の使者として先月五日に京都へ出立。
現代語寛元二年(1244)十月大二日己巳。近江前司佐々木氏信が京都から帰って来ました。
寛元二年(1244)十月大三日庚午。入夜。大殿依大相國禪閤御事。有除服御秡。文元奉仕之。 |
読下し
よ い おおとの
だいしょうこくぜんこう おんこと よっ
じょふく おんはら あ ふみもとこれ
ほうし
寛元二年(1244)十月大三日庚午。夜に入り、大殿 大相國禪閤の
御事に依て、除服の御秡へ有り。文元之を奉仕す。
現代語寛元二年(1244)十月大三日庚午。夜になって、大殿頼経様は大相国西園寺公経さまの忌事により、服喪を取り除くお祓いがありました。文元さんがこれを勤めました。
寛元二年(1244)十月大十三日庚辰。爲備後守奉行。博奕等事被經沙汰。雙六者。於侍者可被許之。至下臈者永可令停止之。四一半錢。目勝以下種々品態。不論上下。一向可被禁制之由。被仰出云々。 |
読下し びんごのかみぶぎょう な
ばくえきら こと さた へ
られ すごろくは さむらい をい は これ
ゆるされ べ
寛元二年(1244)十月大十三日庚辰。備後守奉行と爲し、博奕等の事沙汰を經被る。雙六者、侍に於て者之を許被る可し。
げろう いた は
なが これ ちょうじせし
べ
下臈に至りて者永く之を停止令む可し。
しいちはんせん めかち いげ
しゅしゅ しなわざ じょうげ ろんぜず
いっこう きんせいされ べ のよし おお
いだされ うんぬん
四一半錢@、目勝A以下種々の品態、上下を不論、一向に禁制被る可き之由、仰せ出被ると云々。
参考@四一半銭は、シッピンの半。オイチョカブのシッピンクッピンの原型とも謂われる。
参考A目勝は、サイコロ二つを振って、大目が勝ち。
現代語寛元二年(1244)十月大十三日庚辰。備後守町野康持が担当して、博打について決裁を得ました。双六は侍はこれを許可する。それ以外の下の身分の者は永遠にこれを禁止する。四一半銭や賽の目を競う目勝を始めとする様々な種類の博打は、身分の上下を問わず、全てを禁止するように、命じられましたとさ。