吾妻鏡入門第卅五巻

寛元二年甲辰(1244)十月大

寛元二年(1244)十月大二日己巳。近江前司自京都歸參。

読下し                   おうみのぜんじ きょうと よ   きさん
寛元二年(1244)十月大二日己巳。近江前司@京都自り歸參す。

参考@近江前司は、佐々木氏信。西園寺公経の死に、幕府の使者として先月五日に京都へ出立。

現代語寛元二年(1244)十月大二日己巳。近江前司佐々木氏信が京都から帰って来ました。

寛元二年(1244)十月大三日庚午。入夜。大殿依大相國禪閤御事。有除服御秡。文元奉仕之。

読下し                     よ  い     おおとの だいしょうこくぜんこう  おんこと  よっ    じょふく  おんはら  あ     ふみもとこれ  ほうし
寛元二年(1244)十月大三日庚午。夜に入り、大殿 大相國禪閤の 御事に依て、除服の御秡へ有り。文元之を奉仕す。

現代語寛元二年(1244)十月大三日庚午。夜になって、大殿頼経様は大相国西園寺公経さまの忌事により、服喪を取り除くお祓いがありました。文元さんがこれを勤めました。

寛元二年(1244)十月大十三日庚辰。爲備後守奉行。博奕等事被經沙汰。雙六者。於侍者可被許之。至下臈者永可令停止之。四一半錢。目勝以下種々品態。不論上下。一向可被禁制之由。被仰出云々。

読下し                     びんごのかみぶぎょう な     ばくえきら   こと さた   へ られ   すごろくは さむらい をい  は これ  ゆるされ  べ
寛元二年(1244)十月大十三日庚辰。備後守奉行と爲し、博奕等の事沙汰を經被る。雙六者、侍に於て者之を許被る可し。

げろう   いた    は なが  これ  ちょうじせし  べ
下臈に至りて者永く之を停止令む可し。

しいちはんせん  めかち いげ しゅしゅ  しなわざ  じょうげ  ろんぜず  いっこう きんせいされ  べ   のよし  おお  いだされ    うんぬん
四一半錢@、目勝A以下種々の品態、上下を不論、一向に禁制被る可き之由、仰せ出被ると云々。

参考@四一半銭は、シッピンの半。オイチョカブのシッピンクッピンの原型とも謂われる。
参考A
目勝は、サイコロ二つを振って、大目が勝ち。

現代語寛元二年(1244)十月大十三日庚辰。備後守町野康持が担当して、博打について決裁を得ました。双六は侍はこれを許可する。それ以外の下の身分の者は永遠にこれを禁止する。四一半銭や賽の目を競う目勝を始めとする様々な種類の博打は、身分の上下を問わず、全てを禁止するように、命じられましたとさ。

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