序文
後嵯峨院〔諱邦仁〕 |
ごさがいん 〔いみな くにひと〕
後嵯峨院〔諱@は邦仁〕
かんげんよねん
しょうがつ にじうくにち ごだっし ぶんえいごねん
じうがつ いつか ごしゅっけ くねんにがつじうしちにち ほうぎょ 〔ごじうさん〕
寛元四年
正月 廿九日 御脱屣A。文永五年 十月
五日御出家。九年二月十七日崩御〔五十三〕。
参考@諱は、実名(名には霊が存在する)。参考A御脱屣は、靴を脱ぐ、退位、譲位。
後深草院〔諱久仁〕。後嵯峨院第二皇子。御母大宮院〔大政大臣從一位實氏公嫡女〕。 |
ごふかくさいん 〔いみな ひさひと〕
ごさがいん だいに みこ
おんはは おおみやいん 〔だじょうだいじんじゅいちいさねうじこう ちゃくじょ〕
後深草院〔諱は久仁〕後嵯峨院の第二皇子。御母は大宮院〔大政大臣從一位實氏公の嫡女〕。
かんげんがんねん
はちがつ とおか こうたいし な 〔しゅんじゅうひとつ〕 よねん
しょうがつ にじうくにちごじゅぜん おな さんがつ
にじういちにち ごそくい 〔よっつ〕
寛元元年 八月 十日 太子と爲す〔春秋一〕。四年
正月 廿九日御受禪@。同じき三月 廿一日 御即位〔四〕。
けんちょうごねん
しょうがつ みっかごぜんぷく 〔じういち〕 しょうげんがんねん
じういちがつ にじうろくにち
ごだっし しょうおうさんねん にがつ じういちにち
ごしゅっけ 〔ごほうみょうそじつ〕
建長五年
正月 三日御元服〔十一〕。正元々年 十一月 廿六日 御脱屣A。 正應三年
二月十一日 御出家〔御法名素實〕。
参考@受禪は、位を譲り受ける。参考A御脱屣は、靴を脱ぐ、退位、譲位。
關白左大臣〔良實〕。光明峯寺殿二男 |
かんぱくさだいじん 〔よしざね〕 こうみょうほうじどのじなん
關白左大臣〔良實〕。光明峯寺殿@二男
かんげんにねん
ろくがつついたち さだいじん じょうひょう よねん
しょうがつ にじうはちにち かんぱく うじのちょうじゃ と
寛元二年
六月一日 左大臣を上表す。 四年 正月 廿八日
關白 氏長者を停む。
参考@光明峯寺殿は、道家。
關白左大臣〔實經〕。同三男 |
かんぱくさだいじん 〔さねつね〕 おな さんなん
關白左大臣〔實經〕。同じき三男
かんげんよねん
しょうがつ にじうはちにち かんぱく みことの こうむ うじのちょうじゃ な
ないらん ずいしん へいじょう にじうくにち こうたいし
つ と せんそ よっ なり
寛元四年
正月 廿八日 關白の詔りを蒙り、氏長者@と爲す。内覽A、隨身B兵杖C。廿九日皇太子傳Dを止む。踐祚Eに依て也。
きょう かんぱく あらた せっしょう な 〔じゅぜん よっ なり〕 にがつついたち
ぎっしゃ ゆる さんがつようか じゅいちい じょ 〔りんじ〕 じゅうがつ
うちのとねり ずいしん たま
今日關白を改め攝政と爲す〔受禪Fに依て也〕。二月一日牛車Gを聽す。三月八日從一位に敍す〔臨時〕。十月
内舎人H隨身を給ふ。
じうにがつ じうよっか さだいじん じ 〔きょうせっしょうだんさんどじょうひょう 〕 ごねんしょうがつじうくにち
せっしょう うじのちょうじゃ と
十二月十四日左大臣を辞す〔今日攝政第三度上表す〕。五年正月十九日
攝政 氏長者を止む。
参考@氏長者は、藤原鎌足以来の大豪族となった藤原一族の総本家嫡家を表す。天皇家と同じように三種の神器的な物もある。
参考A内覧は、天皇に奏上する前に内見する。
参考B随身は、朝廷から護衛を付けられる。
参考C兵仗は、武器を持った警護人をつけてくれる。
参考D皇太子傳は、皇太子のお守役。
参考E踐祚は、位を譲る。
参考F受禪は、位を譲り受ける。
参考G牛車は、牛車に乗ったまま大内裏げ入ることを許可される。其の前は大内裏の門前で牛車を降りなければならない。
参考H内舎人は、朝廷内で刀を差したまま警護の出来る人。
攝政左大臣〔兼經〕。第二度 |
せっしょうさだいじん 〔かねつね〕 だいにど
攝政左大臣〔兼經〕第二度
いのくませっしょう 〔いえざね〕 さんなん
猪隈攝政〔家實〕の三男。
かんげんごねん
しょうがつ じうくにち さら せっしょう みことの こう うじのちょうじゃ な ずいしん
へいじょう たま ぎっしゃもと ごと けんちょうよねんじうがつみっか
せっしょう じ
寛元五年
正月 十九日 更に攝政の詔りを蒙むり、氏長者と爲す。随身
兵杖を賜はり牛車元の如し。建長四年十月三日
攝政を辞す。
已上當將軍一代〔自寛元二年夏。至建長四年春〕。帝王攝關所奉載一所也。 |
いじょう
とうしょうぐん いちだい 〔かんげんにねんなつよ けんちょうよねん はる いた 〕 ていおうせっかんいっしょ の たてまつ ところなり
已上
當將軍 一代〔寛元二年夏自り、建長四年春に至る〕。帝王攝關一所に載せ奉る所也。