吾妻鏡入門第卅六巻

寛元二年辰(1244)六月小

寛元二年(1244)六月小一日庚午。將軍家御臺所。日來御不例平減之間。今日有御沐浴之儀。醫師頼幸云々。

読下し                   しょうぐんけ  みだいどころ  ひごろ   ごふれい へいげんのあいだ  きょう おんもくよく の ぎ あ     くすし  よりゆき  うんぬん
寛元二年(1244)六月小一日庚午。將軍家、御臺所@、日來の御不例 平減之間、今日御沐浴之儀有り。醫師は頼幸と云々。

参考@御臺所は、頼経の正妻で持明院藤原家行の女。

現代語寛元二年(1244)六月小一日庚午。将軍家頼嗣と頼経正妻の二人の病気が良くなってきたので、今日、病の気を洗い流す行事の沐浴がありました。医者は頼幸だそうな。

寛元二年(1244)六月小二日辛未。被始不動御念誦。僧廿口奉仕之。供米口別可下行一石之由。被仰政所。師員朝臣奉行之。又可修祈雨法之旨。依被仰鶴岡。供米十石事。同被仰下政所云々。

読下し                    ふどう ごねんしょう  はじ  らる    そうにじっくこれ  ほうし
寛元二年(1244)六月小二日辛未。不動御念誦を始め被る。僧廿口之を奉仕す。

くまい   くべつ  いっこく   げぎょうすべ  のよし まんどころ おお  らる    もろかずあそんこれ  ぶぎょう
供米は口別に一石@を下行可き之由、政所に仰せ被る。師員朝臣之を奉行す。

また   きうほう   しゅう  べ  のむね  つるがおか おお  らる    よっ    くまいじっこく  こと  おな   まんどころ おお  くださる    うんぬん
又、祈雨法を修す可き之旨、鶴岡に仰せ被るに依て、供米十石の事、同じく政所に仰せ下被ると云々。

参考@米一石は、一俵が四斗60kgなので一石は60kg×2.5=150kg。

現代語寛元二年(1244)六月小二日辛未。お不動様のお経を声を出して節をつけて歌の様に唱えを始めました。坊さんは20人です。お布施のお米は一人当たり一石を下げ渡すように、政務事務所に云いつけました。中原師員が担当します。又、雨乞いの祈りを勤めるよう、鶴岡八幡宮に命じられたので、お供えの米十石について、同様に政務事務所に命じられましたとさ。

寛元二年(1244)六月小三日壬申。被行天變御祈。大殿御方。一字金輪信濃法印。孔雀經法二條法印。尊星王法如意寺法印。天地(災)變祭泰貞。太白星リ茂。歳星文元。將軍御方。北斗護摩大僧正。藥師供民部卿法印。天地(災)變祭リ賢等也。」又炎旱依渉旬。被修十壇水天供。權僧正良信。良勝。法印賢長。承快。頼兼。定親。隆弁。僧都良全。定C。守海。」今日。於大殿御方。被供養百部摺寫法花經。盖是所被加後鳥羽院御追福也。形木則以彼勅筆被彫之云々。導師大藏卿僧正良信。請僧七口。布施取。坊門少將〔C基〕。水谷左衛門大夫輔重(重輔)等云々。

読下し                    てんぺん おいのりら  おこなはれ  おおとの おんかた  いちじきんろん  しなののほういん くじゃくきょうほう にじょうほういん
寛元二年(1244)六月小三日壬申。天變の御祈等を行被る。大殿の御方、一字金輪@は信濃法印、孔雀經法は二條法印、

そんじょうおう ほう  にょいじほういん  てんちさいへんさい やすさだ  たいはくせい はるもち  さいせい ふみもと
尊星王A法は如意寺法印、天地災變祭は泰貞、 太白星はリ茂、歳星は文元。

しょうぐん おんかた  ほくとごま  だいそうじょう  やくしぐ  みんぶのきょうほういん  てんちさいへんさい はるかたらなり
將軍の御方、北斗護摩は大僧正、藥師供は民部卿法印、天地災變祭はリ賢等也。」

また  えんかんしゅん わた  よっ    じうだん  すいてんぐ  しゅうさる
又、炎旱旬に渉るに依て、十壇の水天供を修被る。

ごんのそうじょうりょうしん りょうしょう ほういんけんちょう じょうかい らいけん じょうしん りゅうべん そうづりょうぜん じょうせい しゅかい
權僧正良信、 良勝、 法印賢長、 承快、 頼兼、定親、隆弁、僧都良全、定C、守海。」

きょう   おおとの  おんかた  をい   ひゃくぶ  すりうつ   ほけきょう   くよう さる     けだ  これ  ごとばいん  おんついぶく  くは  らる ところなり
今日、大殿の御方に於て、百部の摺寫し法花經を供養被る。盖し是、後鳥羽院の御追福を加へ被る所也。

かたぎ  すなは か ちょくひつ  もっ  これ  ほ らる   うんぬん  どうし  おおくらきょうそうじょうりょうしん しょうそう しちく
形木は則ち彼の勅筆を以て之を彫被ると云々。導師は大藏卿僧正良信。 請僧 七口。

 ふせとり    ぼうもんしょうしょう 〔きよもと〕   みずたにさえもんたいふしげすけら  うんぬん
布施取は、坊門少將〔C基〕、水谷左衛門大夫重輔等と云々。

参考@一字金は、密教で大日如来が最高の境地に入った時に説いた真言(ぼろん)の一字を人格化した仏。また、一字金輪仏を本尊とする修法を一字金輪法という。一字金輪仏頂。ウィキペディアから
参考A尊星王は、北極星を神格化したもので、妙見菩薩ともいわれる。

現代語寛元二年(1244)六月小三日壬申。天災地変を鎮めるお祈りを行いました。前大納言家頼経様の分として、一字金輪は信濃法印道禅。孔雀経法は二条法印。尊星王法は如意寺法印円意。天地災変祭は安陪泰貞。太白星(金星)は晴茂。歳星(木星)は文元。将軍頼嗣の分は、北斗星の護摩炊きは大僧正良快。薬師如来へのお経は民部卿法印尊厳。天地災変祭は晴賢です。」
また、日照りが十日以上になるので、十人が壇で拝む水天宮へのお経を勤めました。権僧正良信・良勝・法印賢長・承快・頼兼・定親・隆弁・僧都良全・定清・守海。」
今日、前大納言家頼経様の居所で、百部の摺り写した法華経の法要をしました。但し、これは後鳥羽院の追善供養を行ったのです。お経の版木は、彼の御宸筆を彫ったのだそうな。指導僧は大蔵卿僧正良信。お供の僧は7人です。
お布施を手渡すのは、坊門少将清基と水谷左衛門尉重輔だそうな。

寛元二年(1244)六月小五日甲戌。申剋。雷鳴甘雨下。猶不足之間。水天供延行云々。

読下し                    さるのこく らいめい かんう ふ    なおふそくのあいだ  すいてんぐ  の   おこな   うんぬん
寛元二年(1244)六月小五日甲戌。申剋、雷鳴 甘雨下る。猶不足之間、水天供を延べ行うと云々。

現代語寛元二年(1244)六月小五日甲戌。午後4時頃、雷が鳴って有難い雨が降ってきました。それでも、なお足りないので、水天宮への祈りを引き続き行うそうな。

寛元二年(1244)六月小八日丁丑。於御所御持佛堂〔号久遠壽量院〕。被供養八万四千基泥塔。導師三位法印猷尊。曼陀羅供儀也。讃衆六口云々。

読下し                   ごしょ   おんじぶつどう  〔くおんじゅりょういん   ごう  〕    をい   はちまんよんせんき  でいとう   くようされ
寛元二年(1244)六月小八日丁丑。御所の御持佛堂〔久遠壽量院と号す〕に於て、八万四千基の泥塔を供養被る。

どうし   さんみほういんゆうそん   まんだらぐ    ぎなり   さんしゅう ろっく   うんぬん
導師は三位法印猷尊。曼陀羅供の儀也。讃衆は六口と云々。

現代語寛元二年(1244)六月小八日丁丑。御所の頼経の持仏堂〔久遠寿量院と云います〕で、8万4千の泥の塔を祀る法要をしました。指導僧は三位法印猷尊。真言密教の曼荼羅を唱える供養です。お供の僧は6人だそうな。

寛元二年(1244)六月小九日戊寅。雨降。水天供延行云々。

読下し                    あめふ    すいてんぐ  の   おこな   うんぬん
寛元二年(1244)六月小九日戊寅。雨降る。水天供は延べ行うと云々。

現代語寛元二年(1244)六月小九日戊寅。雨が降りました。でも水天宮へのお祈りは引き続き行うそうです。

寛元二年(1244)六月小十日己卯。肥前國御家人久有志良左衛門三郎兼継訴申安徳左衛門尉政尚一族五人任官事。政尚。政家等所領三分二可被召之趣。(越)前兵庫助奉行之。

読下し                   ひぜんのくに  ごけにん   く う し ら さえもん さぶろうかねつぐ
寛元二年(1244)六月小十日己卯。肥前國の御家人、久有志良左衛門三郎兼継@は、

あんとくさえもんのじょうまさひさ いちぞくごにん  にんかん  こと  うった もう
安徳左衛門尉政尚Aの一族五人の任官の事を訴へ申す。

まさひさ  まさいえら  しょりょうさんぶ  に   め さ   べ  のおもむき  えちぜんひょうごのすけ これ ぶぎょう
政尚、政家等の所領三分が二を召被る可き之趣、 越前兵庫助B之を奉行す。

参考@久有志良は、島原市鯨らしいが不明。
参考A
安徳は、島原市北安徳町・中安徳町・南安徳町。
参考B前兵庫助は、同じ36巻寛元3年12月25日条の問注所奉行人越前兵庫助政宗で出てくる人とした。

現代語寛元二年(1244)六月小十日己卯。肥前の国の御家人で、久有志良左衛門三郎兼継は、安徳左衛門尉政尚の一族5人が直接官職に付いたと訴え出ました。自由任官の罪で安徳政尚と政家達の領地の三分の二を取り上げるように、越前兵庫助政宗がこれを担当しました。

寛元二年(1244)六月小十三日壬午。將軍家御元服御任官之後。有吉書始之儀。今日有御行始之儀。入御于秋田城介義景甘繩之家。前大納言家爲御見物。被立御車於小町口之西。供奉人〔布衣。上括〕候其砌。岡崎僧正道慶同被立車云々。未尅御出。行列。

読下し                     しょうぐんけ ごげんぷく ごにんかん ののち きっしょはじめのぎあ
寛元二年(1244)六月小十三日壬午。將軍家御元服御任官之後、吉書始之儀有り。

きょう  みゆきはじめのぎ あ     あいだのじょうすけよしかげ あまなわのいえに い  たま
今日御行始之儀有り。 秋田城介義景が 甘繩之家于入り御う。

さきのだいなごんけ  ごけんぶつ  ため  おくるまを こまちぐち のにし  たてられ     ぐぶにん  〔 ほい うわくくり 〕  そ  みぎり  そうら
前大納言家、御見物の爲、御車於小町口之西に@立被る。供奉人〔布衣。上括〕其の砌に候う。

おかざきそうじょうどうけい おな   くるま たてられ   うんぬん ひつじのこく おんいで   ぎょうれつ
岡崎僧正道慶 同じく車を立被ると云々。 未尅 御出。 行列。

参考@小町口之西には、若宮大路幕府には小町大路側に正門があった事が分かる。発掘の結果若宮大路側は御勝手口らしい。

現代語寛元二年(1244)六月小十三日壬午。處軍家頼嗣7才が元服式と征夷大将軍任命の後。事務初めとして縁起の良い文書を見る式典をしました。
今日、将軍になって初めての外出式がありました。秋田城介安達義景の甘縄の屋敷へ入りました。前大納言家頼経様は、これを見物するために、牛車を小町口の西に駐車してました。お供の人は〔狩衣、袴はひざ下で絞る〕その脇に控えていました。岡崎僧正道慶も同様に牛車を駐車してました。午後2時頃に出発です。行列です。

寛元二年(1244)六月小廿七日丙申。有間左衛門尉朝澄申肥前國高木東郷地頭職事。注進懸物状。而故武州禪室時有沙汰成敗事。無指故不及改之云々。依遠江入道被擧申之。今日。爲C左衛門尉奉行。雖申行臨時評定。所被弃捐也。又被讀問注記日奉行人遲事。自今以後可注進之由被仰出云々。

読下し                      ありまさえもんのじょうともずみ  もう  ひぜんのくに たかぎひがしごう ぢとうしき  こと  かけものじょう ちうしん
寛元二年(1244)六月小廿七日丙申。有間左衛門尉朝澄@が申す肥前國 高木東郷A地頭職の事、懸物状Bを注進す。

しか    こぶしゅうぜんしつ  とき さた せいばい ことあ     さし    ゆえな   これ  あらた    およばず  うんぬん
而るに故武州禪室の時沙汰成敗の事有り。指たる故無く之を改めるに不及と云々。

とおとうみにゅうどう これ  あ   もうさる    よっ    きょう   せいさえもんのじょうぶぎょう な     りんじ ひょうじょう  もう  おこな   いへど    きえんさる ところなり
 遠江入道 之を擧げ申被るに依て、今日、C左衛門尉奉行と爲し、臨時の評定を申し行うと雖も、弃捐被る所也。

また  もんちうき   よ まる  ひ ぶぎょうにん おく    こと  いまよ    いご ちうしんすべ  のよしおお  いださる    うんぬん
又、問注記を讀被る日奉行人の遲れる事、今自り以後注進可き之由仰せ出被ると云々。

参考@有馬左衛門尉朝澄は、藤原純朝の子孫。
参考A
肥前国高木東郷は、雲仙市国見町。
参考B
懸物状は、現行の提訴担保物件。

現代語寛元二年(1244)六月小二十七日丙申。有馬左衛門尉朝澄が訴えてる肥前国高木東郷の地頭職について、提訴担保の領地の文書を書いて提出しました。しかし、故武州禅室泰時さんの時に結審しており、特別な理由もないのに再審をする必要はないとの事です。遠江入道名越流北条朝時がこれを推薦したので、今日清原左衛門尉満定が担当して、臨時の政務会議で提案しましたが、棄却されました。又、裁判提訴記事を読まれる日に担当の裁判員が遅れる事は、こののち書き出すようにと仰せになられましたとさ。

寛元二年(1244)六月小廿九日己亥。山城國平河兵衛入道募武威違背朝政事。就被仰下。今日評議被定向後之法云。非御家人輩募武威雖被下 綸旨。申子細不可及沙汰。但於刃傷殺害狼藉事者。尤可有沙汰云々。又罪科未斷之時所望跡事。被定置之間。向後殊非沙汰限云々。

読下し                     やましろのくに ひらかわひょうえにゅうどう ぶい つの ちょうせい  いはい    こと  おお  くださる    つ     きょう ひょうぎ
寛元二年(1244)六月小廿九日己亥。山城國の 平河兵衛入道 武威を募り朝政に違背する事、仰せ下被るに就き、今日評議す。

きょうこうのほう  さだ  られ  い       ひごけにん  やから   ぶい   つの    りんじ   くささる   いへど    しさい  もう   さた   およ  べからず
向後之法を定め被て云はく。非御家人の輩、武威を募り、綸旨を下被ると雖も、子細を申し沙汰に及ぶ不可。

ただ  にんじょう せつがい ろうぜき  こと  をい  は   もっと  さた あ   べ     うんぬん
但し刃傷・殺害・狼藉の事に於て者、尤も沙汰有る可きと云々。

また  ざいか みだんのとき  あと  しょもう    こと  さだ  お かる  のあいだ  きょうこうこと   さた   かぎ    あらず うんぬん
又、罪科未斷之時、跡を所望する事、定め置被る之間、向後殊に沙汰の限りに非と云々。

現代語寛元二年(1244)六月小二十九日己亥。山城国の平川兵衛入道は、武力と権威を振り回して朝廷の命令に違反するしていると、朝廷からたれこみがあったので、今日政務会議をしました。今後の規則を定めました。御家人ではない武士が武力を使っていると、朝廷から連絡が来たとしても、(御家人以外は対象外だと)状況を説明して、(幕府が)処理をしてはならない。但し、刃傷や殺害、乱暴狼藉については、(警察権を持つ)幕府が処置すべきである。又、罪名が決まらないうちに、その没収対象地を欲しがる件は、規則を作っておくので、今後は特に幕府での裁決に持ち出さずとも好いとのことです。

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吾妻鏡入門第卅六巻

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