寛元三年乙巳(1245)七月大
寛元三年(1245)七月大一日癸巳。天霽。日蝕現。 |
読下し そらはれ
にっしょく あら
寛元三年(1245)七月大一日癸巳。天霽。日蝕 現はる。
現代語寛元三年(1245)七月一日癸巳。空は晴れました。日食が出ました。
寛元三年(1245)七月大五日丁酉。天リ。前大納言家〔頼經〕於久遠壽量院被遂御素懷。御戒師岡崎僧正〔成嚴〕。御剃手師僧正。指燭院圓法印也。讃岐守親實〔束帶〕令奉行此事云々。是年來御素懷之上。今年春比彗星示變異。又御惱等重疊之間。思食立給云々。 |
読下し そらはれ さきのだいなごんけ 〔よりつね〕 くおんじゅりょういん をい ごそかい と らる
寛元三年(1245)七月大五日丁酉。天リ。前大納言家〔頼經〕久遠壽量院に於て御素懷を遂げ被る@。
ごかいし おかんざきそうじょう 〔じょうげん〕 おんそりて そちのそうじょう しそく いんえんほういんなり おきのかみちかざね 〔そくたい〕 こ こと
ぶぎょうせし うんぬん
御戒師は、岡崎僧正〔成嚴〕。御剃手は師僧正。
指燭は院圓法印也。 讃岐守親實〔束帶〕 此の事を奉行令むと云々。
これ
ねんらいごそうかいのうえ ことし はるごろすいせいへんい しめ また ごのうら
ちょうじょうのあいだ おぼ め た
たま うんぬん
是、年來御素懷之上、今年の春比彗星變異を示す。又、御惱等
重疊之間、思し食し立ち給ふと云々。
参考@御素懷を遂げ被るは、出家をする。
現代語寛元三年(1245)七月五日丁酉。空は晴です。前大納言家頼経様は、持仏堂の久遠寿量院で、出家をしました。受戒を与える師匠は岡崎僧正成厳。髪を剃るのは、師僧正。灯りも持つのは、院円法印です。讃岐守中原親実が〔束帯〕この事の指揮担当をしましたとさ。これは前からの希望で有り、今年の春から彗星が天変を表している。又、色々お悩みが重なったので、今日の出家を思い立ったそうです。
寛元三年(1245)七月大六日戊戌。天リ。將軍家爲御方違。渡御若狹前司泰村之家。御騎馬也。供奉人皆爲歩儀。是入道大納言家令奉讓御所於將軍家給之間。來十日。可被建御厩侍北對。依當西方。爲令違秋節給也。泰村家自御所北方也云々。 |
読下し そらはれ
しょうぐんけ おんかたたが
ため わかさのぜんじやすむら のいえ わた
たま
寛元三年(1245)七月大六日戊戌。天リ。將軍家、御方違への爲、
若狹前司泰村 之家へ渡り御う。
おんきばなり ぐぶにん みな
かち ぎ たり
御騎馬也。供奉人は皆歩の儀爲。
これ にゅうどうだいなごんけ ごしょを しょうぐんけ ゆず たてまつ せし
たま のあいだ きた とおか みんまや さむらい きたのたい たてらる べ
是、入道大納言家、御所於將軍家に讓り奉ら令め給ふ之間、來る十日、御厩、
侍、 北對を 建被る可き。
せいほう あた よっ しゅうせつ
たが せし たま ためなり やすむら いえ
ごしょ よ ほっぽうなり うんぬん
西方に當るに依て、秋節@を違は令め給はん爲也。泰村が家は御所自り北方也と云々。
参考@秋節は、中秋節。8月15日の十五夜で中国の三大節句。同日は鶴岡八幡宮の放生会。
現代語寛元三年(1245)七月六日戊戌。空は晴です。将軍家頼嗣様は、方角替えのため、若狭前司三浦泰村の家へお渡りです。馬に乗って行きました。お供は皆歩きです。これは、前大納言家頼経様が御所を頼嗣様にお譲りになったので、今度の10日に厩や侍溜まり、北の対の屋を建てるのです。それらが西に当たるので、中秋節の方角替えをするためです。三浦泰村の家は御所から北の方だからです。
寛元三年(1245)七月大十三日乙巳。武州於御第。被行四角四方鬼氣等祭云々。 |
読下し ぶしゅう おんだい
をい しかく しほう きき ら
まつり おこなはれ うんぬん
寛元三年(1245)七月大十三日乙巳。武州の御第に於て、四角四方鬼氣等の祭を行被ると云々。
現代語寛元三年(1245)七月十三日乙巳。武州北条経時の屋敷で、四つの角と四つの方角の鬼気などの祭りを行いましたとさ。
参考武州北条経時は、病気中なのでその病の気を祓うためであろう。
寛元三年(1245)七月大十六日戊申。月蝕正見。 |
読下し げっしょくせいげん
寛元三年(1245)七月大十六日戊申。月蝕正見す。
現代語寛元三年(1245)七月十六日戊申。月食がちゃんと見えました。
寛元三年(1245)七月大十九日辛亥。於幕府被修六字供。大納言法印〔隆弁〕奉仕之云々。 |
読下し ばくふ をい ろくじぐ しゅうさる だいなごんほういん 〔りゅうべん〕 これ ほうし うんぬん
寛元三年(1245)七月大十九日辛亥。幕府に於て六字供を修被る。大納言法印〔隆弁〕之を奉仕すと云々。
現代語寛元三年(1245)七月十九日辛亥。幕府で阿弥陀経の法要を行いました。大納言法印隆弁がこれを勤めました。
寛元三年(1245)七月大廿日壬子。御所修理之後御移徙。不及儀式。今夜内々入御云々。 |
読下し ごしょ しゅうり ののち ごいし ぎしき およばず こんやないない い たま うんぬん
寛元三年(1245)七月大廿日壬子。御所修理之後の御移徙。儀式に不及。今夜内々に入り御うと云々。
現代語寛元三年(1245)七月二十日壬子。御所の修理が終えたので、引っ越しました。特に儀式はしませんで、今夜ひっそりとお入りになりましたとさ。
寛元三年(1245)七月大廿四日丙辰。於武州第。法印〔隆弁〕被修如意輪供。依有不例氣也。而勤修當于七ケ日。忽令得少減給云々。 |
読下し ぶしゅう だい をい ほういん 〔りゅうべん〕 にょいりんぐ しゅうさる ふれい け あ よっ なり
寛元三年(1245)七月大廿四日丙辰。武州の第に於て、法印〔隆弁〕如意輪供を修被る。不例の氣有るに依て也。
しか ごんじゅしちかにちに あた
たちま しょうげん え せし たま うんぬん
而して勤修七ケ日于當り、忽ち少減を得令め@給ふと云々。
参考@少減を得令めは、少し具合がよくなってきた。病の気が減少する。
現代語寛元三年(1245)七月二十四日丙辰。武州経時さんの屋敷で、法印隆弁が如意輪観音経を勤めました。病気だからです。そしたら、お祈りの七日目になったら、たちまち少し具合がよくなってきましたとさ。
寛元三年(1245)七月大廿六日戊午。天リ。今夜武州御妹〔号桧皮姫公。年十六〕爲將軍家御臺所參御所給。近江四郎左衛門尉氏信。小野澤次郎時仲。尾藤太景氏。下河邊左衛門次郎宗光等扈從。是非嚴重之儀。以密儀先御參。追可有露顯儀云々。」今日天地相去日也。自雖有先例。殆不甘心之由。雖有傾申之輩。不能御許容。被遂之云々。 |
読下し
そらはれ こんや
ぶしゅう おんいもうと 〔ひわだひめぎみ ごう としじうろく〕 しょうぐんけみだいどころ な ごしょ まい たま
寛元三年(1245)七月大廿六日戊午。天リ。今夜武州の
御妹〔桧皮姫公と号す。年十六〕將軍家御臺所と爲し御所に參り給ふ。
おうみのしろうさえもんのじょううじのぶ おのざわじろうときなか びとうたかげうじ しもこうべのさえもんじろうむねみつら こしょう
近江四郎左衛門尉氏信、小野澤次郎時仲、尾藤太景氏、下河邊左衛門次郎宗光等扈從す。
これ
げんじゅう のぎ あらず みつぎ
もっ ま ぎょさん おっ ところあらはし ぎ あ べ うんぬん
是、嚴重之儀に非。密儀を以て先ず御參す。追て
露顯の儀@有る可きと云々。」
参考@露顯の儀は、発表する。
きょう てんちそうきょ びなり
今日天地相去A日也。
おの せんれいあ いへど ほと
かんしん ざる のよし かたぶ もう
のやから あ いへど ごきょうよう
あたはず これ と らる うんぬん
自づと先例有ると雖も、殆んど甘心せ不之由、傾け申す之輩B有ると雖も、御許容に不能。之を遂げ被ると云々。
参考A天地相去は、不明なれど中国語辞書に相去の意味は「両者の違い」「二点間の隔たり」とあるので、「天と地が隔たる」と解釈した。乞う教示。
参考B傾け申す之輩は、反対運動する連中。いちゃもんを着ける。
現代語寛元三年(1245)七月二十六日戊午。空は晴です。今夜、武州経時さんの妹さん〔桧皮姫という16歳です〕が、将軍頼嗣様の正妻として御所に来ました。近江四郎左衛門尉佐々木氏信・小野沢次郎時仲・尾藤太郎景氏・下河辺左衛門次郎宗光などがお供をしました。これは、大げさな儀式をしないで、内々に何は兎も角お出でになりました。追って発表する予定なんだそうな。」
今日は、天と地が隔たる縁起の悪い日です。確かに前例はあるけれども、あまり関心はしませんと、反対する連中もいますけど、取り上げないで、実施しましたとさ。